気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

感動するシベリアポーランド孤児の救済・・・・・・人道の港 敦賀ムゼウム

2011-05-18 12:06:23 | 気ままな旅

 2011年5月4日(水) 緑の日 福井県敦賀を妻と二人でマイカーで訪れ、すぐに 日本三大木造鳥居(重要文化財)のある気比神宮の参拝と見学をすました。  見学を終えた後、近くにある敦賀港に隣接する金崎緑地を訪れる。 緑地の中には芝生広場があり、子供連れの若い家族がボール遊びなどを楽しんでいる微笑ましい光景が見えている。  緑地の入り口には、昔の灯台をイメージしたような時計台があり、港には巡視船が停泊し、ここが古くから栄えている港町の情緒を感じさしてくれる。 

 

                   敦賀港に面した所にある金崎緑地、中央の昔の灯台のような建物が時計台である。

 緑地の東側には、赤レンガの倉庫群が見え、この街の近代国家に一躍を担っていたイメージが伝わってくる。  赤レンガから道路を挟んで 急こう配の屋根をもつ洋風つくりの建物が見えている。 この建物が 「人道の港 敦賀ムゼウム」 で6000人の命のピザを発給した杉原千畝氏に因んだ資料などの展示施設がある。

 私は2年程前に、杉原千畝氏の生まれ故郷である岐阜県八百津町を訪れ、そこに建つ 「人道の丘」 資料館を見学、大きな感動が湧いてきたことを鮮明に覚えている。 その時から、福井県敦賀にも同じような資料館があることを記憶していて、機会があれば是非、行ってみたいと思っていた。  

赤レンガ倉庫、1905年に外国人の設計によって造られた倉庫は、現在港町敦賀の象徴的な建築物として存在感を表している。 

「人道の港 敦賀ムゼウム」 ポーランド孤児・ユダヤ人難民の敦賀上陸を紹介、命のピザなどの写真や資料などを展示している。

 私たちは、家族連れの人達が楽しむ緑地を横切るようにして「人道の港 敦賀ムゼウム」 に向かって行く。 資料館は2階にあり、階段の壁には、ユダヤ難民たちが通行したヨーロッパからのシベリア鉄道と日本への航路がわかりやすく表示されている。  2階に上がると ポーランド孤児と杉原千畝氏の功績を称えた資料室に分かれ、その横には映像室があり、数人の人達が熱心に映像を見ている。  最初、私はポーランド孤児も杉原千畝氏の功績であると思っていたが、これは全く違う話であった。 私はポーランド孤児の話は恥ずかしながら知らなかった。 ポーランドの人達が親日的であることは知っていても理由は知らなかった。

ポーランド孤児たちの展示室

孤児の救済に努めた救済会のアンナ・ビルケウイッチ女史

 1919年(大正8年) このころは ロシア国内において革命、反革命の勢力が争う内戦状態が続き激しさをましていた。 この時シベリアには、ロシアに祖国を滅ぼされたポーランドの政治犯や、愛国者の家族、内戦の混乱を逃れてきた人達が15万人~20万人いたといわれている。  彼らは過酷な重労働、飢餓や疾病の中で極めて悲惨な生活を送っていた。 特に親と死別した子供たちは、お腹を空かし、身を寄せる場所さえなく、 まさにこの世の地獄な様な極限状態であった。

 こんな孤児たちの状況の中で、大正8年10月 アンナ・ビルケウイッチ女史を中心に ウラジオストクで 「波瀾児童救済会」 が組織される。 アンナ女史達は、孤児たちの受け入れを頼みとしていたヨーロッパ諸国や米国などの赤十字も、軍隊の撤退とともに本国へ引き揚げ、 受け入れや援助が断ち切れてしまった。 

 万策尽きた救済会は、最後の望みを託して日本政府に孤児たちの窮状を訴え、受け入れや援助を要請する。 要請を受けた日本政府は、孤児たちの窮状に、深い理解と同情を示して、16日間という信じられないようなスピードで受け入れを決定し、日本赤十字に指示する。 日赤の行動も早く、受け入れ体制を整えると、シベリア派遣の日本軍の協力を取付け、本格的な救助活動に入っていく。

            

                               孤児たちを乗せた船が出航したウラジオストク港

             

            孤児たちを輸送した筑前丸

                  

                  孤児たちを乗せた筑前丸が入港した敦賀港

 1920年 (大正9年)7月 ロシアのウラジオストクからポーランド孤児たちを乗せた日本陸軍の輸送船 「筑前丸」が敦賀港に入港。  下船した孤児たちは、粗末な服を着て、哀れなほど痩せ細って青白い顔をしていた。 

子供たちは敦賀町内の小学校で疲れた体を休め、そして昼食を摂った後、列車で東京へ向かって行く。 

敦賀に入国して、孤児たちの姿を見た多くの日本人は、同情を寄せ、子供たちに愛情のこもった暖かい救済をはじめていく。

               

           敦賀でのポーランド孤児たち

 9歳の時に上陸したポーランド・ワルシャワ在住のハリーナ・ノビッカさん(故人)は、孤児だったシベリアから来日して 「到着した敦賀の美しい花園のある民家、バナナやみかんなど見たことのない果物を食べ、日本の子供たちと一緒に遊んだ」 と語っている。

敦賀から東京、大阪へ 大正9年~10年に収容された第1次の孤児たち375名は、東京都渋谷にある「福田会育児所」に収容される。 福田会は日本赤十字本社病院に隣接し、設備も整い、構内には運動場や庭園があり、子供たちを収容するのに適した環境であった。 また、大正11年に、さらに助け出された第2次の388名には、大阪府天王寺村(現大阪市立大学附属病院)の 「大阪市公民病院看護寄宿舎」が用意される。 この寄宿舎は、新築2階建てで未使用のため清潔で、庭園も広く環境の整った所であった。

  その時、孤児の上陸に当たり敦賀の人達は、鉄道省に優遇処置を申請、お菓子、玩具、絵葉書などを差し入れ、宿泊、休憩所などの施設を提供。 地元の有志をはじめ、婦人会でも菓子や果物などを差し入れて子供たちを慰めている。 敦賀での滞在期間は、数時間、長くても1日というものであったが、当時の敦賀の人達は、出来る限りの温かい手を孤児たちに差しのべている。               

    

     日本に到着してきたポーランド孤児たち

 収容された孤児たちの多くは、栄養不良で痩せ細り、青白い顔色をして下腹がふくれ、歩いてもフラフラする状態であった。 また、子供たちの多くは腸チフス、感冒、百日咳などの病気であったため、すぐに治療が施される。 さらに長い放浪のため、着ている物はボロボロで、靴を履いている子供はほとんどいなかった。 そこで 日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や果物などを支給している。

 収容先では、子供たちを慰めるため慰安会が開かれ、動物園や博物館へも行って楽しく過ごしている。 また、貞明皇后から御下賜金が届けられ、全国から多数の寄付金が寄せられた。子供たちはよく規則を守り、朝食と就寝前には、お祈りを欠かさなかった。 また、病院では、すぐに充分な治療が受けられるように病室も準備していた。 安全を確保するため警察官も配備するなど子供たちの周りには、善意があふれていた。   

  孤児たちを優しく介護する日赤病院の看護婦

「看護婦さんは、病気の私の頭を優しく撫で、キスをしてくれました。 それまで人に優しくされたことがありませんでした」

  子供たちの日本での生活は規則正しく、 朝は6時(冬季は7時)に起床、洗面をすませ、お祈りをして、7時から朝食を摂る。 その後は読書や勉強をしたり、寄贈されたおもちゃで遊んだりして過ごしていた。 午後からは自由に過ごし、6時に夕食を、午後8時にはお祈りして就寝する毎日でした。  時には市内を見学したり、色々な慰安会に出席したりして楽しく過ごしている。 食事は子供たちの好みと栄養を考え、一緒に来日した付添人が調理をしていた。

    

                                      食事をする孤児たち

 日本での生活にも慣れ、落ち着きを取り戻しつつあった日々に、悲しい出来事が発生する。 一生懸命に孤児たちの世話をしていた看護婦の松澤フミさんが、孤児から発生した腸チフスに感染し、23歳の若さで殉職する。 彼女の死は多くの子供たち、そして関係者に衝撃を与える。 事情を知らない幼子は、優しかった松澤看護婦の名前を呼び続け、まわりの人達の涙を誘った。 彼女には大正10年にポーランド国から赤十字賞、また昭和4年には名誉賞が贈られている。  

神戸港から帰国のため乗船する孤児たち

 とうとう孤児たちとの別れの日がやってきた。  出港の当日、船のデッキに孤児たちが並び、「君が代」 「ポーランド国歌」を涙ながら歌いました。

 横浜港でも、神戸港からでも出港する際には、孤児たちの楽しみが少しでも増えるようにバナナやお菓子が配られた。しかし孤児たちはみな、親身になって世話をしてくれた日本の ”お母さん” たちとの別れを悲しみ、乗船するのを嫌がって泣きだす子もいました。

 元孤児のハリーナ・ノヴェッカは、日本を去る時のことを、 「 誰もがこの日本にいることを望んでいました。 太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に・・・・・」 と回想している。

 両国の旗と赤十字旗を千切れんばかりに打ち振り、「アリガトウ」「サヨナラ」と叫び続け、その声はいつまでも鳴りやむことはなかった。それから孤児たちは、日本で覚えた歌を元気よく歌った。 幼いながら精いっぱい感謝の気持ちを表そうとする姿は、見送る人々の涙を誘った。 そして、見送る人も見送られる子供たちの顔にも、別れを惜しむ涙が溢れ、とどまることがなかった。

 第1次の孤児たちは、横浜から6回にわたり、諏訪丸で150名、香取丸で114名、伏見丸で106名の合計370名がアメリカを経由して、ポーランドへ送られる。 また、大阪に収容されていた第2次の孤児たちは、神戸から2階にわたり、香取丸で191名、熱田丸で199名の合計390名がシンガポール、マルセイユ、ロンドンなどを寄港してポーランドへ送られる。

無事に祖国ポーランドに帰った孤児たちの多くは、バルト海の港湾都市グダンスク郊外の孤児院に収容されて、それぞれの人生を歩みはじめた。 しかし、新生ポーランドの前途は多難であったが、孤児たちは終生、日本への感謝の気持ちを持ち続け、様々な形でそれを表している。

 私は、今回、ポーランド孤児たちのことに触れ、大きな感動が湧いてくる。 日本が数々の国際貢献の中でも、こんなに大きな感動が伝わってくる話を、久しぶりに味わうことができた。 皇后陛下から一般の庶民に至るまで、全ての国民が孤児たちを応援している当時の姿が目に浮かび、日本って、なんて誇らしい民族だろうと思え、うれしくなってくる。

 紀州沖で沈没したトルコ艦船や、命のピザなど、日本人が果たしてきたことにも、大きな感動を味あわせて頂いた。 日本人の持つ特性を改めて感じると共に、東日本大震災の発生した今日、外国からの多くの援助や声援が数多く届いてることも、こうした世界への日本の貢献が認められている。 その成果であるように感じる。 支援して頂いた国や機関・有志の方々には、ほんとにありがたく感謝の気持ちが必然的に湧き、日本人に生まれてほんとに良かったと思えてくる。 

 

 

 


けいさんの愛称で親しまれる 「気比(けひ)神宮」・・・・北陸道の総鎮守

2011-05-15 13:59:06 | 気ままな旅

 2011年5月4日(緑の日) 晴れ 今日は妻と二人、急に思い立って気ままな旅に出ることにした。 道路情報などを参考にしながら福井県敦賀市などのある若狭地方に行くことにした。 午前10時頃に南大阪にある自宅を出発する。

 最近、ネットビジネスを始めたり、妻もパートに出かけたりして、今までのような気ままな旅が出来ない。 ゴールデンウイークは、外出する人が多いのか、ネットでの注文も少なく、妻のパートも休みの為、2泊3日の予定での気ままな車中泊の旅である。

 自宅を出発して自宅近くのICから阪和自動車道に入り、近畿道門真JCTから昨年開通した、第二京阪道路を走行して、京滋バイパスへ入る。  京滋バイパスから名神高速道路瀬田JCTに入る予定で走行していたところ、京滋バイパスが、入り口から大渋滞、抜けるのに1時間30分程の時間を要した。

 米原JCTからの北陸道は、順調に流れ、敦賀ICに降り立ったのは午後3時近くであった。  敦賀ICからは5分ほどの気比(けひ)神宮に行くことに決め、神宮駐車場に到着する。 

  気比神宮の隣りにある駐車場から、 妻と二人で歩いて行くと、目の前に大きな鳥居が私たちを迎えてくれる。               

   高さ11mの大鳥居(重要文化財)は、春日大社(奈良県)・厳島神社(広島県)と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つである。                 

気比神宮入り口に掲げられている大鳥居の案内板

  気比神宮は、北陸道総鎮守で、地元の敦賀では、市民から 「けいさん」 の愛称で親しまれるている神宮である。 大宝2年(702年=飛鳥時代)の建立と伝えられている。

 御祭神は、伊奢沙別命(いささわけのみこと)、 仲哀(ちゅうあい)天皇、神功(しんこう)皇后、 日本武尊(やまとたけるのみこと)、 應神(おおしん)天皇 、玉妃命(たまひめのみこと)、 武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)である。

 ※ 仲哀天皇=14代天皇(在位178年~200年)で、日本武尊を父に、妻の神功皇后との間に出来た皇子が 應神天皇(在位=270年~310年)である。 應神天皇の皇子が仁徳天皇(在位=313年~399年)である。

 神話によると、敦賀の地は北陸道や日本海への海上交通の要地であることから、、ケヒ神は古くから北陸道総鎮守として仰がれた。また、仲哀天皇即位の時期は朝鮮と緊張状態にあり、天皇は192年に即位してすぐに当社を参拝している。三韓征伐(高句麗、新羅、百済)の前、神功皇后が武内宿禰・玉妃命とともに当社に祈願し、このとき気比大神が玉妃命に神がかりして皇后の勝利を予言したとされている。                 

 鳥居をくぐり参道を進むと、左側に、猿田彦神社の鳥居が見え、石でできた参道が10mほど続き、左側に猿ロ彦神社の祠が見えてくる。

 

 気比神社の境内にある猿田彦神社。猿田彦大神を祀っており、気比大神を案内するミサキ神である。                  

 

猿田彦神社から大鳥居のある表参道を、拝殿に向かって行くと左側に長命水がある。 往古よりこんこんと湧き出て無病息災・延命長寿に欠かせない生命(いのち)の水として親しまれている。 西暦702(大宝2)年のこと。 氣比神宮の造営中に突然、一つの水場が涌きだした。 神宮の大岩から流れ落ちる 『長命水』 は、そのようにして始まったと伝えられている。 由来は定かではないが、御祭神が無病息災や延命長寿の神であることから、その名前がつけられたといわれている。                                    

表参道をさらに進んでいくと左側に手水舎、右側では社務所の新築工事が行われている。 さらに進むと左側に朱色の中鳥居かあり、その奥には気比神社本宮拝殿が優雅な姿を見せている。                                          

  朱色で塗られた中鳥居から、朱色の柱と白い壁、銅板でできた屋根がうまく調和して、美しい姿を見せている気比神宮本宮社殿

境内には砂利が敷かれているが伽藍と伽藍を結ぶ参道には石が敷かれ、調和のとれた朱色の美しい社殿を見せている本宮社殿

気比神宮は昭和20年の米軍の大空襲により、大鳥居を残してほとんどが焼失、昭和25年には本宮が再建されている。

四社の宮も昭和58年に復興された。

きらびやかな拝殿の天井と屋根 

                  きらびやかに細かく細工された本宮拝殿の天井部分

気比神社の摂社である九社の宮と、正面の奥にある豊受大神を祀る神明社

境内にある奥の細道の道中に立ち寄った松尾芭蕉の像

 俳人芭蕉は、1689年(元禄2年=江戸時代)8月に旅の途中に敦賀の地を訪れている。 敦賀では3日間の滞在であったが、芭蕉の旅の目的が月を見ることも愉しみの一つで、とりわけ敦賀では仲秋の名月を楽しみにしていたといわれている。

 芭蕉が敦賀を訪れた日に詠んだ句

   8月14日   気比神宮に夜参して

                               「月清し遊行の もてる砂の上」

  8月15日 、亭主の詞にたがわず、雨降

                               「名月や北国日和 定なき」    

  8月16日  敦賀湾 色の浜

                               「寂しさや須磨に かちたる濱の秋」

                               「浪の間や小唄に まじる萩の塵」

   芭蕉は、上記の他に敦賀では、他に4句ほど詠んだと伝えられている。

  芭蕉の像の前を通り、まっすぐ進むと、右側には池があり、正面には神水苑の建物が見えている。

                  

神水苑の上に建つ会館、豊富に湧き出る水を利用して、江戸時代には名池が誕生。 昭和では大規模な神水苑築造がなされた。

神水苑に注ぐ滝と池、敦賀の地は古くから良質の水が豊富に湧出ている。 中でも気比神宮の神域はその水脈の中心と伝えられている。

亀の池、池と池の間には石橋が架けられ、南参道の入り口になっている。

私たちは気比神宮の見学と参拝を終えた後、元来た正門にある大鳥居をくぐって外に出ると、

道路の向こう側に立っている像が見え、何だろうかと思い、立ち寄ってみる。

お砂持ちと言われれ、参道などを整備するために砂を運ぶ人達の像

 

この像は、「お砂持ち」 といわれる像で、下記のような云われがある。

この銅像は、時宗西方寺(同市松島町2丁目)の開祖・真教上人が約7百年前、当時の気比社と同寺の間の

参道が沼地化し往来が難渋したのを、信者とともに浜から砂を運んで道を整備した故事を再現したものです。

芭蕉が敦賀に泊まり、気気比神宮に参詣したとき宿の主人からこの話を聞いて詠んだ句が、

    月清し 遊行のもてる 砂の上      

                                               の句である。

上空から敦賀湾と市街を望む航空写真

私たちは、気比神宮と像の見学を終えた後、駐車場に戻り、近くにある6000人のユダヤ人の命を救った

外交官杉原千畝の記念館のある港の方に向かって行った。

敦賀の気比神宮は、近くを何度か車で通り過ぎたことは覚えているが、神宮の中に入るのは初めてであった。

木の大鳥居や神宮の歴史の深さには、驚かされる面も多い神宮であるが、

改めて、朝鮮半島の百済や新羅などや大陸とのつながりの深さを感じてくる。

この時代は、古事記、日本書紀や神話などに登場するがミステリーの部分を多く感じる時代でもあった。

敦賀もこの時代から、皇族とのつながりも深く、都との距離も比較的に近いことから、朝鮮半島との日本海交通の要所であったようである。

この時代は、山陰の出雲もそうであったが、日本海地域が太平洋地域よりも時代の先端をになっていたように感じる旅であった。

 


熊野三山からの帰路と参拝に立ち寄った吉野神宮

2011-03-21 17:38:12 | 気ままな旅

 平成23年1月10日(月)成人の日 今朝は那智勝浦港内にある駐車場で車中泊をしていた。 その後に熊野速玉大社、神倉神社、熊野那智大社、熊野本宮大社に参拝して、明日の新年挨拶回り地に近い吉野神宮方面に向かって行った。

熊野本宮大社を出発した頃には日も沈み、薄暗くなっている。 一旦、新宮方面に戻った後、国道169号を吉野方面に走行、30分ほど経過した頃、奥深い山中で土砂崩れによる通行止めの看板が出ている。

 真っ黒な闇の中での通行止めに動揺するが、カーナビの案内に従って、暗闇の山中の細い道路を40分ほど走行すると、目指していた国道169号に出ることができ、安堵な気持ちになってほっとする。                           

    R169は、山間部にありながら、道路幅も広く、今までの道路と比較すると大変走りやすかった。 

時間も7時を回り、入浴施設がないかと思っていたところ、目の前に大きな温泉の看板が見え、進んでいくと、公園の中に素晴らしいイルミネーション見えてくる。 こんな山の中に設置されている素晴らしに驚きと感動が湧き上がってくる           

              

               下北山村のイルミネーション

山中にできたイルミネーションを楽しみながら進んで行くとすぐに温泉駐車場に到着する。

ここからは三重県尾鷲市や熊野市まで30分~40分位の距離にある。この温泉は下北山温泉「きなりの湯」で、比較的新しい施設である。

温泉も、体がよく温まり、自然石や地元木材を利用した湯や露天風呂もあり、十分に満喫できる素晴らしい温泉であった。

また、スタッフの愛想もよく、温泉の質の良さと共に私たちを満足さしてくれる。

温泉を楽しんだ後、元の国道169号に戻り、しばらく走行して行くと、道路脇に白い残雪が目に入ってくる。 幸いにして車道に雪はないが、橋の上などの所々に残雪があり、細心の注意をはらいながら走行して行く。

 時間も9時近くになっていて気温も相当下がっているように感じてくる。

当初は手前にある道の駅での車中泊を考えていたが、まだまだ登りが続き、気温も低下、明日の行動予定から峠を越えた所にある道の駅まで行くことにして走行して行く。

40分ほど走行すると車中泊の予定地である道の駅 杉の湯川上に到着する。 時間も10時近く、着いてすぐに遅い夕食を摂った。

疲れた体と、妻と傾ける杯の美味しさで、酔いのまわるのも早く、夕食後は車中のベットに横になるとすぐに深い眠りについてしまった。

1月11日(火)吉野の山に囲まれた道の駅「杉の湯川上」での車中泊、気温が随分下がっているように感じるが、防寒用シートを二重にして全ガラス面に張り付け、カーテンを施している為か、寒さを感じずに熟睡することができた。

車外に出ると道路の窪みに出来た水溜りが凍りつき、周りの山々には残雪が見えている。

どうやら 今朝の気温はマイナス3℃~5℃位に思われる。 コーヒーを沸かす準備をしている手が凍りつきそうであった。 

 ここ川上村は、日本三大美林の1つ・吉野杉の生産地で、豊かな自然に恵まれた所で、近くには、大台ヶ原や大杉谷の景勝地がある。

また、南北朝時代には後南朝の中心地だったところで、多くの旧跡がかつての悲劇を今に伝えている。

               

              凍てつくような寒さの道の駅 「杉の湯川上」近辺

昼食を終えた後、私たちは国道169号を直進して40分程で吉野神宮に到着する。 吉野神宮には機会があれば毎年のように訪れ参拝している。

今年も客先への新年挨拶回りの前に参拝する。 服装も車中で着替え、旅行姿から妻と共に正装しての参拝である。

              

              京都に向かって北向きに建てられている吉野神宮

南朝後村上天皇は、父の後醍醐天皇が崩御した後、その像を吉水院に安置した。 その後も供養が行われていたが、明治の神仏分離により吉水神社に改称して後醍醐天皇を祭神としている。

明治22年には、後醍醐天皇を祀る官幣中社吉野宮の創建が、明治天皇の意向で明治25年)に社殿が竣工、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行され、大正7年に吉野神宮に改称された。

              

                手水舎から本殿方面を見る

             

本殿・拝殿・神門はかつて後醍醐天皇が京都の御所への帰還を、熱望されていた心情を汲んで、京都の方角を向き、北向きに建てられた、総造、近代神社建築代表とされている。

2010年、本殿、祝詞舎及び楽舎、神庫、拝殿、廻廊、神門、神符授与所、東門、などの22件が国の登録有形文化財に登録されている。

              

               吉野神宮本殿方面を望む               

               

                拝殿から本殿を望む   

神社境内の周りには、残雪が残り凍てつくような寒さであったが、心身を清め、志を新たにして参拝することができた。

参拝後は30分程先にある客先への新年の挨拶回りに向かって行った。            


紀伊熊野三山(速玉・那智・本宮大社)への参拝の旅

2011-02-27 17:55:39 | 気ままな旅

平成23年1月10日(月)成人の日 今朝は那智勝浦港内にある駐車場で車中泊をしていた。

 空は青く晴れ渡った快晴の天気で、気温は沖合の太平洋を暖かい黒潮が流れている影響か、真冬を感じさせないような暖かさである。

 車中泊をした車内も、窓ガラス全面に防寒用のパネルを張り付けている為にか、寒さを全く感じることなく熟睡することができた。

 朝食を済ました後、那智勝浦港を後にして、新宮方面に向かって行く。

 当初は那智大社に参拝して、速玉大社に行く予定であったが、国道42号を那智の滝方面へ左折する道路の前に、新しい道の駅の販売所が開店、そちらに目をそらし、どんなものを販売しているのか、急に興味が湧き、立ち寄って、間違ってしまった。  

 販売所を見学した後、本来は左に行くべきところを、右の新宮方面に行ってしまった。  途中で気がついたが距離的には近いことから先に熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)に参拝することにして、そのまま国道42号を走行して行く。  走行してしばらくすると速玉大社駐車場に到着する。

 速玉大社ほど、朱色に塗られたきらびやかな美しい神社は少ない。  速玉大社を初めて訪れた方は、建築様式と色彩・自然との調和のとれた荘厳さと、その美しさと圧倒される。 私たちは駐車場からゆっくりと拝殿に向かって行く。

熊野速玉大社は、熊野川の河口付近に鎮座している。 もとは神倉山に祀られていたが景行天皇の時代(紀元前13年~130年=第12代天皇)に現在の場所に移され(?)、神倉山の古宮に対して新宮と呼ばれるようになった。 鮮やかな朱塗りの社殿には、12の神が祀られている。

                    

                  鳥居も朱塗りで統一されている熊野速玉大社入り口門(神門)

 今回の旅の目的は、熊野三山(くまのさんざん)への初詣である。 

 熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社をまとめた総称である。 

 2004年に 「紀伊山地の霊場と参詣道」 として世界遺産に登録されている。 ここでいう紀伊山地の霊場とは、熊野三山であり、 参拝道が熊野古道で、京都や奈良、大阪方面と伊勢方面など5つのルートがある。

 古代から中世にかけ本宮・新宮・那智の熊野三山の信仰がたかまり、上皇・貴族から庶民に至るまで、多くの人々が熊野に参詣している。 その当時の旅は、人影の少ない長く険しい山道を越えるだけでなく、たとえ寒い早朝であっても水垢離(みずごり)をして心身を浄めながら、ひたすら熊野の神々や仏の救いを心に念じて熊野三山へと歩みを進める、祈りの道であった。

                      

      2004年世界遺産登録を記念して造られた曼荼羅、速玉神社を中心に素晴らしい聖地世界を表している。

                    

              鮮やかな朱塗りの建築様式と美しさを誇る熊野速玉大社の境内・左が拝殿

 社殿は、上記写真の左より、速玉大社(はやたまたいしゃ)、夫須美神(ふすみのかみ)、家都美御子神(けつみみこのかみ)、天照大神(あまてらすおおのかみ)を祀る上三殿と中四殿、下四殿で構成されている。 元々は背後の権現山の南端にあるコトビキ岩の神倉神社が古代の斎地であったが、奈良時代に現在の位置に移され(?)、そのために「新宮」と呼ばれるようになった。

 正月三が日を過ぎているのか、参拝客は、そんなにも多くはないが、和服姿の女性たちが参拝に訪れている姿は印象的であった。

                       

                    

                            本殿の参拝に向かう和服の女性

 速玉大社の見学や参拝を終えた後、私たちは同じ新宮市内で、車で5分ぐらいの所にある神倉神社に向かった。

 神倉神社へは今回が初めてで、TV等で放映される度に一度行って見たいと前々から思っていた。 神倉神社は距離的にはすぐ近くにあるが、道中の道が狭く、迷ってしまったが無事に駐車場に到着する。

                    

                          山の中腹のコトブキ岩に建つ神倉山神社

 駐車場の前の道路に出ると、赤い欄干の架かった橋があり、奥の森には、赤い鳥居が建てられた猿田彦神社が見えている。

 神倉神社は、熊野三山(速玉・那智・本宮)の主神が降り立ったという熊野信仰の聖地で、熊野速玉神社の摂社でもある。 

 神社は権現山(神倉山)の中腹に、高倉下命(たかくらのみこと)を祀る小さな社殿と裏側にそびえるコトビキ岩がある。  

 熊野の方言でヒキガエルを意味するこの巨岩は、古代から神の盤座として崇拝され、熊野神は、初め、この岩に降臨したとされている。                       

                   

  長く続く急こう配の石段が第一に私たちを迎えてくれる。 この石段は源頼朝の寄進と言われ、山麓から社殿まで583段続いている。

                   

  麓の赤い鳥居から急傾斜の石段が続く、上りは、まだしも、下りは、手すりもなく、横向きで、一段一段降りないと怖くて降りられなかった。 15分ほど登ると参拝道も緩やかになり、大木の生い茂る中をゆっくりと進んで行くと、ご覧のような赤い鳥居と、赤い木柵に囲まれた境内に出てくる。                

                  

           赤い鳥居をくぐり100mほど進むと神倉神社の建つコトビキ岩にでてくる。

                  

       神倉神社社殿と奥に聳えるゴトビキ岩(カエルの姿に似ていることから名づけられた)

                 

     神倉神社から新宮市内がごらんのように 真青に晴れ渡った空のもと、新宮市街地や広々とした熊野灘が一望できる。

私たちは神倉神社の見学と参拝を終えた後、急こう配の石段を半歩半歩ゆっくりと下って行った。 この急こう配の石段は登りよりも、下りの方がはるかに怖い、足を踏み外せば、真っ先に何十メートル落下しそうである。 高所恐怖症の方は大変である。 

 駐車場に帰ったあと、国道42号を勝浦方面に戻り、那智山方面に走行して行くと、30分ほどで那智大社駐車場に到着する。

                 

                    右側に滝が描かれ 那智山伽藍の配置図

 何度も訪れている那智大社であるが、何度訪れても安らぎを感じさしてくれる那智山、急斜面に建てられた伽藍や参道の石段、奥深い森から流れ落ちる大きな滝と三重塔など、ここでしか味わえない大きなポイントが幾つかあり、その一つ一つが、心に安らぎを感じさしてくれる!  

 古の世界で上皇や多くの人たちが訪れた信仰の深さが伝わってきそうである。

 那智山は、平安末期から鎌倉時代、現生浄土を求めて多くの参拝者が訪れた熊野信仰の聖地である。

                 

 熊野那智大社の境内から社殿を観る。江戸時代に大改修された権現造りの社殿で、日本で最初の女神、夫須美大神を主神に12柱の神々を祀っている。                

                 

              那智大社の境内から観る  那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ) 

 那智山青岸渡寺は西国観音霊場第一番札所である。 

 古くは熊野那智大社と一体の霊場だったが、明治の神仏分離で寺と神社に分けられた。

 元の建物は織田信長の焼打ちにあい、現在の本堂は豊臣秀吉が再建したもので、屋根には寺としては珍しい豊臣家の家紋がみられる。 

                 

 美しい三重塔と那智の滝ツーショットは絶好の撮影スポットで、ここを訪れる人は必ずといっていいほどカメラにおさめる景観である。

 那智山の見学や参拝を終えた後、私たちは熊野本宮大社に向かって行った。 道を間違えたりして予定時間より1時間ほど遅れている。

暗くなってからでは参拝はできず、明日は奈良吉野方面に行って初業務の新年の挨拶回りを予定している。 急がねばならなかった。

那智山を出発して部分開通している那智勝浦道路を新宮まで行って、風光明媚で熊野川沿いに出来た国道168号を北上して行く。

16時過ぎには熊野本宮大社に到着し、どうにか参拝が出来そうであった。

              

      多くの参拝者が訪れる熊野信仰の総本宮 「熊野本宮大社」の入り口(総門)

 沈みかけた夕陽もささなず、巨木に囲まれた薄暗い参道を本殿に向かって進んで行く。この時間帯でも多くの参拝者が訪れている。

  本宮大社は、熊野三山の中心として多くの人があこがれて訪れた熊野詣での聖地で、全国3000を超える熊野神社の総本社である。

               

                         本宮内陣への門

               

熊野造りの社殿が堂々と建ち並び 需要文化財に指定されている熊野本宮大社殿、奥には屋根の檜皮葺き替え工事が進められている。

 

               

     本宮大社の本殿南前の神社。両サイドには三山のシンボルである「やたがらす」図が入った幟が立てられている。

 熊野本宮大社の参拝を明るいうちにどうにか終えることが出来た私たちは、本宮大社を後にして、明日の予定先で、桜の名所で知られている吉野方面に向かって行った。

 

 


熊野詣でに立ち寄った本州最南端の潮岬と那智勝浦

2011-01-24 13:36:36 | 気ままな旅

  今年の夏ごろより、今度の正月には、九州方面へ気ままな旅に出かけたいと、計画していたが、年末から年始にかけて、日本列島は大荒れの冬型の天気が到来、旅行できる気象ではなく、九州行きは断念せざるを得なかった。
そのために、雪のない南紀方面にと考えていたところ、9日から2~3日は上天気が続くとの予報があって、急遽、妻と相談して出かけることにした。
 平成23年1月9日(日)朝、起床して家の窓から外を見ると、青空が広がり、旅行するには申し分のない天気である。
 午前10時頃、 愛車エステイマで南大阪の自宅を妻と二人で出発する。
 近くにある阪和自動車道上之郷ICから入り、和歌山方面に走行して行く。

 正月休暇で混雑していた阪和自動車道も、車は少なくスムーズに流れている。  阪和自動車道は有田ICまでは片側2車線であったが、有田ICからは道路名も湯浅御坊道路と変わり、片側一車線でシーズンには時々渋滞が発生している。 しばらく走行して御坊南ICまで行くと、そこからは、また、阪和自動道に名称が変わってくる。
 阪和自動車道は、現在、全国的な温泉保養地として有名な、白浜の手前にある南紀田辺ICまで開通している。
 田辺からは一般国道R42号に入って行く。 この道路は多くが風光明媚な海岸線を通過していることから、人気の高いドライブコースである。
 白浜を過ぎた辺りからの国道は、山沿いと海沿いの両方を通っているが、海側に来ると太平洋からの荒波が奇岩や浜辺に白い泡を伴って打ち寄せ、青々とした海と共に美しい景観を見せている。

 途中にある風光明媚で美しい浜辺を有して人気の高い、道の駅「志原海岸」で休憩と買い物をすました後、再び42号を南下して行く。

 すさみを過ぎた辺りからの道路は、ほとんどが海岸線を通過し、自然が造った景観と、太平洋の打ち寄せる白い波が、うまく調和して見事な景観を作り出し、私たちのドライブの楽しさを存分に味わせてくれる。

  愛車はほどなくして串本の中心部から少し手前にある紀伊有田に到着、そこで所用を済ませた後、再び国道42号を南下して行く。

 串本中心部から、私たちは国道42号に別れを告げ、潮岬方面の看板にそって走行して行く。

           

               国道42号からの景観(沖の黒島や戎島)

           

 串本町潮岬のマップ、左の島の様な岬が潮岬、右の島が大島(トルコ記念館や日米修好記念館などがある)  

          

    潮岬へ向かう道中から見た光景、厚い雲間からの太陽光線が海面を照らしている。

          

    白い荒波が打ち寄せる海岸線、その上にある潮岬灯台(左の白い塔)と突き出た半島

 美しい海岸線や、道路脇にある亜熱帯植物の群生を楽しみながら走行して行くと、潮岬観光タワーのある望楼の芝生広場駐車場に到着する。

           

          360度絶景が楽しめる潮岬タワーと広々とした望楼の芝生

 私たちは、駐車場を後にして南にある岬の方に妻と二人で歩行していく。 右側には潮岬タワーが見え、左側には幾ハリかのテントも見え、夏のシーズンには人気がありそうである。

 ここ、潮岬は、太平洋に突き出た串本に属し、本州最南端の町として知られている。 潮岬の沖合には黒潮が流れている為に、年平均気温も17度前後と暖かく、沿岸の海域にはテーブルサンゴの群落が見られている。 また、、カツオをはじめ新鮮な魚介類なども楽しめるエリアでもあり、年間を通じて多くの人達が訪れている。

 芝生広場をさらに進んで行くと、 「本州最南端」 の石碑があり、白い建物の奥には雄大な太平洋が広がり、展望台には数人の人達が、180度広がる太平洋の景観を楽しんでいる。

           

                 潮岬にある本州最南端の碑

           

        数人の人達が訪れている本州最南端の展望台と太平洋の眺望

            

     望楼の芝生広場にある売店では 「本州最南端訪問証明書」 も発行している。

 潮岬望楼の芝生広場からの展望を楽しんだ後、私たちはもときた道をゆっくりと国道42号方面に帰って行く。 串本までの途中には、下記写真のように串本町街を見渡せる絶好の公園があった。 北海道の函館のように街を挟んで左右に海が広がっている。 思わずどんな夜景になるだろうか! と想像したくなってくる。 海の奥には飛び石のように並んでいる橋杭岩が横に整列して並び、美しい海岸の光景を見せている。

           

       串本町街を手前に 飛び石のように横に並び美しい景色を見せている橋杭岩

           

 串本の東岸からむかえにある大島に向かって、大小40余りの奇岩が点々と連なる 橋杭岩(はしくいいわ) 総延長は約850m。

 橋杭岩を見学した後、熊野街道と呼ばれる国道42号に戻り、全国的にも名前が知られている那智勝浦方面に向かって行く。

           

     熊野街道といわれるR42号沿いにはこのような美しい海岸が続いている。

           

      途中の車窓からはこのような特殊な船が熊野灘の湾に浮かんでいる。

 熊野街道と呼ばれる海岸線に沿ってできた国道42号からの景観を楽しみながら走行して行くと、間もなく那智勝浦町に到着する。

 那智勝浦町は、和歌山県内屈指の全国的にも名を知られた海辺の温泉郷である。 風光明媚な勝浦港を囲むようにリアス式の海岸に沿って、大型のホテルが立ち並び、山高くそびえるホテルの回廊と地上をケーブルカーで結び、港内には港とホテルを結ぶ送迎船が行き交っている。 ここからの景観は、まるで別世界のようで、おとぎ話の竜宮を絵にしたように思えてくる。 港の前にあるホテルには太平洋に面する洞窟の温泉があり、人気も高く、那智勝浦の旅情を一層高めている。 勝浦漁港と周辺にある大小の島々は、紀の松島とも呼ばれ、島めぐりの遊覧船も就航している。

 私は過去何度かこのホテルに宿泊しているが、今回は湾内にある駐車場での車中泊を予定している。

 湾内にある駐車場は、道の駅のようによく整備され、場内には数十台のキャンピングカーやワゴン車が、駐車している。 中には北海道ナンバーや、県外ナンバーのキャンピングカーなども多く駐車している。 南国情緒が感じられる温暖な気候の熊野地域は、全国的にも人気が高そうである。

 私たちは一旦この駐車場に立ち寄った後、再び、国道42号線沿いにある湯の川温泉に行って入浴する。 その後は、近くにあるスーパーで夕食の買い物をして、再び漁港内にある駐車場に戻ってくる。  日は沈み、湾内の反対側にある大型の高層ホテルの各階層には点灯が灯り、灯りは海面にも映って、本格的な国際リゾート地、那智勝浦の夜景や旅情をかもしだしている。

 駐車場に帰ってくると直ぐに夕食の準備に取りかかる。 8時ごろからの遅い夕食であったが、妻と二人杯をかたむけながら、今年始まったばかりのNHK大河ドラマ 「 江・・・姫たちの戦国」 をカーナビのTVで楽しむ。 まるで家の茶の間の雰囲気である。

 大河ドラマを楽しんだ後、しばらくして、就寝の準備を進め、 特製のベットに横になると直ぐに眠りに就く。

 寝るときは真冬であってもエンジンは停止状態である。 エンジンを動かした状態では音や振動で安眠することはできない。

 愛車の全ガラス面には防寒用のプラスチックシートを張り、さらにカーテンを施しているために、自宅とあまり変わらない断熱環境にある。

 1月10日(月)(成人の日) 今朝も上天気で、大阪地域と比較して温かく感じる。ホテルと港の間には何隻かの送迎船が波音を立てながら行き交い、前方の山上にあるホテルの上空から、やわらかい太陽光線がさしている。 

 車中泊をしている駐車場内には、長期にわたって宿泊しているのか、数人の人たちが集まって談笑したり、洗濯物を車の周りに干したりしている。 

 昨夜は寒さを全く感じず、むしろ真冬の寝具では、暑いぐらいであったが、ぐっすりと眠ることができた。

            

       風光明媚な那智勝浦町の景観、正面の白くて大きな建物がホテル浦島

            

 車のナンバーは全国的、温暖さを求めてか!多様な車が車中泊をしている勝浦漁港にある駐車場、

 朝起床して洗面を済ますと、直ぐに車の中から携帯コンロを持ち出して湯を沸かす。 その湯でブラジルレギュラーコーヒー(ピロン)をペーパーからドリップして、1ℓの魔法瓶に抽出する。 こうして魔法瓶に入れておくと、何時でも、どこでも、暖かいコーヒーが飲める、特に長時間走行した後に飲むコーヒーは格別な味である。

 それに最近は南アフリカ原産で様々な効能があり、ハーブテイーとして評判の高い ルイボス茶も飲めるように、魔法瓶を二つ用意している。 ルイボス茶は、ノンカフェインで非常に飲みやすく、少し喉が渇いた時などには、ありがたい飲み物である。

 朝食を済ました後、勝浦港内の駐車場周辺をゆっくりと散策した。 綺麗な海に大小さまざまな船が行き交い、周りの景観と共に国際観光都市 「那智勝浦」のイメージをつくりだしている。

              

                勝浦漁港の岸壁と後方のホテル浦島 

            

          駐車場のある漁港内の岸壁から見る那智勝浦町の中心部を望む

            

     那智勝浦の旅情を高めてくれる ホテルと港を結ぶ送迎船 船は亀の形をしている。      

  勝浦漁港の撮影を終えた後、私たちは愛車に戻り、今日の予定である那智大社、速玉大社、熊野本宮大社の参拝を予定、愛車で出かけて行った。

 参拝後は、奈良県の山沿いの道の駅で車中泊をして、明日は吉野神宮に参拝後、近くにある客先への新年の挨拶まわりの予定でる。       

          

           

 

 

 

 


四国山脈の奥深くにある岩屋寺(四国八十八箇所第45番札所)

2010-12-30 16:26:32 | 気ままな旅

 2010年8月6日(金) 横浜に住む友と、私の郷里、土佐の里山に来て、今日で4日目である。 友は晴れわたった天気の朝、鮎釣りを楽しみに、近くを流れる仁淀川に出かけて行った。
 私どもは、私の実家のある佐川町から国道33号を松山方面に北上して、四国山脈の山のふところ深くに囲まれた、四国八十八箇所霊場の岩屋寺に行くことにした。
 国道33号は高知と松山を結ぶ主要国道で、松山街道、土佐街道ともいわれているが、最近は高知自動車道の開通により、長距離定期バスの主役ルートが高速道に変わってきている。
 私どもの佐川町からは、岩屋寺まで約70kmの距離で1時間半ほどの行程である。
 国道33号は四国山脈を横断するように流れ、四国第三の河川である仁淀川に寄り添うように造られた道路である。
 この道路は山沿いの急傾斜地を這うように造られているが、道幅も広くドライブを楽しむにはもってこいのコースである。
 私達も今年の春に購入したトヨタラクテイス(1500cc)で、ドライブを楽しみながら出かけて行った。
 実家を出発してから、坂本竜馬たち脱藩の志士が合流した佐川町赤土トンネル付近を過ぎると、越知町に入る。
 越知町では、こじんまりとした街並みや、支流の桐見川と仁淀川本流が合流し、河幅も一段と広くなっている。
 奥には黒森山(標高1017m)がひと際高く美しい山容を見せている。
 越智町街を過ぎると、急斜面の続く山が両側にせまり、中央に仁淀川を形成、川の法面を這うように国道33号が造られている。
 ドライブを楽しみながら山沿いの町、仁淀川町を通過して、しばらく走行すると大きなダムが見えてくる。
 21年の歳月と780億円をかけて国土交通省が多目的ダムとして造った大渡(おおど)ダムである。
 大渡ダムを過ぎると、まもなく県境を越え愛媛県内に入って行く。
 県境を過ぎてしばらく走行する。 すると、川向こうに川の浸食で出来、軍艦の様な形をした石灰岩の美しい奇岩が見えてくる。
 ここは、仁淀川と面河川(おもごうがわ)の合流地点である。 川の向こうには、こんな奥深い山の中にと思うような近代的な建物が見えている。
 私達は国道33号から別れをつげ、紅葉の渓谷美で知られる面河川方面の県道に入って行く。
 この県道を走行していると岩屋寺の交通案内板があり、20分ほどで周りを全て山で囲まれた岩屋寺駐車場に到着する。
 しかし、駐車場からは、どちらを見てもお寺らしい建物は全く見えてこない。
 お寺はどこにあるのかと、案じていると、山側の道から白いお遍路装束を身にまとった人達が下山してくるのが見えてくる。
 尋ねてみると、岩屋寺は、ここから山道の参道を20分程登った所にあるとのことだった。
 聞くところによると、岩屋寺は、四国八十八箇所の札所のうち、バス、自家用車等を利用しても、境内まで最も長い距離を歩かなくてはならない寺であるとのことだった。

           
岩屋寺の麓にある集落、手前の参道には数件のお店があり、お土産などを販売している。

 駐車場から参道脇にある土産物店を過ぎると、参道の両脇に石碑が立てられ、石碑の上には小さな仁王像が私たちを迎えてくれている。

           
               小さな仁王像の石碑が両側に立つ入口 

            
            林の中の参道             山門から続く石段

 仁王像を過ぎると、うっそうと老樹が生い茂る中に参道が造られ、266段の石段を登って行く。
 すると立派な山門が建てられている。この山門が堂々とした威風を放っている。
 山門の右柱には、「第四十五番岩屋寺」 右柱には「本尊不動明王」と書かれ、中央には「海岸山」と書かれた額が掲げられている。

           
              海岸山と書かれた山門

山門のある石碑には、当山の縁起は 弘仁6年(815年=平安時代)に、弘法大師がかつて修行の霊地を求めて投げていた明王鈴の音をたよりに当山に巡錫されて
 
   「山高き 谷の朝霧 海に似て 松吹く風を 波にたとえん」

       と詠われ 山号を 海岸山岩屋寺(かいがんざんいわやじ) と名づけ、自ら 不動明王を刻んで開封されたものであります。
 ※海岸山は山中の霧を海にたとえて詠まれたものである。

   本 尊    不動明王 弘法大師御作
   開 基     弘法大師 
宗 派 真言宗豊山派
                    と記されている。 

  また、寺伝によれば、弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った空海(弘法大師)は、山中で神通力を備えた法華仙人という女性に出会う。
 仙人は空海に帰依して山を献上する。
 空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立して本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊としたと伝えられている。

  山門をくぐり石段を登って行くと、参道左手の岩の上から不動明王が迎えてくれる。
 そこから左側の岩山を胎蔵界、右側が金剛界と呼ぼれている。

           
               石段の頂には不動明王が立ち私達を迎えてくれる。 
            
            
            木漏れ日の差す参道        大木に囲まれた参道

 巨木の老樹の生い茂る中に造られている参道がしばらく続きゆっくりと登って行く。
   
           
     参道脇には歴史の深さを感じさしてくれる苔に覆われた石仏が立ち並んでいる。

           
参道には紅い欄干の架かる極楽橋があり、その向こうには小さなお堂と多数の石仏が並んでいる。

           
            参道脇に並んで立てられている無数の石仏群

           
        無数の石仏群の横にあるお堂には「のぞみ弥勒」が祀られている。

 のぞみ弥勒のお堂の前を通ると、巨木の中にできた参道が続き、参道脇には「南無大聖不動明王」と書かれた赤や青の幟が立てられ、巡礼に訪れるお遍路さんのムードを一層高めてくれている。
 山道の参道をさらに登って行くと、前方の法面には無数の石仏が整列良く並びんでいる。

            
    青と赤の幟の立つ参道が続く 山からの法面には無数の石仏群が並べられている。

           
        伽藍の上に聳える奇岩の岩山、下の岩壁には方丈という建物が寄り添う様に建てられている。

           
    弘法大師御修業所の石碑から境内を観る、右の石段を登ると本堂や大師堂がある。

           
                奥には鐘楼も見える境内

参道をさらに上って行くと、左に水子地蔵尊、鐘楼、右に手水場、庫裏・納経所がある境内に出る。

           
伽藍の上にある珍しい奇岩の岩壁、修行僧が座禅などに利用できそうな奇岩に幾つかの窟が見えている。

さらに石段を上がると岩山の真下に本堂があり、左手に大師堂がある。突き当たりの方丈の建物には直接岩山が接している。

            
大師の掘ったといわれる井戸があり、この洞中にお参りすることを"穴禅定"という。窟の中に出来た楼に向かって木の梯子が掛けられている。

大師が掘った霊水の湧く「穴禅定」(あなぜんじょう)や境内の奥山には大師の行場「迫割禅定」(せわりぜんじょう)がある。
           
           
   梯子の上には10畳ほどの大きさの板間があり、その奥にはこのようなものが祀られている。

さらに少し上ると本堂が、その左のほうには大師堂がある。
 

           
     岩屋寺本堂、奥には窟の中にある回廊に向かって木の梯子が掛けられている。
     
            
               本堂拝殿       大師堂拝殿 

           
細かい造作が施されている本堂拝殿、手前には上記写真の木の梯子が、奥には大師堂がある。

           
             西洋建築様式を隋所に取り入れて建築された大師堂

 大師堂は、まだ新しく大正9年(1920年)に建立されている。
 設計は愛媛県出身で大蔵省営繕管財局技手などを務めた河口庄一、大工は窪田文治郎らである。
 宝形造、銅板葺きで、正面の向拝の柱は左右とも双子柱とし、母屋の四隅は3本組の柱とされている。
 これは伝統的仏堂建築にはみられないもので、向拝柱は上部を細くした様式とし、柱上部にはバラの花と房飾りを彫り出し、柱下部には溝彫りを施すなど、随所に西洋建築の設計思想を取り入れている。
 伝統的仏堂建築に新様式を取り入れた、近代仏堂の代表作として、2007年に国の重要文化財に指定されている。

           
       国の重要文化財に指定され、西洋建築様式を取り入れた大師堂の拝殿

           
            歴史の深さを感じさしてくれる奥の院への風格のある楼門  

 本堂から楼門を過ぎ、山を入っていくと 坂道を300m程上り、岩をくぐって 鎖をたより梯子を登った岩山の頂上に大師の行場跡といわれる迫割 禅定(せりわりぜんじょう)・鎖禅定がある奥の院に至る。

           
                山門から奥の院への参道

 初めて訪れた四国霊場45番札所の岩屋寺。岩屋寺は平成16年1町3村が合併して出来た久万(くま)高原町にある。
 私は松山と高知を結ぶ国道33号線を何回か行き交っているが、訪れるのは今回が初めてである。
 久万高原は四国の軽井沢と呼ばれ、標高も800m程あり、四季を通じて観光客が訪れている。
 岩屋寺は四国最高峰の石鎚山の麓に位置する久万高原町の一角にあるお寺である。
 入口から本堂まで山道を20分ほど登った奇岩の下に本堂が造られたお寺で、何か修業僧には、もってこいの静寂な自然環境を備えているように感じる。
 今回も急に訪れることを決めて、気ままにやって来た旅であるが、さわやかな高原の空気が流れる、癒し効果のある旅を感じながら下山して行った。


魅惑の大山寺と大神山神社奥宮

2010-12-17 12:31:34 | 気ままな旅
  20010年11月4日(木)今朝は米子自動車道蒜山SAで車中泊をしていた。
 今秋一番に冷え込んでいるが、空は晴れわたり、大山の紅葉を求めてやってきた私達を十分に満足さしてくれている。
 蒜山高原から大山スカイラインを通り、展望台や車窓から美しく紅葉した大パノラマを楽しんで、大神山神社や大山寺の駐車場までやってきた。
 駐車場は大山北壁が一望できる位置にあり、紅葉した周辺の山々の奥に、白い雪をかぶった荒々しい大山が、逆光の青い空の下に姿を見せている。
 私達は門前街の風情がある駐車場からの参道を、大山寺方面に向かってゆっくりと上って行った。
        
           
                大山寺前の駐車場からの大山(標高=1729m)

 駐車場周辺には、大山寺や重要文化財に指定されている大神山神社奥宮などがあり、どれも大山隠岐国立公園内にある。 中国地方最高峰である「大山」は、その雄大な景観とともに歴史・文化資産的にみても貴重で、鳥取県西部観光エリアの名実ともに中心的な存在となっている。

           
     大山隠岐国立公園「大山」と書かれた石碑と逆光の中に見えている北側の大山

           
  紅葉したブナなどの山稜の上に立つ山鈷峰(さんこうほう)と、その奥に聳え立つ大山の北側部分
 
           
                      大山寺山門

 参道脇に出来た街並みや地蔵などの施設を眺めながら、進んで行くと、巨木の杉並木の奥に山門が見えている。大山寺の山門である。
 近くまで行くと左側に鳥居があり、巨木に囲まれた石畳の参道が奥まで続いている。
 鳥居の前に大神山神社奥宮(重要文化財)と書かれた標識が建てられ、古神社や古寺の雰囲気が周辺に漂っている。
 私たちは巨木の生い茂る石畳の参道を、ゆっくりと大神山神社奥宮に向かって進んで行く。 
 参道脇には、大山の恩恵をうけた豊富の泉もあり、少し汗ばんだ体の、私たちののどをうるおしてくれる。
 進んで行く巨木の生い茂る参道一帯にも、神社独特の静寂な雰囲気が漂い、私たちの気持ちを一層引き締めてくれる。
 
 大神山神社奥宮の鎮座する大山は、古来から神の住む山と崇められ、大神岳(おおがみのたけ)または大神山と呼ばれ、古くから山岳信仰の修験場として、また、神祭りの場とされていた。
 この大山信仰の始まりは約1300年以上前までさかのぼり、金連上人により養老2年(718年=奈良時代)に「大山寺」として開創・創建されている。
 奥宮は大山寺の僧が修験のために大山に登り、その道場として簡単な遥拝所を設けるようになったのが始まりとされているが、創建は今もって不詳である。
 その後、神仏習合の中で大山寺と大神山神社奥宮は勢力を拡大し、一時は大山僧兵3000人と言われるほど寺側の勢いが大きいものの、祭事はすべて神職により執り行われていた。
 明治初頭には神仏分離令により、大智明大権現の社殿を大山寺から分離し、現在の大神山神社奥宮と改称されている。
 
           
                  大神山神社奥宮の入口にある鳥居

           
               大神山神社奥宮の石畳の参道

周囲を杉の老木に囲まれた静寂の中、自然石を敷きつめた国内最長700mの参道が続いている。

           
         参道脇の豊富な水量の泉と巨木の中に日本一長く続く石畳の参道

           
               巨木の参道の中から顔を出した大山北壁

石畳でできた参道わきには、和合の岩、金門などのみどころが点在している。

            
金門と呼ばれる対岸の切り立った岩場の景観、この位置から荒々しい大山の北壁が見える。 

            
             石畳の参道と鳥居        石段と神門(逆さ門) 

 参道をゆったりと登ると、荘厳な雰囲気を放つ、国の重要文化財に指定された国内最大級の権現造りの本殿・幣殿・拝殿が聳え建ち、両翼約50mもある正面の長廊とあわせ、見るものを圧倒している。御祭神は大己貴命(=大国主命)です。

           
参道の途中にあり本堂の下にある神門、通常の門と表裏が逆に造られていることから逆さ門とも呼ばれている。 

           
       逆さ門から続く石段の上に聳えるよう造られている大神山神社奥宮(重要文化財) 
             
               権現造りの大神山神社奥宮の本殿前(重要文化財)

※権現造り(ごんげんつくり)
 神社建築様式の一つで、本殿と拝殿とを石の間または相の間などと呼ばれる幣殿でつなぐもの。
 平安時代の北野神社にはじまり、東照宮が採用、以来近世の神社建築に多く用いれている。
  権現造りの代表例
     ● 日光東照宮
     ● 日御碕神社
     ● 北野天満宮
     ● 大崎八幡宮など 

             
        日本最大級の権現造りの神社で、神仏混合様式を伝える大神山神社奥宮 

           
                 大神山神社奥宮本堂(国指定重要文化財) 

            
               桧皮造りの大神山神社奥宮の屋根 

            
               桧皮造りの大神山神社奥宮の屋根

            
             大神山神社本堂全景 正面の長廊は両翼約50mある。


 大神山神社奥宮の参拝と見学を終えた私達は、元来た参道の石段を下って行った。少し下ると左側に大山寺と神社を結ぶ歩道があり、進んで行くと大山寺本堂の境内に出てくる。

            
                    大山寺境内から大山を望む

「大神山神社奥宮」「大山寺」のある大山は、古来から神の住む山と崇められ、同時に、山岳仏教の修験場として栄えている。
 山岳信仰に帰依する修験道の修行道場として栄えた大山寺。平安時代以降は、山岳信仰の仏教化が進むにつれて寺院が増え、最盛期には100を超える寺院と3000人以上の僧兵をかかえるほど、一大勢力として、比叡山、吉野山、高野山に劣らないほどの隆盛を極めていた。
 しかし、明治初期の神仏分離・廃仏毀釈をきっかけに衰退の一途をたどり、数多くあった寺も現在は4つの参拝堂と10の支院を残すのみとなっている。
 大山寺本堂は天台宗の古刹で、昭和3年に一度焼失、同26年に再建されている。
 大山寺の開創は養老2年(718年=奈良時代)金蓮上人が地蔵菩薩をお祀りし、修験道場として開かれたが、貞観7年(860年=平安時代)天台宗第4代座主慈覚大師により天台宗に属している。
 近世、封建時代には江戸幕府より3000余石寺領をゆるされ、別格本山としてその隆盛を極めていた。
 現在の本堂は、昭和3年の火災で焼失したものを昭和26年に再建したものである。

           
               うっすらと紅葉した大山寺境内と鐘楼 

             
            撫でると願い事を叶えてくれるという縁起のよい宝牛の像 

 牛の霊を慰める為に鼻ぐりの銅をもって鋳造したもので、岡山県吉備津の宗教団体より寄進された像である。 この像は別名を「撫牛」ともいわれ、一つの願いだけを心に念じて撫でると、願いを叶えてくれるという縁起のよい牛像である。

             
            リュックを背負った登山服姿の人達も見かける大山寺本堂 

            
             大山寺本堂拝殿での参拝前後の人たち 

            
       厄難消滅、交通安全などに御利益があると言われている不動明王を祀る護摩堂 

             
         巨木に囲まれた大山寺本堂への石段 石段と大山寺山門

            
               灯明杉の側で祀られている灯明地蔵

灯明杉については次のような逸話がある
 「その昔、日本海を航行する船が難航の折、この杉の頂きから、一大尖光を発し、方向を教えたために難を逃れたといわれる霊木で、この名がつけられている」

            
              駐車場と大神山神社や大山寺の参道沿いにある街並み

 大神山神社奥宮と大山寺の参拝を終えて、参道を下って行くと、目の前に日本海に面した島根半島や美浦湾、弓形に形状した弓ヶ浜や中海が、晴天の空の下、美しい景観を見せている。
 参道の下にあるバスターミナル近くには、大山自然歴史館(入場無料)があり、大山の四季や自然などが詳しく紹介されている。
 私達もこの自然歴史館に立寄って、大山について今一度、勉強さしていただいた後、帰路についた。

紅葉した大パノラマの大山(だいせん)

2010-11-12 12:47:29 | 気ままな旅
2010年11月3日(水)文化の日 午後2時 今日はかねてより岡山と鳥取県境にまたがる大山(だいせん)の紅葉を求め、今年4月に購入した愛車ラクテイスで妻と二人、気ままな旅に出発する。
 今回の気ままな旅は、紅葉を見たいと思い早くから大山と決めていた。
 ただ、いつの日に出発するか! 10月下旬から気象情報に注意していたところ、11月3日から2~3日は快晴の天気が続くとの予報で、急遽、3日に出発、6日に帰宅する計画をたてる。
 出発の日、目的地を米子道蒜山(ひるぜん)高原SAに設定、距離にして約270kmである。
 自宅を出発して阪神高速を走行、中国道池田ICから落合JCTまで走行、米子道蒜山SAに向かって行く。
 蒜山高原SAには午後6時頃に到着する。
 標高が高いのか南大阪よりもかなり気温が低下、上着に防寒用ジャンバーなどを着こまないと寒くていられない状況であった。

          
        早朝、霜が降りていた米子自動車道蒜山高原SAと大山の眺望

 11月4日(木)車中泊していた今朝は、早くから目覚め、車外に出ると真青な空が広がり、やわらかい太陽が東の空に輝いている。
 愛車のフロントガラスには霜が降り、ガラスは厚い氷で覆われている。
 情報によると今秋一番の冷え込みで、蒜山高原SA内の芝生には真っ白な霜が降り、初冬のたたずまいを見せている。
 西の方角には、朝日を浴びた大山南壁と鳥ケ山(からすがせん=前右側)の頂きが美しく見えている。
 今日の天気は、紅葉を求めてやってきた、私たちを満足さしてくれる、申し分のない天気になりそうであった。

 ここ、蒜山高原は、鳥取と岡山の県境に位置し、中心部は岡山県に属する高原である。
 標高は500mから600m程度の高原地帯にあり、西日本を代表するリゾート地の一つで、関西や中国地区の軽井沢とも呼ばれるている。
 また、蒜山高原には日本最大のジャージー牛の牧場なども存在し、週末やシーズンには京阪神・中国・四国地方方面からの観光客で賑わっている。
 蒜山高原一帯は、大山隠岐国立公園に指定されている。

 私たちは、蒜山高原SAで朝食を済ました後、米子自動車道を走行し、蒜山ICから一般道に入り、蒜山・大山スカイラインからの紅葉を求めて走行して行く。

          
         朝霧に包まれた蒜山高原の風景 (道の駅「風の家」近辺で撮影)

          
              牧歌的な風景が広がる蒜山高原と大山の眺望

蒜山・大山スカイラインは、蒜山と大山を結ぶ観光道路で、紅葉を楽しみながらのドライブに最適だといわれている。
 道路からはブナの原生林や、秋のモミジ、カエデなどの紅葉、ススキの群生などが楽しめる。
 私たちは、高原独特の牧歌的な風景の広がるスカイラインを、紅葉を求めて走行して行く。
 
          
       秋の風物詩ススキの先に見える蒜山高原の雲海(鬼女台展望台より)

 このスカイラインは、蒜山と大山を結ぶ、豊かな自然に恵まれた人気の高いドライブロードで多くのマイカーが訪れている。
 比較的緩やかなカーブの続くスカイラインを、紅葉した周辺の山岳や樹木を楽しみながら走行して行く。
 標高を上げながらしばらく走行して行くと、絶好のビューポイントである鬼女台(きめんだい)展望休憩所に到着する。
鬼女台展望休憩所は、標高約900mに位置し、そこから広がる景色の美しさは抜群である。
南側には雄大な蒜山高原の眺望が群生するススキの彼方に見え、北側にはブナなどの原生林が絨毯を敷き詰めたように紅葉し、大山の美しい大パノラマの風景を見せている。
 
          
  紅葉が進む鬼女台展望台からの大山(1729m)と鳥ケ山(からすがせん=1448m=手前)の眺望
  
          
              紅葉の進む鬼女台展望台からの鳥ケ山と大山

 鬼女台展望台からの景観を満喫した後、私たちは愛車に戻り、紅葉の続くスカイラインをを北上して行く。
 しばらく走行すると周囲を山に囲まれ盆地状の高原地帯で、休暇村などの施設がある大山鏡ケ成に到着する。
 夏はキャンプ場、冬はスキー場などで賑わいそうな場所である。
 広場の中には透きとおった小さな池があり、水面には紅葉した山が映り、奥大山の高原情緒を一層高めてくれる。 

          
         奥大山鏡ケ成にある休暇村と烏が山(からすがせん)周辺の眺望

 鏡ケ成の見学を終えた後、スカイラインに戻り、雄大な大山の南壁と紅葉の美しさで有名な鍵掛峠(かぎかけとうげ)の展望台に向かって走行して行く。
 鏡成りを少し過ぎた所に、烏が山展望駐車場があり、広々とした高原の風景の中に烏が山が見事な紅葉を見せ、私たちのドライブを楽しませてくれる。
 愛車をさらに進めて行くと、下り急カーブが連続して続き、通り過ぎると信号があり、右側の大山方面に走行して行く。
 今度は逆に上り急カーブが連続して続き、周辺にはブナなどが群生し、秋らしい鮮やかな色彩を見せ、素晴らしい眺望を見せている。
 美しく鮮やかな色彩を見せる道路脇では、所々、車をとめて撮影する人達が増えている。
 私たちはそのまま走行し大きな右カーブを曲がった所にさしかかると、突然、前方の頂きに真っ白な残雪が残る雄大な大山南壁が姿を現し、その麓からは色鮮やかに、絨毯を敷き詰めたように紅葉した絶景が見えている。
 ここがスカイライン第一の絶景ポイントといわれる鍵掛峠(かぎかけとうげ)である。
 
          
              大山の紅葉スポット鍵掛峠からの眺望

大山の南壁を望む鍵掛峠は、標高910mの位置にある展望スペースで、多くのマイカーやカメラマンでごったがえして、駐車するのにもままならなかった。
やっとのことで駐車を終え、眼前の絶景にしばらく見とれていた。
大山南壁の荒々しい稜線と真青な空、紅葉した山麓からのブナ樹林が続き、見事としか表現できないほど、美しい景観を見せている。

          
        絨毯敷き詰めた様に見事に紅葉したブナなどの樹林帯(鍵掛峠から)

鍵掛峠からの眺望を楽しんだ後、紅葉した樹林帯の中に出来た道路を進んで行くと、道路脇に日本第一といわれるほどブナの原生林が広がり、道路をトンネルのように覆っている。
周辺の紅葉して高く聳えるブナの群生林から、やわらかい太陽光線がさし、紅葉した葉と白い樹木が独特の雰囲気を醸し出している。 

          
              ブナ林の群生地の中に造られた大山スカイライン

スカイラインの道路も、紅葉したブナトンネルに覆われ、ドライブの楽しさを味わせてくれる。

          
              スカイラインの道路脇に広がるブナの群生林

ブナトンネルの途中には、険しい大山南壁が望める一ノ沢、二ノ沢、三ノ沢がある。
これらの沢は、大山の大規模な崩落によりできた沢で、険しい山ひだを造り出し、今でも大量の土砂が流失している。
南壁の露出する山肌は、解体期の火山地形の典型だとも言われ、四季を通じて周りの景観との、調和の素晴らしさを見せている。
大山南壁は、日本アルプスのような山容を形成し、中国地方最高峰の名にふさわしい雄姿を現している。

          
            沢からの紅葉した麓と荒々しい大山南壁を見上げる。

 沢からの紅葉と、残雪の残る荒々しい南壁とのコントラストを眺めていると、自然の厳しさや、すさまじさを感じ、自然の脅威さえ湧いてくるが、鮮やかなに広がる紅葉が一体となって、大山独特の男性的で雄大な美しさに心がうたれてくる。
 沢を過ぎると再び、車窓からのブナ群生林の景観を楽しみながら走行して行く。
しばらく行って群生林を抜けると、今までと全くちがった、富士山のように優美で柔らかい表情の大山が現れてくる。

          
              優美で柔らかい表情の桝水高原からの大山

鍵掛峠から紅葉したブナの原生林を抜けると、桝水高原にでてくる。
桝水高原は写真のように大山の山麓に広がる高原で、目の前に仰ぎ見る雄大な大山が富士山の様な美しい姿を見せ、今までと全く違った雄姿を現している。
青く透きとおった空に、大山の地肌と優雅に広がる山裾の紅葉に思わず見とれてしまう。
私たちは、大山の眺望の良い駐車場の片隅で、折りたたみ式のテーブルと椅子を広げ、昼食を摂ることにした。
青い秋空に浮かぶ大山を眺めながらの昼食のおいしさは抜群で、気ままな旅を愛する私たちを最高の気分にさしてくれる。

          
               桝水高原で大山を望みながらの昼食

 桝水高原での昼食と大山の眺望を楽しんだ後、大山寺方面に向かって行くと、10分ほどで大山寺駐車場に到着する。

          
        見る方向により異なった景観を現す大山(大山寺麓から=北側)

大山寺駐車場前から大山を撮影するが、大山頂上付近が逆光でご覧の様な写真となった。

          
         大山寺参道より大山寺方面の紅葉と三鈷峰と大山の北側部分

上の写真の大山の左側部分の山容、左の山は三鈷峰(さんこほう)と手前の大山寺付近の紅葉。

          
          大山寺参道から眼下に見える米子市街・中海と弓ヶ浜の眺望

 大山寺への参道から日本海方面を見ると、米子市内の弓ヶ浜や中海が、青く素晴らしい景観を見せている。
 麓からみる大山の景観も素晴らしいが、大山から見る島根半島や宍道湖・中海などの景観が想像してくる。
 私たちは、大神山神社奥宮や大山寺の参拝を終え、大山の眺望でも知られている植田正治写真美術館に向かって行く。

          
            大山寺からの大山の西側に広がる麓を走行して行く。

          
             植田正治写真美術館前からの大山の眺望

大山寺から植田写真美術館には20分ほどで到着して、後方を見ると伯耆(ほうき)富士と呼ばれる大山がご覧の様な優美な姿を現している。

          
             植田正治写真美術館内からの逆さ大山

植田正治写真美術館(入館料=800円)からは、ご覧の様な逆さ大山が撮られるように造られた場所があって撮影することができた。

 写真美術館の見学と撮影を終えた私たちは、近くにある皆生温泉で体を癒した後、米子道大山PAで車中泊をすることにした。
 翌日の5日(金)の朝、晴れているが大山の頂上部は雲がかかっている。
 私たちは、次の溝口ICから一般道に入り、昨日走行して来た大山スカイラインを逆方向に向かって行く。

          
       残念ながら大山の頂上部は雲がかかっているが見事な紅葉を見せている。

          
              同じスカイラインから見事な紅葉を見せる大山

          
              鳥ケ山展望駐車場の前のスカイラインを行く単車

           
                農地を耕す蒜山高原のトラクター

          
              蒜山高原の観光や情報の中心地の道の駅

大山スカイラインを走行し、蒜山高原の中心地である道の駅にやってくる。
ここでは美しい山容を見せる蒜山の山々の下に高原が広がり、アウトドアーを楽しめる施設などが造られている。
私たちもレンタルサイクリングに挑戦、高原のそよ風を受けながら爽快に走り高原情緒を満喫する。

今回の気ままな旅は 「大山の紅葉」と早くから決め、気象情報に注意しながら出発日を決めて訪れた旅であった。
上天気に恵まれ、大山の奥深い紅葉を楽しむことが出来た大満足の旅であった。(走行距離=763km)
           

もてなしの心が育んだ梼原と維新の志士達

2010-09-12 15:05:10 | 気ままな旅
 2010年8月3日(月)今日は東京に住む友達と、数年来の約束で高知で休暇を過ごすことにしている。東京の友は、東京からフェリーで徳島まで行って、徳島から高速道などを走行し、佐川町にある私の家で落ち合う約束である。
 私達の今回の帰郷には、燃費の良いトヨタラクテイス(1500cc)を使用、南大阪の自宅を朝7時20分に出発する。
 走行コースは平日で高速道路の休日割引適用を受けないために、経済的である阪神高速湾岸線→神戸線→第2神明道路→R2(加古川・姫路バイパス)を走行し、相生(あいおい)を少し過ぎた所から岡山ブルーライン(無料)に入り、かつての国鉄四国連絡船で賑わった宇野港まで走行して11時40分に到着する。

           
                     宇野港に入港するフェリー

 宇野港からは12時05分発のフェリ-で、高松港(60分=2700円(4m未満))まで乗船する。
 このルートの方が瀬戸大橋中央道を通るよりはるかに経済的で、フェりーでの1時間をのんびりと過ごし、休息できるメリットがある。

           
                    高松港に入港したフェリー

 高松港からは一般道(R32号)を走行しようと考えていたところ、携帯に東京の友人から徳島港に今着いたとの連絡が入ってくる。
 午後2時に到着予定が1時間程早く到着したようである。
 徳島と高松からは高知の佐川まで、ほぼ同距離にある。
 私が一般道を走っていると、友人の方が早く到着する可能性があり、一般道の走行をあきらめ、直ぐに高松自動車道に入って行く。
 高松からは高知道伊野ICまで2時間程で到着、佐川にある私の家には4時30分頃に到着する。
   
           
                到着した佐川町尾川の景観 
 
 一カ月ぶりに帰ってきた佐川町尾川の我が家、雨戸など全ての窓は閉め切っている為に、開口して空気を入れ替える必要性があった。
 家に帰って、この作業を行った後、4kmほど先にあるスーパーマーケットで、夕食の食材を求めて、妻と二人で出掛ける。
 高知に帰ってきた、一番先に食べたいのは、なんといってもカツオの刺身である。
 大阪の家近辺のスーパーでもカツオは販売されているが、鮮度の差なのか味が全く違っている。
 カツオもタタキと普通の刺身の両方あるが、私は普通の刺身の方が好きである。
 夕食の買い物も終わって、家に帰ってしばらくすると、東京からの友人も到着、久しぶりに合ったせいか、夕食の杯にも話が弾み、夜遅くまで話題が途切れることはなかった。

 東京に住む友達は、福井県大野市出身で東京で建築業を営んでいる。
 釣りが大好きで前月にも、新潟を訪れ清流で鮎釣りを楽しんでいたが、今年はどこの河川でも鮎がいなく、さっぱり釣れないとのことであった。
 高知でも、彼の楽しみはやはり鮎釣りで、私の家の近くを流れる仁淀川での釣りを楽しみにしていた。
 近所の人達から鮎に関する情報を集めるために、色々と聞いてみるが、高知も例年になく鮎は釣れないとのことであった。
 
             
            東京から来た友達が楽しんだ仁淀川(高知県高岡郡越知町)

 8月4日(水)曇り、東京からの友人は朝早くから、愛車で25分ほど距離にある越知町仁淀川に一人で出かけて行った。
 私たちは、家の近くにある先祖の墓掃除や買い物などで一日を過ごし、夕方彼の帰りを待っていると、6時頃に帰ってくる。
 鮎の収穫は2匹で、やはり全体的に仁淀川には鮎がいないようで、近くで釣りをしている人たちを覗いても釣れていないとのことだった。

 8月5日(木)今日はあいにくの雨模様の天気で、東京からの友人は、仁淀川以外の河川も見たいとのことで、私を須崎湾に流れ込んでいる新庄川を案内する。
 仁淀川と比較して、川幅も狭く小さい河川であるが、清流にある所々の釣りポイントを見ながら北上して行く。
 彼にとっては、川幅の広い仁淀川の方が魅力的な様である。
 私たちは、小雨の降りしきる中、新庄川と並行して走っている国道197号線を梼原(ゆすはら)方面に走行して行く。
 梼原町は高知県西北部に位置、愛媛県と県境を有している山間の町である。
 現在、高知県内の四か所で開催中の「竜馬であい博」の梼原会場の地でもある。
 私どもは、綺麗に整備された街並みを見学しながら、梼原町内を走行して行く。

             
        四国山脈の山沿いに都市計画に基づいて美しく整備された梼原町の街並み

              
                 電柱もなく日本建築美を活かした梼原町の街並み

 このような山間の街で、こんなにも美しく整備された街並みは驚きで、日本国内でも珍しいのではと感じる。
 街を通り過ぎると川があり、対岸に向かって屋根付きの立派な木橋が架けられ、その奥には神社が見えている、三嶋神社である。

              

 街のはずれにある三嶋神社、河に架かる参道の屋根付き木橋が本殿に向かって真っ直ぐに延びている。
 この橋は神幸橋(みゆきばし)と呼ばれ、木は町内産の木材を使用、夜になるとライトアップされ、暗闇に浮かぶ橋がとても幻想的とのことであった。

              
                全国的にも珍しい川に架かる屋根付き木橋の参道

              
                橋の参道を渡ると正面に見える三嶋神社本殿

 私たちは屋根付き木橋の参道を真っ直ぐに進んで行く。木橋を渡ると目の前には石段があり、その上には鳥居がたっている。
 鳥居をくぐると,そこは大木に囲まれた本殿の境内で静寂な雰囲気が漂っている。

              
                 竜の立派な彫り物のある三嶋神社本殿

 三嶋神社の参拝を済ました後、神社左側の大きな木立の中に「坂本竜馬脱藩の道」と書かれた案内板があり、山道が林の中に通っている。
 脱藩する竜馬たちは、高知市内から西に進み、私の家のある佐川で落ち合って、須崎市から新庄川を北上し、葉山を通り梼原までやってくる。

              
                   三嶋神社の横にある坂本竜馬脱藩の道 

 三嶋神社の参拝と見学を終えた後、車で5分ぐらいの所にある志士達の像「維新の門」に向かって行った。

               
                  梼原町にある脱藩した志士達の像 

 維新の門(碑文より)
 幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢見て脱藩した。
 この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之助が国境を越え維新の動乱の渦中に身を投じた。
 また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。
 それから年を経ること6年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は壮絶な死を遂げていた。
 いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を掛け抜けた男たちの決意が偲ばれる。
 ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。
 近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。
 その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の多くの有志の熱い想いが、この群像を建立した。

               
        梼原出身の志士 掛橋和泉  右写真 吉村虎太郎(後方)、前田繁馬(左)、那須信吾(中央)、中平龍之助(右)

              
             脱藩する坂本竜馬達 (左=沢村惣之丞、坂本竜馬(中央)、那須俊平(右)

 雨の中の維新の門を見学した後、NHK大河ドラマ「竜馬伝」に合わせて高知県では、「土佐竜馬出会い博」が県内の四ケ所の会場で開催されている。
 勿論、梼原町も竜馬ゆかりの地として会場に選ばれ現在も開催中である。
 高知駅前、安芸市、土佐清水市でも同時に開催されている。
 
              
           高知県内の土佐竜馬出会い博会場のマップ(左上の紅い表示が梼原会場)

 私たちは維新の門を見学した後、町内の近くにある出会い博会場に入って行った。
 
              
                  竜馬出会い博ゆすはら会場
               
                
           土佐竜馬出会い博ゆすはら会場   NHK大河ドラマ「竜馬伝」のポスター

               
           入口で親切に説明してくれるスタッフと東京から来た友人

 受付は梼原の木材を使っているせいか木の香りが残っている。
 受付の人も竜馬や梼原町内などの地域活動をされているようで、東京から来た友が盛んに質問し、丁寧に受け応えしてくれている。
 会場内は写真撮影が禁止されている為に、みなさんに紹介できないのが残念であるが、NHK大河ドラマの物語や登場人物が詳しく紹介されている。

                
             坂本竜馬の掛け軸    土佐勤皇党首武市半平太の掛け軸  
               
               
   梼原出身の六志士(左から掛橋和泉、中平龍之介、那須俊平、前田重馬、那須信吾、吉村虎太郎)

 二階会場の中に下記の写真が展示されていた。
 驚くことに明治天皇から、維新に活躍した蒼々たる人達が写っている。
 「坂本竜馬生誕150周年記念」と書かれ、坂本竜馬と明治天皇や西洋人と子供も一緒に写っているが、どうもこの写真は実際の人物ではなさそうである?

               
                  竜馬生誕150年記念と書かれた維新の志士写真? 

               
                    上記写真の名前  

写真に写っている人たち 
40明治天皇 え?、43坂本竜馬、1勝海舟、9伊藤博文、13西郷隆盛、27大熊重信、32高杉晋作、35桂小五郎、12大久保利通、2中野健明、3中島信行、4後藤象二郎、5江藤新平、6大木喬任、7井上肇、8品川弥二郎、10村田新八、11小松帯刀、14西郷従道、15別府晋介、16中村宗見、17川路利良、18黒田清隆、19鮫島誠蔵、20五代友厚、21寺島宗則、22吉井友実、23森有禮、
24正岡隼人、25陸奥宗光、26中岡慎太郎、28岩倉具綱、29ウィリアム、30フルベッキ博士、31岩倉具定、33横井小楠、34大村益次郎、36江副廉蔵、37岩倉具慶、39広沢真臣、
41岡本健三郎、42副島種臣、44日下部太郎、45横井左太平46、横井太平

               
                  梼原を訪れた人達を交代でもてなした茶堂

 茶道は、梼原町内に点在する木造萱葺屋根の建物で、地域の人たちは交代で、行き交う人々にお茶などをだし、もてなしの場所として使われている。
 ここの人達はもてなしの心で、訪れた人達に接して、旅人から様々な情報を得ていたようで、現在、日本が失いかけている大切な心が、この街には脈々と息づき、再開発された街の景観からも、人々のもてなしの心が感じられる。



                 
 
                

              

見事な眺望の富士五湖からの富士山

2010-07-28 19:20:09 | 気ままな旅
 2010年5月5日(水)子供の日、太宰治の富嶽百景で知られている御坂峠からの富士山や、天下茶屋、太宰治文学記念室を見学した後、元来た道を下って河口湖の畔までやってきた。
 この場所は古賀政雄記念公園と名付けられ、河口湖の北側湖岸の霊峰富士山のビューポイントとして名高い場所に造られている。
 桜の花は残念ながら散っているが、湖岸にはピンクや白の芝桜が咲き誇り、富士山と湖との見事な眺望を現している。 
 午後からは富士山の頂上付近には雲がかかり、霞んで見えにくくなっているのが残念であった。
 私たちは河口湖北側にある湖岸道路を、富士山の眺望を楽しみながら西湖に向かって愛車を進めて行く。
  
 あらためて富士山の噴火によって出来た富士五湖について述べたい。
 今日は朝早くから、富士山の湧水群で有名な忍野八海や山中湖の見学や撮影をしてきた。
 これからは、河口湖や西湖の湖岸道路を通り、精進湖、本栖湖を見学する予定である。

 富士五湖は、山梨県側の山麓に位置する5つの湖の総称で下記の5つの湖をさしている。
 ①本栖湖(もとすこ =富士河口湖町、身延町)
 ②精進湖(しょうじこ=富士河口湖町)
 ③西 湖(さ い こ=富士河口湖町)
 ④河口湖(かわぐちこ=富士河口湖町)
 ⑤山中湖(やまなかこ=山中湖村)  
 いずれの湖も富士山の噴火によって出来た堰止湖で、富士箱根伊豆国立公園に指定されている。

 西湖や本栖湖、精進湖は、かつては剗の海(せのうみ)という一つの大きな湖であった。
 これは、三つの湖の水脈が地下でつながり、湖水面が連動していると考えられている。
 大量の雨が多く降った時には、最も湖水面積が狭い精進湖の東に「赤池」という小さな池が姿を現すことがある。
 これを「富士六湖」または「富士五湖の6番目の湖」などと言われている。
 ただし、湖の大きさは、とても小さて直径50m程度である。
 最近では1998年と2004年に出現している。

 また、富士五湖に含まれない湧泉群の忍野八海も、元は山中湖とともに「宇津湖」という一つの湖であったものが、延暦19年-21年(800年-802年)の富士山延暦噴火により二つに分かれてできた「忍野湖」の名残りであるといわれている。

          
富士五湖の地図(中央の上にある▲が富士山、左から山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖)

 河口湖(かわぐちこ)は、南都留郡富士河口湖町(旧河口湖町、勝山村、足和田村)にある湖で、富士箱根伊豆国立公園に指定されている。
 富士五湖の中で最も長い湖岸線を持ち、最も低い標高地点にある。
 面積は富士五湖では山中湖につぎ2番目の大きさで、最大水深は15.2mと精進湖と並び3番目の深さである。
 湖の中央に鵜の島と呼ばれる小さな島がある。

          
             河口湖からの富士山の眺望

 河口湖は、南側が開けて、そこに富士山の美しい山容が見渡せる湖である。
 特に、湖面に写る逆さ富士は有名で、湖の優れた景勝をあらわしている。
 河口湖は富士五湖の中でもっとも早くから開拓された湖畔が有り、温泉も平成になってから掘削され、多くの入浴客で賑わっている。
 観光施設面でも、富士山の絶好のビューポイントとして人気の高い天上山には、ロープウェイが架けられ、多くの人々が訪れている。
 河口湖にも遊覧船も行き交い、湖畔には、オルゴールの森や、河口湖猿まわし劇場、キャンプ場、そして旅館、飲食店、物産店などがあり賑わっている。

          
             河口湖からの富士八景

 河口湖の北側にある湖岸道路を、車窓からの景観を楽しみながら走行していくと、やがて河口湖岸から離れ、森林の中の道路に変わってくる。
 少し進むと両側が山に囲まれた湖が見えてくる。
 ここは西湖であるが、この位置からは富士山は望めない。
 湖岸の北側に出来た山沿いの道路をさらに走行して行くと、山が開け、公園のような美しく整備された場所が見えてくる。
 湖岸にはボートが何艘か係留され、数台の車が駐車している。
 そして、その前方に、霊峰富士山が雄大な姿を現している。
 しかし、頂上付近には雲がかかり、残念だと思っていたいたところ、急に雲が移動し下記写真のような、見事な富士山を望むことができた。
 道路反対側より行き先が「青木ケ原樹海・西湖」と書かれたレトロ調のバスが通過していく。

 西湖(さいこ)も、山梨県南都留郡富士河口湖町にある湖で、周囲の山々と青木ケ原樹海に囲まれた面積2.1k㎡、富士五湖では4番目の大きさである。
 西湖も富士山の火山活動によって生じた堰水湖で、湖の透明度が高く、淡い藍色をした神秘的な湖として知られ、乙女の湖と呼ばれている。
 最大水深は73.2mで2番目の深さで、天然記念物のフジマリモの群落地としても有名である。
 
          
              乙女の湖と呼ばれる西湖から富士山を望む

 西湖の南側には青木ヶ原樹海が広がっている。
 湖岸には「西湖民宿村」と「根場(ねんば)民宿村」があり、ほかに閑静なキャンプ場等が点在するが、富士五湖の中では最も観光化が進んでいない湖である。
 2つの民宿村やキャンプ場は、小・中学校の林間学校やスポーツ、音楽等のサークルの合宿などによく利用されており、そのための設備(小体育館やテニスコート、音楽室など)を備えた民宿も多い。

          
               神秘的な湖と呼ばれる西湖と富士山を望む

          
              数代の車が駐車している西湖から富士山を望む

 神秘的な西湖の観光を終えた後、湖岸に出来た県道を西に向かって進んで行くと、西湖の湖岸から分かれ森林の道路に変わってくる。しばらくこの道路を走っていると、青木ケ原樹海の中に造られ、交通量の多い国道139号に入り、富士宮方面に走行して行く。
 5分ほど走行すると精進湖の案内板があり、右折すると目の前に精進湖が見えてくる。

          
              精進湖岸に咲く紅い花と富士山の眺望

 国道139号を右に曲がり、曲がりくねった湖岸の道路を走行して行くと、精進湖北側の湖岸道路にさしかかり、湖岸には紅い花が咲き誇り、その前方には見事な富士山が現れてくる。
 私は先ほどの西湖や精進湖から望む、これほど富士山は初めてで、思わず感動してくる。 先ほどの河口湖で、頂上付近に雲がかかり、今日は期待できないと思っていたところ、先ほどの西湖から雲が移動し始め、精進湖では見事な富士山が顔を出し、湖岸に咲く紅い花と共に見事なコントラストを現している。
 
          
          少しずつ頂上付近の雲が移動していく精進湖からの富士山

 精進湖からの富士山の眺望を楽しんでいると、与謝野晶子の歌碑が目にとまってくる。
 石に掘られた歌碑には

  「秋の雨 精進の船の 上を打ち 富士ほのぼのと 浮かぶ空かな」
                                 
                                     と彫られている。

 どうやら与謝野晶子も、富士山の魅力に感動し、感動した心を詠んだ歌碑が多く残されているようである。  
             
                          
           紅い花と見事なコントラストを見せる精進湖からの富士山

 精進湖(しょうじこ)も、山梨県南都留郡富士河口湖町(旧西八代郡上九一色村)にある湖である。
 湖名は、富士参詣者が湖で沐浴して精進潔斎したことに由来する説や、富士の背にあたることから「背地」(せのち)と呼ばれたとする説があるといわれている。
 精進湖も富士山の火山活動によって形成された堰水湖で、流入する河川や湖水の流出口はない。
 精進湖も富士五湖のひとつで、西から2番目、東から4番目にあたる湖である。
 五湖中でもっとも湖水面積が狭く、最大水深は15.2mと河口湖と並び3番目の深さである。
 精進湖は栄養豊富な湖でプランクトンが多く、湖色も緑色である。
 ヘラブナやワカサギなどの魚がが生息している。カヌーの全国大会も開催され、カヌーのメッカとしての知名度をあげている。

          
         頂上付近に雲が無くなり見事な眺望を見せる精進湖からの富士山

          
           公園のように整備された湖岸の精進湖から富士山を望む

 精進湖からの富士山楽しみながら、湖岸道路を本栖湖方面に進んで行くと、先ほどの国道139号線に出てくる。
 この道路を富士宮方面に少し進むと、右側に本栖湖が姿を現し、湖岸道路を走行して北側に出てくると、本栖湖からの見事な富士山が姿を現してくる。
 本栖湖のこの場所は、1000円紙幣に描かれている場所であるが、逆さに映る富士山は、年に数回しか現れないといわれている。
 今回の旅では逆さ富士は望めなかったが、ご覧の様な見事な富士山に対面することができた。 ほんとに幸せを感じる。

          
             千円札に描かれている本栖湖からの富士山の眺望

 本栖湖(もとすこ)は、山梨県南都留郡富士河口湖町(旧西八代郡上九一色村)及び南巨摩郡身延町(旧西八代郡下部町)に跨いで存在する湖である。
 千円紙幣、五千円紙幣の裏面に描かれる逆さ富士のモデルとして有名である。

          
         右側にある山稜から厚い雲が流れ込む本栖湖からの富士山の眺望

 本栖湖岸は山梨県南都留郡富士河口湖町(旧西八代郡上九一色村)及び南巨摩郡身延町(旧西八代郡下部町)に属するが、湖面は境界未定である。
 旧上九一色村では、湖面全てが村に属すると主張していた。
 最大水深は138mと富士五湖では最も深く、面積は山中湖、河口湖に次ぐ3番目の大きさである。
 しかし、近年では水の透明度が低下している。 
 理由はジェットスキーやキャンプファイヤーの排水、ふん害などと、ごみ問題が深刻しているといわれている。
 本栖湖は、UMA(未確認動物)ファンの間で、ネッシーのような怪物、モッシーが出没するということで有名である。

          
              見事な眺望を見せる本栖湖からの富士山

 本栖湖は風光明媚なため、湖畔周辺にはホテルや企業の研修所が並ぶほか、レジャーの場として活用されている。
 観光船による遊覧や、ブラウントラウトやニジマスなどを狙うフィッシングも盛んである。
 ヒメマスの釣り場としても知られる。
 本栖湖は、ウィンドサーフィンのメッカであり、夏季には多くのウィンドサーファーが訪れ、湖面に吹く風を利用して、多くのサーフィンが行き交っている光景が見られる。

           
            与謝野晶子にも詠まれている本栖湖からの富士山の絶景

与謝野晶子の歌碑 「本栖湖を かこめる山は 静かにて 烏帽子が岳に 富士おろし吹く」

 富士山はどの場所から見ても感動する山である。 季節や天候によって、一日の太陽の位置によっても表情を変える山でもある。
 その魅力や奥域には限りない深さがあり、永遠に飽きることのない山である。
 今回の気ままな旅は、いつも利用しているエステイマではなく、新しく購入したマイカーによる試乗ドライブの3泊4日の旅であったが、思いがけないほどの好天に恵まれ、富士山が見事な眺望を見せてくれた大満足の旅であった。

 本栖湖からの富士山の眺望をしばらく楽しんだ後、私たちの愛車は、国道139号に入り、富士宮方面に向かって行く。
 途中、朝霧高原にある道の駅に立ち寄り、再び、国道139号を南下し、富士宮道路を経由、「富士IC」から東名高速道路に入り、大阪方面へ走行して家路について行く。