今私の手元に、20年ほど前に亡き祖父が残していった
「なつくさ」という手作りの文集とその他の抜粋ページがあります。
これらは昭和57年前後の頃に作成されたようです。
書棚にしまったままだったのですが、昨年の震災で書棚を移動させなければならなくなり、その時に忘れていたこの「なつくさ」が出てきました。
このタイミングでと思うと、このまま又しまい込む事に躊躇してしまいました。
執筆者の方々は、もうほとんどこの世にいらっしゃらないと思います。
現に私の祖父もいないのですから。
もう二度と起こしてはいけない戦争の怖さを知っていただくために、
体験者の方々が残してくださった貴重な体験談を伝えるのは、
このまま風化させないためにも祖父が私に託した願いだったのではないかと思います。
なかなか進まないかもしれませんが、
もう一度活字にして少しでも多くの方々に知っていただけたらと思い、
この終戦記念日をスタートに少しずつご紹介していこうかと思います。
祖父も執筆しておりますが、
なかなか原文のまま載せていただけなかった部分もあるようでした。
きっと他の方々も同じようなことがあったのではないかと思われます。
割愛された経緯はわかりませんが、
恐らく、原文はもっと詳しい部分があったのかもしれません。
「なつくさ」という手作りの文集とその他の抜粋ページがあります。
これらは昭和57年前後の頃に作成されたようです。
書棚にしまったままだったのですが、昨年の震災で書棚を移動させなければならなくなり、その時に忘れていたこの「なつくさ」が出てきました。
このタイミングでと思うと、このまま又しまい込む事に躊躇してしまいました。
執筆者の方々は、もうほとんどこの世にいらっしゃらないと思います。
現に私の祖父もいないのですから。
もう二度と起こしてはいけない戦争の怖さを知っていただくために、
体験者の方々が残してくださった貴重な体験談を伝えるのは、
このまま風化させないためにも祖父が私に託した願いだったのではないかと思います。
なかなか進まないかもしれませんが、
もう一度活字にして少しでも多くの方々に知っていただけたらと思い、
この終戦記念日をスタートに少しずつご紹介していこうかと思います。
祖父も執筆しておりますが、
なかなか原文のまま載せていただけなかった部分もあるようでした。
きっと他の方々も同じようなことがあったのではないかと思われます。
割愛された経緯はわかりませんが、
恐らく、原文はもっと詳しい部分があったのかもしれません。
≪川田さんの殉職 C.Nさん執筆当時63歳 ~戦争体験集「なつくさ」より~≫
昭和19年12月3日の朝は晴れていたように思う。
私にとって、終生忘れ得ぬ一日である。
当時中島飛行機武蔵製作所の教育課工研係(工作研究生の略)という職場には、
自由学園からは、一年上の矢野・笠原さんの他に、川田文子さんと私の二名が配属されていた。
その日、午前中の仕事に区切りをつけ、昼の弁当をとり、皆に配られた、その頃には珍しい食後のりんごを食べ終えたころであっただろうか、警戒警報が鳴り渡ったのは。
慌てて食事の跡を片付け、その頃の習慣で先ずお手洗いにと急いだ。
それは防空壕の中で長引いた時に備えるためでもあった。
その時、川田さんは一番先に定められていた壕の方へ走って行かれた。
「先に行くわね」と、一声かけて・・・・・・。
と、思う間もなくウーウーウーッと立て続けに十回空襲警報が鳴り響いた。
私、ついで矢野さんと、慌てて戸外に飛び出した頃はもう既に爆弾の投下が始まっており、ガラガラゴォーッと空気を振動させる投下音が飛びかって、所定の壕まで走って行くゆとりは無くなっていた。
怖さと焦りで少しでも遠くへと逃げ回り、大きな樹の根元にうつ伏せになって、爆発の振動とともに身体をバウンドさせていた。
この時、すでに川田さんと私達の運命は別々になってしまったのである。
ほんの1、2分の行動の遅速が、生と死を分けてしまった、ということは、四十数年経った今でも何ともやりきれない思いがする。
変わり果てた川田さんと再会したのは、B29が去り、警報が解除され、爆弾による被害の大きさに周囲が騒然としている中で、どうも工研係の防空壕が大変なことになっているらしい、ということを耳にして走り帰ったときであった。
私達が入る壕のすぐ傍に爆弾が落ち、爆風で壕が崩れて中にいた十名余りが圧死状態となって掘り出されつつあった。
川田さんは防空頭巾の中のお顔も、着ていらした洋服も泥だらけになって横たえられ、急を聞いて駆けつけた男子工研生達が、必死になって人工呼吸を施していた。
しかし、蘇生は不可能であった。
矢野さんと私は、何を言うこともできないショックで、ただ呆然とその有様を見つめ、泣いていたように思う。
しっかりしなくては、と自分を励ましながら・・・・。
それから気を取り直して、臨時に遺体安置場となった武道館の中に、川田さんの御遺体を皆で運び、次々と運び込まれてくる工研係の人びとの御遺体とも対面をした。
広い武道場の中にあちらこちらの壕から運ばれた御遺体が何十体となく並べられ異様なそして本当に悲惨な情景であった。
大沢先生がすぐ駆けつけて来られ、三人で、水を取り替えながら、頭巾を外してお顔の泥を落とした。
耳にも鼻にも泥が一杯詰り、耳からは血が流れていたことを今も生々しく思い出す。
でも奇麗に拭われた川田さんのお顔は、いつものように美しく静かであった。
十二月のことで、早く暮れはじめた道場に、山室善子先生も駆けつけられ、たまたまその日持ち合わせていらっした真新しい口紅をあけて、川田さんの唇にそっと紅をおひきになった。
十九歳で無残な最後を遂げられた川田さんへの何よりの優しいお心遣いであった。
お顔が生き生きとして、更に美しくなられたようであった。
羽仁先生、クラスの方々も集まって来られ、憤りと哀しみにみたされた。
夜半、皆が職場に去った後、また空襲があったら、川田さんの御遺体を山室先生や矢野さんと抱えて防空壕に入らねばと覚悟していたが、空襲は無かった。
ただ当時では仕方のないことではあったが、御遺体が粗末な即製の木のお棺に入れられ、深夜、東伏見の慰霊祭場に運ぶためのトラックにどんどん積み込まれようとしたとき、矢野さんも私も、「静にそっと扱って下さい!」と、泣いて抗議したのを覚えている。
今も思い出す度に胸が苦しくなる痛恨の一日であった。
その夜工場のあちらこちらで焼け残りの火が燃え、電線や木の枝に爆風で吹き飛んだ方々の、身体の一部や衣服がちぎれて引っかかっている。
それも纏めてトラックに積まれて行ったのを思い出す。
戦争はもう絶対にあってはならないし、そうなることを決して皆で許してはならないと、切に思う。
私にとって、終生忘れ得ぬ一日である。
当時中島飛行機武蔵製作所の教育課工研係(工作研究生の略)という職場には、
自由学園からは、一年上の矢野・笠原さんの他に、川田文子さんと私の二名が配属されていた。
その日、午前中の仕事に区切りをつけ、昼の弁当をとり、皆に配られた、その頃には珍しい食後のりんごを食べ終えたころであっただろうか、警戒警報が鳴り渡ったのは。
慌てて食事の跡を片付け、その頃の習慣で先ずお手洗いにと急いだ。
それは防空壕の中で長引いた時に備えるためでもあった。
その時、川田さんは一番先に定められていた壕の方へ走って行かれた。
「先に行くわね」と、一声かけて・・・・・・。
と、思う間もなくウーウーウーッと立て続けに十回空襲警報が鳴り響いた。
私、ついで矢野さんと、慌てて戸外に飛び出した頃はもう既に爆弾の投下が始まっており、ガラガラゴォーッと空気を振動させる投下音が飛びかって、所定の壕まで走って行くゆとりは無くなっていた。
怖さと焦りで少しでも遠くへと逃げ回り、大きな樹の根元にうつ伏せになって、爆発の振動とともに身体をバウンドさせていた。
この時、すでに川田さんと私達の運命は別々になってしまったのである。
ほんの1、2分の行動の遅速が、生と死を分けてしまった、ということは、四十数年経った今でも何ともやりきれない思いがする。
変わり果てた川田さんと再会したのは、B29が去り、警報が解除され、爆弾による被害の大きさに周囲が騒然としている中で、どうも工研係の防空壕が大変なことになっているらしい、ということを耳にして走り帰ったときであった。
私達が入る壕のすぐ傍に爆弾が落ち、爆風で壕が崩れて中にいた十名余りが圧死状態となって掘り出されつつあった。
川田さんは防空頭巾の中のお顔も、着ていらした洋服も泥だらけになって横たえられ、急を聞いて駆けつけた男子工研生達が、必死になって人工呼吸を施していた。
しかし、蘇生は不可能であった。
矢野さんと私は、何を言うこともできないショックで、ただ呆然とその有様を見つめ、泣いていたように思う。
しっかりしなくては、と自分を励ましながら・・・・。
それから気を取り直して、臨時に遺体安置場となった武道館の中に、川田さんの御遺体を皆で運び、次々と運び込まれてくる工研係の人びとの御遺体とも対面をした。
広い武道場の中にあちらこちらの壕から運ばれた御遺体が何十体となく並べられ異様なそして本当に悲惨な情景であった。
大沢先生がすぐ駆けつけて来られ、三人で、水を取り替えながら、頭巾を外してお顔の泥を落とした。
耳にも鼻にも泥が一杯詰り、耳からは血が流れていたことを今も生々しく思い出す。
でも奇麗に拭われた川田さんのお顔は、いつものように美しく静かであった。
十二月のことで、早く暮れはじめた道場に、山室善子先生も駆けつけられ、たまたまその日持ち合わせていらっした真新しい口紅をあけて、川田さんの唇にそっと紅をおひきになった。
十九歳で無残な最後を遂げられた川田さんへの何よりの優しいお心遣いであった。
お顔が生き生きとして、更に美しくなられたようであった。
羽仁先生、クラスの方々も集まって来られ、憤りと哀しみにみたされた。
夜半、皆が職場に去った後、また空襲があったら、川田さんの御遺体を山室先生や矢野さんと抱えて防空壕に入らねばと覚悟していたが、空襲は無かった。
ただ当時では仕方のないことではあったが、御遺体が粗末な即製の木のお棺に入れられ、深夜、東伏見の慰霊祭場に運ぶためのトラックにどんどん積み込まれようとしたとき、矢野さんも私も、「静にそっと扱って下さい!」と、泣いて抗議したのを覚えている。
今も思い出す度に胸が苦しくなる痛恨の一日であった。
その夜工場のあちらこちらで焼け残りの火が燃え、電線や木の枝に爆風で吹き飛んだ方々の、身体の一部や衣服がちぎれて引っかかっている。
それも纏めてトラックに積まれて行ったのを思い出す。
戦争はもう絶対にあってはならないし、そうなることを決して皆で許してはならないと、切に思う。
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思い出す度に胸が苦しくなる痛恨の一日
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ひまわりが眩しく見えるのは、気のせい
でしょうか
平和に意識
あらためてその感を強くしました
ありがとうございます
戦争体験は、内容があまりに悲惨な辛い記事なので、このような場に公開することを迷いました。
でも、今目を背けてしまったらこの先誰も何も知らないままになってしまうのかと思うと、やはり少しでも形に残したいと思いました。
この場所でコメントいただけるなんて、嬉しいです。
ありがとうございました。
とてもとても大切で、とてもとても貴重な文集ですね!
今こうして、このブロブの上で公開されることは
とても意義ある事で、夏雪草さんにエールを贈ります♪
戦争に関するものって、なんとなく慎重になってしまいます。
でも、せっかく生の声に近いものが手元にあるのに、そのままにしてしまうのは、どうしても自分としては素通りできませんでした。
エールを戴いて、少しホッといたしました。