哲学日記

我という無明 無我

 

 幼少期には、それが実質的に最適対応だったが、大人になったら再設定が必要なことは多々ある。

 

いくつかの使用例を聞いただけで言語の意味を決めつけて、以後変更を受けつけない態度は犯罪的横着だ。

 

大多数のいい歳した大人達は、昔みんなで捏造した共同幻想が、どれほど「ありのままの事実」(真如)に反してるかを時時刻刻に思い知らされてるのに、昔の早とちりを改正しようとは決心しない。

改変を金輪際受けつけないと決めてる自分に、気づいてもない(衆生自秘)

※ブッダはこの根底煩悩を、無明といった。

中身が幼児のままなのだ。

 

 

真に醜悪な人間は極めて少ないのに、世界が常に醜悪で、いじめ乃至戦争が絶えないのは、大多数の善人達のこの犯罪的横着の作用だ。

 

 

 

現代のように理性が尊ばれ、科学が発達し、合理的思考が興隆を極める時代になっても、依然として大多数の人々は「神」を求めている。

 

 

おれは、ネットからMP3プレーヤーにDLした聖書の朗読を、ウォーキング中によく聴いてる。
新約だけでなく旧約の詩篇や箴言などもじつに興味深い。

キリスト教の様々な教えが、仏教の様々な教えと、ちゃんと照応してることに気づくからだ。

 

 


ただし、仏教の真髄「無我の教え」だけは、キリスト教にない。
反対にキリスト教の拠り所「唯一絶対永久不滅全知全能人格神」だけは、仏教にない。
(同様の唯一神を信奉するイスラム教等でも事情はまったく同じだ)

 

これはいったいなぜなのか?

 

 

 

 

理由は簡単、


唯一絶対永久不滅全知全能人格神

 


とは要するに

 


 


のこと


で、正に、無我とは真逆の主張だからだ。

 

超絶テクニックを極限まで駆使して最強に盛った詐欺メークで「神」に成りすましてるが、その厚化粧をすべて洗い流したスッピンは「我」以外の何物でもない。

 

人類の大多数は、言葉をしゃべりだす幼児期からすでに内面的に「我」の奴隷だから、外面的にも遅かれ早かれ「神」の奴隷になることで、内と外に益体もないハーモニーを感じようと欲する。

 

仏教からいえば、全知全能の善なる創造神の教義がどれほど豪壮でどれだけ念が入ってても、たんなる我の厚化粧に過ぎず、
けっきょく無我という肝心かなめの事実に気づいてない妄想状態の域を出ない。

 

 

 

 

ただし気づかないのには歴とした理由もある(このあたりは社会の悩ましいところだ)


無我の教えは布教が難しい。
ことばの知識だけ(体得抜き)では、どうにもならないからだ。

イエス・キリストには、(それを踏まえ)あえてという菩薩感が濃密にある。

「…種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞きなさい」
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。…
イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。…」
「…このたとえ話の意味はこうだ。」「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである…」

イエスは群衆に語ったたとえ話の種明かしを、このように弟子たちにはしたが、この種明かしもまた、もう一つのたとえ話に過ぎない。


最善の無我には及び難いから、神の前に小我を殺し神の大我を生きるという「次善策」を採る。
この覚束無い便法に兇悪な副作用のあることは後の歴史に証明されてる。
絶妙手とおもわれたが、そのコストは大きすぎた。

いくら神の大我だと強弁したって我に違いはないからだ。

人類は、かって捏造した共同幻想が、どれほど真如に反してるかを日々思い知っても、昔の早とちりを改正しない。

改変を金輪際受けつけないと決めてる自分に、気づいてもない。

 

(バートランド・ラッセル「宗教は文明に有益な貢献をなしたか」大竹 勝訳)より引用させていただきます。

もし、わたしが、その子が将来殺人狂になることを知りながら子を生んだとするなら、わたしは当然彼の罪に対して責任がなければならない。人間がおかすところの罪を前もって知っておられたとするならば、神が人間を創造することを決意されたとき、神はそれらの罪のすべての結果に、明らかに、責任がある。普通のキリスト教徒の議論は、この世の苦痛は、罪のきよめであるから、善いことであるというのである。もちろん、この議論はサディズムの言いわけであるにすぎないし、とにかく、極めて薄弱な議論である。…
この苦痛の多い世界で、万事このうえなくうまく行っていると信じているひとは、彼の倫理的な価値をそこなわずにおることはできない。それは、常に、苦痛とみじめさとに言いわけをしなければならないからである。
(引用終。赤字強調は私です)

 

 

ショーペンハウアーは
全知全能の善なる創造神を持ち出すのは、重心が頭にある人形を立てようとする試みに似ている

と言ってる。

(何度立ててもひっくり返ってしまうから)

 

 

 

 

 

しかし頼みの綱の仏教も、入滅後の仏陀は信者によって事実上永久不滅の神のように変容されていったし、一神教と構造の似た浄土系信仰が現れると、抵抗なく広く受け入れられていった。

これらは、遣る方ない事実だ。

 

※浄土系信仰とは無我の教義をあえて言挙げせず唯一神も持たない、ある意味絶妙の仏教。超越絶対神を欲す大衆圧力に常に押されながら崖っぷちで持堪える危なっかしい仏教でもある。

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)
「世界は愛を求めてる」

Jackie DeShannon - What the World Needs Now Is Love  1965 歌詞 対訳


www.youtube.com

(過去記事編集再録)

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