戦国島津氏 2008-01-20 11:19:31 | 歴史・地理 平成12年1月に枕崎市(商工観光課)はじめ南薩地域の市町で発行した「南薩見聞録」の中に、木口屋隆明さんがイラストを描いた戦国島津氏の家系図があります。ちなみに島津忠良は「日新公」と書いて「じっしんこう」と読みます。キグチヤの家系図も早く整理したいものです。 « あけましておめでとうござい... | トップ | ただいま村のたより滞り中その① »
65 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 Unknown (Unknown) 2009-04-20 23:07:19 ここでマッコウの校歌を目することができるとは! ウン~十年も前のこと。 懐かしさに 声に出して歌いました。 返信する Unknown (Unknown) 2008-02-17 01:37:26 タッガワから500メートルくらい奥の蔵多山登り口付近にウシッヂャマ(宇敷)という5~6戸の地区がありました。(公民館は田布川だったと思います)20数年前に消滅したようです。 返信する Unknown (Unknown) 2008-02-15 23:31:02 20年前の昭和63年(1988年)の金山校区の人口 (枕崎市誌上巻P86より)田布川 552名 (216戸)金山 241名 (115戸)木口屋 110名 ( 48戸) 界守 19名 ( 7戸) ※金山住宅115名 ( 36戸)※寺田 35名 ( 8戸)※印は昭和50年代に金山地区に発足した自治公民館ということで昭和63年の金山校区総人口は1072人(430戸)あれから20年.... キグッヂャの人口は半減 戸数は約2/3 ぞ~ ケモイは、何とか存続しています。3~4戸数くらいはあるようです 返信する Unknown (Unknown) 2008-02-14 22:09:58 『界守』とは「界の守り」と書くので加世田市と枕崎市の市境あたりにあったのですか?現在、界守に人が住んでいるのですか? 返信する ケモリ (Unknown) 2008-02-14 19:59:28 界守というのがありましたね。私が通いだした頃には児童数ゼロでしたが。 返信する Unknown (Unknown) 2008-02-14 00:44:23 金山校区は金山・田布川・木口屋の3集落ですが、昔は何集落あったのですか?消えた集落があったのですか? 返信する 金山小学校 (おひさしぶり) 2008-02-11 21:01:37 本日金山小まで歩いてみました。校舎も一回りして、金山内を通り、鉱山あとから山道を上がってきました。しんどかった。途中、金山住民のおじさんから2回職務質問を受けました。「だいやったけな」「キグッチャから歩いてきました。」 返信する Unknown (Unknown) 2008-02-11 20:06:54 マッコー みどりに映ゆる南国の 山海ともにうるわしく 流れも清き花渡川の 絶ゆる時きなき そのほとり 文化の光りかかげたる わが学び舎ぞ 幸多き 東に高く開聞の 秀でし姿仰ぎつつ 南に広く太洋の 果てなき潮路望みつつ 深くも遠き学問の路 いざやたどらん我が学友よ 高き理想を抱きつつ この学園に集いたる 心ぞ若く浄らなる 祖国日本の礎を 進みゆく世をしるべして ああひるがえす自主の旗 返信する あふちの樹 (Unknown) 2008-02-11 18:49:10 あふちの樹の下に集う校歌もありますよ。 返信する Unknown (枕高) 2008-02-11 10:35:07 枕高の校歌もお願いします。 返信する 30歳以下はこっちの小学校だったかな (Unknown) 2008-02-11 00:55:02 国見の山に出づる日の くもらぬ光仰ぎつつ 明るく清くおおらかに 学びの庭に睦みあい 真と誠との道ゆかん 真と誠との道ゆかん 夜昼わかず花渡川の 流るる水を友として 心をみがき身をきたえ 平和の御旗かざしつつ 敬と愛との世を生きん 敬と愛との世を生きん 歴史は古き城山の 松に偉人を偲びつつ 文化の日本先駆けて 大和桜のかぐわしき わが学びやの名におわん わが学びやの名におわん 返信する ↑ ( ん? ) 2008-02-10 00:54:10 ??... これはどうみても金山の勝ちかキグッヂャが を出したら おあいこで○く収まるかということで キグッヂャは両者の仲裁役か 返信する バトル (Unknown) 2008-02-10 00:39:57 両者の間にあって キグッヂャはキャスティングボートを握っていた金山 田布川 木口屋 OR キグッヂャは少数だが キグッヂャがどっちに付くかで勝負は決まっただから金山も田布川も キグッヂャにコビコビ 返信する 源平 (源平) 2008-02-09 23:32:10 金山と田布川も戦前は源平子孫のいざこざがあったんじゃなかった? 返信する 平成 (平家ホタル) 2008-02-09 12:46:56 今は私達の時代よ~ん 返信する 源氏 (源氏) 2008-02-09 09:23:46 源氏でなければ幕府を開けないというのは間違い。たまたま鎌倉・室町・江戸幕府を開いたのが源氏だっただけ。 返信する Unknown (Unknown) 2008-02-08 22:18:47 さつまの南松青い 仙洞岡を前にして 楽しい学び舎金山校 学ぶ健児の われわれが 郷土の花と咲き出よう 希望に満ちた日々のわざ黄金に咲いた昔から よい人多く世に出して 歴史はかおる金山校 続く若人 我らまた 国の力と生い立とう 自治の集い意気をみよ清い瀬になる滑り川 海へと注ぐ理想もち 校風ゆかしい金山校 ああ山の気のすむところ 平和の誇り世に示す よい人誓ってここに出よう 返信する ♪ (Unknown) 2008-02-08 21:33:38 樟かほる 桜の城に 雲白く 鐘楼古りて伝え来し もゆる気魄ぞ いざ風を呼べ 自主の旗桜山中学われら 永遠に澄む 花渡の流れ 研修の 窓は明るく咲きにほふ 真理の花ぞ ああ光あり 瑠璃の空桜山中学われら はつらつと桜の徽章 さみどりの 国見の嶺に湧き上がる理想の虹ぞ げにこぞり立つ 敬と愛桜山中学われら 返信する 鹿籠郷 (Unknown) 2008-02-08 00:37:05 鹿籠郷を支配していた郷士は富岡・山下・通山・宝寿庵・宇都などに住んでいた。長善寺にあった学校は初代警視総監の樺山資紀が鹿籠地頭のときに作ったのではなかったでしょうか? 返信する Unknown (Unknown) 2008-02-08 00:17:59 ととぼいの馬頭観音のあるところも馬場。 早馬競技があったらしい。ととぼいは外堀と書くらしい (枕崎市誌下巻P575より)カニは中学校にもいた。 キグッヂャにはヤマタロガネやドンコドン(カエルのデカイやつ)もいたほんのこて なつかしか 返信する Unknown (歓喜のコメント) 2008-02-07 22:09:42 2号です。知らぬ間に15000を突破。歓喜のコメントを出したいところですが、それでは「偽装」となってしまいます。私は20000を狙っています。ところで宇都の墓、中学生時代に近くを通っていた気がします。宇都はなぜか他の地域と違う感じで。桜の城の城下町だったのか。中学の下の直線道路は馬場だったようですね。たくさんカニがうごめいていましたが。その頃、木口屋ではガマガエルがたくさんいました。なつかしい 返信する yatta- (Unknown) 2008-02-07 21:18:24 15000 ヤッター ヤッター ゴメン 私ではありませんでした。 返信する 15000 (おめでとうございます) 2008-02-07 01:07:16 できれば 歓喜のコメントお願いします 返信する Unknown (Unknown) 2008-02-06 23:51:58 宇都の小高い丘に長善寺墓地があるのを知っていますか。知っていても行かれた方は少ないのでは....ご存知のとおり、ここは喜入氏累代の墓地で初代喜入季久~14代久博までの墓があります。もともと喜入氏の菩提寺の長善寺があったが、明治2年の廃仏毀釈によって寺は取壊され、墓地になったようです。登ってみると結構敷地も広く 風格のある墓石が並んでいます。 一時期学校もあったと聞いています 返信する そろそろだょヨ~ん (マニア) 2008-02-06 00:03:04 MNo 15000 返信する 薩摩島津氏 (島津義弘) 2008-02-05 23:43:35 島津氏に興味のある者はこれを見よ。薩摩島津氏http://www2.harimaya.com/simazu/index.html 返信する 一握の砂 (サネオ改め啄木) 2008-02-05 23:13:30 ふるさとの山に向かひて 言ふことなしふるさとの山はありがたきかな ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中に そを聴きにいく 返信する 百人一首 (中大兄皇子改め天智天皇) 2008-02-05 18:34:54 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ 返信する Unknown (Unknown) 2008-02-04 22:26:56 海幸彦 山幸彦 海の負け大海人皇子 大友皇子 海の勝ち 返信する 大化の改新は実はクーデターです。 (中臣のカマキリ) 2008-02-03 21:08:57 大化の改新の本当の目的は中大兄皇子の異母兄弟である古人大兄皇子の即位が有力視されていたから。古人大兄皇子の母は蘇我氏の娘。もちろん蘇我氏の横専を無くし天皇中心の中央集権国家を造る目的もあったが。しかしながら、中大兄皇子が天智天皇に即位してからは彼の専制政治に対する豪族や民衆の不満が積み重なり、彼の死後皇位継承にからんで壬申の乱がおこった。 返信する 鹿籠窯ブログMNo (おめでとうございます) 2008-02-03 10:27:21 2000ゲットおめでとうございますこちらは ぼつぼつ15000 返信する 神話と史実混ぜこぜ (Unknown) 2008-02-03 09:37:59 キグッヂャの先祖の金峰阿多を調べるうちに ナント日本建国の母が この地におられました。 その名は コノハナサクヤ姫さん(木花咲耶姫)天照大神の孫のニニギノミコトに嫁いだのが 金峰阿多出身のコノハナサクヤ姫さん かなりの美人 ニニギノさんがひと目惚れするのも無理はない。 国道270号の道の駅木花館に銅像があります二人の間に生まれたのが海幸彦と山幸彦(山幸の方がヨカニセ)山幸彦の孫が神武天皇もしかすると祖之助おじさんもコノハナサクヤ姫さんの親戚筋の子孫かもしれない ということは・・・・木口屋の木はコノハナさんの木に由来してるのかな... 関係ないか... 返信する 天皇家 (村の長老) 2008-02-02 22:08:48 face2_lose_m/}初代天皇の存在自体もはっきりしていないのじゃ。127歳まで生きていたことになっておるがのう。そもそも天皇家の出自も怪しいのじゃ。近畿地方の有力部族説。高千穂からの東征説。出雲の国譲り説。朝鮮半島騎馬民族説(最近は少数意見)。などなど…。5世紀末に倭の五王(応神天皇~雄略天皇)が中国に使者を送っているが、このころ大和王権が日本を統一しかけていたのではなかろうか?中国に朝貢した理由は、大和王権の権威付け(先進国である中国から認めてもらう)東アジアでの倭国の地位確立(朝鮮半島への対抗)等考えられる。266年卑弥呼の姪の壱与が西晋に使いを出してから413年の倭王(応神?)が東晋に使いを出すまで倭国のことが中国の文献に記載されていない。この空白の150年間に何が起こったのか?それはワシにも分からんのじゃ。その頃に生きておらんからの。{/ 返信する 私も (摂関家) 2008-02-02 20:32:21 小さい頃 親から せっかん されるもんじゃった 返信する そういうことか (Unknown) 2008-02-02 20:14:21 その時々の思惑によって美化したり権威付けしたりするのですね。 かなり政略的なところが見え隠れしますね天下盗りの覇者も、天皇家から下った武門の棟梁の権威を借りているのかな平清盛(平氏の本流) 源頼朝(源氏の本流) 執権北条氏(平氏) 後醍醐天皇(3日天下いやいや3年天下) 足利氏(源氏) 豊臣秀吉(百姓or足軽ゆえに関白(太閤)なんて超背伸びして権威付け 本当は木下氏) 織田信長(平氏) 徳川(源氏)キグッヂャは中臣鎌足(摂関藤原氏元祖)の庶流ということでどうですかね 返信する 系図について。 (きぐ) 2008-02-02 03:12:48 武門の棟梁の徳川将軍家でさえ系図の詐称疑惑があります。松平氏(徳川氏)は新田氏の子孫と言うことになっていますが、本当のところは疑わしいです。そもそも松平氏の出自もいろんな説があって盗賊・豪農・国人などさまざまです。どこの馬の骨かわかりません。島津氏も源頼朝と丹後局(愛人)の子どもであるとされているため、源氏の子孫と言うことになっています。しかし、幕府から系図を差し出すように命じられたところ幕府との関係を密接にするために源氏の子孫となったようです。日新公の時代には藤原氏の子孫を名乗っていますが、五摂家筆頭近衛家との関係を重視したためでしょう。島津氏は中国秦の始皇帝の子孫ではないかと言う説があります。渡来人として秦氏が来ました。秦氏から惟宗氏(島津氏)・対馬の宗氏・土佐長宗我部氏が出ているようです。 返信する 編集長さんへ (質問) 2008-02-01 19:12:22 このブログの電子保存期間は何年くらいでしょうか?そのうちバサッと消去されるのでしょうか? 返信する きぐ系図 (Unknown) 2008-02-01 18:37:21 貴久さんの隠し子の流れが 祖之助おじさんということで ねつ造したらヤバイかな偽証罪で訴えられるかな 返信する 系図 (Unknown) 2008-02-01 01:10:19 キグッヂャ系図も早く作ってアップしてくださ~い 返信する Unknown (祖之助の子孫) 2008-02-01 01:03:52 文政 天保 嘉永 安政 万延 元治 慶応 明治 数年前 ちょっとした用件で私の血統の除籍簿(故人の戸籍簿)を取寄せたところ、なんと文政10年(1827年)生まれの先祖の名前が記録されていた。歴史大河ドラマの小松帯刀 天璋院篤姫でさえも天保6年生まれ(1836年)その時代に生きていたキグッヂャの全員の戸籍記録があるということになる。(直系筋でないと個人情報保護の関係でとれない)除籍簿の法定保存期間は80年 市町村によっては結構長期に保存しているところもあるらしい。廃棄処分になる前になんとかしたいもの初代祖之助(仮称)おじさんが生まれた時代までは更に150年昔 たどり着くのは無理かな どうかな 返信する 島津氏系図 (Unknown) 2008-02-01 00:02:13 http://pub.ne.jp/naocissus/image/user/1200791361.gif拡大できますよ。 返信する なるほど (Unknown) 2008-01-31 00:42:41 知識が深まりました ところで 日本で初めて新婚旅行をしたのは坂本竜馬というのが定説ですが、その10年前 小松帯刀が霧島温泉旅行をしたということです(最近の南日本新聞) 返信する 喜入領主肝付家 (小松帯刀) 2008-01-30 01:17:53 喜入領主は肝付氏庶流である加治木肝付家の子孫です。加治木肝付家兼盛は日新公の娘にし姫を妻にしていますので三州統一以前から島津氏と友好関係でした。もちろん肝付氏宗家にも日新公の娘御南姫と婚姻していますが。肝付氏宗家(高山)19代兼護(御南の子)の島津氏に下り祖之助どんがお住まいだった阿多に領地をもらいましたが、兼護が関ヶ原で討ち死にしていますので事実上断絶しています。20代兼幸は溺死しています。 返信する 喜入と枕崎 (祖之助) 2008-01-30 00:25:31 私がキグッヂャに入植してきた1700年頃の鹿籠郷(枕崎市)の殿様は喜入氏でした。話しに聞くところによると、喜入氏の殿様は もともと喜入郷(今の喜入町)に居たが、太閤検地のあった1580年頃、喜入郷には大隈の肝付氏が入ったので、喜入氏は鹿籠郷に移ったらしい 喜入氏初代の殿様は喜入季久さん 喜入氏はもともと島津氏 喜入氏に改姓したのは15代当主島津貴久さんより 一門家以外の島津氏は 所領地名を名乗るようにとの下命があったからとのこと 返信する Unknown (Unknown) 2008-01-29 18:29:10 んだもしたん 返信する しんど (Unknown) 2008-01-29 00:08:18 デグッノマッジャマが限界かも 返信する U (Unknown) 2008-01-28 23:40:42 指宿菜の花館スタートゴールの20km少々です ほかにも40 30 25 10 5kmコースがあるようです枕崎のウォーキング大会は1月下旬に塩浜グランド発着の5kmコースがあるようですが、ちょっと物足りないかなそこで提案 15kmコースを作ってもらいたい塩浜G→平角→山口→ととぼいの馬頭観音→二宮製茶→ハイノキド(チェックポイント兼給水所)→ドッコッ→旗山(休憩10分 緑を満喫)→マオ→旧乾燥場前→鹿籠窯→サンドマッ→ハイノキド→→塩浜G 所要4~5時間想定 如何ですかね 返信する Unknown (斉彬) 2008-01-28 22:22:37 菜の花マーチ(ウォーキング)は何キロ歩くとな? 返信する 篤姫さん (Unknown) 2008-01-27 23:57:18 今日は体と頭がキンゴ キンゴなった 悪妻に誘われるままに 指宿菜の花マーチ(ウォーキング)に参加 篤姫コースを回った 篤姫さんの実家は指宿市の国道226号線沿いにある島津今和泉家 今は今和泉小学校になっていた墓地にもお参りし 父ちゃんの島津忠剛(ただたけ)さんに「でかしたぞ! 立派な子を生んでくれて 薩摩の誇りじゃ」と言ってきましたすがすがしい1日でした 頭も久しぶりに使いました夜はダイヤメがうんまかった 返信する Unknown (ポリ) 2008-01-27 01:00:59 薩摩警視に茨城巡査。 返信する ただ乗り (薩摩守忠度) 2008-01-26 23:00:54 いえいえ私は 薩摩の出身ではなく 平忠度といい清盛の異母弟で京都の出身です 無賃乗車の代名詞によく使われますが、薩摩とは一切関係ありません。なんで薩摩守(さつまのかみ)が付いたかというと、兄平清盛から薩摩の国司に任じられましたが、一回も赴いたことはありません。私の冠称で、薩摩の皆さまが不愉快な思いをしているのではないかと恐縮しています。薩摩藩の財政改革者 調所広郷さんの借金踏倒しほどは大胆ではないですが..... 返信する Unknown (ホは出したい) 2008-01-26 22:32:59 出せるものなら出したい。そのうち出すよ。と言いながら、むなしい日々。 返信する 名前間違ってますよ (Unknown) 2008-01-26 22:29:34 政義さんでなく足利義政木口屋にもマサヨシさんはいましたが立派な方でした。 返信する Unun (Unknown) 2008-01-26 22:16:05 同士ありがとう。慰めあっても空しい限り 返信する Unknown (ほがなか2号) 2008-01-26 22:04:30 まったく同感。しかたがない。 返信する U (3大悪妻) 2008-01-26 20:26:18 1、木口屋××子(ウチのウッカタ: 世間ヅラいいが、家では絶大な権力をもって恐怖政治を敷いている。 逆説的にはダンナがホがないという説もある)2、北条政子(頼朝さんのウッカタ: 夫亡き後 実家北条(平家」)の為に実子まで死に追いやった。 しかし御家人衆をよく束ねたとの評価もある)3、日野富子(足利政義さんのウッカタ: 賄賂のかたまり 贅の限りを尽くした。これもダンナが遊興に走ってホがなかったのかな。 しかしこの賄賂 幕政の財源に寄与したとの評価もある)歴史は女が動かす家は女次第ホのない無力な男より 返信する Unknown (アツ姫の関係者) 2008-01-23 19:23:53 uさんの大変わかりやすい解説ありがとうございます。城山三郎ふうで感じ入りもした。守護職→守護大名→戦国大名→(江戸時代の)大名→華族→島津興業?これだけ長期間、同じ場所で名前を維持できたのは珍しいのかと思います。木口屋の名前も残したいですね。 返信する 1467年 (足利義政) 2008-01-23 08:22:33 以後の世むなしい応仁の乱。(1後の467) 返信する 入力ミス (訂正) 2008-01-23 01:06:00 室町kkが弱体化した時期は1467年頃でした 返信する u (Unknown) 2008-01-23 00:59:44 いい国造ろうとのスローガンの下 1192年鎌倉株式会社を創業した頼朝社長より南九州の子会社に転勤を命じられ赴任したのが島津忠久さん1336年鎌倉kkが倒産したので室町kkの傘下に入ったが、これも1367頃より弱体化し 老舗の小会社では社長が解任されたり、ベンチャー企業の進出など混迷が100年余り続いた。老舗の島津kkもこの頃オーナー一族で覇権争いがあり勝久社長も苦慮していたが、伊作支店長の忠良さんを取締役相談役に起用 その子貴久さんが社長に就任した。貴久さんの子義久社長のときは事業を九州のほぼ全域に展開した。その後大阪東京の大資本の企業の軋轢を受けたが、堅実経営で業績はよかった。(島津にバカ社長無し) メガ企業徳川kkの衰退時期には篤姫さんを徳川社長夫人にし、西郷係長と大久保係長を派遣し円満に会社清算手続きをし 明治kk設立の立役者となった今の島津宗家は伊作支店長の忠良さんの流れ 鎌倉時代より今に残る大名家は数少ない(殆どは戦国乱世の時代に衰退消滅) 大したもんだ 返信する 仮称 (祖之助) 2008-01-22 01:22:09 今から約40年前 今は亡きキグッヂャの大先輩達が、私達3家族の出自を確認するため阿多地区、金峰町役場へ調査にいったが、手ががりはつかめなかったということである。忘れられた存在になっていたかと思うと残念である。おそらく犬のトラブルで出て行った我々との関わりを隠していて後世に伝えられなかったのではないか憎っくき天下の悪法 生類憐みの令 いい加減な法律つくらないでね綱吉さん また機会があったら再調査してくいやいな~ 返信する Unknown (島津貴久) 2008-01-21 22:26:32 ふむ。木口屋の民衆は阿多出身であるか。阿多・田布施・加世田・永吉・伊集院など我が父日新公ゆかりの土地なのじゃ。我が父日新公は伊作家と言う分家の一つにすぎなかったが、ワシを島津宗家15代目として継がせたのじゃ。いにしえの道を聞いても唱えへもわが行いにせずばかひなし 返信する キグ始祖(仮称) (祖之助) 2008-01-21 00:46:01 なつかしか 阿多 私が阿多で暮らしていた1700年頃の島津の殿様は貴久さんより5代下り 20代当主の綱貴さん 江戸の殿様は犬の綱吉さん間もなく犬事件でやむなく阿多を離れ 今のキグッヂャに来たが当時は未開の山ん中で 隣の金山が金鉱採掘を始めたころじゃった。 たまに金山関係者がキグッヂャにも金鉱石がないか調べに来ちょった。いま思えばなつかしか 返信する Unknown (2号) 2008-01-20 18:32:06 ほー、こんなすばらしいものがあったのですね。似顔絵もよくできています。ただ、文章はマウスで範囲指定しないと表示されません。改造よろしく 返信する Unknown (島津貴久) 2008-01-20 15:14:31 おお!我が治世から450年後にはこのように紹介されているのじゃな。ふむ。木口屋隆明とやら。褒めてとらす。苦しゅうない。さらばじゃ! 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
20数年前に消滅したようです。
20年前の昭和63年(1988年)の金山校区の人口 (枕崎市誌上巻P86より)
田布川 552名 (216戸)
金山 241名 (115戸)
木口屋 110名 ( 48戸)
界守 19名 ( 7戸)
※金山住宅115名 ( 36戸)
※寺田 35名 ( 8戸)
※印は昭和50年代に金山地区に発足した自治公民館
ということで昭和63年の金山校区総人口は1072人(430戸)
あれから20年.... キグッヂャの人口は半減 戸数は約2/3
ケモイは、何とか存続しています。3~4戸数くらいはあるようです
現在、界守に人が住んでいるのですか?
私が通いだした頃には児童数ゼロでしたが。
消えた集落があったのですか?
校舎も一回りして、金山内を通り、
鉱山あとから山道を上がってきました。しんどかった。
途中、金山住民のおじさんから2回職務質問を受けました。「だいやったけな」「キグッチャから歩いてきました。」
流れも清き花渡川の 絶ゆる時きなき そのほとり
文化の光りかかげたる わが学び舎ぞ 幸多き
南に広く太洋の 果てなき潮路望みつつ
深くも遠き学問の路 いざやたどらん我が学友よ
心ぞ若く浄らなる 祖国日本の礎を
進みゆく世をしるべして ああひるがえす自主の旗
明るく清くおおらかに 学びの庭に睦みあい
真と誠との道ゆかん 真と誠との道ゆかん
心をみがき身をきたえ 平和の御旗かざしつつ
敬と愛との世を生きん 敬と愛との世を生きん
文化の日本先駆けて 大和桜のかぐわしき
わが学びやの名におわん わが学びやの名におわん
キグッヂャが
ということで キグッヂャは両者の仲裁役か
金山
田布川
木口屋
キグッヂャは少数だが キグッヂャがどっちに付くかで勝負は決まった
だから金山も田布川も キグッヂャにコビコビ
たまたま鎌倉・室町・江戸幕府を開いたのが源氏だっただけ。
楽しい学び舎金山校
学ぶ健児の われわれが 郷土の花と咲き出よう
希望に満ちた日々のわざ
歴史はかおる金山校
続く若人 我らまた 国の力と生い立とう
自治の集い意気をみよ
校風ゆかしい金山校
ああ山の気のすむところ 平和の誇り世に示す
よい人誓ってここに出よう
樟かほる 桜の城に 雲白く 鐘楼古りて
伝え来し もゆる気魄ぞ いざ風を呼べ 自主の旗
桜山中学われら
永遠に澄む 花渡の流れ 研修の 窓は明るく
咲きにほふ 真理の花ぞ ああ光あり 瑠璃の空
桜山中学われら
はつらつと桜の徽章 さみどりの 国見の嶺に
湧き上がる理想の虹ぞ げにこぞり立つ 敬と愛
桜山中学われら
長善寺にあった学校は初代警視総監の樺山資紀が鹿籠地頭のときに作ったのではなかったでしょうか?
ととぼいの馬頭観音のあるところも馬場。 早馬競技があったらしい。ととぼいは外堀と書くらしい (枕崎市誌下巻P575より)
カニは中学校にもいた。 キグッヂャにはヤマタロガネやドンコドン(カエルのデカイやつ)もいた
ほんのこて なつかしか
ところで宇都の墓、中学生時代に近くを通っていた気がします。宇都はなぜか他の地域と違う感じで。
桜の城の城下町だったのか。
中学の下の直線道路は馬場だったようですね。
たくさんカニがうごめいていましたが。
その頃、木口屋ではガマガエルがたくさんいました。
なつかしい
ゴメン 私ではありませんでした。
できれば 歓喜のコメントお願いします
宇都の小高い丘に長善寺墓地があるのを知っていますか。
知っていても行かれた方は少ないのでは....
ご存知のとおり、ここは喜入氏累代の墓地で初代喜入季久~14代久博までの墓があります。
もともと喜入氏の菩提寺の長善寺があったが、明治2年の廃仏毀釈によって寺は取壊され、墓地になったようです。
登ってみると結構敷地も広く 風格のある墓石が並んでいます。 一時期学校もあったと聞いています
薩摩島津氏
http://www2.harimaya.com/simazu/index.html
ふるさとの山に向かひて 言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
ふるさとの訛りなつかし停車場の
人ごみの中に そを聴きにいく
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
大海人皇子
古人大兄皇子の母は蘇我氏の娘。
もちろん蘇我氏の横専を無くし天皇中心の中央集権国家を造る目的もあったが。
しかしながら、中大兄皇子が天智天皇に即位してからは彼の専制政治に対する豪族や民衆の不満が積み重なり、彼の死後皇位継承にからんで壬申の乱がおこった。
こちらは ぼつぼつ15000
キグッヂャの先祖の金峰阿多を調べるうちに ナント日本建国の母が この地におられました。 その名は コノハナサクヤ姫さん(木花咲耶姫)
天照大神の孫のニニギノミコトに嫁いだのが 金峰阿多出身のコノハナサクヤ姫さん
かなりの美人 ニニギノさんがひと目惚れするのも無理はない。 国道270号の道の駅木花館に銅像があります
二人の間に生まれたのが海幸彦と山幸彦(山幸の方がヨカニセ)
山幸彦の孫が神武天皇
もしかすると祖之助おじさんもコノハナサクヤ姫さんの親戚筋の子孫かもしれない ということは・・・・
木口屋の木はコノハナさんの木に由来してるのかな... 関係ないか...
初代天皇の存在自体もはっきりしていないのじゃ。
127歳まで生きていたことになっておるがのう。
そもそも天皇家の出自も怪しいのじゃ。
近畿地方の有力部族説。高千穂からの東征説。出雲の国譲り説。朝鮮半島騎馬民族説(最近は少数意見)。などなど…。
5世紀末に倭の五王(応神天皇~雄略天皇)が中国に使者を送っているが、このころ大和王権が日本を統一しかけていたのではなかろうか?
中国に朝貢した理由は、大和王権の権威付け(先進国である中国から認めてもらう)東アジアでの倭国の地位確立(朝鮮半島への対抗)等考えられる。
266年卑弥呼の姪の壱与が西晋に使いを出してから413年の倭王(応神?)が東晋に使いを出すまで倭国のことが中国の文献に記載されていない。
この空白の150年間に何が起こったのか?
それはワシにも分からんのじゃ。その頃に生きておらんからの。
天下盗りの覇者も、天皇家から下った武門の棟梁の権威を借りているのかな
平清盛(平氏の本流) 源頼朝(源氏の本流) 執権北条氏(平氏) 後醍醐天皇(3日天下いやいや3年天下) 足利氏(源氏) 豊臣秀吉(百姓or足軽ゆえに関白(太閤)なんて超背伸びして権威付け 本当は木下氏) 織田信長(平氏) 徳川(源氏)
キグッヂャは中臣鎌足(摂関藤原氏元祖)の庶流ということでどうですかね
松平氏(徳川氏)は新田氏の子孫と言うことになっていますが、本当のところは疑わしいです。
そもそも松平氏の出自もいろんな説があって盗賊・豪農・国人などさまざまです。どこの馬の骨かわかりません。
島津氏も源頼朝と丹後局(愛人)の子どもであるとされているため、源氏の子孫と言うことになっています。しかし、幕府から系図を差し出すように命じられたところ幕府との関係を密接にするために源氏の子孫となったようです。
日新公の時代には藤原氏の子孫を名乗っていますが、五摂家筆頭近衛家との関係を重視したためでしょう。
島津氏は中国秦の始皇帝の子孫ではないかと言う説があります。渡来人として秦氏が来ました。秦氏から惟宗氏(島津氏)・対馬の宗氏・土佐長宗我部氏が出ているようです。
そのうちバサッと消去されるのでしょうか?
偽証罪で訴えられるかな
数年前 ちょっとした用件で私の血統の除籍簿(故人の戸籍簿)を取寄せたところ、なんと文政10年(1827年)生まれの先祖の名前が記録されていた。
歴史大河ドラマの小松帯刀 天璋院篤姫でさえも天保6年生まれ(1836年)
その時代に生きていたキグッヂャの全員の戸籍記録があるということになる。(直系筋でないと個人情報保護の関係でとれない)
除籍簿の法定保存期間は80年 市町村によっては結構長期に保存しているところもあるらしい。
廃棄処分になる前になんとかしたいもの
初代祖之助(仮称)おじさんが生まれた時代までは更に150年昔 たどり着くのは無理かな どうかな
http://pub.ne.jp/naocissus/image/user/1200791361.gif
拡大できますよ。
ところで 日本で初めて新婚旅行をしたのは坂本竜馬というのが定説ですが、その10年前 小松帯刀が霧島温泉旅行をしたということです(最近の南日本新聞)
加治木肝付家兼盛は日新公の娘にし姫を妻にしていますので三州統一以前から島津氏と友好関係でした。
もちろん肝付氏宗家にも日新公の娘御南姫と婚姻していますが。
肝付氏宗家(高山)19代兼護(御南の子)の島津氏に下り祖之助どんがお住まいだった阿多に領地をもらいましたが、兼護が関ヶ原で討ち死にしていますので事実上断絶しています。
20代兼幸は溺死しています。
話しに聞くところによると、喜入氏の殿様は もともと喜入郷(今の喜入町)に居たが、太閤検地のあった1580年頃、喜入郷には大隈の肝付氏が入ったので、喜入氏は鹿籠郷に移ったらしい 喜入氏初代の殿様は喜入季久さん
喜入氏はもともと島津氏 喜入氏に改姓したのは15代当主島津貴久さんより 一門家以外の島津氏は 所領地名を名乗るようにとの下命があったからとのこと
指宿菜の花館スタートゴールの20km少々です ほかにも40 30 25 10 5kmコースがあるようです
枕崎のウォーキング大会は1月下旬に塩浜グランド発着の5kmコースがあるようですが、ちょっと物足りないかな
そこで提案
塩浜G→平角→山口→ととぼいの馬頭観音→二宮製茶→ハイノキド(チェックポイント兼給水所)→ドッコッ→
如何ですかね
悪妻に誘われるままに 指宿菜の花マーチ(ウォーキング)に参加 篤姫コースを回った
篤姫さんの実家は指宿市の国道226号線沿いにある島津今和泉家 今は今和泉小学校になっていた
墓地にもお参りし 父ちゃんの島津忠剛(ただたけ)さんに「でかしたぞ! 立派な子を生んでくれて 薩摩の誇りじゃ」と言ってきました
すがすがしい1日でした 頭も久しぶりに使いました
夜はダイヤメがうんまかった
薩摩警視に茨城巡査。
無賃乗車の代名詞によく使われますが、薩摩とは一切関係ありません。
なんで薩摩守(さつまのかみ)が付いたかというと、兄平清盛から薩摩の国司に任じられましたが、一回も赴いたことはありません。
私の冠称で、薩摩の皆さまが不愉快な思いをしているのではないかと恐縮しています。
薩摩藩の財政改革者 調所広郷さんの借金踏倒しほどは大胆ではないですが.....
そのうち出すよ。
と言いながら、むなしい日々。
木口屋にもマサヨシさんはいましたが立派な方でした。
慰めあっても空しい限り
2、北条政子(頼朝さんのウッカタ: 夫亡き後 実家北条(平家」)の為に実子まで死に追いやった。 しかし御家人衆をよく束ねたとの評価もある)
3、日野富子(足利政義さんのウッカタ: 賄賂のかたまり 贅の限りを尽くした。これもダンナが遊興に走ってホがなかったのかな。 しかしこの賄賂 幕政の財源に寄与したとの評価もある)
歴史は女が動かす
家は女次第
ホのない無力な男より
守護職→守護大名→戦国大名→(江戸時代の)大名→華族→島津興業?
これだけ長期間、同じ場所で名前を維持できたのは珍しいのかと思います。
木口屋の名前も残したいですね。
(1後の467)
1336年鎌倉kkが倒産したので室町kkの傘下に入ったが、これも1367頃より弱体化し 老舗の小会社では社長が解任されたり、ベンチャー企業の進出など混迷が100年余り続いた。
老舗の島津kkもこの頃オーナー一族で覇権争いがあり勝久社長も苦慮していたが、伊作支店長の忠良さんを取締役相談役に起用 その子貴久さんが社長に就任した。貴久さんの子義久社長のときは事業を九州のほぼ全域に展開した。
その後大阪東京の大資本の企業の軋轢を受けたが、堅実経営で業績はよかった。(島津にバカ社長無し) メガ企業徳川kkの衰退時期には篤姫さんを徳川社長夫人にし、西郷係長と大久保係長を派遣し円満に会社清算手続きをし 明治kk設立の立役者となった
今の島津宗家は伊作支店長の忠良さんの流れ 鎌倉時代より今に残る大名家は数少ない(殆どは戦国乱世の時代に衰退消滅) 大したもんだ
今から約40年前 今は亡きキグッヂャの大先輩達が、私達3家族の出自を確認するため阿多地区、金峰町役場へ調査にいったが、手ががりはつかめなかったということである。
忘れられた存在になっていたかと思うと残念である。
おそらく犬のトラブルで出て行った我々との関わりを隠していて後世に伝えられなかったのではないか
憎っくき天下の悪法 生類憐みの令 いい加減な法律つくらないでね綱吉さん
また機会があったら再調査してくいやいな~
ふむ。
木口屋の民衆は阿多出身であるか。
阿多・田布施・加世田・永吉・伊集院など我が父日新公ゆかりの土地なのじゃ。
我が父日新公は伊作家と言う分家の一つにすぎなかったが、ワシを島津宗家15代目として継がせたのじゃ。
いにしえの道を聞いても唱えへも
わが行いにせずばかひなし
私が阿多で暮らしていた1700年頃の島津の殿様は貴久さんより5代下り 20代当主の綱貴さん 江戸の殿様は犬の綱吉さん
間もなく犬事件でやむなく阿多を離れ 今のキグッヂャに来たが当時は未開の山ん中で 隣の金山が金鉱採掘を始めたころじゃった。 たまに金山関係者がキグッヂャにも金鉱石がないか調べに来ちょった。
いま思えばなつかしか
似顔絵もよくできています。
ただ、文章はマウスで範囲指定しないと表示されません。改造よろしく
おお!
我が治世から450年後にはこのように紹介されているのじゃな。
ふむ。
木口屋隆明とやら。褒めてとらす。苦しゅうない。
さらばじゃ!