気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

南大阪にある子供中心のハロウイン祭

2008-10-27 19:13:13 | 今日の出来事
 10月25日(土)今日は南大阪にある、団地の子供会主催による、4回目のハロウイン祭が行われた。

 ハロウイン祭は、元々、欧米の祭りとして行われていたものが、最近、日本でも注目されるようになってきています。
 ハロウインのもとになったと考えられるのは、現在の英国と北フランスあたりにある、ケルト人が住んでいた所のお祭りです。
 ケルト人にとって、太陽の神様は、作物の収穫や一日の労働をつかさどる大切な神様で、厚い信仰をもっていました。
 作物の収穫が終わり、寒くて暗い冬の季節が始まる日として、11月1日(万聖節)が新年とされていた時代のことです。
 従って、一年の終わりは10月31日となります。
 一年の最後の夜は、使者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていました。
 これらから身を守るために、みんなで仮面をかぶり、魔除けの焚き火を焚くようになったと伝えられています。
 日本のお盆の迎え火や、送り日にもよく似ています。
 こういったことから、何時しか、31日の夜は、くりぬいたカボチャの中に、ローソクを立てて「トリック・オアー・トリート(お菓子をくれないと、いたずらするぞ)と唱えて、近くの家を一軒ずつ、訪ねるようになったといわれています。
 最近のアメリカにおいては、ハロウインの宗教的な意味を失い、子供達の楽しみの日となっているようです。
 子供たちは、魔女や幽霊、お気に入りのキャラクターなどに扮装して楽しんでいます。
 ハロウインといえば、かぼちゃですが、日本のかぼちゃと違って皮がやわらかく、くりぬきやすくなっています。
 かぼちゃは、黄色かオレンジ色のものが使われ、顔の形にくりぬいて、他の飾り物と一緒に、賑やかに飾ります。
 かぼちゃの中側にキャンドルを置くと、かぼちゃ提灯になり、幻想的な世界を演出して、お祭りムードを一層高めてきます。 
 
 南大阪の団地においても子供たちは、思い思いに扮装して、楽しそうにやってきます。
                 (10人前後のグループに別れてやってくる)
  チャイムが鳴って、玄関に出ると、綺麗に扮装した子供たちが、「お菓子をくれないと、いたずらするぞ」 と大きな声で叫んでいます。
 いたずらされると大変ですから 「差し上げます、差し上げます」 と言って、
玄関に子供達を迎え入れ、一人一人に綺麗な袋に入ったお菓子を渡します。
 子供たちは、お菓子をもらった後、玄関前に全員が一列に並んで、「ありがとう」 と大きな声でお礼を言って去っていきます
 そして、暫くすると また、次のグループがやってきます。

          
             最初にやってきた小さな子供の多いグループ

           
  玄関の階段を上がってくるにこやかな女の子 Vサインの男の子と美しく扮装した女の子

          
          ”お菓子をくれないといたずらするぞ” 

          
               思い思いに扮装してやってくる子供達

           
                 綺麗に扮装してやって来た子供たち

          
           可愛らしい衣装を身にまとい手に飾りを持っている女の子

          
            全員 大きな声で 「ありがとう」 といって去って行く

           
     着飾ったベビーカーの女の子 顔に虎の鬚を描きにこやかに笑っている女の子

           
  お菓子をもらって明るい表情の男の子 お菓子をもらって満面の笑顔で階段を下りる女の子          
         
          
                最後のグループ全員で記念の撮影      
     
          
               グループのお母さんも子供に負けず大扮装 

     
          
          目を上に向けとぼける男の子と真っ直ぐに見つめる小さな弟   

 4年前に団地の子供会で始まったハロウイン祭、この祭りは、まだ目新しく、知らない人も多くいます。
 本来の意味から、一般の人まで浸透していくのには、まだまだ時間がかかりそうです。
 ただ、子供達にとっては、楽しみの日となっています。
 子供達が扮装したり、飾ったりしている服装にも、年々、工夫が見られるように感じてきます。
 今年のハロウインで扮装する衣装や飾り物はどうするか!
 準備したり、考えたりすることも大変であるに違いないが、これも一つの楽しみでもあり、 家族の思い出をつくっていく、大切な出来事でもあるに違いありません。 
 上記にハロウインの歴史や、世界の状況について少し触れましたが、このような永い歴史と伝統のある祭りを、少しでも知ることによって、この祭りに対して違った見方が出来るかもしれません。
 また、この一風変わった祭りのハロウインは、日本各地で秋に行われる祭りとも大きく違っています。
 日本の秋祭りの多くは、五穀豊穣の感謝や祈願で、それに歌や踊りが加わったものや、神輿やだんじりなどの、担いだり、曳行したりするものですが、ハロウインは幽霊やお化けを対象とした祭りで、見ている人々をびっくりさせることに重きをおいているようです。
 それ故に、明々の人々が奇抜な衣装に扮装して、びっくりさせるような化粧を顔に施し、人々を驚かせるのをよしとしています。
 恥ずかしがっていては、何も出来ない祭りでもあります。
 ハロイン祭が、世界的に広がっている理由も、個人の奇抜なアイデアーで、自分を自由に表現できる祭りであることが、受けているように感じています。
 次回の、この団地のハロウイン祭でも、子供たちが一層、奇抜に扮装して驚かしてくれることを期待してやみません。 

熱気と興奮 熊取だんじり祭り 2008年 その2

2008-10-21 12:05:46 | 今日の出来事
 2008年10月12日(日) 今日も朝から上天気になっている。
 今日も関西空港の近くにある、熊取町ではだんじり祭りが行われる。
 昨日は、町内11地区のだんじりが、大森神社迄曳行して宮入、お祓いの儀式に臨んだ。
 今日はそれぞれの地区のだんじりが、JR熊取駅を中心に曳行され、パレードを行う予定になっている。
 朝から町内各地区の、太鼓や鉦などの囃子が、街中に鳴り響き、お祭りムードが漂っている。
 ドンドンヒャララ、ドンヒャララ、ドンドンヒャララ、ドンヒャララ・・・・・

 特にJR熊取駅前は、交通規制も行われ、全ての車が通行止めとなっている。
 私たちは、駅近くにある知り合いの駐車場にマイカーを止め、だんじり祭り見物に出かけた。  
 駅近くにある大久保東交差点で立っていると、早速、だんじりが大きなかけ声と、囃子を演奏しながら勇ましくやってきた。
 この交差点は、旧170号線から右に廻る角地である。
 通常、ほとんどの乗り物は、直線から直角に曲がる場合、スピードを落とし、慎重に曲がるのであるが、だんじりはそうではなく、スピードをあげ、勢い良く走りながら、方向を直角に曲がるのである。
 4トンもある重いだんじりを、走りながら操作するのは、容易な事ではない。
 だんじりを曳行する人たち、旋回のきっかけをつくる前梃子、舵取り役の後梃子、後梃子に合図をおくる大工方、それぞれのタイミングを合わせるのが難しく、各だんじりの腕の見せ所となっている。
 狭い路地で、速やかに、正確に、曲がり角での「やりまわし」を行うには、だんじりのそれぞれの持ち場を受け持つ人たちと、息が合うことが大変重要となってくる。
 そのためには、各地区のリーダーの役割が大きく、常に仲間意識の高揚に努めなくてはならない。
 もし、結束が乱れ、スピードが出すぎて、曲がり角を廻れなく、電柱や家屋等に激突したり、だんじりが転倒し、重大な事故に発展する可能性も考えられるからだ。 
 
 眼前の曲がり角で、だんじりがスピードを上げ、見事に「やりまわし」を行っている。
 屋根の上では、大工方が、両手に団扇を高々と掲げ、パフォーマンスを見せている。
 そーりゃ そーりゃー の大きなかけ声をあげながら走り抜けて行った。

 そのやりまわしを見物する多くの観衆は、危険を顧みずに、勇壮に突進してくるだんじりや、その屋根の上で、団扇を両手で持ち、独特のパフォーマンスを繰広げる大工方の姿に魅了され、熱気と興奮のるつぼと化かして、大きな歓声をあげるのである。

          
           やりまわし時、だんじりの屋根上でパフォーマンスをする大工方
            そーりゃ そーりゃ 大きなかけ声と歓声が湧いている

          
          熊取町内を大きなかけ声をかけながらパレードするだんじり

          
           曲がり角で勢い良くやりまわしをする大工方のパフォーマンス

          
         だんじりが何台も集結して待機するが囃子は鳴り止む事がない

          
          だんじりに乗込んで囃子を演奏する鳴り物係りの青年達 

          
           熊取駅方面へ何台ものだんじりが順番待ちで集結している

          
         やりまわしに入る直前のだんじり、スピードに勢いがついてくる
 
          
        だんじりを曳行する少年少女達、この後やりまわしで走り抜けて行く           

          
         JR熊取駅前に入る順番待ちの合間に青年から物を受け取る女性

          
           大勢の観衆が取り囲んでいるJR熊取駅に向かうだんじり

          
           駅前にやって来ただんじり大勢の観衆から大歓声を受ける
                   
           大勢の観衆がつめかけ、ごった返しているいるJR熊取駅前 

          
        駅前では各だんじりがこのようなデモンストレーションを行い大歓声に包まれる                   

          
      どのだんじりでもこのようなデモンストレーションが行われ、この後、福袋が投げられる 

          
      見事なデモンストレーションを繰り広げるだんじり、まるで紙テープの芸術品に見える  

          
         デモンストレーションを終え、やりまわしで華麗なポーズをとる大工方
       そーりゃ そーりゃ の大きなかけ声と囃子が駅前全体にこだまする
         
           
            色とりどりのデモンストレーションを見せる駅前のだんじり         
 
          
           デモンストレーションを終えた後やりまわしに入る直前のだんじり

 その後、そーうりゃ そーうりゃ の大きなかけ声と共に、一気にスピ-ドをあげ、やりまわし 体制に入る。
 大工方の華麗に舞うパフォマンスと間近に見るだんじりのダイナミックさに、多くの観衆から拍手と大歓声が湧き上がる。
         
          
         やりまわしを終え、駅前から移動するだんじりと後梃子の人たち

          
       やりまわしを終える直前まで飛び跳ねる大工方と駅前から異動するだんじり  

          
            だんじりの後を駆け足で追っていく家族連れの子供達

          
       大勢の観衆の見守る中、駅前から移動するだんじりの後梃子の人たち  

          
   そーりゃー そーりゃー 駅前のデモンストレーションを終えて曳行されて行くだんじり


 絶好の祭り日和となった今日の日曜日、私たちは、時間のたつのも忘れ、JR熊取駅の陸橋の上から、だんじり祭りを見物していた。
 駅前では、電車以外の全ての交通機関が規制され、多くの観衆が訪れて大きな歓声に包まれている。
 また、駅前はこうした多くの人たちの、熱気と興奮が漂い、大変なお祭りムードに盛り上がっている。
 町内各地区のだんじりが、太鼓や鉦・笛などの囃子を鳴り響かせながら、そーりゃー そーりゃ の大きなかけ声と共に次から次へとやってくる。
 駅前にやってきただんじりが、パフォーマンスや、デモンストレーションを行う度に、大歓声が巻き起こっている。
 やはり、駅前のだんじり祭りの盛り上がり方は、明らかに他地区とは違っている。
 
 駅前広場全体を大観衆が取り囲み、その中で繰広げられる、デモンストレーションや、やりまわしのパフォーマンス、それに、けたたましく鳴り響く囃子や、そーりゃ そーりゃ の大きなかけ声、必然的にムードは盛り上がり、駅前広場全体が、熱気と興奮のるつぼとなっている。
 それに、だんじりを曳行する人たち、大工方、前後の梃子の人たち、だんじりに乗り込んでいる鳴り物係の人たちなど、全ての人たちにも、だんじり祭りの熱気と興奮が伝わっているのか、勇ましい顔がら熱血が溢れ、ひとつひとつの動作が、リズミカルになっているように思える。
 
 思えば、私達の住んでいる日本列島は、北から南まで、各地方ごとに多くの祭りがあり、日本人は大変な祭り好きの国民であるように思えてくる。
 屋台や山車、曳山などで曳行する祭り、神輿などを担ぐ祭り、七夕などの飾りのまつり、よさこい踊りや阿波踊りのような、踊りを中心とした祭りなど、様々な祭りが執り行われている。
 どの祭りにも、その地方や地域の歴史・風土・風習から生まれてくる伝統を感じる。
 お祭りは、祭りに参加したり、見学することによって、日頃のストレスを発散、明日への希望と勇気とエネルギーを与えてくれる。
 その時代や人々は、必然的に変わっていくが、こうした祭りの伝統や、それに伴う技術や文化などは、何時までも次世代に継続して、新たな伝統の一歩を築いてほしいと、願わずにはいられなかった。 

熊取だんじり祭り 2008年 その1 

2008-10-20 19:24:29 | 今日の出来事
 10月11日(土)朝から囃子の鉦や太鼓が、ドンドン ヒャララ ドン ヒャララ・・・街中に鳴り響いている。
 今日は、だんじり祭りが熊取町で行なわれる。
 昨日からの雨もあがり、今日は朝から上天気で、絶好の祭り日和である。
 だんじり祭りは、近郊にある岸和田市が有名で、大勢の人が見守る中、4トンもあるだんじりを、角地で勢い良く「やりまわし」する様子は圧巻で、テレビで放映され、全国的にも有名である。
 熊取町の祭りも、それに劣らぬ人気があり、町内挙げての開催で、いたる所で大勢の観衆が訪れ、熱気と興奮に包まれている。 
 「そーりゃ、そーりゃ」 のかけ声が、太鼓や鉦などの囃子と共に街中に鳴り響いている。
 初日に当たる今日は、各地区のだんじりが、宮入と称して、町内にある大森神社
まで、曳行してお祓いを受ける儀式が行なわれる。
 明日の日曜日は、町内を曳行するパレードが予定されている。
 
 広辞苑によると「だんじり」とは、「壇尻・楽車・山車」と表記され、祭礼の曳物のひとつで、車上に、山・人物・草木・禽獣などを飾り立て、囃子を行うものとある。
 泉州地方では、「地車」 と書いて「だんじり」とよんでいる。
 だんじりは、歴史的にも古く、色々な説があるが石器や弥生式時代の頃に、大きな獲物を矢尻で倒し、集落の老若男女が、綱を曳いて村まで運んだ。
 この後、柴や木、竹などに獲物をくくりつけ、多くの者が曳き、大きな声を出したり、歌や踊ったりして、喜びを表現した。
 日本の多くの祭りがそうであるが、秋の収穫が終った後などの、五穀豊穣に感謝、祈願したものが、色々な形に変化していったものと思われる。

 この泉州地域で行われているだんじり(地車)は、4つのコマ(木製の車輪)に、美しい彫り物をほどこした台を造り、その上に屋根を乗せ、曳行するシステムである。
 屋根には、大屋根と小屋根の二つの屋根がある。
 大屋根が前方、小屋根が後方にあり、段違いで造られている。
 屋根の上に乗って、団扇を手に、跳ねたり飛んだりしながら華麗に舞う人を、大工方(だいくがた)と呼んでいる。
 大工方は、大屋根には一人、小屋根には3人ほど乗っている。
 特に大屋根に乗った大工方は、だんじりの方向を、前の見えない後梃子(うしろてこ)の人たちに指示したり、速やかに方向転換するやりまわし時に、屋根の上で、勇壮で華麗なパフォーマンスを表現し、多くの観衆を魅了する役割を担っている。
 4トンもあるだんじりが、「そーりゃ そーりゃー」の曳き手たちのかけ声のもとに 勢いよく方向転換する際に、大工方が屋根上で、両手を左右に大きく広げ、だんじりと共に勇壮に舞うシーンは、だんじり祭り最大の見所である。
 大工方は、プロフェッショナルの要素が高く、熟練が必要だとされている。
 大屋根の下には、4本の柱に囲まれた空間があり、囃子を担当する鳴り物係りが乗り込んでいる。
 鳴り物の囃子は、大太鼓、小太鼓、鉦、笛などで、祭りのムードを高めるべく最初から最後まで演奏してやまず、かなりの体力を必要としている。
 だんじりの後ろには、大きな棒が台に固定され、長い綱で結ばれている。
 この大きな棒を後梃子(うしろてこ)と呼んでいる。
 後梃子は、大工方の合図により、押したり、引いたりしながらだんじりの方向をコントロールする。
 台の前方には、左右に2本の木の棒が差し込まれている。
 これは、前梃子(まえてこ)と呼ばれ、方向転換するやりまわしの時に、内側のコマ(木製の車輪)の回転を抑え、だんじりを廻りやすくする役割であるが、危険が生じる恐れの時には、急ブレーキをかける事もある。
 このように、前梃子を操作する人は、最も危険な役割の為、素質と技術を要求されると共に、全体の規律やチーム全体の連携を保つ、重要なことも課せられている。
 各地区のだんじりの前後には、お祭りのムードを盛り上げる為に、色彩豊かで美しい大きな飾り物が取り付けてある。
 だんじりの後には、長い綱が取り付けられ、各地区の青年団を離れた人や、婦人会や小さな子供などが、揃いのハッピを着て、行列に加っていたり、追っかけ隊などもあって、だんじりの後を走りながら追っている光景が、祭り見学に訪れた観衆の目を潤わしている。

 11日(土曜日)は熊取町11地区(朝代・和田・大久保・紺屋・五門・野田・七山・小谷・久保・小垣内・大宮)のだんじりが、大森神社に宮入りする。
 宮入順は、大森神社から遠い地区から宮入するように決められている(毎年上記の順に決定)

          
              出発前の入念な整備とチエックを行なう(大久保)

          
          整備しながら車軸にコマ(木製の車輪)の取り付け作業をする

          
               だんじりの美しい彫り物(大久保)  

           
          最終チエック(だんじりの後方)   整備完了 サー出発
           
          
            多くの人たちによって曳行されるだんじり(大久保)

この大久保地区のだんじりは、多くの人たちに曳行され、お祓いを受ける為に、4kmほど先にある大森神社へ宮入りする。

          
       町内至る所から大森神社に宮入して、お祓いを受ける為に向かうだんじり

          
               だんじりを待つ大森神社の境内

 大森神社の境内には、多くの観客が取り囲んでいる、中央には伽藍があり、この伽藍をだんじりは2周半する。
 伽藍を廻るだんじりは、速やかに廻ることを良しとされており、狭い境内を止めずにスムーズに廻ることは、なかなか難しく、それなりの熟練と、指図する人、曳行する人たちの息が合致することが要求される。
 特に境内は砂利で覆われており、おまけに昨夜からの雨で多少ぬかるんでいる。
 4トンもあるだんじりが、狭い境内の中での、速やかに曳行されるシーンは見ごたえがあって、多くの観衆がつめかけ、歓声をあげている。
 だんじりは、境内の中央にある伽藍を2周半したところで、神社からお祓いの厳粛な儀式を受ける。
 お祓いを受けただんじりは、境内の所定の位置(毎年決まっている)に、だんじりを止め、全てのだんじり(11台)のお祓いの儀式が終了するまで待機することになっている。

          
             大森神社の境内に次から次へと入って行くだんじり

           
          神社境内に入っただんじりは、最初に中央の伽藍を2周半する。 

           
      槍のようなのぼりをあげながら行進する  だんじりの御祓いをする神主さま
 
          
      境内の中でリーダーの合図の基に、一気にだんじりの曳行を開始する  

          
                境内でだんじりを曳行する女性たち

          
              境内の中央にある伽藍を2周半するだんじり  

           
           大屋根の上で華麗なパホーマンスで観客を魅了する大工方 

           
         伽藍を2周半するが止まらずに速やかに廻ることがよしとされている。  
        
            
 神前にてお祓を済ませ、玉ぐしをだんじりに取り付ける 境内に入ってくるだんじり

            
             お祓いを受けただんじりは全て所定の位置に集結する 

 
 熊取町のだんじり祭りの一日目は、各地区のだんじりが大森神社にいっせいに集まり、お祓いの儀式に望んだ後、それぞれの地区に曳行されて帰っていく。
 勿論、だんじりの太鼓や鉦、笛などの囃子は、鳴り止むことなく、街中に響き渡り、だんじりの方向転換する、やりまわしの時は、そーりゃ そーりゃー と大声を あげながら、だんじりを走りながら曳行して行く。  
 この光景を見たく、だんじりが方向転換する角地では、大勢の観衆がつめかけ、大きな歓声と拍手が湧き上がり、祭りムードを一層盛り上げている。
 夜になると、だんじりには灯入れが行われ、曳行されるが、時には子供達もだんじりに乗り込み、太鼓を叩くこともある。
 夜遅くまで、囃子は街中にこだましやむ時がなかった。
 明日は町内のパレードで行われ、祭りムードが、一層盛り上がっていくに違いない。
         

剣豪・武蔵伝説のある五宝滝

2008-10-16 13:07:34 | 気ままな旅
 9月24日(水)小山観音の見学を終えた私たちは、隣町の八百津町にある五宝滝(ごほうのたき)に向かった。
 五宝滝は、五宝滝公園として整備され、飛騨木曽川国定公園に位置している。
 八百津町は、中央を木曽川が流れ、中ほどには巨大な丸山ダムが満面の湖水を湛えている。
 その下流には木曽川三十六景の一つにあげられ、ダイナミックな岸壁を見せる蘇水峡がある。
 また、八百津町には、第二次大戦中、ナチスドイツの迫害から逃れようと、ポーランドからリトアニアに脱出してきた、ユダヤ人6000人の命を救った、外交官、杉原千畝の偉大な功績を称え、後世の人達に伝へようと「人道の丘公園」が造られている。
 小山観音からは、木曽川沿いの道を通り、山沿いに20分ほど行った所に、五宝滝はあった。
 五宝の滝駐車場から、武蔵渓谷の川沿いの道を5分ほど行くと、公園広場があり、その片隅で水車が回っている。
 こちらの遊歩道から、武蔵渓谷の川をまたぎ、対岸の公園へ行くには、木造のむさし橋が架けられているが、工事中の為に、上流側にできた仮設橋を渡らなければならなかった。
 この公園には、武蔵の広場があり、宮本武蔵のレリーフも掲げられている。
 手前の奥には、水車小屋が作られ、和と洋の調和を印象付け、反対方向には武蔵の広場が広がっている。
 
                  
                清流が流れ 彼岸花が咲く武蔵渓谷  

         
          和と洋の調和を感じる、奥には武蔵の広場が広がっている

                              
                     宮本武蔵のレリーフ 
            
 五宝滝は、一の滝44m、ニの滝23m、三の滝13m、の全長80mに及ぶ壮観なる三段の滝と円明の滝、ニ天の滝の、五つの滝から成り立っている。
 ここのように一望できる三段の滝は、全国的にも珍しいといわれている。

 二刀流の開祖、宮本武蔵(1584~1645)が八百津・大仙寺の愚堂国師(1577~1661)に、禅の教えを請いながら、修業のため打たれた滝が、円明の滝とニ天の滝といわれている。
 武蔵は20代の頃の兵法を、円明流と称していたが、30代~40代にこうした禅の教えや、独自の修行を通してニ天流の新境地を開いた。
 円明の滝と、ニ天の滝の命名は、ここからの引用によるものであるようだ。

                  
                    和のムード漂う水車小屋 


          
             武蔵渓谷の清流に架けられた工事中のむさし橋           

 武蔵渓谷をまたいでいる、むさし橋の手前で道が分かれ、私たちは左の道を行く。
 五宝滝ハイキングコースにもなっている遊歩道である。
 道筋に従って5分程行くと、赤い欄干の小さな橋があり、また、道が分かれている。
 私達は、五宝の滝方面と看板に書かれた、左側の道を登って行く。
 少し行った所から、傾斜がきつくなるが、5分ほどで東屋に到着する。
 東屋は遊歩道から10m程、滝とは逆方向に進んだ所にあった。
 東屋で後ろを振りむくと下記の写真のように、すばらしい三段の滝が見えている。
 一の滝(上44m)、ニの滝(中23m)'、三の滝(下13m)の総延長80mの壮観な、三段の滝の全景が、見渡せる絶好のポイントの場所であった。
 私たちは、時間の立つのも忘れ、暫くここからの景観に見とれていた。
  秋の紅葉のシーズンには、鮮やかな色彩を放つ、もみじなどの落葉樹林が、美しさを際立たせ、滝とのコントラストを一層引き立てているに違いない、と思った。
 現在の三段の滝周辺は、緑の中に滝からの白い流水が、帯状になって、縦の段差状の白線を描きながら流下している。
 この白い流水を所々で、緑葉がさえぎっているが、全体の景観は、なんとなく清楚で、気品が感じられ、女性的な雰囲気をかもしだしている。

           
        上から一の滝44m、ニの滝23m、三の滝13mの三段の滝 全長80m 


             
                三段の滝で一番下にある 三の滝13m

             
       三段の滝で真ん中にある ニの滝13m  ニの滝と 一の滝(上44m)

  ニの滝と三の滝との間には朱色の橋が架かっている。
 この橋の上に立っていると、山のさわやかさが伝わってくる。
 滝の流水から発生するマイナスイオンが、この近辺に広がり、私達の気持ちに一層の落ち付きと、安らぎを与えてくれているようだ。
 この橋から見上げた、二つの滝と一の滝の景観もすばらしい。
 さわやかな気分である。

            
               三段の滝の一番上にある 一の滝44m

 朱色橋のあるニの滝から、傾斜の急な坂道を登ると、一の滝44mがある。
 一の滝には、小さな石を組合わせた、庭園のような滝つぼがあった。
 滝つぼの、すぐ側まで行って撮影することも出来るが、44mの上空から流下する滝を、下から見上げるのも圧巻である。
 滝つぼは小さく、その周辺を緑が覆って、滝つぼから流れてくる清水は、短い川を作り、下流のニの滝を形成しながら流下していく。
 滝つぼ周辺の狭い所で、場所を変えながら撮影をしていると、水しぶきが時々おそいかかり、カメラのレンズを濡らしてくる。
 また、滝の全景を撮ろうと、滝つぼの後ろに下がると、そこは、ニの滝の崖っぷちになっていて、下を見ると、あまりの高さに恐怖を感じ、足が竦んてくる。
 このような狭い場所での撮影は、細心の注意日が必要だ、数枚の撮影をして終える。 face_hohoemi/}
 また、この滝つぼの場所から、眼下に広がる景観もすばらしく、八百津方面の街並みが見渡せる。
 この滝つぼ近辺も、マイナスイオンが多いのか、心地よい感じがしてくる。{/

                 
          ニ天の滝(上)と円明の滝(下)(八百津町発行のパンフ)               

  宮本武蔵ゆかりの円明の滝とニ天の滝は、一の滝から急傾斜地を登って、登りきったと所から、今度は逆に、下ってしばらく行った所にある。
 しかし、私達には、顧客との待合せ時間が近づいていた。
 私も吉川英治の宮本武蔵を読んだり、映画などを何度か見て、興味が湧いていたが、今回は見送らざるを得なかった。
  
 上の掲載写真は、八百津町発行のパンフをスキャナしたものである。
 宮本武蔵が修業したと言い伝えられている、ニ天の滝(上)と円明の滝(下)である。

 次回にこの地を訪れることを心に秘めながら、一の滝から元来た道を下って行った。 



                  

青々としたダム湖に浮かぶ 「小山観音」

2008-10-13 20:24:26 | 気ままな旅
  9月24日(水)私たちは、岐阜県美濃加茂市にある、道の駅「日本昭和村(平成記念公園)」で車中泊をしていた。
 昨夜は予定していたビジネスが、明日に変更された為に余裕が生じてきた。
 「どうしょうか!」と妻と相談していると、
 妻が「ブラジルの親戚にあたる人が、美濃加茂周辺に住んでいる」
 「前々から一度会いたい」と話をしていたといった。
 早速、妻が連絡をとると「すぐ合いたい」とのことであった。
 住所を確認すると、私たちのいる場所からすぐ近くに住んでいた。 
 早速、行って、何十年ぶりかの旧交を温めた後、この道の駅、「日本昭和村」にやって来た。
 この道の駅である「日本昭和村」は、この近くに来た時は良く利用している。
 というのも、ここには、すばらしい入浴施設の昭和銭湯「里山の湯」があるからだ。
 昨日は「秋分に日」であったせいか、1000台以上の広い駐車場が、ほぼ満車になっていた。
 そのせいか、この入浴施設も多くの家族連れなどで、ごったがえしている。
 「里山の湯」の建物は、鎌倉時代の武家屋敷を想像させるような、黒塗りの建物で、なんとなく落ち着きを感じさしてくれる。
 広い廊下があって、その外にできた湯につかりながら、前面に広がる森を眺めていると、一日の疲れを全て忘れさしてくれそうであった。
 私は特に、この外湯が気に入っている。

 今日は天気も良さそうであった。
 美濃加茂市内の、客先への訪問時間までは、大分余裕があった。
 それまで、どこに行こうか!パンフや地図などを見ていると
 美濃加茂市の隣にある八百津町に、五宝の滝があった。
 そこに行ってみよう! ということになった。
 早速、愛車エステイマで向かって行った。
 道の駅「日本昭和村」から、国道41号線を過ぎ、R350号線に入って、飛騨川に架かった橋を渡っていると、ダム湖が見え、真ん中に島がある、島の中には、緑で覆われた寺院のような建物が見えている。
 急に興味が湧き、愛車を少し行った所で停車させた。
 橋にもどり、写真撮影をしていると、一人のおばあさんが通りかかった。
 おばさんに、この島のことを尋ねると、「観音さまかネー ごりやくがあるから、あんたたちも御参りするといいがネー」と言ってくれた。
 目の前の距離である。

 この飛騨川のダム湖(今渡ダム)に浮かぶ観音さまは、小山観音(こやまかんのん)と「子授け観音」と呼ばれ、左岸にある小山寺(しょうさんじ)に属している。
 小山寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は仁慈山である。
 本尊は、馬頭観音、三面六臂の立像で、養蚕の守護仏とされている。
 また、開運にもご利益があるといわれ、美濃三十三観音霊場第二十九札所である。

 この観音さまは、元々は陸続きの岩山にあったが、下流の木曽川(飛騨川は1kmほどの下流で木曽川と合流、その下流にダムが造られた) に今渡ダムが完成すると、周りが水没し、陸の孤島となってしまった。
 その後、かんのん橋が昭和13年に完成し、飛騨川左岸と結ばれる。  

        
                  今渡ダム湖に浮かぶ小山観音堂

                   
                     小山観音堂を左岸より望む

           
                小山観音への渡り橋「かんのん橋」手前
         
 この小山観音のある中の島周辺は、飛騨木曽川国定公園に指定されている。
 小山観音には、平安の末期、木曽義仲がこの地で病死した母親の菩提を供養する為に訪れ、大波の中を小船で中の島に渡ろうとした折に、水の中から馬頭観音を背にした竜神が現れ、波を鎮めたことに、多いに喜んだ義仲が建立したと伝えられている。
 現在の小山観音は、蚕の本尊としてだけでなく、無病息災、道中の安全ほか、子授けの本尊としても、人々から深い信仰を集めている。
 ダムの完成によって出来たダム湖は、青柳薪水湖と呼ばれ、緑濃い樹木に覆われ、観音堂のある中の島を、水面が静かに映し出している。
 ダム湖の下流にある、日本ラインの男性的な渓谷美や、激しい流れとは面白い対象をなしている。
  
           
                 かんのん橋より小山観音堂を望む

 ダム湖に架けられたかんのん橋を渡っていると、参拝を終えた多くの方々に出会った。
 このように青々とした静かな水面のダム湖に、中に島があり、架けられた橋からの光景のすばらしは、なんとも言いようのないムードをかもし出している。
 
            
                   かんのん橋参道より観音堂

 子授け観音にも伝説があった。
 室町時代の永享6年(1434年)頃、近くの上蜂屋村の女性、お島が子供を授かる為に、「百日間の願掛け」を行なった。
 すると、百日目の夜に白鬚の老人が夢に現れ、「唐銭を一枚飲み込めば子が授かる」という お告げを受ける。
 お島は、お告げ通りにすると、男の子を授かったという。
 不思議なことに、その男の子は左手に、その唐銭をにぎって産まれてきたという。
 「この男の子は、観音さまの子供に違いない」と思ったお島は、小山観音を厚く信仰した。
 その後、この男の子は仏門に入り、後に仁済禅師となる。
 お島と仁済は、後に周元通宝300枚を溶かして、高さ一尺の馬頭観音を造り、小山観音の新たな本尊にしたという。

                     
                         石段下よりの観音堂

            
                  観音堂拝殿 天上に飾っている蛇 
           
 この観音堂拝殿にある蛇は、観音堂で何かと世話をしている、おばあさんの話によると、参拝者が松ぼっくりで造った物を寄贈して飾ってあるとのこと。
 また、現在でもこの島には、このような大きな、蛇が住みついている様で、年に何回かやってきて、境内にある木の上で、日向ぼっこをしているらしい。
 参拝に訪れた人々からは、縁起がいいといわれ、大切にされているとのことであった。
 信者の中には、この蛇の抜け殻が縁起がいいといって、家に持ち帰り大切にされているとの話もあった。
 
             
                  身代わり地蔵菩薩
 
 このお地蔵さまは、特に水難より守護をしてくれるとのこと。異常気象の昨今、水害を心配される方は御参りして念ずれば、ご守護がいただけるかも!
 

              
                 撫で仏薬師如来
  
 自分の体の悪い所を、薬師如来さまを撫でて、念じて御参りすれば、平癒すると信じられ、参拝者が後を絶たないそうだ。

            
                   美濃三十三観音霊場第29番札所

            
                    飛騨川沿いある小山寺

             
                小山寺よりダム湖中の島にある小山観音堂を望む

 通りがけに、偶然に見つけて立ち寄った小山観音、やはり、それぞれの地域には文化や歴史があり、地域の人たちと関わり、密接につながりながら、歩んできたきたことを知ることが出来る。
 参拝と見学を終えた私達も、今日の快晴の天気のように、晴々した気持ちにさしてくれていた。
 一時間程の短い滞在であったが、私達は満足し、次の目的地である「五宝の滝」に向かった。 
            

天下の奇祭で有名 男の神さま 「田縣神社=たがたじんじゃ」

2008-10-11 22:28:16 | 気ままな旅
 9月23日(火) 秋分の日 今朝は、岐阜市の南側にある道の駅 「柳津」 で車中泊をしていた。
 暑くも寒くもなく車中の特性ベッドで、妻と二人ゆっくりと眠ることが出来た。
 今日も天気はよさそうである。
 午前中は、車で30分ほどの所にある愛知県一宮市で、ビジネスの付き合いのある女性と合って、荷物を受け取ることになっていた。
 約束の時間にこの女性と合って、近くにある喫茶店で、モーニングコーヒーをしながら、近況などについて話し合った。
 喫茶店のモーニングも、内容と価格から言って、人気があるらしく満席になっていた。
 愛知県と大阪府では、モーニングの中味に、大分差があるように感じる。
 1時間ほど話し合った後、私たちは特に、これからの予定を決めているのでもなく、ただ、近くの小牧市方面に向かって行った。
 今日は夕方に、岐阜県美濃加茂市でビジネスの約束があるのみで、それまでにこれといった予定は入っていなかった。
 どこに行こうか! 迷っているところに、小牧市内にあって天下の奇祭で知られている田縣神社(たがたじんじゃ)が浮かんできた。
 妻も行ったことがなく、早速、カーナビをセットして行くことにした。
 田縣神社には、30分ほどで到着する。 
 
 田縣神社は、男性の神様と知られ、同じ小牧市にある大縣神社(おおがたじんじゃ)は、女性の神様として知られている。
 中でも田縣神社の豊年祭は有名である。
 この例大祭である豊年祭は、天下の奇祭として知られ、檜で奉製した直径60cm、長さ2m余りの大男茎形(おおおわせがた/男性の性器)を、厄男達が御輿で担ぎ、奉納したり、平安衣装を身にまとった女性達が、長さ50Cm程の、木で出来た男茎形を胸に抱いて行進する姿も謁見であり、外国人観光客から熱い眼差しのスポットを浴びている光景が、目に沁みそうである。

 田縣神社の創建は、弥生時代までさかのぼり「母なる大地は、父なる天の恵みにより受胎する」 との古代人の民族思想より始まり、五穀豊穣・国土の発展を神に祈ったと伝えられている。
 古来より田縣神社には、男茎形(おわせがた)をお供えする風習があり、「生むは産む」に通じて、子宝・安産の子孫繁栄・企業・商売繁昌、さらには恋愛成就・縁結び・夫婦円満・厄除・開運・交通安全・諸病の平癒等の守護神として、全国の崇敬者に格別の尊崇を受けている。
   
 御祭神は
     御歳神(みとしのかみ)
      御歳神は素戔鳴尊(すさのうのみこと)の孫で大歳神(おおとしのかみ)の子。
      農業をつかさどる神で、五穀豊穣、企業繁栄の守護神。     

     玉姫命(たまひめのみこと)
      玉姫命は尾張地方開拓の祖神である大荒田命(おおあらたのみこと)
      の王女で、尾張氏の建稲種命(たけいなだねのみこと)の妃。
      恋愛、子宝、安産の守護神。  
    
     例祭日(豊年際)  
      豊年祭は天下の奇祭として有名で、毎年3月15日に執り行われている。
      この祭りは長さ2.5m程の大男茎形を御輿に担ぎ、万物育成・世界平和の願いをこめて、お旅所より御神前にお供えする神事である。      
      所在地  愛知県小牧市田県町152(問合せ 0568-76-2906)   
 
                   
                      田縣神社入口の大鳥居
 
 駐車場に車を止め、この大鳥居から田縣神社の境内に入って行く。
 左側に手水舎があり、若いお母さんが小さな女の子を連れて訪れ、手水舎で体を清めている。
 私が手水舎にカメラをむけていると、この女の子が私のほうに向かってニッコリと笑い、手を振ってくれたのが印象的であった
 手水舎の反対側には、田縣神社本堂拝殿がある。
 その親子も本堂に向かって進み、拝殿に立ってお祈りをしている。
 私達も本堂拝殿へと進んで行った。 

           
                       手水舎で体を清める母子

            
              田縣神社本殿で参拝を済ませてUターンしてくる母子  

            
          本殿拝殿に若いカップルが訪れて参拝 「子宝に恵まれますように ??」

                       
                           本殿に参拝する親子

            
               本殿に祀られている大男茎形(男性の性器)

            
              本殿に参拝するカップル(右)と外国人観光客(左)

 
 外国人観光客は、手にカメラを持っている、参拝する様子はなく、飾り物が珍しいのか、盛んにシャッターをきっている。
              (※本殿内部の御神体は撮影禁止になっている)
 本殿での参拝を終えた私達は、本殿左側にある奥宮に進んで行った。
 奥宮は、本殿の隣にあって、鳥居が立てられ、本殿と平行して参道があり、その奥に奥宮拝殿の建物がある。
 鳥居をくぐり、参道に敷かれた石畳を拝殿に向かって進む。
 参道の両サイドには、下記写真のような男性の性器を表した男茎が、境内いたるところに溢れている。

                      
                         奥宮の入り口   

            
        石畳の参道を真っ直ぐに進むと奥宮拝殿があり、両側には男茎があふれている。

 奥宮には次のように書かれた看板があった。
  「田縣の奥宮 千年の昔より遠近の人々願ひの叶ひしを喜びて、逸物を供える慣習あり、これをみて男子は、その雄大な形相に益々発奮して仕事に励み、女人はひそかに伺ひみて、願いかければ良縁を得る。また、子宝に恵まれるとぞ、生むは産むに通じて、商売繁盛には霊験いやちこなり」 とある。

             
                 奥宮の拝殿には大男茎形がお祀りされている

 奥宮には、恋愛、子宝、安産の守護神である玉姫命(たまひめのみこと)をお祀りしている。
 縁結びなどの御神徳を信じる参拝者も多い。

            
                 奥宮境内の男根と女陰を現した石

            
              何を現す! 周りには男根の小石を並べている 

            
              下の黒い石が女陰、上のささっている石が男根? 

            
                奥宮拝殿の上にはこんな飾りモノがある

           
           奥宮に御参りする女性、”どうか良いご縁に恵まれますように”

            
           奥宮境内に掲げられている絵馬 ”どうかお願いが叶いますように”

   全ての絵馬には男根が描かれ、「祈」文字が入っている 。
 
            
          奥宮右奥にある珍宝窟、至る参道脇には男根石が並べられている
 
 珍宝窟の石碑には
     「双玉の右をさすり 家内安全 商売繁盛・金運の願い
      双玉の左をさすり 安産 和合 願い事叶うと言い伝えられ
      遠近よりの参拝者後をたたず 霊験いやちこなり」とある。   
 また、横の石碑には 
     「玉さすり賽銭入れて珍となる」と書かれている。
 
 奥宮の右奥にある珍宝窟、参道脇には男根が並べられている。
 珍宝窟には二つの玉と、真ん中に男根が祀られている。
 この玉をさすりながら願いをとなえると、上記のようなごりやくがあるそうだ。
 真ん中の男根のことは、何も書かれていないが、男根をさすると左右の玉の願い事が、同時に叶うのだろうか!!

 また、賽銭入れは、賽銭を入れるとチンという音がする。
 
           
             珍宝窟正面から 二つの玉と間に男根が祀られている

 奥宮珍宝窟の見学を終えた私たちは、本殿西にある客殿に入って行った。
 客殿の間には、下記のような絵や、豊年祭の様子などを組み写真にして分かりやすく展示してあった。
                  
                     
                             男根の絵
 
 子孫繁栄、子宝に恵まれますようにと願って書かれたのだろうか!
 上の男根は、子孫繁栄を願った夫婦の営みそのもので、下の男根の上には、小さな武士が勇ましく描かれ、「俺はこれから、子作りに励み、子孫繁栄、五穀豊穣を願って頑張るぞ」と言っているように見えてくる。

           
   豊年祭の絵 大勢の人たちが見守る中を大男茎形の神輿を担いでいる姿や、男根を胸に抱いた女性の姿が描かれている

            
                 動物が大男茎形の神輿を担ぐ豊年祭の絵 

 この絵も豊年祭を動物が大男茎形の神輿を担ぎ、前面には小さな男根を大事そうに持った、女性に扮した動物が、行列する姿を描がいている。
動物達もみんな幸せそうな顔をしている
            
            
           
                女性の神さまを祀る大縣神社姫之宮
            
            
                大縣神社姫之宮の裏手にある女陰を現した姫石
             
 大縣神社(おおがたじんじゃ)は、田縣神社より車で、東に10分ほど行った所の山裾にあった。
 神社としては田縣神社よりも数倍の大きさである。
 鳥居をくぐり、真っ直ぐに進むと、朱色で塗られた美しい姫之宮があった。 
 いかにも女性的な感じのする建物である。
 姫之宮は、古来より安産、子授かりなど女性の守護神として祀られている。
 裏手には、女陰を現した姫石が祀られている。
          
 田縣神社は、数十年前までに何回か訪れているが妻は始めてであった。
 現在の日本は、高齢化社会を迎え、人口が減少して、少子化対策が重要課題にのぼっている。
 この神社に祀られているように、人間の本能である男と女の性や、人間の自然の原点である、夫婦で子供をつくり育てる事などで、人間社会を構成し、社会の必要としている仕事を通じて、人づくりから国造りまで、一丸となって励むことの大切さを感じさしてくれる。
 自然なかたちで、男は女性を愛し、家庭を愛し、仕事を通じて社会に貢献していく。
 女性は、男を愛し、子を授かり、子を産んで育て、愛情に満ちた家庭を築いていく。
 この神社に参拝していて、人間の本能や本質・自然の大切さを、あらためて感じさせてもらった気がする。



東西文化の中心遠江、龍譚寺の名勝庭園

2008-10-06 21:48:44 | 気ままな旅
  9月22日(月)の午後、龍ケ岩洞(りゅうがしどう)の見学を終えた私たちは、遠江(とおとうみ)の奥浜名湖にある龍譚寺(りょうたんじ)に向かって行った。
 龍譚寺は、愛車で15分ほどの距離の所にあった。
 龍譚寺の手前には神社(井伊谷宮)があって、お祭りをしているのか、紅白の幕が入口の鳥居近辺に多く張られ、大勢の人達で賑わっている。
 私たちは、この神社には寄らずに龍譚寺駐車場に愛車を止め、境内に向かって進んで行った。

 この龍譚寺の歴史は古く、奈良時代の天平5年(733年)行基菩薩によって開創されたと伝えられている。
 龍譚寺のある奥浜名湖の「井伊谷」一帯は、古く「井の国」と言われ、井の国の大王が治めた土地であるそうだ。 
 平安時代に遠江(とおとうみ=現在の静岡県大井川以西で、遠州ともいわれている)で、元祖、伊井共保ガ生まれ、伊井氏はこの地方の有力武士として育っていく。
 伊井氏は、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代は、後醍醐天皇の皇子、宗良親王(むねよし しんのう)を、伊井城に迎えて北朝軍と戦った名門である。
 24代伊井直政は、徳川家康に仕え、伊井の赤鬼として恐れられ、関が原の合戦では大活躍、徳川四大王の筆頭に出世して、彦根18万石を与えられ、彦根に移ってくる。
 開国の偉業を成し遂げた、幕末の伊井大老も伊井家の人である。
 龍譚寺は、その1000年余りの間に、伊井家40代の祖霊を祀り、菩提寺として、彦根龍譚寺と共に、その歴史を今日に伝えている。

 駐車場から龍譚寺の境内に入ると、参道の石畳が山門の方に向かって、白壁の塀とともに真っ直ぐに延び、石畳のそばには、形の良い松や樹木が植えられている。
 石畳の参道から、四脚作りの山門をくぐると、右直角方向に参道は曲がり、少し真っ直ぐに行った所で、今度は左方向の石段をすこし登る。
 周りの樹木や白壁の塀などが、寺院の風采を一層高めている。
 今度は本堂方面に石畳の参道が延び、途中の右側には庫裡(くり=住職の住まい)が、左側には東門があって、その奥には鐘楼の伽藍が建てられている。
 鐘楼が建てられている台からは、朱色に塗られた美しい開山堂の楼閣が見渡される。
 東門の内部天上の飾り窓部分には、観音大菩薩尊銅像が掲げられている。
 
 龍譚寺本堂入口で、拝観料(大人=400円)を支払って中に入って行く。
 中に入るとすぐに、水墨画で描かれた富士山の屏風絵があり、その前には、大きな花瓶と木彫りの像を置いている。
 その隣にも、屏風絵があり、牡丹の花と木にとまった山鳥が、見事に描かれている。
 本堂南側の庭園には、すばらしい枯山水の庭が、手入が行き届いた、形の良い高さの違う数十本の庭木でおおわれ、庭を一層引き立てている。
 この庭の奥には、仁王門が立ちはだかり、右側奥には、朱色の開山堂上部が見えている。
 私は、庭を暫く堪能した後、再び本堂に戻っていく。
 本堂入口近くには、4枚の襖に旭英筆の水墨画の龍が大きく描かれ、訪れた人々を立ち止らせ、じっと見とらしている。
 その横には、金色に輝く、丈六仏の釈迦如来坐像が、どっしりとして座り、私達を迎えてくれている。
 お釈迦様の像には、独特の雰囲気があり、何かと細かいことにこだわりがちな、私達の心を全て観通し、全ての人々を温かく、受け入れてくれそうな、大きな包容力を感じてくる。
 その奥では伊井家の菩提を祀っている。
 隣の大広間には、本尊である虚空蔵大菩薩をお祀りして、訪れる人たちが、正座して御参りをしている。
 さらに、拝殿前には廊下があり、伝左甚五郎が造ったといわれ鴬張りの廊下であるる。
 廊下に出て、庭園にそって進むと、建物隅の上部に、伝左甚五郎が彫ったという木彫りの、龍の彫刻が飾られている。
 その奥には稲荷堂が、さらに奥には開山堂があり、開山黙宗瑞渕和尚や身代わり地蔵などを祀っている。

 庭園に出る手前の部屋には、現在の天皇陛下ご一家(皇太子殿下時代と思われる)が、このお寺をご訪問されたようで、その時の記念写真が展示されている。
 その本堂の北側には、見事な庭園が広がっている。

 庭園を見渡せる本堂には、長い廊下があり、庭園を十分に堪能できるように造られている。
 数名の方が、本堂の部屋と廊下との段差を利用して、空いている部屋の部分に座って庭園を、静かに眺めている。 
 庭園を静かに座って眺めていると、自然に心が落ちつき、禅定の心が湧いてくるのだろうか!
 私も、最初にこの庭園を観た時は、どうしてこのような形に造られたのか!
 また、池や築山、それに数多くの石を、どうしてこのように配置していったのか!
 基本のコンセプトはどこにあるのか!
 良く分からなかったが、庭園の案内放送で、少しずつ理解できるようになってきたが、完全に理解できるまでは、まだまだ、多くの時間の必要性を感じていた。
 ただ、何時まで観ていてもあきることがない、すばらしい日本庭園である事には、疑いの余地はなかった。 

                  
                     龍譚寺境内図

           
           龍譚寺の四脚造りの山門     台の上に造られた鐘楼

 駐車場からすぐに石畳の参道に足を踏み入れると、低い樹木に覆われた白土塀があり、四脚造りの総門をを仰ぎ見る。
 

           
        本堂までは緑の樹木に囲まれ、寺院の雰囲気をかもしだしている参道

            
          秋の七草で、万葉集でもよく詠われている境内に咲く「萩の花」   

           
            本堂の前にある東堂奥には鐘楼が、反対側には庫裡がある 

            
                開山堂           本堂にある釈迦座像

 堂屋根の軒下の朱塗り楼閣造りの特徴を持つ開山堂を望む。搭上には井伊家の家紋「彦根橘」や「彦根井筒(井桁)」を見ることが出来る。
 丈六の仏(木彫り寄木造り=釈迦如来坐像)
                                    
               秋の風物詩 秋分の日前後に咲く「一輪の彼岸花」

           
                   本堂内にある旭英筆の「龍の図」

           
       本堂の真南、お寺全体の正面に位置して龍譚寺をお守りしている仁王門
                    本堂内部から撮影 
  
           
                  本堂南側にある枯山水の庭園
                
            
             本堂内部 ここは伊井家の菩提を祀っている

          
               伝左甚五郎作の龍(江戸時代)

          
               天皇ご一家のご訪問の写真

          
              本堂の奥にあり 廊下で繋がっている稲荷堂

           
               正夢稲荷堂内部の拝殿

 この龍譚寺庭園は、国指定文化財名勝記念物に指定されている。
 かの小堀遠州によって、江戸時代初期に造られた、池泉鑑賞式庭園である。
 小堀遠州は、滋賀・長浜の出身で「遠州流」の茶道を興し、京都二条城の二の丸庭園の作庭をした、当代一の文化人であったと伝えられている。
          
          本堂北側の庭園で手前と奥にある大きな石が仁王石である 

 この庭は、後方に西峰、中峰、東峰の三つの築山が築かれ、中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(座禅石)が配され、池の形が、心を現した心字池となっている。
 数多くの石が築山にうまく配され、水も流れていない枯山水の手法で、滝や渓谷などを見事に表現している。
 また、築山から池に突き出した岩を、亀、鶴に見立てて、池には蓬莱岩島を浮かばした手法をとり入れている。
 永い年月より苔むした庭石が、一層の風格をかもし出し、庭木とのコントラスを深め、季節によるさつきや、紅葉が楽しめそうである。
 この庭園の特徴は、いかにも、日本の寺院庭園として優れた、代表的な庭園であると思われる。
 
 このような庭園は、京都竜安寺の石庭のように、早朝などの最も静寂な時に訪れ、正面廊下から時間をかけ、ゆっくりと眺めて観たいものだとつくづく思う。
 庭園を観ながら座っていると、何もかも忘れ、自分の心が一心となって、自然と心が落ちつき、新たな活力と、明日からの勇気を与えてくれそうである。 

          
         東側よりの庭園で手前にある石が仁王石で池の形状は「心」を表現

           
        本堂の部屋より見る庭園 茶道をたしなむ人には願ってもない場所である

           
         東側より観る庭園 手前の燈篭が一層庭園の魅力をだしている
    
          
               庭園の庭石のそばで可憐に咲く花

           
           庭園左側で上部の築山が西峰と中峰、手前の石が仁王石である
 

           
    庭園の中央を見る、左石が仁王石、西峰と中峰の築山、中峰の中ほどに守護石を配している。
         池の中の水草の横には、蓬莱岩島が浮かんでいる。

            
        庭園右側を見る、池手前の石が礼拝石(座禅石)池奥の石は仁王石
         
 暫く、この龍譚寺の拝観を楽しんだ後、私たちは次の目的地だある岐阜県にむかって行った。
 全く、予定も組まずに、突然 東名高速道路浜松SA内で、旅行パンフレットを見ていて思いつき、訪れた地域であったが、この地域の歴史の深さや、観光名所の多さには驚かされる。
 この地域である遠江(とおとうみ)は、東西文化・歴史の中心に位置しているように思えてくる。
 私達は、今まで、この地域は単なる東西の通過点として考え、観光の名所としては、浜名湖と新居の関所程度の知識しかもっていなかった。
 ホントに、今回、ここを訪れ、私達に大きな、貴重な1ページが加わってきた。
 また、近い将来、この地域の遠江に来て、歴史に触れたいと思いつつ、後にして行った。
 

驚きと地底の神秘 「竜ケ岩洞」

2008-10-02 10:40:35 | 気ままな旅

 方広寺と奥山半増坊の見学を終えた私たちは、当初からの目的地である、龍譚寺へ向かった。
 奥浜名湖に、このような歴史的な施設が多いのには驚かされる。
 思えば、奥浜名湖周辺そのものが、東西文化の中心に位置し、歴史的にも大切な役割を果たしてきたことは、容易に想像がつく。
 東西で名を残した武将や、芸術家などの足跡も、たくさん残されているに違いないと思った。
 愛車は県道から国道303号線を10分ほど走ると、左斜め前方の山中に「竜ケ岩洞=りゅうがしどう=浜松市北区引佐町田畑193」の看板が見えてくる。
 今までに耳にしたことがない洞窟であるが、時間的にも余裕があり、立ち寄ってみることにした。
 国道から2~3分の距離にある。
 早速、車を止めて、洞窟方向に目をやると、山裾には石の公園のように、火山活動から石が出きる様子や、さざれ石などが分かりやすく並べられている。
 洞窟の入り口には、龍が飾ってあり、定期的に龍の目がひかり、それと同時に大きな口から蒸気を出している・
 入り口の横には、良く整備された日本庭園があった。
 入場料650円を支払って洞窟内へ進んでいく。 
 入り口には、この洞窟の見どころを書いた看板が掛けられている。
 
           
            色々な石や岩が置かれ、紹介されている 石の公園。

          
               入り口横の石を主体として造られた庭園。

            
             竜ケ岩洞入り口     定期的に目を光らせ口から蒸気を出す竜   

          
                  洞内の見どころがかいてある看板。

          
  二人の洞窟愛好家が、大空間の新洞を夢見て、泥まみれになって手掘り作業を続け、ついに新洞の大きな空間に到着、その時の感動から「喜びの窓」と名付けられる。

 ここは当初、地元の子供達の探検遊び場であった。
 洞窟の一番奥まった所に、幅50Cmと高さ10Cmの小さな穴があり、そこから風が吹き出していたが、それ以上奥に進むことは出来なかった。
 二人の洞窟愛好家が、1981年10月 「風が抜ける小さな穴を通り抜ければ、必ず、新洞があるはずだ」 と信じて、手掘りで拡張作業を始める。
 洞内気温は18℃、地下水と粘土の上に横ばいになって苦難の作業が続く・・・。
 小さな洞内、横ばいになっての手掘り作業、腕のそで口から水が入り込み、全身ドロだらけになるが、愛好家たちは、まだ見ぬ大空間の夢をおいながら黙々と作業を続ける。
 3日間に及ぶ苦難の作業の末、まず一人が難関を通り抜けた、そして、もう一人も通り抜けることに成功する。
 懐中電灯から、照らし出された、始めて見る地底の空間に、竜宮城のような、美しい鍾乳石の数々が映し出されてくる。
 思わず ”やった。ついにやったぞ” との歓声があがり、愛好家たちに大きな感動が押し寄せて来る。
 この時の喜びを現し、地主の戸田氏によって、この個所は 「喜びの窓」 と名づけられた。
 その後も、調査隊は、数々の難所を突破し、大広間や はくろうの間を発見、洞内地図をどんどん延ばしていく。
 次から次へと、ライトに浮かび上がる圧巻の鍾乳石、2億5千万年もの間、眠り続けていた、地底世界の大パノラマが、絵葉書の写真のように美しく現れてきる。
 1981年12月、調査隊は、ついに落差30mの黄金の大滝にたどり着く。
 かすかな水音を追って、狭い通路をくぐり抜けると、そこに突如として大空間が現れ、しずくをあげながら水が流下していた。 ”地底の大滝だ” 誰もが想像すら、していなかった大滝発見の瞬間で、大きな感動が湧いてくる。
 その後の調査により、総延長1000mにも及ぶ、大鍾乳洞の実体が明らかになってくる。
        
          
    奥の白い名札が逆様に置かれている、鏡のような水に映ると「天女の鏡」正常にが読める。

           
                  登竜門             鐘乳宮司
   狭き登竜門、側に「受験合格、大願成就、縁結び」 この極めて狭きを道を 念じて通ると!!
    
          
   通路から見ると上に台地があり、天に向かって伸びている塔のように思える 雲上界。

          
             奥に小さな「祈る少女」の名札がかかげられている。
  
          
              くらげの滝のぼり
    乳白色の石灰で出来た飾りが、天から舞いおりてきそうである。
 
           
 見事な景観のうらら石いつまで見ていてもあきない。石柱の側には黄金の大滝がある。

 黄金の大滝は残念ながら暗くて、撮影は困難であった。
 洞窟のはるか天上から勢いよく落ちる水の流下は、まさに自然が創り出す荘厳なドラマである。
 滝の落差は約30mあり、地底の滝としては日本で最大級の規模を誇っている。

          
     上記のうらら石のしたに、この石花があり、澄み切った清水を湛えている。
    
          
         2000年4月に、鍾乳石の成長を調べる為に設置された石の壷

          
         洞内の苦難の歴史をひと目で分かるようにパネルで紹介されている

           
       ようきた洞 日本一の足水施設+日本初の天然冷風浴場とアピール

          
               近くの野に咲いた季節の風物詩 彼岸花 

 竜ケ岩洞の見学を終えた私たちは、施設内のレストランで昼食を摂った。
たまたま、近くを通り、立ち寄った洞窟であったが、予想以上にすばらしい洞窟であった。
 私は子供の頃、土佐の里山で育ち、近くには石灰岩で出来た幾つかの洞窟があって、子供同士で洞窟探検に良く行ったもので、懐かしく思い出されてくる。
 土佐には、全国的にも名前が知られている龍河洞があり、何回か足を運んでいる。
 飛騨高山にも、郡上八幡にもあり、懐かしく思い出されてくるが、それらと比較しても、この竜ケ岩洞は、こじんまりとして変化にとんでいる。 数々の鍾乳石の形状もすばらしく、見ごたえを十分に感じていた。

 私達の気ままな旅は、行き先がビジネスであっても、何かの所要であっても、時間やスケジュールの変更などで、空いた時間が生じたり、行き帰り前後の時間にも気ままな旅をして楽しんでいる。
 そして、旅は何時でも新鮮な気持ちにさしてくれる。
 同じ所に何回行っても、季節や天候によって楽しみ方が違ってくる。
 旅の回数が増えるに従って、私達に旅の深みや、味わい方、楽しさを一層深く教えてくれているようである。
 このように気ままな旅の満足感を味わいながら、竜ケ岩洞を後にして、次の目的地へ向かって行った。