1週間以上もこの情報に全く気がつかなかったのは、鉄道ジャーナル誌の読者としては、ただただ恥じ入るばかりであると同時に、如何に自分がこの10日間、全く余裕のない生活を送っていたかを物語っている。申し訳ありません…。・゜・(ノД`)・゜・。
「鉄道ジャーナル」氏の沖勝則カメラマン逝去が、ネット上に一報が出たのは、先週土曜日の2日。
人の死の情報などはネット上においては、まことしやかなデマが多いことは、皆さんは先刻ご承知のはず。まさか…と思いながら、事実確認をせぬまま1週間放置。
で、気づいてみたら、本当でした…orz
詳しくは、鉄道カメラマン南正時氏のサイト、南正時の近況をご覧下さい。
ご病気が原因とのことで、直接の病名は書かれていないが、11月30日18時10分にご逝去されたとのこと。翌1日には通夜、2日には告別式が執り行われた…ということである。これはあくまでも噂だが、種村氏、いやさ種村先生のライフワーク「日本列島外周の旅」も、沖氏ご逝去の報を受け、松阪から四日市まで移動したところで中断されたということである。
沖氏は、今年8月発行の10月号の編集後記「乗務員室」を最後に、ぷっつりと消息が途絶え、読者間では「編集長と対立して退社した」という噂がまことしやかに流れていた。竹島編集長の方針で、鉄道ジャーナルでは、編集部員は来る者はとりあえず拒むが、去る者はほとんど追わないというスタンスなので、よほど竹島氏個人の目で「余人をもってしても代え難い人材」であると判断された部員以外は、退社してもメッセージを送ることはないので、このところの鉄道ジャーナル内部の人事異動の激しさもあり、読者はその程度しか思っていなかったのだが、よもやご病気だったとは…。
種村氏風に表現すれば「沖C(カメラマンのC)」、いや沖氏は、種村先生が鉄道ジャーナル誌のメインライターであったなら、鉄道ジャーナル誌のメインカメラマンとして屋台骨を支える活躍をされていた。種村氏のみならず、数多くの外部ライターも担当した「列車追跡シリーズ」では迫真の写真を誌面に展開。
また、編集後記「乗務員室」では、を、「私の胸に熱い物がこみあげてきた」と締めるオチで、泣けるほど笑える小ネタを展開、たった200字足らずのコラムで、読者のハートをがっちり掴んで来られた。
出張先では、「沖氏に『この店がいいです』と連れられて入った居酒屋は、まずいことこの上なかった」と外部ライターに苦言を呈せられ、撮影先では、目的の列車が通過する瞬間にカメラがイカれ、突然の雨にも降られ、なにかとネタには事欠かなかった沖氏。
53歳、まだまだ第一線で頑張って頂きたかった方なのだが…。
沖氏が「鉄道ジャーナル」誌に初登場したのは、1977(昭和52)年4月号。
まだ正式入社前で、当時の編集部員と共に、「4月入社予定」と、初々しい顔写真入りで公開されている。そういえば、たまに編集部員の顔写真が公開された「こちら鉄道ジャーナル編集室」も、顔写真が公開されなくなってから久しい。
誌面では、カメラと編集の腕と同時に、「レールウェイライターの腕を磨くことが夢」と書かれてあり、内外から期待されたことが伺い知れる。
結局沖氏は、鉄道ジャーナルでは、単体での署名記事を書くことはなく、専ら専属カメラマンとして活躍されて、そのキャリアに幕を引くことになってしまったが、思えば雑誌の専属カメラマンとして、専ら鉄道だけを撮り続けられたことは、大いに幸せだったのかもしれない。もはや氏の思いを伺い知ることは出来なくなってしまったが、鉄道趣味誌では「フリー鉄道カメラマン」を名乗ってはいても、学校の修学旅行に同行したり、雑誌やチラシなどの写真撮影など、仕事のフィールドを大きくしなければ食っていけないのが現状という折、雑誌専属で鉄道だけを撮り続けられたことは、如何に幸せだったことだろう。
早すぎる死に、言葉もありません。
ごゆっくりお休み下さい。
心よりご冥福をお祈り致します。
「鉄道ジャーナル」氏の沖勝則カメラマン逝去が、ネット上に一報が出たのは、先週土曜日の2日。
人の死の情報などはネット上においては、まことしやかなデマが多いことは、皆さんは先刻ご承知のはず。まさか…と思いながら、事実確認をせぬまま1週間放置。
で、気づいてみたら、本当でした…orz
詳しくは、鉄道カメラマン南正時氏のサイト、南正時の近況をご覧下さい。
ご病気が原因とのことで、直接の病名は書かれていないが、11月30日18時10分にご逝去されたとのこと。翌1日には通夜、2日には告別式が執り行われた…ということである。これはあくまでも噂だが、種村氏、いやさ種村先生のライフワーク「日本列島外周の旅」も、沖氏ご逝去の報を受け、松阪から四日市まで移動したところで中断されたということである。
沖氏は、今年8月発行の10月号の編集後記「乗務員室」を最後に、ぷっつりと消息が途絶え、読者間では「編集長と対立して退社した」という噂がまことしやかに流れていた。竹島編集長の方針で、鉄道ジャーナルでは、編集部員は来る者はとりあえず拒むが、去る者はほとんど追わないというスタンスなので、よほど竹島氏個人の目で「余人をもってしても代え難い人材」であると判断された部員以外は、退社してもメッセージを送ることはないので、このところの鉄道ジャーナル内部の人事異動の激しさもあり、読者はその程度しか思っていなかったのだが、よもやご病気だったとは…。
種村氏風に表現すれば「沖C(カメラマンのC)」、いや沖氏は、種村先生が鉄道ジャーナル誌のメインライターであったなら、鉄道ジャーナル誌のメインカメラマンとして屋台骨を支える活躍をされていた。種村氏のみならず、数多くの外部ライターも担当した「列車追跡シリーズ」では迫真の写真を誌面に展開。
また、編集後記「乗務員室」では、を、「私の胸に熱い物がこみあげてきた」と締めるオチで、泣けるほど笑える小ネタを展開、たった200字足らずのコラムで、読者のハートをがっちり掴んで来られた。
出張先では、「沖氏に『この店がいいです』と連れられて入った居酒屋は、まずいことこの上なかった」と外部ライターに苦言を呈せられ、撮影先では、目的の列車が通過する瞬間にカメラがイカれ、突然の雨にも降られ、なにかとネタには事欠かなかった沖氏。
53歳、まだまだ第一線で頑張って頂きたかった方なのだが…。
沖氏が「鉄道ジャーナル」誌に初登場したのは、1977(昭和52)年4月号。
まだ正式入社前で、当時の編集部員と共に、「4月入社予定」と、初々しい顔写真入りで公開されている。そういえば、たまに編集部員の顔写真が公開された「こちら鉄道ジャーナル編集室」も、顔写真が公開されなくなってから久しい。
誌面では、カメラと編集の腕と同時に、「レールウェイライターの腕を磨くことが夢」と書かれてあり、内外から期待されたことが伺い知れる。
結局沖氏は、鉄道ジャーナルでは、単体での署名記事を書くことはなく、専ら専属カメラマンとして活躍されて、そのキャリアに幕を引くことになってしまったが、思えば雑誌の専属カメラマンとして、専ら鉄道だけを撮り続けられたことは、大いに幸せだったのかもしれない。もはや氏の思いを伺い知ることは出来なくなってしまったが、鉄道趣味誌では「フリー鉄道カメラマン」を名乗ってはいても、学校の修学旅行に同行したり、雑誌やチラシなどの写真撮影など、仕事のフィールドを大きくしなければ食っていけないのが現状という折、雑誌専属で鉄道だけを撮り続けられたことは、如何に幸せだったことだろう。
早すぎる死に、言葉もありません。
ごゆっくりお休み下さい。
心よりご冥福をお祈り致します。
>macさん
>麻生kさん
まとめてのレスで失礼致します。
RJのHPにも載っていない状況なので、誰も知らないのは無理からぬ事ですね。
お若いのに、なんとももったいないことです。
ご冥福をお祈り致します。
神田の古書店なんかに置いてある古いRJなんかにも名前が載っていたりしたので、結構なお年かと思ったんですが、結構若かったんですね。
早すぎる死に、ただご冥福をお祈りします。
鉄道や、それを取り巻く様々な情景を、しっかりと写し取っている印象。
車両の写真は力強さをやカッコ良さを感じさせてくれるだけでなく、美しい。
その作風に憧れを抱きながら、ワタクシも鉄道の写真を撮っています。
おそらく、鉄道カメラマンに与えた影響も大きかったことでしょう。
小さな頃からRJでよく拝見していたけれど、まだ53歳・・・お若かったのですね。残念です。
ご冥福をお祈りいたします。
でも、迫真のルポには必ず沖氏のカメラがあって、華を添えていたんですよねえ…。
ご冥福をお祈り致します。
私の中では、鉄道カメラマンと言えば南氏よりも沖氏なんですよね。
ご冥福をお祈り致します。