こちらの記事の続きになります。
せっかく門司港まで来たのだから、門司港レトロ観光列車「トロッコ潮風号」に立ち寄らない手はない。
始発が午前10時発だったから始発は既に発車しており、今度は30分後の10時30分の発車。
チケットは指定席の2号車、自由席の1号車と別れていて、指定席は全国のローソン端末「Loppi」で、乗車日の1ヶ月前から前売りしているのだそう。
…と書いたところでトロッコ潮風号のHPを見たら、今では「15名以下の個人のお客様の御予約は承っておりません」という文面が。指定席の運用でも変わったのだろうか。
10時30分発の列車は指定席枠があったようで、「指定席券をお持ちでない方は1号車へ」という案内があった。
チケットは終点の関門海峡めかり駅まで片道300円、往復だと500円。
めかり駅から門司港までどのように戻ってこられるか、歩くルートがあるのか、或いはバスがあるのか全く分からない…というよりは全くリサーチすらしていない飛び込み状態だったので(^^;)、ひとまず往復の500円のチケットを買って乗車。
先にも書いたとおり、このトロッコ潮風号は、以前は貨物線だった線路を転用して走らせており、筑豊地方の第三セクター鉄道を運営する平成筑豊鉄道が運行している。
駅では、おそらくはレトロラインだけの「ボランティア鉄道員」募集の張り紙が。
役割としては各観光地のボランティアガイドに相通ずるものがあるのだろうが、「鉄道員」というからには、せめて何らかの報酬があってもいいのではとも思えなくもないような気がしないでもない(^^;)
列車は門司港駅前の九州鉄道記念館駅と関門海峡めかり駅の間を1つの列車が行ったりきたりしているので、発着はかなり慌しい。
2両のトロッコ車両を引っ張る小ぶりな機関車2台を前後につけての、いわゆるプッシュプル運転。この機関車は、熊本県の山間を走る南阿蘇鉄道からやってきた。
車内はベンチシートがボックスで組まれていて、観光地図を広げながら車窓を楽しむことが出来るようにテーブルつきである。
列車は定刻に発車。
機関車が小ぶりなのも相まって、トロッコ列車はそれこそ歩くような速度で鈍重に門司港レトロエリアをゆっくりゆっくり走っていく。
トロッコ車両は貨車からの改造なので、乗り心地など考慮されているであろうはずもなく(笑)、レールの継ぎ目を通るたびに、車内にズシン、ズシンという衝撃が響き渡る。
近年は1両当たりの定員が少ない貨車から改造するより、余剰となった客車、あるいは老朽化した気動車をトロッコ列車用に改造して定員を増やしているトロッコ列車が多い中、この列車は、1980年代中ごろから各地で走り始めた頃のトロッコ列車の走りを受け継いでいる。
今思えば、時速10キロそこそこでのったりくったり走っているこの列車でさえ、レールから受ける衝撃は結構なものだのだから、昔の貨物列車に乗務していた車掌さん、或いは昔などは「馬運車」というものがなかったから、北海道の牧場から全国の競馬場へ馬を運ぶのは貨物列車の役割、普通の有蓋貨車に馬と世話をする人を乗せて旅をしていたのだから、馬と人の旅の辛苦もいかばかりか…と想像するに有り余る。
ゆったり流れる車窓を、関門海峡の潮風に吹かれながら。
関門橋。
対岸に見える本州、下関の街並み。
あれは門司港から船で渡ることができる唐戸の街並みだろう。
下関駅は写真より2キロばかり西の方向にある。写真で言えば左側だが、2キロの距離があるので捉えることはできない。
関門橋が近づくと、和布刈の山並みがやってきて、沿線唯一のトンネルへ。
天井までブラックライトプラネタリウム仕様に。
トンネルを抜けると、おやおや、EF30と雑形客車1両が。
ステンレス製のEF30は、前のエントリで保存機関車としてご紹介したEF10形機関車の後継機として1961年に登場した交直流両用機関車。1961年に門司港~久留米間が電化された際、それまで直流電化区間であった門司駅構内も交流化されたのに伴い、機関車も交流対応できなければならなくなり登場した機関車。他の機関車と違い、任された特殊な任務から、下関~門司間(東幡生~東小倉間)をほぼ行ったり来たりするだけの機関車であった。
40代以上で九州にお住まいの方は、「九州に行く機関車といえばこの形式」と膝を打つ方もおられよう。
後に1両つながれている客車はカフェとなっており、写真奥に見える周防灘と、対岸の本州を眺めながらお茶が楽しめる施設になっている。
そんなわけで、途中駅2駅を含め駅3つ、2.1kmのミニトリップは終了。
トロッコ列車の側面を、慌しくも1枚。
先ほどの保存車両を、客車側からも1枚いただきます。
さて。
チケットは往復買ってしまったのだから、トロッコ列車で戻るもよし、関門橋直下にある、関門国道人道トンネルの入口も近いので、歩いて対岸の下関に渡ってみるのもまた一興…。
でもね。
目の前に西鉄バスが止まってたから思わず乗っちまったんだよ奥さん…。
おお、これはいつぞやのエントリでもご紹介した、新色で登場した西鉄バスの新車ではござらぬか。
う~ん。
西鉄バスのLED方向幕は、さっき阪九フェリーからの送迎バスで見ていてはいたのだけれど、方向幕が色鮮やかだったのに比べると、写真も撮りづらいし、方向や行先番号で色分けして案内していたのに、方向の色はLED方向幕左側の色帯で案内する苦心作になったので、視認性は方向幕の足元にも及ばない…と改めて認識。
ちなみにLED方向幕自体もシャッタースピードに負けてしまっているのだが、行先番号74番、門司港駅前、小倉方面の、日明4丁目経由戸畑渡場行き。
昔の「にしてつ」風に書けば、多分「戸(渡場)畑」みたいな。みたいな。
これに乗ると、もちろん門司港駅前に戻ることも出来るし、小倉にも出られるし、相当時間はかかるけれど、終点まで乗れば戸畑渡場。若戸大橋直下の若戸渡船乗り場につけてくれるので、対岸の若松に渡って15分ほど歩けば、筑豊本線若松駅に出ることが出来る。午後の目的さえなければ、そんなプランさえも自由気ままだったのだがw
このまま乗りとおして小倉に出たい衝動にもかられたけれど、荷物は門司港駅前のコインロッカーに預けているので、荷物の引き出しのためにもう一度門司港まで戻ってくるのもけんのんだ。
バスは列車が到着した5分くらい後に、4~5人の客を乗せて発車。
次の「関門トンネル人道口」でも6~7人の客を乗せ、途中の停留所でも丹念に客を拾いながら、15分ほどで門司港駅前に連れ戻される。
コインロッカーで荷物を引き取り、改札内のキオスクを眺めてみる。
旅行に出れば各地の新聞を買うのが楽しみの一つでもあるのだが、ニュースは気が滅入ることしか載ってないことなどわかりきっているから、一般紙を買う気にはならなかったが、なんとなく西日本スポーツを手にとって見る。
西では中央競馬が開催されているから、紙面にはそれなりに厚みがあるけれど、一方で公営競技もやっているのは荒尾競馬だけで、競輪競艇オートレースは全国規模で営業を自粛。西日本スポーツの売りであるはずのホークスの記事も、1ページを埋めるのがやっとという有様で、寂しさはぬぐえない。
ただ、これも九州にいて身の程知らずにも旅を楽しんでいるからこそ「寂しさはぬぐえない」なんていう感想が出てくるのであって、富士川以東の関東、東北各県に住んでいれば、それこそ電力供給に一喜一憂する日々で日常生活ですらままならないのだから、「寂しさはぬぐえない」と思ったところで、やっぱり関東在住の身としては、そこでふと我に返るのである。
今回の旅は、非日常の世界を楽しんではいても、結局は、日常なのである。
門司港駅構内にひっそりと残されている、関門連絡船桟橋への連絡通路の遺構。旅人はこの通路を歩いて、或いは走って連絡線と鉄道を乗り換えていたのである。
関門トンネルが開通したのは戦時中の1942年だが、もとより下関と門司港の間は人の行き来が活発であり、列車が門司駅に移動しても、関門連絡船それ自体の需要はかなりあったため、最終的には1964年10月末まで残存していた。1958年に関門国道トンネルが開通したこと、民間航路が発達したのに伴って、利用客が急減したのだった。
折りよくあった11時19分発の鹿児島本線荒尾行き快速で小倉へ。
しっかり列車の顔に形式名が書いてあるとおり、813系。
さて、久々に小倉にやってまいりました。
荒尾行き快速の隣に止まっていた、小倉始発の鹿児島本線荒木行き普通(福間から快速)と、隣に止まっている元「つばめ」用で現在でもJR九州の顔、787系のお顔を1枚。時間的に小倉11時28分終着の、博多始発「きらめき4号」である。ちなみに「きらめき」と聞いて金沢~米原間の特急列車を連想する奴は(以下略
小倉駅の乗り換えコンコースには、センバツ出場の九州国際大学付属高校を祝福する横断幕が掲示されていた。
これから、小倉駅ビルの中から発車するモノレールで、次の目的地まで移動する。
もうどこに行くかはお分かりになりましたでしょ?w
(以下続きます)
せっかく門司港まで来たのだから、門司港レトロ観光列車「トロッコ潮風号」に立ち寄らない手はない。
始発が午前10時発だったから始発は既に発車しており、今度は30分後の10時30分の発車。
チケットは指定席の2号車、自由席の1号車と別れていて、指定席は全国のローソン端末「Loppi」で、乗車日の1ヶ月前から前売りしているのだそう。
…と書いたところでトロッコ潮風号のHPを見たら、今では「15名以下の個人のお客様の御予約は承っておりません」という文面が。指定席の運用でも変わったのだろうか。
10時30分発の列車は指定席枠があったようで、「指定席券をお持ちでない方は1号車へ」という案内があった。
チケットは終点の関門海峡めかり駅まで片道300円、往復だと500円。
めかり駅から門司港までどのように戻ってこられるか、歩くルートがあるのか、或いはバスがあるのか全く分からない…というよりは全くリサーチすらしていない飛び込み状態だったので(^^;)、ひとまず往復の500円のチケットを買って乗車。
先にも書いたとおり、このトロッコ潮風号は、以前は貨物線だった線路を転用して走らせており、筑豊地方の第三セクター鉄道を運営する平成筑豊鉄道が運行している。
駅では、おそらくはレトロラインだけの「ボランティア鉄道員」募集の張り紙が。
役割としては各観光地のボランティアガイドに相通ずるものがあるのだろうが、「鉄道員」というからには、せめて何らかの報酬があってもいいのではとも思えなくもないような気がしないでもない(^^;)
列車は門司港駅前の九州鉄道記念館駅と関門海峡めかり駅の間を1つの列車が行ったりきたりしているので、発着はかなり慌しい。
2両のトロッコ車両を引っ張る小ぶりな機関車2台を前後につけての、いわゆるプッシュプル運転。この機関車は、熊本県の山間を走る南阿蘇鉄道からやってきた。
車内はベンチシートがボックスで組まれていて、観光地図を広げながら車窓を楽しむことが出来るようにテーブルつきである。
列車は定刻に発車。
機関車が小ぶりなのも相まって、トロッコ列車はそれこそ歩くような速度で鈍重に門司港レトロエリアをゆっくりゆっくり走っていく。
トロッコ車両は貨車からの改造なので、乗り心地など考慮されているであろうはずもなく(笑)、レールの継ぎ目を通るたびに、車内にズシン、ズシンという衝撃が響き渡る。
近年は1両当たりの定員が少ない貨車から改造するより、余剰となった客車、あるいは老朽化した気動車をトロッコ列車用に改造して定員を増やしているトロッコ列車が多い中、この列車は、1980年代中ごろから各地で走り始めた頃のトロッコ列車の走りを受け継いでいる。
今思えば、時速10キロそこそこでのったりくったり走っているこの列車でさえ、レールから受ける衝撃は結構なものだのだから、昔の貨物列車に乗務していた車掌さん、或いは昔などは「馬運車」というものがなかったから、北海道の牧場から全国の競馬場へ馬を運ぶのは貨物列車の役割、普通の有蓋貨車に馬と世話をする人を乗せて旅をしていたのだから、馬と人の旅の辛苦もいかばかりか…と想像するに有り余る。
ゆったり流れる車窓を、関門海峡の潮風に吹かれながら。
関門橋。
対岸に見える本州、下関の街並み。
あれは門司港から船で渡ることができる唐戸の街並みだろう。
下関駅は写真より2キロばかり西の方向にある。写真で言えば左側だが、2キロの距離があるので捉えることはできない。
関門橋が近づくと、和布刈の山並みがやってきて、沿線唯一のトンネルへ。
天井まで
トンネルを抜けると、おやおや、EF30と雑形客車1両が。
ステンレス製のEF30は、前のエントリで保存機関車としてご紹介したEF10形機関車の後継機として1961年に登場した交直流両用機関車。1961年に門司港~久留米間が電化された際、それまで直流電化区間であった門司駅構内も交流化されたのに伴い、機関車も交流対応できなければならなくなり登場した機関車。他の機関車と違い、任された特殊な任務から、下関~門司間(東幡生~東小倉間)をほぼ行ったり来たりするだけの機関車であった。
40代以上で九州にお住まいの方は、「九州に行く機関車といえばこの形式」と膝を打つ方もおられよう。
後に1両つながれている客車はカフェとなっており、写真奥に見える周防灘と、対岸の本州を眺めながらお茶が楽しめる施設になっている。
そんなわけで、途中駅2駅を含め駅3つ、2.1kmのミニトリップは終了。
トロッコ列車の側面を、慌しくも1枚。
先ほどの保存車両を、客車側からも1枚いただきます。
さて。
チケットは往復買ってしまったのだから、トロッコ列車で戻るもよし、関門橋直下にある、関門国道人道トンネルの入口も近いので、歩いて対岸の下関に渡ってみるのもまた一興…。
でもね。
目の前に西鉄バスが止まってたから思わず乗っちまったんだよ奥さん…。
おお、これはいつぞやのエントリでもご紹介した、新色で登場した西鉄バスの新車ではござらぬか。
う~ん。
西鉄バスのLED方向幕は、さっき阪九フェリーからの送迎バスで見ていてはいたのだけれど、方向幕が色鮮やかだったのに比べると、写真も撮りづらいし、方向や行先番号で色分けして案内していたのに、方向の色はLED方向幕左側の色帯で案内する苦心作になったので、視認性は方向幕の足元にも及ばない…と改めて認識。
ちなみにLED方向幕自体もシャッタースピードに負けてしまっているのだが、行先番号74番、門司港駅前、小倉方面の、日明4丁目経由戸畑渡場行き。
昔の「にしてつ」風に書けば、多分「戸(渡場)畑」みたいな。みたいな。
これに乗ると、もちろん門司港駅前に戻ることも出来るし、小倉にも出られるし、相当時間はかかるけれど、終点まで乗れば戸畑渡場。若戸大橋直下の若戸渡船乗り場につけてくれるので、対岸の若松に渡って15分ほど歩けば、筑豊本線若松駅に出ることが出来る。午後の目的さえなければ、そんなプランさえも自由気ままだったのだがw
このまま乗りとおして小倉に出たい衝動にもかられたけれど、荷物は門司港駅前のコインロッカーに預けているので、荷物の引き出しのためにもう一度門司港まで戻ってくるのもけんのんだ。
バスは列車が到着した5分くらい後に、4~5人の客を乗せて発車。
次の「関門トンネル人道口」でも6~7人の客を乗せ、途中の停留所でも丹念に客を拾いながら、15分ほどで門司港駅前に連れ戻される。
コインロッカーで荷物を引き取り、改札内のキオスクを眺めてみる。
旅行に出れば各地の新聞を買うのが楽しみの一つでもあるのだが、ニュースは気が滅入ることしか載ってないことなどわかりきっているから、一般紙を買う気にはならなかったが、なんとなく西日本スポーツを手にとって見る。
西では中央競馬が開催されているから、紙面にはそれなりに厚みがあるけれど、一方で公営競技もやっているのは荒尾競馬だけで、競輪競艇オートレースは全国規模で営業を自粛。西日本スポーツの売りであるはずのホークスの記事も、1ページを埋めるのがやっとという有様で、寂しさはぬぐえない。
ただ、これも九州にいて身の程知らずにも旅を楽しんでいるからこそ「寂しさはぬぐえない」なんていう感想が出てくるのであって、富士川以東の関東、東北各県に住んでいれば、それこそ電力供給に一喜一憂する日々で日常生活ですらままならないのだから、「寂しさはぬぐえない」と思ったところで、やっぱり関東在住の身としては、そこでふと我に返るのである。
今回の旅は、非日常の世界を楽しんではいても、結局は、日常なのである。
門司港駅構内にひっそりと残されている、関門連絡船桟橋への連絡通路の遺構。旅人はこの通路を歩いて、或いは走って連絡線と鉄道を乗り換えていたのである。
関門トンネルが開通したのは戦時中の1942年だが、もとより下関と門司港の間は人の行き来が活発であり、列車が門司駅に移動しても、関門連絡船それ自体の需要はかなりあったため、最終的には1964年10月末まで残存していた。1958年に関門国道トンネルが開通したこと、民間航路が発達したのに伴って、利用客が急減したのだった。
折りよくあった11時19分発の鹿児島本線荒尾行き快速で小倉へ。
しっかり列車の顔に形式名が書いてあるとおり、813系。
さて、久々に小倉にやってまいりました。
荒尾行き快速の隣に止まっていた、小倉始発の鹿児島本線荒木行き普通(福間から快速)と、隣に止まっている元「つばめ」用で現在でもJR九州の顔、787系のお顔を1枚。時間的に小倉11時28分終着の、博多始発「きらめき4号」である。ちなみに「きらめき」と聞いて金沢~米原間の特急列車を連想する奴は(以下略
小倉駅の乗り換えコンコースには、センバツ出場の九州国際大学付属高校を祝福する横断幕が掲示されていた。
これから、小倉駅ビルの中から発車するモノレールで、次の目的地まで移動する。
もうどこに行くかはお分かりになりましたでしょ?w
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