≪第7話 友人の死 H.S.さん 執筆当時60歳≫ ~戦争体験集「なつくさ」より~
私は保谷市に住んで25年、今年還暦を迎えます。
終戦時には旧姓中学5年(現在の高校2年)でした。
当時の中学生は男女を問わず、強制的に学徒動員に狩り出され、軍需工場で生産に従事させられました。
私は世田谷の軍需工場でした。
小学校時代の級友、西田栄次君は都立立川高校で、中島飛行機に動員されました。
西田君は昭和19年12月3日の空襲のとき、防空壕に避難しましたが、防空壕に直撃弾を受けて即死しました。
その数日前の夜9時頃、お互いに仕事の帰りに池の上駅で偶然会い、サヨウナラといって別れたのが最後でした。
西田君の死んだことは工場側からも学校当局からも、彼の家に何の連絡もなく、お母さんは残業か徹夜かと心配しながら食事の用意をして待っていたそうです。
西田君のお母さんは、息子の衣類を年に何回か虫干していたそうです。
兄貴のお嫁さんは衣類が不足しているので、子供のためにその衣類が欲しくてたまらなかったそうです。
しかし、お母さんは息子の形見として、孫にも与えませんでした。
私は保谷市に住んで25年、今年還暦を迎えます。
終戦時には旧姓中学5年(現在の高校2年)でした。
当時の中学生は男女を問わず、強制的に学徒動員に狩り出され、軍需工場で生産に従事させられました。
私は世田谷の軍需工場でした。
小学校時代の級友、西田栄次君は都立立川高校で、中島飛行機に動員されました。
西田君は昭和19年12月3日の空襲のとき、防空壕に避難しましたが、防空壕に直撃弾を受けて即死しました。
その数日前の夜9時頃、お互いに仕事の帰りに池の上駅で偶然会い、サヨウナラといって別れたのが最後でした。
西田君の死んだことは工場側からも学校当局からも、彼の家に何の連絡もなく、お母さんは残業か徹夜かと心配しながら食事の用意をして待っていたそうです。
西田君のお母さんは、息子の衣類を年に何回か虫干していたそうです。
兄貴のお嫁さんは衣類が不足しているので、子供のためにその衣類が欲しくてたまらなかったそうです。
しかし、お母さんは息子の形見として、孫にも与えませんでした。
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文章を打ち込んでいても、ほんとにつらいです。
“しかし、お母さんは息子の形見として、孫にも与えませんでした。”
最後のこの一行。
とてもよくわかるのです。
意地悪でもケチなのでもなく、手放せなかったのですよね。
お母さんにとっては、唯一その衣類が息子そのものであったわけですから・・・。
ガラクタのようなものですら、宝物になってしまうくらいですものね。
戦争は、そういう気持ちになってしまう人をたくさん生み出してしまうということでもあるのを知って欲しいです。
こういう話は本当につらいですね。。。
身近な人が亡くなるのは心に残りますね~
とくに母にとってはなおさらです。。。