気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

日本の夜明けに貢献 ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて・・・再びアメリカへ  (6)

2018-01-17 18:15:48 | 気ままな旅

時は幕末、土佐の漁師の子として生まれた万次郎は、土佐沖で出漁中に遭難、アメリカの捕鯨船に救助された。

船長の好意で民主主義が勃興するアメリカに渡り、高等教育を受けて成長する。

万次郎は、アメリカ社会に溶け込み、欧米の先進的な技術や知識と国際感覚をも身につける。

一等航海士として捕鯨船に乗船して、七つの海で捕鯨活動をするなど貴重な体験をする。

その後、万次郎は強い望郷の想いから、鎖国体制を続ける日本へ決死の覚悟で帰国する。

帰国した万次郎から欧米諸国の先進的的で民主的な国家体制や、産業や航海技術などの情報が、幕藩体制の日本に大きな影響を及ぼしていく。

そんな折、アメリカのぺリー提督率いる黒船が浦賀にやってきて、日本中が大騒ぎとなる。

翌年に再びやって来て、日米和親条約(嘉永7年=1854年)を結び、下田と函館を開港し鎖国体制の終焉をむかえる。

また、この時、下田にアメリカ領事館が開設された。

さらに、4年後の1858年に日米修好通商条約を締結して、函館、新潟、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎の5港を新たに開くことで合意する。

 

日本の開国は、安政元年の日米和親条約の締結を出発点とし、その四年後の日米修好通商条約の締結で最終的に確定する。

この条約の 日米双方の調印は済み、後は批准書の交換だけが残っていた。

江戸幕府は、条約の批准交換のため、外国奉行(神奈川奉行兼任)を正使とする使節をアメリカのワシントンに派遣することに決定した。

そして、万次郎にも思いがけない命が発令された。

それは、 「通商条約批准書交換の為にアメリカに行く使節団に同行せよ」 というものであった。

万次郎の心は大きく弾んだ。

 「アメリカに行ける。 恩のあるホットフィールド船長にも合える. 

ワシントンから フェアヘーブンまでは、そんなに遠くはない。

日本に帰国して10年近く、万次郎は、ずっと気になっていた。

 自分をここまで育ててくれた、ホットフィールド船長への恩の御礼のことである。」

ワシントンで行われる日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使節一行を送迎する米国軍艦 ポーハタン号

2425トン、3本マスト、バーク型外輪機帆船 船体長77.3m、船体幅13.6m、大砲22問 蒸気機関1500馬力、アメリカ海軍最大の軍艦である。

 

当初、ワシントンで行われる条約批准書交換の通弁(通訳)を誰にするか!

万次郎を選出するに当たって、幕府内には反対する声もあがっていた。

万次郎が、批准書交換の際、アメリカに有利な通訳をするのではと! 疑う者がいたのである。

だが、咸臨丸最高責任者の木村摂津守は、万次郎を強く推した。

荒波の太平洋を横断する航海には、万次郎の、英語能力だけでなく、操船、航海の知識、技術・経験を持つ万次郎が是非必要であった。

 

咸臨丸に万次郎と乗船し、後に、米海軍士官学校の教官になるブルック大尉も、万次郎の操船や航海術を絶賛している。

そして、条約批准書交換の、日本側使節団の正使は、アメリカから派遣したこのポーハタン号に乗船して行くことになった。

ところが、当初、ポーハタン号の乗船員がアメリカ320余名と日本側77名と多く、全員を収容できる船室が足りなかった。

そのために、急きょ、ポーハタン号、後部上甲板に十数室の日本人用仮船室を造らねばならなかった。

だが、日本側の使節一行の荷物が、おびただしい分量と種類が雑多となり、ポーハタン号だけでは搭載しきれなく、別艦が必要になってくる。

咸臨丸は、このような理由から、護衛艦として、積み荷と外洋航海の訓練を兼ね、サンフランシスコまで派遣されることになった。

安政7年1月22日(1860年2月13日)、ポーハタン号は、

日本側正使の新見正興、副正使の村垣範正、監察の小栗忠順らを含む日本使節団77名を乗せ横浜を出港した。

 出航した翌日から、天候は荒れ難航する。

同じく万次郎たちが乗船した咸臨丸は、

1860年(万延元年)1月16日 ポーハタン号より3日早く、米国に向って横浜港を出港して サンフランシスコ港を目指していく。

万次郎は、また アメリカに行ける・・・・・  親しい人たちに会える・・・ 心は抑えても、抑えても、大きく躍っていた。

1860年2月(安政7年1月)、米艦ポーハタン号と咸臨丸に分乗した一行は、太平洋を横断するルートでアメリカへと向かう。

咸臨丸 3本マストでスクリュー付の木造蒸気船である。 幕府がオランダから購入する。

江戸幕府の洋式軍艦でバーク型機帆船である。

 重量 620トン、船体長48.8m、船体幅8.74m、大砲12問、100馬力の蒸気機関でスクリューを動かす機帆船、

スクリュー推進は、港の入出航時や風のない時に使われ、帆走中は、抵抗を減らすため船体に引き入れる構造になっている。

 

咸臨丸の最高責任者に軍艦奉行 木村喜毅(よしたけ)、指揮官に軍艦操練所頭取の勝麟太郎が任命された。

咸臨丸の乗組員は、総勢96名で、福沢諭吉も加わっていた。 

日本人乗組員に交って、ジョン・ブルック海軍大尉ら11人のアメリカ人が、遠洋航海の経験のない日本人を助けるために同乗することになった。

咸臨丸は、横浜港を出航し、一旦浦賀に寄港、同19日 浦賀から太平洋に出ると、アメリカ サンフランシスコを目指す航海にでて行く。

咸臨丸に乗船した日本人乗組員は、当初、自分たちの力だけで太平洋を見事に渡りきって行こうと意気込んでいた。

 

荒波の中を航行する咸臨丸

日本人乗組員は、初めて体験する太平洋の荒波に翻弄され、船酔いにも悩まされ、何一つ船上作業ができなかった。

結局は、万次郎とブルック大尉一行に頼るしかなかった。

ブルック大尉の日記の中にも

 「荒海にもまれると日本人は能力がないので、帆をも上げることができない、しかも、士官は本当に船のことは何も知らない」 

と書かれている。

また、万次郎に関しては、、「私が今までにあった人々の中で、最も注目に値する人物の一人である。 

彼はボーデイックの「航海術」 (新アメリカ航海士必携) を日本語に翻訳した。 

彼は天体力学についても学んでおり、冒険心に富んだ勇敢間な男である。 

日本開国について、彼が誰よりも功労が多かった」 と記載している。

 

万次郎には、7つの世界の海を航海した実績から、どんな大時化であろうと、どんな荒波であろうとも、

確実に船を操船する技術や、細かな作業をこなしせる自信があった。

咸臨丸の船中での万次郎の役割は大きく、ブルック大尉からの指示や、意図などを他の日本人たちに的確に伝えていく。

木村摂津守は、こうして機敏に働く万次郎の姿を見ていて、つくづくと自分の判断が正しかったことを痛感していた。

荒波の太平洋を大きく揺れながら航行する咸臨丸

艦長の勝麟太郎も、万次郎の実力を心底認めていた。

サンフランシスコには、かなり近づきながらも、時化のために波頭が高く予定通り着くかどうか! 

心配になった勝は、万次郎に相談してみた。

万次郎は、新顔で、「航海に関する一切を自分に任せて頂けるなら、必ず無事の到着を引き受けましょう」 といった。

勝は大きく笑い うなずいた。 

この時から万次郎が咸臨丸の実質上の艦長であった。

 

浦賀を出港して、37日目に、咸臨丸はサンフランシスコ港に到着した。

入港するや、陸の砲台から次々に21発の礼砲が鳴り響いた。

砲身の火薬を空にして、敵意がないこと、歓迎の意を伝える儀式で、21発は最高の敬意が表されていた。

咸臨丸では、米国側の礼砲に対して、砲術方が答砲をすべきだと、勝艦長に許可を求めてきた。

 勝艦長は 「発射に失敗すると恥をかくから控えた方がいい」

砲術方は 「失敗などしない、是非やらせてください」

「やりたければやれ、成功したら俺の首をやる」 などの些細な問答があっが、結果は大成功であった。

艦長の首をもらっても、邪魔で仕方ないから・・・・・  そういって士官たちは大笑いさせた。

万次郎も笑ったが、久しぶりのサンフランシスコの景色を観ながら、

かつて、ゴールドラッシュで帰国資金作りのために訪れて以来、10年ぶりのカリフォルニアで、思い出が懐かしく甦っていた。

やがて、咸臨丸は、ゴールデンゲートを通過、サンフランシスコの埠頭に錨りを下ろした。 

 ポーハタン号はまだ到着していなく、咸臨丸が先着した。

埠頭には物見高いアメリカ人が、太平洋の荒波を越えてやって来た、日本の軍艦や日本人を見ようと、たくさんの人たちがつめかけていた。

当時の地元紙には、「日本使節一行と万次郎」 とのタイトルで大きく報道され、たちまち全米で話題になっている。

日本側の一行を歓迎するパーテイーも開催され、万次郎の万感を込めた通訳に、

「すばらしい発音だ! ワンダフル」 と 列席の婦人たちを驚かせていた。

万次郎が、東部のフェアーヘブンの学校で航海術などの高等教育を受けていたことを知るや 「ブラボー」 と惜しみない拍手が送られていた。

サンフランシスコ市長も 心のこもった演説をして、日本使節一行に歓迎の意を表している。

こういった日米両国の交流会での万次郎の評価は、

その態度といい、発音の正確さや鮮やかな通訳ぶり、敬語の使い方などは完璧で高い評価をうけていた。

万次郎が話すたびに、アメリカの人々は拍手をおくり 「ジョンはアメリカ人よ」 との声もとびかっていた。

また、咸臨丸には、日本近海で遭難したアメリカ海軍のブルック大尉以下11名が、乗り込んでいたことも、

日米両国の平和と友好のシンボルとしての評価を高めていた。

今般の、日本使節団のサンフランシスへの入港は、日米両国民による最初の出会いであった。

 

1860年3月29日 咸臨丸到着から 11日遅れてポーハタン号が サンフランシスコ港に入港した。

使節団一行も盛大な歓迎を受けていた。 

使節団一行は、10日後、予定通り、パナマ運河を通過する航路を通り、目的地である アメリカ合衆国の首都 ワシントンへ向かった。

万次郎の乗った咸臨丸は、当初はポーハタン号の護衛役を務めて同行する予定であったが、修理に手間取り、

計画を変更して、サンフランシスコから急遽 日本へ帰国することになった。

しかし、ポーハタン号への万次郎の同行は許されなかった。

万次郎は、自分は通訳士であり、あれほど楽しみにしていた、アメリカ東海岸や

かつてお世話に立った船長を初め 親しい人たちにも会えるかもしれないと、心を弾ませてアメリカまで来たが、がっくりと肩を落としていた。

この時に、幕府内の一部から、万次郎にスパイ容疑がかけられていた。

万次郎が 「色々なお世話になったアメリカに有利な通訳をするのでは・・・・」

このことが影響したのか、条約調印への通士から外されていた。

それでも万次郎は、恩義のある船長には、”いつか必ず会える時が来る” と信じ、あきらめざるを得なかった。

 

 5月9日 修理を終えた咸臨丸は、サンフランシスコを出港して太平洋を航行、ハワイを経由する航路をとった。 

万次郎は、ハワイには かつての漂流仲間や、デーモン師など、色々お世話になった人たちにも会える楽しみに思いを切り替えていた。

 

1860年 5月23日(万延元年4月3日)、ワシントンの国務省において、

使節団の正使 新見正興(豊前守)と 米国務長官のキャス(L. Cass)との間で批准書の交換が行われた。

 批准書には、新見正興とキャスのほか、副使である村垣範正(淡路守)・小栗忠順(豊後守)による署名もなされている。 

、1860年(万延元年)5月23日 米国ワシントンにて日米修好通商条約批准書に署名して、両国の批准書交換が行われた。

アマリカ婦人によりミシンの実演を熱心に見つめる日本の使節団一行。

 

咸臨丸は、帰路ハワイのオファフ島ホノルルで、10年前に万次郎たち、日本への帰国組に

惜しげもなく物心ともに協力してくれた、恩人 デーモン牧師に再会することができた。 

再会した万次郎は、デーモン牧師に、かつて受けた数々の恩への感謝を表し、ホイットフィールド船長宛てに手紙を託した。

ハワイでの4日間の滞在を終えた咸臨丸は、1860年5月27日 礼砲が発射される中を、黒煙を上げてホノルルを出港し、日本への帰路についた。

万次郎たちを見送ったデーモン牧師は、地元に新聞に 「万次郎のこと・・・」 を記事にして掲載していた。

 

日本に帰国した万次郎は、同年8月25日、軍艦操練所を突然解職された。

理由は、万次郎が横浜港に停泊中の外国船の船長に招かれ、上司の許可を得ないまま出かけて行ったことであった。

この時代には、日米修好通商条約などを、朝廷の許可なしで幕府が調印したのがきっかけで、

攘夷(外敵を追い払う)運動が高まっていた。

江戸城桜田門外では、大老「井伊直弼」が暗殺されるなどの大事件が発生、幕府の権力は揺らぎはじめていた。

海軍操練所を解職された万次郎であったが、幕府は彼の才能を認めており、1861年 小笠原諸島の開発・調査を計画していた。

同諸島は日本の領土であったが、アメリカ人が住んでおり、退去させる必要があった。

退去交渉の通訳として万次郎が選ばれる。

万次郎は1861年、外国奉行 水野忠徳等と共に咸臨丸に乗船して品川港を出港し、小笠原諸島に向った。

小笠原諸島の到着すると、早速、アメリカ人と面談、ここは日本の領土であることを告げ、

日本の法律に従った誓約書にサインさして解決を図る。

また、島内に上陸して、測量などをして地図を作り、翌年3月9日に品川に帰港する。

 

1862年7月21日 最愛の妻で、万次郎の理解者であった鉄が、当時大流行していたハシカの犠牲になって病死した。 

長男 東一郎と二女を残して、まだ、25歳の若さであった。

万次郎は 大きく落胆していたが、その矢先、捕鯨の話しが持ち上がり、新潟の富豪が出資して西洋式帆船を買い入れていた。

これを 「壱番丸」と命名して 太平洋で鯨を捕ることになった。

しかし 万次郎は捕鯨船に乗って、2頭の鯨を捕ったが、一回の航海だけで、それ以後は続けることができなかった。

日本では、アメリカのように、捕鯨船から鯨油を集め商品化されるまでの工場処理ができなかったためである。 

この処理を行うとすれば、新たに莫大な資産が必要であったが、新潟の資産家にも大がかりすぎて無理であった。

アメリカにおいては、燃える水が発見され、鯨油から急速に切り替わり、鯨油産業は衰退をはじめていた。

 

そんな折、ハワイでデーモン牧師に託した、ホットフィールド船長宛ての手紙の返事が万次郎に届いた。

「ホットフィールド船長・妻や自分も元気で、13歳になる息子や、11歳と9歳の娘も健康であると家族のことが書かれていた。

隣人たちも万次郎のことをよく覚えており 「ジョン・マンは本当に正直で良い少年であった」 といわれていた。 

聞くば、今のあなたは、日本にとってとっても、大切な人物になられたと・・・」 などと書かれている。

懐かしいホットフィールド船長の字で書かれ、万次郎は何度も読み返していた。

万次郎は、その後も、自分の知識や経験などが日本の海軍・海運業の発展につながることを信じ、精力的に、後進の育成に努めた。

1864年(万次郎37歳) 薩摩藩の開成所教授に就任。 航海、測量、造船、英語などを教える。

1866年(万次郎39歳) 土佐藩の開誠館に赴任、航海、測量、造船、英語などを教える。

また、土佐、薩摩の両藩のものを引き連れて上海に赴き、自分の見立てた船を適正価格で購入するなどしていた。

そうこうしている間に時代はどんどん変わり、260年間続いた江戸時代は終わり、江戸も東京へと都市名を変える。

日本も様々な問題点を抱えながら、欧米先進国から制度や機械技術などを学び、大きく変革しようとする大きな波が押し寄せていた。

こういった時代での万次郎の持つ先進的で国際的な知識や役割は大きく、日本が進むべき方向を、若者たちを指導しながら照らしていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて・・・(1)

2017-02-03 00:35:28 | 気ままな旅

 2017年1月6日(金) 今朝は高知県佐川町にある私の故郷の家で、正月休暇を過ごしている。

 お正月の2日までは、南大阪にある自宅で妻と二人で過ごし、1月3日から高知へ帰省する。

 帰省しても高知の家は、誰も住んでおらず、空き家になっているが、私たちは、年に数回帰省し、家の状況確認や墓掃除などをしたり、

地域の祭りなどに参加して、親しい人たちと、杯をかたむけ、旧交を温めたりして楽しんでいる。

この高知の家は、生活するのに必要なテレビや布団など全てが整っていることから、今はセカンドハウスのように考えて利用している。

 小さな家であるが、住み心地は良く、生活するのに必要な電化設備なども全て整っている。 

 10年程前に、内装や設備などをリニューアルして、生活に必要な機能面でも、大阪の自宅と大差はないほどで使いやすくなっている。

 高知での午前中は、愛車で15分ほどの距離にある喫茶店で、コーヒーモーニングなどで食事をしたり、食材などの買い物などをしたりしている。

 夕方近くになると、のどかな田園風景がつづく自宅近くを、妻と二人でウオーキングなどをして楽しむのが日課である。

 ウオーキングコースは、だいたいは決まっているが、どのコースを選んで行っても、幼い時に過ごした時のことが、懐かしく思い出されてくる。

 大阪の自宅でのお正月も、例年にないような好天に恵まれた快晴の天気であったが、高知の天気も好天であった。

 真っ青の秋のような空と、夜になると無数の星空が天空に広がり、大都会では味わえない宇宙の光景に、感動させられてしまうほど魅せられてしまう。

 そんな折、急に思い立ち、高知県西部の足摺岬方面に行って、江戸末期から明治時代にかけて活躍したジョン万次郎の痕跡を訪ねてみようと思いたった。

高知県西部は、高知県では幡多(はた)地方とも呼ばれ、日本最後の清流として知られている四万十川が中心部を流れ、太平洋にそそいでいる。

 今日も上天気で青い空が広がり、コートなしでも過ごせるような暖かい気温である。

午前8時40分頃に佐川町の自宅を妻と二人、マイカーで出発する。

  出発してすぐに国道494号を走行し、山越えした後、須崎市で国道56号に入り、10分ほど走行すると高知自動車道の須崎西ICがある。

 高知市ら高知県西部方面に行くには、国道56号線が幹線道路として利用されているが、高知自動車道の開通に伴い、交通の流れが大きく変化している。

 高知自動車道は、現在は窪川(四万十町)まで開通している。(この区間は無料)

 窪川から国道56号を30分ほど走行していると、風光明媚で広大な太平洋の海岸線に出てくる。 

海岸沿いには、南国特有のシュローの木などがあり、その先には、180度の角度で広がる太平洋の水平線が見えている。

さらに、手前の海岸線には、無数の小島があり、その小島に白い波が打ち寄せ、美しい景観を見せている。

 そこから、20分程走行すると、幡多地方の中心都市である四万十市(中村市)に到着する。

四万十市から土佐清水市までは、50分ほどで到着し、足摺岬は、さらに20分ほど行った所の半島の先端にある。

今日の目的であるジョン万次郎(中浜万次郎)は、現在の土佐清水市中ノ浜地区の出身である。

万次郎の生家のある中ノ浜地区は、土佐清水市の中心部から、10分ほど走行して行った所にある。

四国最南端の足摺岬

万次郎について簡単に紹介する。

 ジョン万次郎は、土佐清水市の中浜の出身で、14歳の時、船で漁に出ていて嵐に遭遇、無人島(鳥島)での生活を得てアメリカに渡る。

 万次郎を救助した船長の好意で、高度な教育を受け日本に帰国する。

 アメリカからの帰国後に万次郎の持ち帰った知識や技術、情報は、薩摩藩や土佐藩、坂本龍馬などの、新しい日本の方向を決める考え方に大きな影響を及ぼしていく。

 足摺岬には、ジョン万次郎の銅像があり、広大な太平洋を見渡しているように立てられている。

日本人初の国際人と言われる中浜万次郎(1827年-1898年)の像

この像の裏側には次のように万次郎の功績を称えている。

「中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割をはたし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。

万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれた。

14歳の時出漁中、嵐にあい遥か南方の無人島、鳥島に吹き流されたが、半年ののち運よく通りかかったアメリカの捕鯨船 John Houland号に救助された。

船長 William・ H・Whitfieldは、万次郎少年の人柄を深く愛して本国に連れ帰り、3年間正規の学校教育をさずけた。

万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第1号となった。

彼は10年に及ぶ国外生活中 John Mung と呼ばれ、英語、航海術、測量術、捕鯨術等を習得し、二度に亘って七つの海を周航した。

しかし 万次郎は既に24歳の青年になっており、祖国と そこにのこしてきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令化の日本に帰ってきた。

とき1851年2月、かの黒船にさきだつこと2年であった。

このような時機もさいわいして、彼は罪にとらわれなかったばかりか、名字帯刀を許され幕府の直参にとりたてられた。

これより中万次郎は、外国事情の講話や、アメリカ航海術書とか、公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日をおくることになった。

洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたった。

日本人による初の太平洋横断、咸臨丸の成功のかげには、彼のすぐれた航海術が大きな力となっていた。

帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれている。

明治2年には東京大学の前身である開成学校の教授に任ぜられた。

44歳のとき、すこし健康をそこねて公的な活動からしりぞき、数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。 1968.7.11 」

このように万次郎を紹介している。

万次郎の生家のある中ノ浜地区にも立ち寄ってみた。

万次郎の生家のある中ノ浜地区

 地元有志らによって復元(2010年)された万次郎の生家

茅葺屋根の木造平屋建ての生家で、生家として残る写真をもとに復元される。

生家のある中の浜地区の海寄りの防波堤には、下記写真の 「ようこそ 中浜万次郎 生誕地ヘ」 と書かれた案内板があり、

その横には、「中浜万次郎物語」 と書かれた絵図が、防波堤に掲示されている。

防波堤に掲示されている中浜万次郎の物語

14歳の時に漁船に乗る万次郎

万次郎たち5人の漁師たちが乗った舟は 足摺岬沖で嵐に遭遇し遭難する。

7日間漂流して南海の孤島・鳥島(とりしま)に漂着する。 九死に一生を得る乗船していた5名たち。

143日間の無人島で海草や海鳥を食べて生きながえる。

漂流していた鳥島の沖合に米国捕鯨船が現れ救助される。 ホイットフィールド船長の温かい保護を受ける。

アメリカの捕鯨船に救助され、万次郎たち5名の新しい生活が始まる。

万次郎たち5人が乗った捕鯨船は、一旦 ハワイ島ホノルルに寄港する。

その後、万次郎は仲間たちとホノルルで別れ、捕鯨船員として一人乗り込み太平洋へ乗り出していく。

万次郎は、何事にも積極的に取り組み、捕鯨船でも勇気をだし大活躍する働きぶりであった。

捕鯨船の仲間たちからも、勇気のある積極的な働きぶりや、まじめで人懐こい性格から、みんなに親しまれ、ジョンマンの愛称で呼ばれるようになった。

船長のホイットフィールドは、万次郎の才能や人柄を認め、教育を受けさせるため、米国(フェアーヘブン)へ万次郎を連れて行く。(他の4人はハワイに残る)

米国で10年間、近代的な教育を受けた万次郎、小中等の教育、英語、数学、航海術、造船等の高度な学問を優秀な成績で習得する。

その後、捕鯨船の一等航海士および副船長として、七つの世界の海を航海し大活躍する。

3年余りの捕鯨航海を終え、万次郎が乗船した捕鯨船は、母港 ニューベッドフォード港へ帰港する。

 

帰港し上陸した万次郎は、第二の故郷で、懐かしいフェアーヘーブンの町に帰り、ホイットフィールド船長や級友たちと5年ぶりのに再会する。

この時代の新聞に、鎖国下の日本に漂着したアメリカの船員たちが、人的に不合理な扱いを日本から受けたとの情報が、現地の新聞で報道されていた。

万次郎自身も、日本を早く開国さして、西洋のような先進的な国家建設を と思い、日本への帰国の思いが強くなっていく。

万次郎は、帰国資金を稼ぐ為に、フェアーヘブンからカリフォルニア州の金山へ砂金堀に出かける。

 砂金を掘り出して70日余りの間に、600ドルを稼ぎ山を下りる。

 

帰国資金を稼いだ万次郎は、金山からサンフランシスコ(カリフォルニア州)に戻り、

ホイットフィール船長のいるフェアーヘブンには戻らず、そのまま、漂流仲間たちのいるハワイ行きの船に乗り込んだ。

 

万次郎は、ハワイ島ホノルルで仲間たちと再会するが、漂流仲間の一人がハワイで病死していた。

 

万次郎は、長年お世話になったホイットフィールド船長への帰国の挨拶ができなったことを気にしながらも、

祖国や母への思いが忘れがたく、望郷の念が日増しに強くなっていた。

万次郎は、漂流仲間たち4人で話し合った結果、一人はハワイで結婚、家族も出来たことから日本への帰国を望まず、3人で帰国することになった。

3人はハワイから船に乗り込み、数十日間経過した後、意を決して鎖国下の日本の琉球(沖縄)に上陸する。

 

上陸した万次郎たちを待っていたのは、罪人扱いするようなひどい取り調べてあった。

その後、沖縄から薩摩に護送されるが、薩摩の殿様・島津斉彬(なりあきら)公は、

万次郎の話すアメリカでの事情や技術・文化などに高い興味を持ち、万次郎を優遇する。

さらに薩摩では、斉彬公の命により、腕の良い船大工が急きょ集められ、万次郎が設計・指導した西洋式帆船を試作することになった。

出来上がった西洋式帆船が、薩摩の錦江湾を見事に帆走する姿を眺めて、斉彬公は拍手喝采をして喜ばれていた。

 

その後、万次郎たちは、薩摩から長崎に送られ、取り調べを受けるが、琉球と同じく罪人のような扱いであった。

やがて、土佐藩主 山之内豊重(とよしげ)(後の容堂)の命により、

身柄引き受けに来た土佐の役人と共に、長崎を発し、郷里の土佐を目指す。

 

土佐藩主豊重公も、島津斉彬公と同じく進歩的な人物で、万次郎の持つ海外事情を藩士たちに習得させるように努めさした。

なかでも、河田小龍は、万次郎の十余年間の体験談や海外事情を筆記したり、画にしたりして

それを、「漂巽紀畧=ひょうそんきりやく」の書にまとめる。

この書が、海外事情紹介書として、維新の多くの人々に読まれ、伝わったいく。

サムライ国家から、新しい日本の姿の方向を具体的に現わし、維新に活躍した、坂本龍馬などの人たちに大きな影響を与えていく。

高知城下で2ケ月半に及ぶ取り締まりも全て終わり、

待ちに待った3人は、心を膨らまし、それぞれの故郷に帰って家族と感激の対面をする時が訪れてくる。

 

11年10ケ月ぶりに目にする故郷の景色に、万次郎は懐かしさに心が奮い立っていた。

中ノ浜に帰り、最初に庄屋さんに挨拶した万次郎は、自宅に帰って行く。

母親は、最初、想像を絶するように逞しく、立派になった万次郎を見て、

自分の倅であることが信じられないような態度であった。

母親たちは、万次郎が14歳の時、漁に出て嵐に遭遇し、消息不明になったことから死んだと思い、お墓までつくっていた。

その万次郎が生きて帰ってくる! と庄屋さんから聞いた時の驚きや、うれしさは想像を絶するものがあった。

「本当に、万次郎ですか! 私の倅の万次郎ですか!」 と幾度も問い返した。

 

11年10ケ月ぶりの感激の対面、遭難して万次郎の墓まで作られていた愛息子の立派な姿に母は、涙、涙で言葉が出なかった。

 

中ノ浜に帰った3日後、高知城から、再び呼び出し命令が届き、教授に任命され、帯刀が許され、侍としてのスタートをきる。

万次郎の講義の聴講生には、大政奉還で活躍した後藤象二郎(14歳)や、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎(19歳)たちがいた。

さらに、聴講生の中には、日本を動かすことになる者たちを輩出していく。

坂本竜馬や維新で活躍した多くの若者たちの目を海外に向けさしたのも、万次郎の海外事情の講義からであった。

万次郎の活きた時代に、海外事情などの講義で大きな影響を与えた人たち。

寛永6年(1853年)6月3日 ペリー提督率いるアメリカ艦隊が、4隻の黒船で浦賀に来航する。

江戸幕府から土佐藩に対して、万次郎の江戸への呼び出しがあった。

万次郎は、早速、江戸に赴き、江戸幕府閣僚と対面してアメリカ事情を説明する。

 

1854年、万次郎(27歳)周りの人たちの勧めもあって、剣術師範の娘 お鉄(17歳)と結婚する。

 

1860年 咸臨丸で日米修好通商条約のため、通訳としてアメリカに行く。

1869年(明治2年)東京大学の前身である開成学校で教授として英語を教える。

1870年(明治3年)新政府から晋仏戦争(プロシャを中心とするドイツ諸邦とフランスの戦い)の視察団の通訳として参加する。 

この欧州出張は、アメリカ経由でニュ-ヨークで5日間滞在してイギリスへ向かう予定である。

万次郎は、ニューヨークに着くと、すぐに休暇をもらって、目と鼻の先にあるフェアーヘブンへ汽車で向かった。

フェアーヘブンは、万次郎がアメリカに来て住んでいた街であり、懐かしさがこみあげてくる。

万次郎は、ホイットフィールド船長宅へそのまま直行する。

懐かしい船長宅に着くと 玄関で 「ジョンマンです。 ジョンマンですよ。 船長」

ドアーが開き、突然、自宅に訪問してきた万次郎の姿を見た船長は、まるで夢でも見ているように目をまるくしていた。

ホイットフィールド船長は、実子のように可愛がっていた万次郎のことが気がかりで、もう一度会いたいと! 切望していた。

船長は遠い日本にいるはずの万次郎が、目の前に立っている姿に、最初、夢でも見ているのか! と思っていた。 

しかし 夢ではない。 立派な大人になって日本で活躍している本物の万次郎が目の前に立っていた。

突然、船長宅を訪れるて、永年お世話になったホイットフィールド夫妻と感激の対面をする万次郎

 

ホイットフィールド船長は、夢にまで見て会いたかった! 万次郎だとわかると、万次郎を抱きしめ、そして、みるみるうちに感激の大粒の涙が溢れてくる。

万次郎も感激のあまり、しばらく言葉にならなかった。

21年ぶりの涙の、感激の再会であった。 夫人の頬にも感激の涙が流れていた。

ホットフィールド船長は、自宅にいる娘と3人の息子たちを万次郎に紹介する。

子供たちも万次郎のことを、船長から聞いており、よく知っていた。 

大喜びで万次郎を迎え、祝福する。

この時、ホットフィールド船長は65歳、万次郎は43歳になっていた。

ジョンマンが帰ってきたことは、直ぐに知れ渡り、翌朝、船長の自宅前は大騒ぎになっていた。

一緒に学んだクラスメイトをはじめ、友人知人たちがどっと押し寄せてきていた。

「ジョンマンだよ。 あのジョンマンが帰ってきたんだ!」

ジョンマンが帰ってきたニュースは、たちまち、フェアーへ―ブンの町中を駆けめぐっていた。

万次郎は、フェアーヘブンにいる短い間、みんなと一緒に思い出に花を咲かしたり、街を散策したりして懐かしく過ごした。

万次郎は、第2の故郷を訪れ、ホイットフィールド船長家族や、フェアーヘブンの人たちの心の温かさに接して、本当によかったと思った。

 

ホイットフィールド船長と別れを告げて、ニューヨークに戻った翌日の地元紙には、万次郎の訪問を好意的に報じていた。

 

やがて、ニューヨーク滞在を終えた日本の視察団は、イギリスへと向かった。

明治4年 廃藩置県によって日本は新しい中央集権国家に生まれ変わっていく。

大学で先生となったが老後は役職につかず静かに暮らす。

そして 明治31年11月 71歳で激動の人生の生涯を終える。

中浜万次郎の出番と活躍

中浜万次郎の出番と活躍

ジョン万次郎が生きた時代

ジョン万次郎が生きた時代

ジョン万次郎が生きた時代

 今回は、万次郎の生家のある中ノ浜地区の堤防に掲示されていた 「万次郎物語」 を中心に紹介さしていただいた。

生家や足摺岬などを見学した後、私たちは、同じ土佐清水市内にある万次郎の資料館を目指して行った。

しかし、資料館がどこにあるか場所が分からず、近くにいた女子高校生に訪ねると、

ここから、すぐ先にあるとのことで、マイカーを走行して行くと、海に面した公園があり、その先に資料館が見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


中山道の馬籠宿・妻籠宿・濁河温泉(混浴)の旅と道中感激の対面

2015-10-04 16:17:50 | 気ままな旅

2015年7月12日(日)朝6時00分頃 近所に住む夫婦が車でやって来る。

今日は岐阜県と長野県の県境にはさまれた秘境「濁後温泉」と「新穂高温泉」への2泊3日の旅に出る予定である。

ここのところ台風の影響で雨天の日が多くなっている。

今回の旅行も台風の進路によっては、中止せざるを得ないと思っていたが、幸いにして進路がはずれ、旅行先の天気予報も良好のようであった。

今回、同行する夫婦とは、10年来の交友で日頃から何かとお世話になった夫婦で、気心もお互いに知り尽くしている。

この夫婦が自宅にやって来て、休憩や荷物の積み込みなどを終えると、私の愛車、プリウスα(7人乗り)で、6時30分頃4人で自宅を出発する。

南大阪の自宅から阪和自動車道水間ICに入り、松原JCを走行、西名阪道から名阪道に入って行く。

名阪道も車は渋滞もなく、スムーズに走行している。 ほどなくして4人を乗せた愛車は東名阪道に入り、御在所SA(三重県)に近づいて来た。

出発して、2時間近くたち、時間も8時30分頃に達している。 

朝食も摂らずに出発したことから,御在所SAで食事と休憩を摂ることにした。

 

最初の休憩をとった東名阪道 御在所(ございしょ=三重県)SA(サービスエリア)

御在所SAに到着するとすぐにで4人で麺類の朝食を摂る。このSAも近年改装され、近代的な意匠を施している。 改装前とは様変わりして、魅力ある商品が展示販売されている。

30分ほど休憩したあと出発し、名古屋方面に走行して行く。

愛車は、程なくして木曽三川の揖斐川・長良川の河川橋を渡ると、すぐに木曽川にかかっていく。

ゆったりと流れる大河、木曽川を渡ると田園風景の中に、工場や住居の建物が散乱している光景が目に入ってくる。

こうした車窓からの光景を楽しんでいると、愛車は名古屋西ICに入り、そのまま、名古屋環状自動車道を走行して行く。

その時、わたくしが同乗している女性に、「そういえば、この近くに子供さんが住んでいるのでわ! 電話してあげたら・・」と話をする。

すると、女性はすぐに息子さんに電話をかける。 「電話口の息子さんが、子供も今、一緒にいるので、是非、会いたい」 とのことだった。

私が、「現在、名古屋環状自動車道を走っている。10分後には、一宮南ICに到着できます。」 との話をする。

こうして、一宮南IC近くのお店で、女性の息子さんと、女性の孫娘に初めて会うことになった。

同乗している夫婦と孫は、色々な理由が会ってか、まだ、一度も合ったことがなかった。

同乗の女性は、「孫に会いたい、合いたい」と切望しながらも、今日まで会えることはなかった。

女性には、思いもがけない孫に、突然、会えることになって、大きな感激が湧いてきているようであった。

車がレストランに到着すると、すぐに、女性は孫の乗っている車に向かって行く。 

この孫娘は、おばあちゃんを見つけると、初対面のような感覚はなく、すぐに抱きついてきたようであった。 

突然に訪れた、念願であった息子さんの孫に初めて対面し感激し、大喜びをするおばあちゃん。

女性は、常時、孫娘を膝に乗せ、食事などの世話をする。孫もおばあちゃんの居心地がいいのか離れることはなかった。

偶然の出会えた孫との楽しいひと時も、旅の予定から40分程しか時間の余裕はなかった。

「孫と別れた後も、会えるとは夢にも思ってなくて、会えてほんとによかった」と

車中の中で感慨深く話をする姿が印象的であった。

私たちは国道22号から近くにある一宮ICに入り、名神・東名高速道路を走行し、中央道を中津川方面に走行して行く。

中央高速道も、渋滞もなくスムーズに走行し、快適なドライブが続いている。

やがて、かつて私が住んでいた岐阜県多治見市の、懐かしい丘陵地の風景が見えてくる。

さらに走行し、車窓からは土岐市、瑞浪市の風景に代わって行く。

中央高速道の車窓からの風景を楽し見ながら走行していると、愛車は間もなく中津川ICに入って行く。

中津川ICから国道19号に入り、長野方面に10分程走行し、江戸時代に宿場町として栄え、

その名残を今日まで伝えている馬籠(まごめ)・妻籠(つまご)方面に入り口に差し掛かってきた。

国道から山間部に通じる曲がりくねった道路をゆりやかに上って行くと、15分ほどで中山道宿場町「馬籠」に到着する。

愛車を近くの駐車場に止めると、私たちは4人は、すぐに馬籠宿の見学に出かける。

駐車場の周辺にも、当時の建物など、今に残る江戸時代の風情が漂っている。

宿場の北側には、青々とした山間部の美しい田園風景が広がり、宿場町の情緒を、時代の木造建築物と共に醸し出している。

そして、その中心には、江戸時代の情緒を醸し出す、中山道(なかせんどう)馬籠宿と書かれた石碑が立っている。 石碑には、下方には「江戸 80里半・京52里半」と書かれている。

当時のイメージを損なわないように造られた、入り口にある馬籠館とバス停留所

私たちは、馬籠宿入口の看板を横に見ながら、ゆりやかな坂道をゆっくりと上って行く。

道路の両側には、江戸時代の家屋が立ち並び、歴史的な情緒豊かな街並を醸し出ししている。

 

歌川広重の浮世絵(馬籠峠(標高801m)からの馬籠宿や、中央の高い山が恵那山(標高2191m)方面が描かれている。

 

馬籠宿は69次のうち木曽には11の宿場があり、江戸からは43番目の宿場である。 距離は332km(83里六町)である。

馬籠宿は、街道が山の尾根に沿った急斜面を通っていることから、その両側に石を積んで屋敷を造る 「坂のある宿場」が特徴となっている。

宿場の中央には、高貴な人の宿泊に備えた「本陣」や「脇本陣」、荷物運搬を差配をする「問屋」などが置かれている。

一般の旅人は、通常、「旅籠」を利用する。 馬篭宿には18軒あった。

この他「飯屋」や「馬宿」などがあって、中山道(なかせんどう)を利用する多くの旅人で賑わっていた。

明治22年(1892年)に、木曽川沿いに国道が開され、さらに明治45年(1912年)には、国鉄中央線が全線開通することにより、宿場としての使命を終えていく。

 

東海道に次ぐ主要な街道で会った中山道の馬籠宿、江尾時代の趣きを、そのまま、今に伝えている。

江戸時代の面影を残す馬籠宿には、相変わらず多くの旅行者で賑わっているが、なかでも、外国人旅行者の多さには驚かされる。

わたしは、何度もこの馬籠宿を訪れているが、こんなに外国人が多いのは初めてである。

私たちは、江戸時代の情緒豊かな宿場の光景を楽しみながら、ゆっくりと街並みが続く坂道を進んで行く。

 

両側に江戸時代の街並みがあり、石畳みが敷かれ、情緒を高めている坂道のある中山道馬籠宿。多くの観光客が訪れて 賑っている。

(馬籠宿はかつては長野県木曽郡山口村に属していたが、平成17年に長野県から岐阜県中津川市へ越県合併している)

  

ここで、少し江戸時代の道路について触れておきたい。

江戸時代には、各地区と江戸を結ぶ道路が整備されている。 

一里(約4km)毎に一里塚(=土を高く盛った道しるべ)や、一定間隔ごとに宿場が造られた。

主要な道路として江戸を起点として造られた五街道がある。

○東海道(日本橋から京都三条大橋まで 53次の宿場、492kmの街道)多くの大名が利用した主要街道だが、大井川などの川止がある。

○日光街道(日本橋から日光東照宮まで 21宿、143kmの街道)

○奥州街道(日光街道の宇都宮追分から別れ、福島県白河まで11宿の85kmの街道であるが、青森県三厩(みんまや)まで続いている。

○中山道(日本橋から京都三条大橋まで69次の宿場、534kmの街道)

東海道に次ぐ主要街道である中山道は、碓氷峠や和田峠、木曽の山中の難所が多い街道であったが、川止が少ないことから利用者が多かった。

○甲州街道(日本橋から中山道下諏訪宿までの 44次219kmの街道)

また、五街道以外にも各地区を結ぶ主要な街道が整備されている。

馬籠宿水車の前で(この地は、桝形と呼ばれる宿場の入り口にあたる地で、道路を直角に二度曲げたもので、軍事的な目的で作られている。

 

私たちがさらに進んでいると、上記写真のように石畳の道路(右側)と、石段の道路(左側あ)が並行して造られている場所があった。

右側が新道で左の石段が桝形になっていて、突き当りには水車小屋がある。

その先で直角に二度、折曲げてあり、この部分の山手側は桝形になっている。

これは、城郭建築の桝形を模したもので、これが「桝形」といわれていた。 

れは本来、宿場が軍事的な目的をもって造られたことを示している。

桝形は、敵方の騎馬などに攻められた折に、道路が直角に曲がっていると、騎馬はスピードを落とさざすを得ず、防御しやすくなることから造られている。

桝形になっている水車小屋の前で記念写真をとる。

さらに、石段を登って行くと、先ほど石畳の道路に出る。 両側には江戸時代の街並みが保存され、店先では、お土産品や、民芸品・飲み物などが販売されている。

 

私たちは、真夏の太陽が照り続ける中、さらに坂道を上って行く。すると、近くにある民芸品や飲み物などを販売している店から、妻たちがアイスクリームを買ってくる。

汗をかいた時に食べるアイスクリームの味は格別で、4人とも食べながら体と心を癒している。 

さらに、坂道を上っていくと、和風建築物の馬籠郵便局の建物が見えてくる。

その先には、石垣の上から萩の花の群生が、赤い可憐な花をつけ、道路側に美しく垂れ下がり、訪れた人たちの目を楽しませてくれる。

さらに、その先には、黒い板塀に囲まれ、大木を鳥居のように加工して造られた門のある建物が見えてくる。 ここが「藤村記念館」である。

馬籠宿にある藤村記念館、(私たちは時間の関係から入館はできなかった)

明治・大正・昭和の三代にわたって活躍したの文豪「島崎藤村」の文学館である。 

藤村がこの地の出身であることから、藤村にまつわる資料など、6,000点が所蔵されている。

島崎藤村(本名=島崎春樹)明治5年(1872年)馬籠で生まれる。

生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家である。

作品には、破壊、夜明け前など数々の作品がある。

作品以外でも初代ペンクラブ会長など日本文学界のリーダー的な活動をもする。

昭和18年(1943年)大磯の自宅で死去 71歳

馬籠の菩提寺 永昌寺では命日の8月22日、藤村忌が執り行われている。

江戸時代の馬籠の風景や情緒に魅せられてか! カメラのシャッターを切る外国から来た旅行者の女性と左側の男性。

 

私立ちは藤村記念館を少し過ぎた所からUターンして、もと来た道を下り、駐車場まで戻って行く。

駐車場に戻ると、時間も丁度、お昼頃になっていた。 空腹も感じていたことから、みんなで相談して昼食をとることにした。

隣にあるお食事処で、信州そばを食べることにする。

やはり、木曽で食べるそばは、おいしく、店員の方の笑顔もよかった。

昼食を終えた後、私たちは次の訪問地、中山道「妻籠宿」に向かって行く。

馬籠宿から妻籠宿までは、馬籠峠(標高801m)を挟んで隣接している、距離にして7kmである。

馬籠峠には、情緒豊かな一軒の茶屋があり、中山道と現在の車道が交わっている。

 

歌川広重の浮世絵にも描かれているように、峠道まで上ってきて、人休憩する人と、それを気遣う人との、心の触れ合いが描かれている。

この浮世絵には、馬籠峠から妻籠宿方向が描かれている。

 

ほどなくして、妻籠宿の駐車場に着いた私たちは、すぐに江戸時代にタイムスリップしたような街並みが残る宿場方面に向かって行く。

妻籠宿(つまごじゅく)は、中山道69次の中で42番目の宿場である。現在は長野県木曽郡南木曽(なぎそ)町に属している。

隣接する馬籠宿は、馬籠峠を超える旧中山道史跡と合わせて木曽路を代表する観光名所になっている。

江戸時代の文献によると、妻籠宿には、宿内家数は31軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒である。

私たちは江戸時代の情緒を醸し出している街並みを楽しみながらゆっくりと歩いて行く。

里山を感じ出すような小さな水車小屋があり、木の樋から流れ落ちている流水によって水車がゆっくりと回転し、妻籠宿の情緒を一層高めている。

 

江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていた。

中山道69次のうち、江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として、古くから賑わいをみせている宿場街であった。

  

江戸時代の情緒ある宿場を、そのままに伝える中山道42番目の宿場「妻籠」の街並み。

妻籠宿は、全国で初めて古い町並みの保存を始めたと伝えられる宿場で、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

木造建築物の出梁造りや格子など江戸時代の建築様式を、そのままに伝える町並みが特徴で、300年の江戸時代へタイムスリップしてしまったように感じる。

中山道妻籠宿人馬会所の様子、本陣前で出発または到着した折、旅の侍や、侍のお供、荷物、馬指役、馬役や籠の人夫など、当時の宿場状況が分かりやすく描かれている。 

公家や大名など身分の高い人が宿泊した妻籠宿本陣

 

宿駅が制定されると妻籠宿本陣には島崎氏が任命され、明治に至るまで本陣、庄屋を兼ね勤めていた。

島崎藤村の母の生家であり、最後の当主は藤村の実兄で、馬籠から伯父の所へ養子にきた広助(ひろすけ)であった

 本陣は明治に入り取り壊され、その後明治32年に御料局妻籠出張所が建設される。

 本陣の復原は、妻籠宿の保存が始まった当時からの念願であり、島崎家所蔵の江戸後期の絵図をもとに、平成7年4月に復原される。

妻籠宿の中では、このように木のボールペン造りなどの民芸品を実演する店もあり、多くの見学者で賑わっていた。

妻籠の宿内には、このような水車小屋があり、小川から樋で水をひっぱり、水車を回転さしている。この風景が江戸時代の妻籠宿の情緒を一層高めている。

整備がいきとどき、趣のある入口の、妻籠宿脇本陣 奥谷(林家住宅・歴史資料館)

妻籠宿の脇本陣をつとめた林家が、明治になって建てられた豪邸を、林家伝来の家宝とともに、南木曽町営資料館として公開されている。

林家は、隣接する馬籠宿出身の文豪 「島崎藤村」 の詩 「初恋」 の少女といわれる「おゆう」 の嫁ぎ先であり、展示室には彼女の愛用した品々も展示されている。 

美しく整備された日本庭園のある妻籠宿、脇本陣前にて

江戸時代の街並みが残る妻籠宿

妻籠宿は、江戸時代から営々と続く暮らしを守りながら、宿場の景観を今によみがえらせ、伝える宿場の街並みである。

江戸時代の旅篭風情をそのままに、出梁造り(だしばりつくり)や竪繁格子(たてしげこうし)の質素な家並みが私たちを迎えてくれる。

2階の出梁りや竪繁格子が、江戸時代の街の情緒を一層高める、歴史的な街並みが保存されている中山道妻籠宿

 

時代が変り、明治になり、交通網が次第に整備されていく。鉄道や道路が新たに造られてくると、宿場としての機能を失い妻籠宿は衰退の一途をたどっていった。


やがて昭和になり、経済成長の中、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している街並みが見直され、ここに全国に先駆けて保存運動が起こっていく。


妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を、 「売らない・貸さない・壊さない」 という3原則をつくり、

ここで生活しながら、江戸時代の街並みという貴重な財産を後世に伝えている。

江戸時代の街並みをそのまま伝える中山道馬籠宿や妻籠宿は、外国からの観光客にも大人気で、日本の侍の情緒を感じさしてくれるようである。

 

江戸時代にタイムスリップしたような街並みが保存されている中山道馬籠宿や 妻籠宿の見学を終えた後、私たちは、国道19号に入り、木曽福島方面に向かって行く。

日本の伝統的で地味な木造家屋が立ち並ぶ街並みを見ていると、何故か心が落ち着いてくる。

特に竪繁格子の家屋には、風情を感じるとともに、2階にある出梁造りは、映画の時代劇でよく見られるように、

浴衣姿の若い娘さんが、団扇をもって出梁に腰を掛け、賑わっている道路の状況を眺めていたり、声をかけているシーンが目に浮かんでくる。

当時の旅人たちも、賑わう街並みの様子を、出梁から楽しんでいたのでわ! と想像する。

 

国道19号は長野と名古屋を結ぶ交通の要所である。

木曽の深い谷間に木曽川が流れ、それに沿って国道が造られている。 中央高速道の開通によって、主役を取って代わられたが

、道路は整備され、走りやすく、車は渋滞もなくスムーズにながれている。 ドライブを楽しむのには、もってこいのコースである。

30分から40分ほど走行していると、木曽の景勝地 「寝覚の床(ねえざめのとこ)」に到着する。

 

中山道や木曽路で 木曽八景 として数えられる景勝地「寝覚ノ床(ねざめのとこ)」

木曽の名勝「寝覚ノ床」は、中山道の上松と須原の間の道沿いにあり、県歌「信濃の国」にも歌い込まれ紹介されている風光明媚な景勝地である。


写真は、展望所を兼ねたレストランの土産物店からの撮影した光景で、手前にはJR中央線が走っている。

寝覚ノ床は、木曽八景随一の名勝地であり、花崗岩の岩盤を木曽川の激流が長い間に水触して出来たものである.

景勝地「寝覚の床」の眺望を楽しんだ後、私たちは愛車に戻り、国道19号を木曽福島方面に走行して行く。

出発して10分程で、木曽福島の国道19号バイパスを通り、トンネルを通過して行く。

通過して直ぐに近くにある交差点から、開田高原方面の国道361号に入って行く。

開田高原は御嶽山の裾野に広がる高原で、標高は1000m以上の高地にあるため、その気候は一年を通して冷涼である。

また、開田高原は木曽馬の里として、リゾート地としても知られている。

開田高原から見る御嶽山の眺望は抜群であるが、残念ながら、雲に覆われて見ることはできなかった。

私たちは、開田高原の、雄大な自然と懐かしい農村風景を楽しみながら、さらに走行して行く。

長野県側から岐阜県側に代わり、しばらく行くと濁河温泉の標識が左方向方面と案内されている。

標識に従って走行して行くと、白樺やから松などの樹木が多く見られるような光景に代わってくる。

濁河温泉の上部に聳える御岳山の最北端にある継子岳(標高2859m)

 

愛車は曲がりくねった道路に従って高度をどんどん上げ、30分ほど走行すると、今日の宿泊先である 濁河(にごりご)温泉 旅館「御岳」に到着する。

標高1800mに位置する濁河温泉、7月だというのに愛車から外に出ると肌寒さを感じるほどであった。

早速、旅館のフロントで、宿泊手続きをすますと、4階の10畳程の広い和室に案内される。

 

 濁河(にごりご)温泉は、霊峰御嶽山の飛騨側登山口として知られ、標高1,800mでの通年営業温泉街としては、日本でも有数の高所温泉地である。

 明治20年ごろから温泉宿地として開拓され、登山者が宿泊できるようになったといわれている。

昭和30年に久々野から秋神温泉を経て濁河温泉までの車道通行が可能となり、宿泊温泉地となる。

 昭和33年には岐阜県の小坂側からの道路も完成し、より多くの観光客が訪れるようになってくる。

御岳山麓に位置し、主要道路からも離れていることから、秘湯ムードが漂い、原生林が生い茂る自然情緒豊かな温泉である。

また、濁河温泉は、標高1800mの御嶽山7合目あたりの高さに属することから、登山基地としても親しまれている。

 

この旅館には、脇を流れる濁河川の谷底へ160段(高低差50m)の階段を下りた所には、混浴の渓谷露天風呂がある。

私たちは30分ほど部屋で休憩した後、4人で館内にある混浴の渓谷露天風呂に出かける用意をする。

混浴の露天風呂に対する興味が深々と湧いてくる。

旅館の浴衣に着替え、ゆっくりと長い通路を渓谷露天風呂に向かって回廊を下りて行く。

絶壁の渓谷に造られた下り階段を露天風呂に向かって下りて行く。 渓谷には清流の流れる音や野鳥たちの鳴き声が、心地よく聞こえ、癒される気分である。

しばらく回廊を露天風呂に向かって下りて行くと、このような「金勢大明神」が祀られている。

 

金精神は勃起した男根の形をしており、金は金色に輝くような、精は勢であり、精力絶倫な男根を意味しているとされている。

金精神は、豊穣や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされている。

子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があるとされるが、他に豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験があるとされている。

祈願者は石や木や金属製の男根を奉納して祈願する。

 

旅館の回廊にある階段を160段下りるて行くと、男女に分かれた粗末な木造の脱衣小屋があった。

小屋の中も、粗末な造り付けの棚が2段造られ、脱衣用のかごが置かれている。

この温泉は、混浴のためにバスタオル巻きや水着の着用も許されている。

脱衣室のドアを開けると露天風呂は目の前にあり、緑の林の中に見事な巨石を組み合した温泉である。

温泉の奥には、樋で導かれた温泉が滝のように勢いよく、流水音を発しながら注ぎ込んでいる。

自然美豊かな渓谷の中に巨石を組み合わせてできた露天風呂、秘境の温泉ムードが漂っている。

秘境の混浴露天風呂に大喜びしながら体験する。湯加減も丁度良く、長旅の疲れをも癒してくれる思い出の温泉である。

秘境の渓谷に造られた混浴の露天風呂に浸っていると、せせらぎの音や野鳥の鳴き声が心地よく聞こえてくる。

向かい側の断崖絶壁の岩肌には、小さな白糸の滝が流れ、岩肌に寄生するように生えている緑の樹木が温泉の情緒を一層高めている。

渓谷にある露天風呂の湯に、のんびり浸りながら過ごしていると、体が癒され、時間も忘れるほどであった。

露天風呂のある渓谷の風景、自然の迫力ある風景に思わず時間も忘れるほど見とれていた。

  

               秘境の旅館にて湯上りの乾杯 味も格別である。  翌朝の朝食。      朝食後の旅館 ロビーにてコーヒー。

 

旅館御岳からの眺望

 

7月13日(月) 晴れ 御岳山の7合目あたりの秘境にある濁後温泉。 

昨日は南大阪から長野県と岐阜県にまたがる濁後温泉までやってきた。 楽しく良い旅であった。

今日もよい天気になりそうで、上高地と新穂高温泉を予定している。

朝食を済ました後、コーヒーでリフレッシュした後、午前8時半ごろ、旅館御岳を後にし、愛車プリウスアルファーで出発する。

 

御岳山継子岳をバックに記念の撮影

濁後温泉からなだらかな高原の道を下って行くと、素晴らしい御岳山北側にある継子岳2859mが美しく聳えたっている。

さらに走行しながら開田高原方面に下って行くと、頂上部に雲のかかった御岳山が見えてくる。

御岳山麓、白い泡を立てながら流れる川、散在する家や農地、その脇を大きなカーブを描きながら走る道路が、独特の農村風景を醸し出している。

御岳山をバックに記念の撮影、残念ながら頂上部は雲に覆われてしまった。

御岳山全景, 右側が継子岳(2859m)左側が摩利支天山(2959m)、最高峰のっ剣が峰(3067m)は、さらに左側にある。

雲で覆われている御岳山最高峰剣が峰(3067m)方面、頂上部は、昨年(2014年)9月27日に噴火した折の灰で覆われている。

この風景を見ていると2007年8月に登った御岳山が思い出されてくる。

また、今回の噴火で数十人の方が犠牲になられた。 まだ、5名の方が行方不明になられているとのこと。

一日も早く発見され、ご家族のもとへかえられます様に願わずにはいられなかった。

以下の3枚の写真は、2007年8月に妻と二人で登った時のものです。

 

             妻と二人で登った田の原登山口からの御岳山 八丁ダルミからの御岳山最高峰、剣ケ峰3067m、 剣ケ峰から二ノ池方向を望む。

 

 私たちは、御岳山をバックに写真撮影した後、開田高原の中心部に向かって行く。 すると、公園のような緑地に、白樺が林立して、高原の情緒を醸し出している。 

 しかも、御岳山も見え、絶好の撮影ポイントになっている。

開田高原で白樺が林立し、そこから御岳山が眺望できる、高原情緒、豊かな場所があった。

 

撮影が終了した後、私たちは開田高原から木曽福島に出て、国道19号を北上、途中の藪原から県道に入り、上高地や乗鞍高原方面に向かって行く。

通りがけに信州そばの店があり、そこで、昼食を4人ですます。その後、愛車に戻り、走行して行くと、松本からの国道158号に入り、上高地への中継地、沢渡まで走行する。

私たちは、沢渡の駐車場に愛車を止め、タクシーで上高地へ行くことにした。

上高地へのシャトルバス乗り換え欺地沢渡駐車場

 

しばらくタクシーを待っていると、黒塗りのタクシーがやって来る。

 15年ほど前に、上高地は訪れているが、その後どうなっているのか! 

何度訪れても、あきることのない、魅力を持っている上高地!

私の胸がワクワクしながら、みんなと一緒にタクシーに乗り込んで行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


平成の大修理で見事に蘇った姫路城

2015-08-09 21:53:06 | 気ままな旅

 2015年(平成27年) 5月2日(土)晴 ゴールデンウイークのさなか、私たちは南大阪の自宅を午前10時半頃 愛車プリウスα(アルファー)で出かける。

 今回の旅は、平成大修理によって白く蘇った姫路城や,香川県の観音寺・

愛媛県の別子銅山跡地を旅して高知へ向かう予定である。

自宅を愛車で出かけた後、いつもと同じようの阪神高速湾岸線から神戸線に入り、第二神明道路、加工川バイパス、姫路バイパスと走行して行く。

姫路バイパスからはJR姫路駅近くを走行すると、すぐに姫路城前の地下駐車場(大手前公園地下駐車場)が見つかった。

すぐに愛車を駐車させ、カメラを持って地上に出ると、公園があり、新緑の緑に覆われら一角から、姫路城が美しい姿を見せている。 

スクランブル式の交差点を渡ると、大天守閣に聳える鯱瓦を左右対称に展示している。

左右対称の鯱瓦の真ん中からは、緑に浮かぶ美しい姫路城が威容を放っている。

鯱瓦(姫路城の大天守閣の屋根にそびえる鯱瓦と同じもの)と真っ白に蘇った姫路城

 

 今回の姫路城の修理は、「平成の大修理」 と呼ばれ、2009年から5年半の歳月をかけて行われた。

姫路城は、白鷺が羽を広げたような美しい姿から 「白鷺城」 とも呼ばれていた。

完成した白いお城は、まさに 白鷺城の名前に ぴったりのように感じる。

今回の大修理は、柱や壁を塗りなおしたり、屋根の瓦を葺き直したりしている。

瓦は、一枚一枚剥がして、チエックし、傷みの激しいものは新しい瓦に取替える工事を行った。

修理前の姫路城と修理後の姫路城を比較して、白く見えるのは、どうしてか!

それは、石灰石や貝殻などから作る、白い「漆喰=しっくい)を壁に塗ったり、瓦と瓦の継ぎ目に使ったいる為に、お城全体が白く見えてくる。

ただ、数年たてば、修理前の城のように、少しづつ黒味を帯びて、落ち着いた色に見えるくるようである。

姫路城の配置図

世界文化遺産であり、国宝の姫路城は、1993年(平成5年)12月、奈良県の法隆寺と共に、日本で初めて世界文化遺産に登録された。

姫路城は、17世紀初頭の日本の城郭建築を代表する史跡建造物として評価を得ている。

評価の理由として

①その美的完成度が我が国木造建築物の最高位にあり、世界的にも、他に類のない優れたものである。

②17世紀初頭の城郭建築の最盛期に、天守群を中心に、櫓、門、土塀等の建造物や石垣、堀などの土木建築物が良好に保存され、防御に工夫した日本独自の城郭の構造を最もよく示した城である。

喜斎門跡方面から大天守閣を望む

私たちは、緑の林に浮かぶ姫路城を見ながら進んで行くと、喜斎門跡(きさいもん)から、堀を渡り三の丸広場方面に向かって行く。

目の前には、幾数もの城壁があり、その上空には真っ白い天守閣が聳え、堂々とした姿を見せている。

私たちは城壁を横に見ながら、三の丸広場方面に向かって行く。

幾重にも重なる城壁や白い塀や櫓、その上に建つ真っ白に蘇った大小連立式の天守閣が美しい姿を見せている。

 

姫路城は、この地の姫山に初めて城が築かれたのは1333年頃の、赤松氏の時代といわれている。

以来、13氏・48代が城主を務め、戦塵にまみれることなく今日に至っている。

赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本田忠政が城に夢を託して拡張、

いま見られる全容が整ったのは、戦乱の世が落ち着いた1617年のことである。 

多くの人達で賑わう三の丸広場と 堂々とした城壁の上に建つ土塀や櫓、さらに、その上に建つ連立式の天守閣が他に類を見ない美しさを誇っている姫路城

 

姫路城は日本一の名城といわれている。

それは、城の要塞としての機能性、防御する堀などの線が3重の螺旋形になった複雑巧妙なもの。

それに、美しい連立式天守閣をもっている。 5重6階の大天守閣と、三つの小天守閣が、渡り櫓でつながり、幾重にも重なる屋根。

白の漆喰塗りの外装などが、全体としての調和と華やかさをもった城である、。

また、姫路城は、築城400年の歴史の中で、戦火や近代の戦災に遭うことがなかったたぐいまれな城である。

そのことから、天守閣や櫓、門などの保存状態や、遺構も数多く貴重な文化遺産となっている。

姫路城の城内見学に通じる歩道、この通路には多くの見学者が訪れ、200mほどの列をなしている。

この時も入場するのに2時間ほどの時間を要するとのことであった。

私たちは三の丸広場を通り、姫路城の撮影ポイントを確認しながら前に進んでいく。

すると60歳代のボランチアガイドの男性が見え、姫路城のことについて色々と教えていただいた。

写真のことだけでなく、姫路城の歴史やエピソードなどに詳しく、その造詣の深さは驚くほどであった。

撮影ポイントを聞くと、西側の高台にある千姫ぼたん園方向から三の丸広場を見おらせる場所が良いと、教えてもらった。

早速、行って下記3枚の写真を撮影する。

教えてもらった撮影ポイントからの大小の連立式天守閣をもつ姫路城と庭園のように整備された花木などの樹木が美しい。

真っ白に蘇った連立式の大小天守閣と城壁や白い土塀が、うまく調和し、独特の美しさを見せる姫路城。

城壁の上に建つ白い櫓、さらにその上に建たつ、整然とした城壁、白い連立式の大小の天守閣が、うまく調和し、奥行のある美しさを見せる姫路城。

大手門をくぐると国宝姫路城と書かれた石碑と三の丸広場があり、その向こうには、城壁とともに連立した天守閣をもつ美しい姫路城が威風を放っている。

 

千姫ぼたん園のある高台からの姫路城を撮影しながら進んで行くと、三の丸広場に出てくる。 

三の広場や大手門から城内に通じる遊歩道近辺では多くの人たちが、眺望を楽しんだり、写真撮影をしたりして思い思いに楽しんでいる。

私たちも姫路城をポイントに撮影してして進んで行くと大手門に出てくる。

逆方向からは多くの人たちが三の丸広場方面に入って行く。

大手門をくぐるとお濠があり、桜門橋が架かり、多くの人たちが行き交っている。

国宝「姫路城」の石碑と桜門橋、姫路城を観る。

大堀に架かった桜田門橋の上に立つと、石垣に囲まれた清らかな清水の中を一層の遊覧船が向かってくる。

和船によるお濠巡りの遊覧船、間もなく大手門に通じる桜門橋の下を通りぬけて行く。

お濠と桜門橋、大手門方面からの姫路城、桜門橋を渡って大手門をくぐると三の丸広場があり、目の前に天守閣がそびえたっている。

 

私たちは、2時間近く平成の大修理で真っ白に蘇った姫路城を見学した後、愛車を止めてある大手前公園地下駐車場に帰ると、国道2号線の姫路バイパス方面に向かって行く。

姫路バイパスから国道2号を30分ほど走ると風光明媚なブルーラインを走行し、岡山県の宇野港まで行って、フェリーで高松へ渡る予定である。

 

       私の若い頃、何度も訪れている姫路城であるが、今回、三十数年ぶりに訪れる。

平成の大修理の後だけに、お城のイメージは全く違っているが、周りの公園や施設もきれいになったように感じる。

世界遺産に登録されたことで、多くの人たちが訪れ、管理費なども違っているのかもしれないが、お城の基本スタイルは全く変わっていない。

修理前の落ち着いた雰囲気の城壁や天守閣をもつ姫路城は、独特の雰囲気があり、味のある美しい城である。

私は、姫路城の連立する大小の天守閣と、それをささえる白い塀や櫓、土台の石垣がバランスよく調和して築城され、

独特の優しさがあり、他に類を見ない魅力一杯の城であると思えてならない。

姫路城は、姫路市の周りの景観の中で、広い広場を持ち、市民からも親しみのある、なくてはならないお城である。

今後、地元はもとより、日本や、世界の観光客か愛され続けるお城への地位や魅力を、だんだんと高めてきているように感じた今回の旅であった。

 

 

 

 

 

 


砂鉄から鉄や日本刀を・・・中世からの日本を支えた 『たたら製鉄』

2015-05-16 23:23:20 | 気ままな旅

  2014年(平成26年)5月2日(金) 晴 午前中は近くにあるコーヒーショップで妻と二人コーヒーを楽しんだ後、郵便局などで所用を済ませて、車中泊旅行の出発準備をする。 

 今回の旅行は、山陰方面のたたら製鉄関連施設や石見銀山・津和野、山口県の秋芳洞などや萩方面を予定している。

 私は、まだ、島根県出雲市から先にある西方には行ったことがなく、長年の課題でもあったが、今日までそのチャンスは訪れてこなかった。

 

旅行目的のひとつである和鋼博物館(島根県安来市) 砂鉄を原料とした鉄の生産や日本刀などの資料を展示している。

(上記はたたら製鉄の絵図)

 

今までの車中泊旅行は、トヨタエステイマを利用していたが、一昨年11月にハイブリッド車のプリウスα(7人乗り)に乗り換えて利用している。

2013年11月に購入したトヨタプリウスα(アルファ) 7人乗りハイブリット車。

 

2013年10月、長年(10年間)乗用した思い出深いエステイマを手放し、ハイブリット車で燃費の良いプリウスαに乗り換える決断をした時期であった。 

 私にとって慣れ親しんだエステイマは、ドライブを楽しみながら自由に旅行ができる最適の車であった。

 私たちは 本ブログの 「気ままな旅」 で紹介しているように その日の天気や状況次第で、自由気ままに旅を続けている。 

 しかも、カメラ好きの私は、山でも、野でも、景勝地などの観光地でも、その日の天気次第で、自由気ままに移動して旅を続けている。 

エステイマはミニバンであるが乗用車感覚の車で、しかも車中泊のできる車として、私たちにとっては最適な車であった。 

たとえば ホテルを予約して、車旅を続けるスタイルの旅行は、夕方の5時頃にはホテルに到着したいとの意識が常にある為、午後からの旅行予定が短縮され、時間に束縛されてしまう。  

特に夕日など、美しい景勝地での観光は難しくなる。

そんな理由から、車中泊の旅を続けられる車探しをしていたところ、プリウスαの7人乗り(3列シート)があることを知った。

当初は、この車の大きさで車中泊ができるのか! と思っていたが、

販売員の説明で、車の寸法や、座席を倒して寝てみるなどの体験を通して、車中泊ができることを確認して購入することにした。

プリウスαを購入して初めての車中泊を体験すると、当初予定していた2列目のシートを倒し、3列面の座席と平行にする。

その上に分厚いベニヤ板を寸法を測定し、加工してベットを造る。

加工した板ベットをいざ利用しょうとすると、3列シートは倒れるが前後に移動できなく、荷物が収納できない問題点がでてくる。 

車中泊の必需品であるクーラーボックスが3列シートの後ろ側のスペースが小さく入らない。

3列シート後ろに荷物の収納ができないと、車中泊旅行には適さない。 

この点、エステイマは十分なスペースがあり、荷物を収納するのに、あまり苦労はなかった。

 仕方なく、運転席と助手席を倒し2列シートの座席と平行になるようにシートを調整すると、身長170CMの私でも、何とか体を真っ直ぐにして寝れそうであった。

 3列シートは起こさずに折りたたんで収納すると、ライトバンのようにスペースが確保でき、車中泊に必要な荷物を収納することができた。

 勿論、窓ガラス面には、気泡性のあるプラスチックボードを、それぞれの大きさに加工し、その両側には、断熱性能の高いプチプチ(気泡緩衝材)を貼り付けている。

 この特性のシートを、睡眠時には全ガラス面に、はめ込む。 そうすると、外からは車内は全く見えなくなり、プライバシーが確保できる。 

それに、冬場でも睡眠時には、エンジンを停止するが、この緩衝パネルがあると、車内は温暖で外気温ほどの寒さを感じなくなる。

 

5月2日(金) 午後4時00分頃、出発準備も整い、南大阪の自宅を出発し、阪神高速道路湾岸線から大阪市内に入り、池田線から中国自動車道池田ICに入って行く。

 高速道は渋滞もなくスムーズに車は流れている。 

中国自動車道も、車はスムーズに流れ、黄昏時の車窓を楽しみながら走行して行く。 

落合JCTから米子移動車道に入って行く。

この自動車道は標高の高い蒜山(ひるぜん)高原を走行している。 

その為、落合ジャンクションからは曲がりくねった高速道路をどんどん高度を上げながら走行して行く。

そして、暫く走行すると、蒜山高原SAに到着する。 

ゴールデンウイークのせいか、SAの広い駐車場は満車で、空きスペースがなく、隅の方まで行ってやっと駐車することができた。

今日はこのSA(サービスエリア)で車中泊する予定で、時間も丁度午後8時を迎えようとしている。

米子自動車道蒜山(ひるぜん)高原SA

5月3日(土) 晴 車中泊をしていた蒜山SAで午前7時頃目覚め、外に出ると、高原特有のひんやりとした心地よい空気が漂い、清々しい気分にしてくれる。 

SAの駐車場には、車中泊をしたり、朝早くからの移動中に立ち寄った車で満杯になっている。

蒜山高原SAからの光景を、記念のために撮影しょうとカメラを持ち出して数枚撮影する。 

特にここのSAは景色が美しいことからも人気がある。  

中国地方の主峰で、地元の人達からは伯耆(ほうき)富士と呼ばれ親しまれている大山(だいせん、標高=1729m)が見えるはずであるが、残念ながら厚い雲に覆われて見ることができない。 

それでも、移動しながら撮影場所を探す。 

SAの南側には、小さな公園のような休憩場所があり、その中心にアーチ状にできた、2段鉦のモチーフがある。

 鉦のモチーフの中央からは大山(だいせん)が見えるはずであるが、ご覧のように厚い雲に覆われてその姿を現していない。

蒜山高原SAから大山方面を見るが 雲にすっぽりと覆われて見ることができない。

本当はこのような大山(だいせん)が見えるはずであったが・・(2010年10月撮影)

西側から見た富士山のような山容をしていることから、地元では伯耆富士と呼ばれ、親しまれている大山・・(2010年10月撮影)

 

蒜山SAで写真撮影をした後、妻と二人で軽い朝食を済まして、午前8時過ぎに出発する。 

高原にあるSAからは、暫くの間、下りカーブが続いて行く。 

このあたりの右車窓からは美しい大山が見えるはずであるが、残念ながら雲の覆われ全く見ることができない。 

 ほどなくすると米子ICに到着し、山陰道に入り、15分程走行すると安来ICに到着する。 

さらに、一般道を10分程走行すると、古代から鉄を生産していて、たたたら製鉄に関する資料などを展示している和鋼博物館に到着する。

和鋼博物館(島根県安来市安来町)

平成5年(1993年)に、古代からこの地方に伝わる砂鉄を原料にして、木炭燃料で鉄を 「たたら」 という製鉄方法で生産する、技法や技術、製鉄方法などに関して、映像や模型、資料などで紹介している博物館である。

和鋼博物館前に保存されているD51蒸気機関車

D51蒸気機関車は、1935年(昭和10年)からの本格的な製造から、1115両が製造されている。 

貨物が主であったが、牽引力が強いため、急こう配の旅客用機関車として使用されるなど、日本の代表的な蒸気機関車である。

博物前に展示されている(けら=たたら操業によって炉内に生成される鉄・鋼を含む鉄塊のことをいう)

ペーパーナイフの体験コーナー

私も時間的に余裕があることから、急に興味が湧いてきて体験することにした。

最初に担当の方から五寸釘を渡され、鉄ハンマーでたたき ナイフのように平らにする。

ごらんのような大きな鉄の土台があり、その上に釘を乗せては鉄ハンマーでたたくと、鉄土台とハンマーの反動で、力をあまり入れずにハンマーを連続的にたたくくことができるのには驚かされる。

鉄ハンマーたたいて出来たナイフをグラインダーで少し削り、最終段階の砥石で研いで仕上げていく。

初めての体験で出来上がったペーパーナイフ。 最終仕上げは砥石で研ぎ、持ち手の部分に糸を巻いていく。 思わずうれしさがこみあげてくる。

ペーパーナイフを体験した後、博物館内に入って行くと、下記のような天秤ふいごが展示してあった。

博物館の中に展示されいる天秤ふいご(人力で火を起すときに用いる。風を炉内に送る道具)

 

ただ、残念なのは、管内のほとんどが写真撮影禁止で、ブログで映像をお伝えできないことである。

 かつて、私は鉄に関して、鉄の生い立ちや、鉄用具、鋳物の建築物などに興味を持っていた。

特にたたら製鉄に関して、どうしてこの出雲地方で、鉄の生産が日本全国の80%に達していたのか!

古代から中世や近代まで、出雲地方を含む中国山地周辺で日本の鉄生産量の80%が 

「たたら」 と呼ばれる伝統技法で、良質な鉄を生産する製造法が盛んに行われていた。

このことは、この地方に、鉄の原料である砂鉄が豊富にあったことや、砂鉄から鉄を取り出すためになくてはならない、

燃料になる木材の山林資源に恵まれていたことが大きな要因であった。

このことから、この地域は、日本における先端技術地域であったはずである。

日本において、鉄との出会いや、生産が何時頃から行われていたのか!

 誰しも高い興味が湧いてくるはずである。

日本列島内の遺跡から、縄文時代末期(紀元前3~4世紀)~弥生時代初期(紀元前3世紀~3世紀) 頃には、大陸から輸入した鉄素材を様々な道具に加工する鍛冶の痕跡が確認されている。

次の段階である鉄の生産時期に関しても、弥生時代に鉄素材の大陸からの輸入に頼りながらも、小規模な製鉄が開始されている。

そして、古墳時代(4世紀~6世紀)の後期には、日本列島内でも、鉄生産が本格的に行われれるようになっていた。

さらに、鉄生産の初期の頃は、原料が鉄鉱石の場合が多かったが、徐々に砂鉄が加わり、主流になっていく。

このことから、土製の炉に木炭と砂鉄を装入して、鉄を取り出す製鉄方法である 「たたら製鉄」 が中国山地を中心に盛んになっていく。

その結果、江戸時代後期には、出雲地方は鉄の生産日本一を記録し、明治時代の近代的な製鉄方法が導入されるまで続いている。

古代製鉄の遺構図(6世紀後半の製鉄遺構をモデルに制作した模型)

出雲国風土記(西暦732年)には、この地域(島根県)における川砂から、砂鉄をとり、鉄生産が行われていた記述があり、8世紀前半には、この地域一帯が鉄生産の拠点であったことがうかがわせる。

たたら製鉄の原料である砂鉄と木炭、そこから造りだされた玉鋼(たまがね)、鍛冶屋などは、この玉鋼を購入、熱処理して色々な鉄道具を造る。

たたら製鉄の炉を壊して(けら)を取り出す作業((けら)だし)、灼熱の(けら)に鎖がかけられ引き出される。 丸太のコロやテコも高熱で一気に燃え上がる。

 

たたら製鉄は、当初、原料を鉄鉱石あるいは砂鉄、燃料を木炭として始まった。

熔融温度を上げる送風装置が鞴(ふいご)で、中でも 炉の左右に設置された天秤ふいごは、炉内の燃焼を良くして熔融温度が上がり、生産性を大きく高めた。

たたら製鉄の主に、高殿と呼ばれる大きな建物内で行われた。

高殿での操業は、秋から積雪の多かった乾燥期の冬場に行われていた。

たたらの工房建物「高殿=たたら(大きな建物の意味)」たたら操業模型

 

近世のたたらの炉の地下には、深さ3mを超える、巨大かつ精密な地下構造が築かれていた。

 炉の温度を高温に保つには、下記図のような大掛かりな設備が必要であった。 

近世のたたら製鉄、天秤鞴と地下構造の図 炉が出来上がると、天秤鞴を設置し、炉と鞴を送風管で連結すると完成する。 

たたら製鉄炉の上部の土をたたいて締める。(地下構造模型)

 

炉を造る地下構造模型図 この段階では、本床左右の小舟は燃えつくされ、空洞となっている。この部分が創業時の保温効果をもたらす。

 

鋼の良否が決まる築炉が完成すると、塩で清められ、約70時間に及ぶ過酷な作業が始まる。

炉には一杯の木炭がくべられ、鞴から風が送られると、炉内の木炭は燃え盛っていく。

そして、砂鉄と木炭の装入が開始される。 

砂鉄と木炭は、ほぼ30分おきに装入、時間の経過とともに量は増やされていく。

約5時間を経過すると、炉内から真っ赤に熔けた不純物であるノロ(鉄や炉の熔滓(ようさい)が排出されてくる。

さらに、この作業を続けていくと、炉底には、砂鉄が熔け、熔融した(けら)が溜まり続け、不純物である真っ赤に熔けたノロを、どんどんと炉外に排出していく。

炉内一杯に(けら)と呼ばれる鋼(はがね)の塊ができると、リーダーである村下(むらげ)の判断で、送風は停止し、操業は終了する。

そして、炉は壊され真っ赤な(けら)は、炉外に引き出されていく。

(けら)の温度が下がり、常温になると加工しやすいように小さく割られ、各地区の鍛冶屋さんなどに販売される。

販売された(けら)は、それぞれの用途に応じて加工され、農具や生活用品の工具などとして使われていく。

 

私たちが一般に 「鉄」 と呼んでいるものは、大きく分けて二つに分類される。

現在では、製鉄所などで作る鋼(スチール)と、鋳型さえあれば自由に形が造られる鋳物である。

基本的には、鉄の素材に含まれる炭素(C)の量によって、鉄の性質が大きく変わり用途も変わってくる。

炭素量は、スチールの方が低く、素材は柔軟である。

 鋳物の方は炭素量が高く性質はもろく壊れやすい。 

一般的に鉄は、炭素量が増えるほど硬くなり、もろくなる性質を持っている。

 

このたたらの鉄は、主に和鉄・和鋼・和銑に分類される。

砂鉄から造られる日本古来の製鉄法である 「たたら」 には、主に二つの製法がある。

(けら)押し法 と銑(ずく)押し法である。

①(けら)押し法= 砂鉄から直接鋼の製造を目的とするが、鋼以外に鉄や歩(ぶけら)などができ、和鋼や和鉄になる。

②銑押し法=この方法の産物である、銑は、鋳物などの原料になる場合もある。 これが和銑である。

ただ、どちらの方法でも、(けら)塊のうち鋼(はがね)を取り除いた他のもの(銑、歩(ぶけら)は、大鍛冶場(おおかじば)で、

鍛練(高温で熱してハンマーで叩いたりしながら形を整え、炭素量の調整や不純物を除去)され、包丁鉄として刃物の心鉄や諸道具の素材になっていく。 

各地域の鍛冶屋さんなどは、この素材を購入して、包丁や鍬などの農具などに加工して商品化される。

鋳物は、鍋や釜などの鋳型を作り、炉で熔湯した鉄を流し込んで造られ、商品化される。

 

たたら製鉄は、江戸後期から明治初期頃にかけて最盛期を迎えていくが、その後は鉄の需要増大に対し、生産効率から洋式製法(当時は八幡製鉄)には太刀打ちできず、1925年(大正14年)に、その役割はいったん終焉する。

現在は、日本刀素材として欠くことのできない和鉄や和鋼(玉鋼=たまがね)の、安定供給の国庫補助事業としてたたら製鉄は復元され、年に数回操業されている。

 

 

この会館では、たたら製鉄に関しての映像や展示資料から、製造法などは理解できるが、私の場合、鉄に関して、当時の人々の生活と鉄がどのように関わっていたのか!

また、日本一の鉄生産量を誇る、この地域が、日本国内の中でどのような位置づけであったのか! などの興味が湧いていた。

イギリスの産業革命以後に、「鉄は国家なり」 という言葉がでてくる。

これは、鉄鋼の生産量が、国力の指標にもなっていることからで、現在でもこのことは変わりがないと思われる。

私は。金属の中で、人間の生活に多いの関わっているものは、鉄を置いて、他にはないと思っている。

それは、鉄が強度的に強い金属であり、比較的加工がしやすく、製品化しやすいからである。 

それに、資源も地球上に無尽蔵といわれるほど豊富であることが起因している。

私は、見学した後、こういった製鉄法や鉄への思いを深めながら和鋼会館を後にしして、石見銀山方面へ向かって行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


オリーブ発祥の地 小豆島への船旅と観光

2013-05-13 00:30:07 | 気ままな旅

  2013年(平成25年)5月3日(金) 午前9時頃、私たちは、日本オリーブ発祥の地として、また、映画 「二十四の瞳」で大ヒットした島などで、全国に知られる小豆島(しょうどしま)へ向かって南大阪の自宅を愛車で出発する。 

 今日の天気は、青い空が広がり、柔らかい太陽が照らしているが、4月中旬を思わせるような少し肌寒い気温である。 

 南大阪から阪神高速道路の湾岸線を走行し神戸に向かい、神戸港を11時15分出航のジャンボフェリーに乗船する予定である。 

 高速道路は 渋滞もなくスムーズに流れ、神戸港には、予定通り 10時30分に到着する。 

 早速、乗船手続きのためにターミナルビルに行くと、チケットを買い求める多くの人達でごった返していた。 

ゴールデンウイークのさなか、アベノミクスによる日本経済の明るさを感じ初めているのか、旅行する人達が通年よりも多いように感じる。 

 小さな子供を伴った家族連れの方も多く見受けられる。

  (搬送料金=普通車(エステイマ=運転手含む)4,990円、同乗者(大人)1,800円と格安である)

 私たちを乗せたフェリー(りつりん2)は、定刻よりも15分ほど遅れて神戸港を出航する。 小豆島までの所用時間は約3時間である。

                           

 神戸~高松間を4時間で航行するるジャンボフェリー (前回の旅行時に撮影) 

 このジャンボフェリーは、高松行きで、私たちは途中の小豆島(坂手港)で下船する。 船舶(りつりん2)は、3664総トン、全長116m、航海速力は18.5ノット(34km/H)である。

 

 今回、ゴールデンウイークの旅先として小豆島を選んだのは、私どもが運営するネットショップ(JKB健康エース)で、近くに住む知り合いの方から、エキストラバージンオリーブオイルを紹介されたのがきっかけだった。

 このオリーブは、第1回OLIVE JAPAN 2012 国際オリーブコンテストで金賞を受賞するなど、様々な国際国際コンクールで数回にわたり賞を受賞しているギリシャオリーブ(エキストラバージンオリーブオイル)の名品である。 

(追記:第2回OLIVE JAPAN 2013 国際オリーブコンテストでも金賞を連続受賞する)

 恥ずかしながら、私はオリーブに関しての知識は全くもっていなかった。

 通常のサラダオイルやごま油と同じように炒める料理や、ドレッシングのようにサラダなどに利用されているオイル程度の知識である。

 自分のネットに掲載するからには 「オリーブについてもっと勉強し、購入されるお客様に正しい知識を伝えなくてはならない」 と思った。

 商品知識がないまま販売することは、購入される方に対して、大変失礼でもあるし、私自信がそれを許さなかった。

 早速、アマゾンのネットでオリーブに関する本を5冊ほど購入して読んでいると、オリーブの素晴らしさを知る。

 そして、奥行きの深い歴史のある身近な生活商品として、地中海沿岸地方では、多くの方に親しまれ、なくてはならない必需品であることも初めて知った。 

 それに、オリーブの効能も素晴らしく、食用にかかわらず、ダイエットや糖尿病、脳こうそくや二日酔いなどの肝臓への作用、アレルギー作用、美容効果などは大変なる驚きで、まるで万能で優秀な健康食品である。

 また、オリーブオイル(エキストラ バージン) をスプーンなどで、お眠み前に飲むと健康維持にも様々な効果が・・・と書かれている。 

 私は本を読むまで 「オイルを身体の中に直接入れるなんて、そんなことはできない」 と考えていた。 これも 大変な驚きであった。

 このような体験から、今度のゴールデンウイークは、「オリーブといえば小豆島」 と いわれていることから、妻と相談して小豆島へ行くことに決めた。

  神戸港を15分遅れで出航したジャンボフェリー、 船上から出航して間もない高層ビルが林立する神戸の街並みの風景が見えている。

後方に六甲山をひかえ、高層ビルが林立する港町神戸の街並みの美しい景観

神戸港を出航して30分ほど経過した船内で、間もなく明石海峡大橋を通過する旨のアナウンスが流れてくる。 

 

展望デッキに上り海上を見ると、多くの小船が集まり、私たちの乗船しているフェリーのすぐ側を航行して行く。 一瞬、危ないなー と思った。

 明石海峡大橋は、全長3911m、中央支間1991m、海面からの高さ65mの世界最長のつり橋で、1998年(平成10年)4月共有開始

明石海峡航路の中央を示すブイ。 「この海峡を航行する船舶は中央線ブイの右側を航行しなければならない」 と定められている。

 

大小無数の船舶が航行して行く明石海峡、この海峡は潮の流れが速い(13㎞/時間)ことでも有名で、タイなどの好漁場でもあるが海難事故も多く発生している。 

明石海峡を航行する船舶。 後方には明石市や神戸市の街並みが続いている。

明石海峡大橋を通過する(淡路島方面の景観)景観を船上から楽しむ人たち。 明石海峡の潮流は淡路島方面の海域が速いといわれ、好漁場でもある。

船上からの明石市のシンボルのひとつである明石市立天文科学館の塔時計(東経135度日本標準時子午線通過点)が見えている。

 塔の高さは54mである。 

フェリーの横を並航するボートから、私たちのフェリーに向かって手を振る人達

 

 瀬戸内海には、数多くの島が存在し、船上からの眺望も風光明媚で、海は穏やで波静かである。

 一昔前には、この瀬戸内海航路は、関西方面から四国や九州方面へ向かう豪華客船が航行し、新婚旅行にも大変人気が高かった航路でもある。

3時間近くの船旅、乗船しているフェリーは、大きく舵を右にきり、航跡を残しながら小豆島坂手港に向かって行く。

3時間近くの船旅を楽しんだあと、寄港するために小豆島の湾内を航行するフェリー。 リアス式の入りくんだ入江の美しい景観が続いている。

小豆島坂手港に寄港し、車や乗客を下船さした後、速やかに高松港へと向かうジャンボフェリー。

妻も私も、初めて立ち寄った小豆島。 この小豆島坂手港は香川県小豆島町に属している。 2011年より神戸と高松間を航行するジャンボフェリーが定期船として一日3回運航している。

小豆島の観光地図、右下の湾が坂手港で、高松や姫路方面へのフェリーは、それぞれに違った湾の港から運航している。

小豆島の模型図

 小豆島は、瀬戸内海・播磨灘にある島で、香川県に属している。(人口31,000人=2010年度推計) 

 島の大きさは瀬戸内海では淡路島に次ぐ、2番目の面積で、日本の島面積では19番目の大きさである。  島は複雑な形をした海岸線が変化に富み、多数の半島や入江があり、海岸線の長さは126kmである。

  小豆島は、オリーブ、そうめん、しょうゆ、佃煮などの生産が盛んで、いずれも日本有数の生産地となっている。

  特にオリーブは、国内栽培の発祥地として広く知られている。  

 また、小豆島は、壷井栄の文学 「二十四の瞳」 の舞台でもあり、島をロケ地として2度映画化されている。 ロケした場所は 「二十四の瞳映画村」 としてテーマパークのように現存し、多くの観光客が訪れている。 

  

                      小豆島で行われた 「二十四の瞳」 の映画シーン (二十四の瞳映画村)

 この映画は、瀬戸戸内海の美しい島を背景に、ひとりの若い女性教師と、12人の教え子たちとの心の交流を描いた小説(壺井栄著)が昭和29年に映画化され、 日本中の感動を集めた。

 

 午後2時半頃、はじめて小豆島坂手港に下船すると、すぐに小豆島オリーブ公園方面に向かって行く。

 正直、最初どこから訪れて行こうかと迷っていたが、時間も時間なので、近くにあり、道の駅も併設されているオリーブ公園に向かって行くことにした。

 オリーブ公園には20分ほどで到着する。  

 公園内は、オリーブを主体とした樹木が、施設を取り囲むように点在し、美しい光景を見せている。 

 駐車場に愛車を止めると直ぐに散策に出かける。 公園内は多くの家族連れの人達や、県外からの旅行者が多く訪れて賑わっている。

 駐車場の上には、山の斜面を利用して作られたイベント広場があり、中央には円形のステージが作られている。

 イベント広場の中央にあるステージ上には、湯のみカップの蓋をイメージしているようなモチーフがあり、その中央にある突起した部分に、上ろうとしている人達の光景が目に入ってくる。

イベント広場の上には オリーブ記念館や白亜の建物が見え、その周りには多数のオリーブが植樹されている。

 

オリーブ公園にあるイベント広場、野外ステージには数人の人達が、茶蓋のようなモチーフの突起物に上がろうとチャレンジしている。その向こうには美しい瀬戸内海が広がっている。

イベント広場の横にある芝生には、写真のような石が飛び石で並べられ、二人の子供が石上に乗ったり、移動したりして楽しんでいる。

身体を寄せ合う若いカップルと家族連れに大人気のイベント広場、丸いステージの上では多くの子供たちが楽しんでいる。

イベント広場のステージを見ながら、颯爽と歩く小さな女の子と、それを見つめる女の子、さらに、それを見守る母親、ステージには数人の子供たちが円形の突起物に上ろうとチャレンジする姿が多く見られた。

駐車場から イベント広場と、植樹されたオリーブ、その上に位置するオリーブ記念館や、それに付属する建物

ここ、ふれあい広場は、古代ギリシャの神殿を思わせるような柱のモチーフと満開に咲く花々、眼下には穏やかなエーゲ海を思わせるような海が広がり、美しい景色を醸し出している。

 

中央には、ギリシャ神殿を思わせる白い柱の建造物があり、柱の周りには美しい花が植えられている。 また、それを取り囲むように、周りには、世界のオリーブが数多く植樹されている。  

ふれあい広場の向こう側には、地中海沿岸地域で良く見かける、白亜の美しい建造物がある。 

この白い建物がサン・オリーブ温泉(天然温泉)で、浴場からは、湯につかりながら瀬戸内海の素晴らしい光景が楽しめる。

しばらく、ふれあい広場からの眺望を楽しんだ後、目の前にある円形のオリーブ記念館に向かって行く。

 

小豆島のオリーブの歴史や栽培・特徴・効能、商品の販売やレストランなども併設されているオリーブ記念館

 

オリーブ記念館の入り口には子供を抱いた母子像が立てられ、玄関をくぐると、大きなオリーブの女神像が私たちを出迎えてくれる。

右手を上げ、左手にはオリーブの葉で出来た輪を持っているオリーブの女神像、ここが、地中海地域とのつながりを感じさしてくれる。

オリーブ記念館のオリーブ丸ごと情報ギャラリーでは、オリーブの歴史や産業、オリーブオイルの特性など、豊富な展示パネルや映像で紹介されている。

小豆島のオリーブに関しての情報を展示パネルや映像で伝えている。

オリーブの果実、小豆島では、オリーブに傷がつかないように一個一個手摘みで収穫されて商品化される。

オリーブ記念館内にある商品の販売コーナー、オリーブやハーブを使った商品を、数々取り揃え、販売している。

売店コーナーで販売されている小豆島産の高級商品 バージンエキストラオリーブオイル

オリーブを使った色々な商品が造られ販売されている。

オリーブ記念館内にあるレストラン、ここでは、オリーブはもちろん、魚介類や野菜などを使った小豆島生まれの地中海料理などが楽しめる。

黄金に輝く美しい色をしたオリーブオイル

オリーブを使うことで風味や栄養効果満点のサラダ料理、健康維持やダイエットにも欠かせない大切な料理である。

 

 オリーブ記念館では、オリーブに関する様々な情報を頂いた、詳細な内容は次回にお伝えしたい。 

 

 本ブログ作成中に、週刊誌 「女性セブン2013年5月23日号」 で 「認知症」 を防ぐなら 「地中海式ダイエット」 の見出しで オリーブの効能が紹介されていた。 それによると

「65歳以上で10%の人がなるといわれる認知症。 40代、50代の人にとって、その予防は大きなテーマだが、そんななか、米国から衝撃的な研究結果が。 日本でも90年代に流行った ”地中海式ダイエット” に認知症予防効果が認められたのだ。 今すぐあなたのために、その基本から教えます。  主な項目は・・・

 ①主な脂肪源としてオリーブオイルを日常に使う。 チーズやヨーグルトなどの乳製品は毎日、少量摂取する。

  オリーブは動脈硬化を引き起こす血液中の悪玉コレストロール(LDL)を減少させ、善玉コレストロール(HDL)を増加させるオレイン酸を豊富にふくんでいる。

②パンやパスタ、米などの穀物類やいも類、季節の野菜や果物をなどの食物性を毎日しっかり食べる。  肥満や糖尿病の予防に・・・

③魚介類を習慣的に摂る

④肉(特に牛肉や豚など獣肉)は月に数回、少量にとどめる。

⑤アルコールは食事中、適量赤ワインを飲む。

 以上の地中海式ダイエットの5つの基本は 「動脈硬化などの生活習慣病を予防する」 「抗酸化作用で老化防止」 がすべてのポイントになっているが、これが 「記憶障害を発症する可能性が低い」 つまり 「認知症になる可能性が低くなる」 ことに通じるのだ。

 それに これまでの様々な研究からアルツハイマー型認知症になりやすいとして、高血圧、高脂血症、糖尿病、肥満などの生活習慣病とのかかわりが指摘されています。

 オリーブに関してはエキストラバージン(EXV)を選ぶこと、同じEXVでも ”手摘み” で、搾油の際の温度管理を徹底、しているなど、上質な製法のものを選ぶといいでしょう。

 このように紹介されています。 詳しくは本雑誌をご覧ください。

道の駅 オリーブナビ小豆島

この会館では小豆島を楽しむ、オリーブ栽培や地場産業の歴史、観光やイベント情報などが入手できる。

受付の職員の方に旅の情報などについて尋ねると、親切に細やかに教えてくれる。 非常にありがたかった。

オリーブナビ小豆島で紹介されている小豆島の四季

オリーブナビ小豆島の駐車場の前にある浜辺(オリーブビーチ)から、楽しそうに会話を交わしながら向かってくる若い二人。

その向こうでは若い男女二人が、何やら楽しそうに語り合いながらこちらに向かって来る。

 

 オリーブ公園の大まかな散策をすませた頃には、時間も5時を経過し、今日の夕食と入浴の準備にとりかからなければならなかった。

 車中泊は、この道の駅ですることにし、夕食の食材を購入する必要があった。 

 駐車場のガードマンにスーパーマーケットについて尋ねると、10分ほど車で行った所に、スーパー マルナカ があるとのことであった。 

 早速、行って夕食の食材を購入する。 

 その後はオリーブ公園に戻り、同じ公園内にあるサンオリーブ温泉で入浴することにしていた。

 この温泉からの眺望も素晴らしく、ゆっくりと入浴しながら瀬戸内海の風景を楽しんでいると、リラックス効果もあり、思わず時間を忘れてしまいそうであった。

 入浴を終えた頃には、太陽も西に傾き、黄昏の時間帯をむかえている。 

 先程のオリーブナビ小豆島の駐車場に戻ると、直ぐに夕食の準備にかかる。 

 折り畳み式の机と椅子を出し、料理をならべ終える頃には、すっかり日も落ち、大阪では見られないような美しい星空が夜空に輝いている。

 目の前にある砂浜からは、時々打ち寄せてくる小さな波の音が聞こえている。

 こういった野外で星空を眺めながら、妻と二人で杯をかたむける。

 杯の美味しさや楽しさは、また格別で、屋内で摂る食事とは、全く違った雰囲気の美味しい夕食となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


感動する真っ青な空と白い富士山

2013-03-25 09:50:48 | 気ままな旅

 2013年3月13日(水) 19時30分、雨が降りしくる中、妻と二人、愛車ラクテイス(1500cc)で南大阪にある自宅を東京に向かって出発する。

 明日は、東京有明にあるビックサイドで、年に一回開催される健康博覧会へ行く予定をしている。 

 博覧会に出展中のブラジル企業との商談や、商品購入、情報入手などが目的である。

 大阪を出発した愛車は、高速道路を順調に走行し、名阪道から東名阪道に入り、伊勢湾岸道を走行して行く。 

 時折、激しい雨がフロントガラスに打ち付け、ワイパーの回転速度を上げたままの状態が続いている。 

 幸いにして愛車のタイヤも、一週間ほど前に4本全て新品に交換した為か、雨の中の走行でも安定感があり、カーブや悪路でも小さな横ブレ、スリップなど全く感じなかった。   

 東名高速道路の三ケ日JCTから新東名高速道路に入って行く。 

 新東名は道路幅も広く、カーブも緩やかで走りやすい高速道路である。 

 時間も23時を回り、車中泊するSAをどこにするか決めないといけないが、明日の予定を考えると、少しでも東京に近いSAで車中泊をしたいと考えていた。

 雨の降りしくる中、愛車は、新東名高速道路を順調に走行していく。  

 妻と二人で相談し、以前にも車中泊したことのある足柄SAで車中泊をすることに決める。 

 時間的には40分ほどで行けるはずであった。 

 0時30分、雨の降りしくる東名高速道路の足柄SA(サービスエリア)に到着する。 

 3月14日(木)は 朝6時半頃に目覚める。

 疲れもあったのかぐっすりと熟睡していたようだ。 

 外は相変わらず、雨模様の天気で、時折激しい雨が愛車に打ち付けている。

 8時前に外に出ると、SA内には、多くのトラックや乗用車が駐車し休憩をとっている。 

 私たちも車外に出ると、上空は厚い雲に覆われ、先ほどの大粒の雨も小雨になっている。   

天気が良ければこの方角には美しい富士山が見えるはずであるが、この天気では望みようがなかった。

 SA内で洗面を済まし、SA内のレストランでコーヒー付の朝食を摂ることにした。  やはり朝のコーヒーの味は格別であった。

 雨が降りしきり厚い雨雲に覆われている東名高速道路の足柄SA(サービスエリア)

 

 午前8時30分ごろ、雨の中、足柄サービスエリアを出発する。 

 30分ほど走行すると、トラック同士の事故のためにか高速道路は大渋滞、抜けるのに60分ほどの時間を要したが、午前中には、東京ビックサイトに到着する。

 14日(木)、と15日(金)は、品川区の天王洲アイル駅周辺のホテルに宿泊して、ブラジルの企業との商談や健康博覧会の展示ブースの見学、その後、都内の関係先などへのビジネス活動をしていた。

 これらの活動も、15日(金)の夕方までには全て終了し、若かりし頃からの東京の友と、新橋で久しぶりに杯をかたむけることができた。 

 やはり気心の知れた友との杯は、心が落ちつき、リラックスさしてくれる。

 

 15日(土)、朝6時半頃、起床して11階の部屋の窓から外を見ると、今日も天気も良さそうであった。 

 ホテル内で朝食を済ますと、愛車で首都高速にのり、神奈川県横須賀方面へ行くことにして出発して行く。

 横須賀市内にある三笠公園へ立ち寄ることにした。

 三笠公園では、日露戦争の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を破った日本海軍の旗艦 「三笠 」が資料館として活用されている。  

 三笠を見学した後、観音崎や浦賀水道久里浜にあるペリー上陸記念碑などを見学する。

 横須賀市内の歴史的な施設などを見学した後、横須賀道路から東名高速道路に戻り、大阪方面に帰って行く。 時刻も17時を少し回っている。 

 当然、今夜はどこかのSA(サービスエリア)で車中泊することになる。

 走行中に色々考えたりしていたが、妻と相談して、東名高速道路の横浜町田ICから1時間ほどの距離にあり、入浴施設などがある足柄SAで車中泊をすることに決める。 

 19時過ぎには足柄SAに到着する。 

 到着するとすぐにSA内にある施設で入浴する。

 やはり広々としたお風呂は気持ちがよく、一日の全ての疲れを取ってくれそうで、私たちの旅の楽しみの一つでもある。 

 入浴後は、クーラーボックスで冷やしておいたビールを片手に、妻と二人で摂る夕食も、また、格別であった。

 

 3月16日(土)朝、6時30分頃に目覚め、外を見ると雲一つない快晴の天気で、周囲を見渡してみると、雪を被った堂々とした、美しい富士山が目の前に見えている。

 私は何回かこの高速道路やサービスエリアを通過しているが、こんなにきれいで近くに見る富士山は初めてである。 

 思わず、私の心も弾み、すぐに着替えて、カメラを取り出して撮影にかかっていく。

感動した朝の足柄SAからの雲ひとつない快晴の天気の中での美しい富士山

多くの車が駐車する足柄SAから見る朝の美しい富士山・・・・地元の方でもこんなに美しい富士山はめったに見られないと・・・・

東名高速道路の足柄SAの東方向にある単車パーキングからの、真っ青の空の下、白い富士山が美しい山容を見せている。

足柄SA施設の西側から見た葉を落としているケヤキの木と青い空、真っ白な頂き、三角形の美しい山容を見せる富士山。

サービスエリア内をくまなく歩きながら、どこから、どの位置から撮影すれば一番きれいな富士山が撮影できるか! を考えていた。

 すると、富士山を映した一枚の掲示ポスターが目に入ってくる。

早速、SA内で働いている人に 「この写真はどの場所から撮影したものですか・・・・」 と尋ねるてみると、

 「このSA内の2階屋上にある展望台から撮影したものです」 ・・・ とのことだった。 

早速、行ってみることにした。

2階の展望台に行くと、先ほどよりも大きく見える堂々とした白い富士山が、真っ青な空の下で美しい山容を見せている。

富士山のすそ野も、先ほどよりも、左右に一層広がり、美しい山容を見せ、見る人々の心に、この美しさを、感動を与えてくれている。

 さえぎるものが何もなく素晴らしい光景の白い富士山。

撮影最中に施設内のスピーカーから富士山がよく見える2階展望台の案内放送が流れてくる。 

しばらくすると写真の家族連れが展望台に訪れてくる。 

家族で訪れ、富士山をバックに記念撮影する人たち。 右山麓には気球が揚がっている。

足柄SAの施設とケヤキの木との間に見る富士山

足柄SA内のコーヒーショップ、ガラス窓越しに見る富士山、この場所で私たちは朝食を摂り、コーヒーを味わう。

 真っ青な空の下の雪を被った富士山を眺望しながら飲む朝のコーヒー、いつまでたっても飽きることのない光景を見ながらのコーヒーの美味しさは抜群であった。

足柄SAを出発する前に、SA内の案内所で制服を着た女性に、

「これから大阪方面に走行して行くが、富士山のもっとも眺望の良いSAやPAはどこですか!」 と尋ねてみる。  

担当の若い女性の対応は親切であった。

 「足柄SAを過ぎると、すぐに新東名と東名に分かれるが、富士山の眺望がよいのは、東名高速の富士川SAです」 と紹介された。

 「新東名は距離的には10kmほど短く、時間的には早く走行できるが、眺望という点では東名高速の方がいいです」・・・とのことだった。

足柄SAを出発した私たちは、新東名との分岐点を東名高速に入り、走行して行く。 

するとすぐに愛鷹PAが目に入り立ち寄ることにした。 

ほんとに小さなPAであるが下記の写真を撮影する。

足柄SAから15分ほどの距離にある愛鷹(あいたか)PAからの富士山

愛鷹PAで上記のような富士山の写真を数枚撮影した後、すぐに富士川SAに向かって行く。

愛鷹PAから東名高速道路を15分ほど走行すると富士川SAに到着する。

 眺望の良い場所では多くの方たちが、富士山を見ながらのんびりと過ごしている光景が見られた。

 

富士山の眺望という抜群の立地に作られている富士川SA。 

そばを富士川が流れ、東名高速道路の赤い橋が架かっている。 

それに、富士山のすそ野が広がり、これらの光景とともに、白い富士山が中心となって、見事なコントラストを見せている。 

ほんとに日本一、あるいは世界一美しい光景のように思えてくる。

富士川SAにある富士山展望の東屋、まだ、つぼみのしだれ桜と富士山の光景、

富士山は、不思議な山である。 

どの方角の地域から富士山を見ても、あるいは、どの季節から富士山を見ても、趣は異なってくるが、

山の美しさは、それぞれに味があり、奥深さが感じられる。  

それだけに、何度訪れても飽きることがなく、益々、訪れる人々を魅了してやまない山である。

東屋から東名高速道路を行き交う車と優雅な姿を見せる富士山の光景。 

頭の中で、親しい人たちとこの場所で弁当を広げ、談笑しながら過ごしていると、時間も忘れてしまうような光景が浮かんでくる。

富士川SAに小さな孔のあいた石が置いてあった。 覗いてみるとこのような見事な富士山が、くっきりと浮かんで見えていた。

富士川SAのコーヒーショップと富士山の光景。

 全くいい場所につくられているコーヒーショップである。

天気さえよければ、この場所から富士山を眺め、飲むコーヒーの美味しさを想像さしてくれる。 

手前のカラフルなポスターも面白い。

壁にかかった絵図と東名高速道路の赤い橋と霊峰 「富士山」 

どうして、この場所に、このような絵画がかはわからないが、

一般的な私たち日本人は、日本的な光景と富士山を想像するが、このような欧米的な絵画と富士山は珍しく思える。

 和洋が重なっているようで面白く感じられた。

富士川SA内で早咲きの桜(?)の間から見る富士山と、すぐそばで数人の人たちの談笑する光景が見られた。

春を感じさしてくれる富士川SA内に咲く黄色い花と白い富士山の光景

ゆったりと流れる富士川、川に架かる東名高速道路を行きかう車と富士山

東名高速道路を猛スピードで行き交う車と聳え立つ富士山

このような快晴の天気の中で富士山の眺望を楽しんでいると、時間もいつのままにか大幅に経過していた。 

売店でワサビの土産物を購入するとすぐに富士川SAを出発する。 

 このSAで販売しているワサビを購入したのは、私の名古屋時代に 「このSAのワサビを美味しい」 との評判を聞いてからで、

ここを通過しているときは毎回のように買っている。 

ここのワサビを白いご飯と共に食べる味は、いつまでたっても忘れることはなかった。

富士川SAを出発して7~8分位で由比PAに到着する。 

 

由比の地域は、昔から富山県と新潟県の県境にある親不知(おやしらず)と同じように、断崖が海まで迫り、昔から難所中の難所であった。 

歌川広重の浮世絵の東海道五十三次 「由比」 には、難所を恐れ恐れ行きかう旅人や、海、富士山が描かれている。

このそそり立つ断崖の海を埋め立てて、国道1号線、JR東海道線、東名高速道路が、狭い場所を通過している。

日本の大動脈が狭い範囲に集中していることから、自然災害などが発生すると、

日本の大動脈に重大な影響を及ぼす恐れが高いといわれている。 

東名高速道路は、台風などの波が高い時は、上下線とも不通となる。 

そのために、新東名高速道路は、少し離れた山岳地域につくられている。

富士川SAを出発して海岸にある由比パーキングエリアから・・・・ 山の上に聳え立つ富士山

由比PAから・・・波が荒いのかテトラポットが敷き詰められた海岸と駿河湾、山の上に白い顔を出す富士山。

海の上に聳え立つ急峻な形の富士山と、白いハングライダーが鳥のように上空を廻っている。

由比PA展望台から高速道路を行き交う車と、弓型のテトラポットを敷き詰めた海岸線、上空に聳える白い富士山

 

絶好の天候に見舞われ、富士山をご覧のように撮影で来て、私も妻も大満足であった。 

ここ数年間に何度も富士山を訪れているが、こんなに天候に見舞われた綺麗な富士山は初めてである。 

やはり富士山は、何度訪れても、また訪れたくなる魅力ある山である。

由比PAを出発した後、清水JCTから新東名高速道路と接続している中部横断自動車道に入り、

5kmほど走行して新清水JCTから新東名に入って行く。 

やはり新東名の方が広々として走りやすかった。 

 そして、途中で何か所で休憩したり、昼食を摂ったりしながら走行し、夕方5時ごろには、南大阪の自宅に帰宅する。

ビジネスを兼ねた4泊5日の今回の車中泊を兼ねた旅も、最後の旅行日に、こんな美しい、心に焼きつくようなプレゼントをいただいて

ほんとに良かったと思っている。

 感謝の気持ちに絶えない。

また、時間の許す限り、感動するような、気ままな旅を と念願しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


かつては東京ー欧州行き国際列車連絡船が・・・敦賀港駅(福井県)

2011-08-11 10:17:19 | 気ままな旅

2011年5月4日(水) 晴れの緑の日の休日、私たちは南大阪の自宅を午前10時00分 愛車エステイマで出発、阪和・近畿自動車道から第二京阪道路・京滋バイパスを走行、米原JCTから北陸道敦賀ICまでやってくる。 

 敦賀市内で 「気比さん」 の名で、地元の人達に親しまれている気比神宮を訪れ、参拝と見学を済ませる。 

 その後は敦賀港に面した金ケ崎緑地公園内の駐車場に愛車を止め、人道の丘 敦賀ムゼウムを訪れる。 

 ここで私は初めて ロシア革命などの内戦に巻き込まれたポーランドの政治犯や愛国者の家族がシベリアに抑留され、親を失ったポーランドの孤児が、食べるものもなく、生死の極限状態をさまよっていた。 この様子と孤児の救済を依頼された日本は、ただちに孤児受け入れ準備を進め、日本赤十字や国民あげて実施した孤児救済活動が紹介されていた。 

  リトアニアの日本領事官 杉原千畝氏が発給した ユダヤ難民に対する 「命のピザ」 にまつわる話は、以前から知っていたが、ポーランド孤児救出の話は全く知らなかった。  

見学を終え、先人達の行った人道的な行為に対して、大きな感動が湧いてくる。 日本人ってたくさんいいことしていると思いながら、人道の丘 敦賀ムゼウムを後にして公園内に戻って行った。

 そして、同じ金ケ崎緑地公園の片隅に、旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)と書かれた2階建ての建物があった。 興味をひかれ館内に入って行く。 

 

旧敦賀港駅の敦賀鉄道資料館

旧敦賀港の駅舎は、かつて「欧亜国際連絡列車(新橋=東京~敦賀港駅~ウラジオストク~シベリア鉄道~ヨーロッパ)の発着駅として、多くの人々や文化を運ぶ重要な位置を占めていた金ケ崎駅(後の敦賀港駅)舎を再現したものである。 館内では敦賀港の歴史、敦賀の鉄道歴史を紹介したパネルや、貴重な鉄道資料が展示されている。

入口の上には 「敦賀港駅」 と書かれた敦賀鉄道資料館玄関口(入館料=無料)

鉄道資料館内に入って行くと、1階はごらんのような鉄道に関する信号機、服装、線路、鉄道模型などが展示されている。

鉄道資料館内の展示状況

敦賀機関区の転車台と蒸気機関車の鉄道模型

 

明治に開港指定された敦賀港の様子

1899年(明治32年)敦賀港は開港場に指定される。 「開港場」とは、外国船の入港が公式に認められた外国貿易港のことである。 明治政府によって日本全国から地理的に重要で、かつ、整備が整った港が選ばれた。

 当時、敦賀港は、港を中心とした街全体が多方面にわたって整備されていた。 国際定期便が安定して停泊できる岸壁の建設、大量の荷物を陸上輸送されるための道路や鉄道などのインフラ整備、入出国手続きを円滑にする税関設備も設置されていた。 また、人材の育成にも重点が置かれていた。

 鎖国中のわが国で鉄道のことは、通商を許されたオランダの長崎商館長の 「風説書」 を通じて知られていた。 また、漂流してアメリカに渡った者の見聞、開港を求めて来航したロシヤのプチャーチンや、アメリカのペリーが持参した蒸気車模型、遣欧米使節や留学生がもたらした知識などによって、鉄道について具体的に認識されるようになっていた。 

 福井藩では橋本左内や村田氏寿、横井小楠が鉄道のことを記している。 そして、幕末に薩摩藩や在日英国人、米国人達によって国内の鉄道建設計画が進められた。

 こうした機運の中で明治政府は、成立まもない明治2年(1869年)11月10日の御前会議で、駐日イギリス公使パークスの進言を受けて鉄道建設の方針を立てる。 

この時の計画は、東京ー京都間の幹線と、東京ー横浜間・京都―大阪ー神戸間・琵琶湖畔ー敦賀間の各支線である。

そして、明治5年9月に新橋ー横浜間に、わが国最初の鉄道が開通した。

 以後、文明開化による富国強兵、殖産産業をスローガンに、近代的中央集権国家建設のため、政治主導でわが国の鉄道建設が進められていく。

鉄道創設の立役者の大隈重信と伊藤博文

大隈重信は大蔵、民部大輔として奔走する。 伊藤博文は大蔵・民部大輔として、のち工部大輔として鉄道建設の衝に当った。柳ケ瀬隧道に 「萬世永頼」 の石額を書く。

鉄道の父といわれ日本鉄道の発展のために生涯尽力を尽くした井上勝(1843年~1910年)

文久3年(1863年)長州を脱藩し英国に渡り、鉄道、鉱山・土木について学び、明治元年(868年)に帰国し、生涯を鉄道発展に尽力した。 敦賀線の建設にも指導力を発揮した。  

井上勝は、帰国後阪神や京阪間の鉄道敷設工事に携わり、その後も鉄道局長などの重要ポストで活躍した。 中でも明治16年中山道経由と決定していた東京ー京都間の鉄道ルートを東海道に変更させ、 さらに東京ー神戸間の全線開通も先頭にたって工事を督励している。

 最近発生した中国高速鉄道の事故のすさまじさには驚かされるが、もっと驚かされるのが事故原因究明の姿勢、人命と安全を重視する姿勢が微塵も感じられず、高架からぶら下がっている事故車両を、こともなげに下に突き落とす乱暴な手法や、破壊された車両を重機で穴の中に埋め込む作業をTVなどで見ていた世界中の人達も、あっと、溜息をつかされるように驚された。

 世界最速を自慢する中国らしく事故処理も超特急であるが、事故究明、現場検証はあまりにもお粗末であり、安全を無視し、早期開通を急ぐあまり、手抜き工事やずさんな工事監理などから、高速鉄道の安全性が指摘され続けている。

 井上勝のように鉄道に生涯をかけてきた人達から見れば、中国の事故処理は言語道断で、人命を軽視した鉄道事業など微塵もなかったろうと思われる。 

 また、鉄道技術、特に高速鉄道などの技術は、一朝一夕に出来るはずもなく、井上勝のように鉄道に熱意を燃やし、鉄道に携わる多くの人達、永年にわたる切磋琢磨してきた歴史や誇りの延長線上に、人命と安全を重視した日本の鉄道技術があることを、 私たちは忘れてはならないと思う。

 敦賀に至る鉄道線が、京浜間や阪神間と共にいち早く取り上げられた理由は、古来、敦賀は琵琶湖の舟運を介して畿内と北陸地方を結ぶ交通の要路で、近世以降、蝦夷(北海道)や日本海側諸国と上方との商品流通が盛んになると、その重要性が益々増大していった。 なお、鉄道に先駆けて、敦賀半島の立石岬に灯台が建設されており、敦賀港の重要性が窺える。

鉄道錦絵「東京名所の内、新橋汐留蒸気車鉄道局停車館の真図」 歌川広重画

鉄道錦絵 「西京神戸の間、鉄道開業式 諸民拝見の図  明治10年 歌川広重画

初代敦賀港駅開業、金ケ崎・洞道間の部分開業にともない、気比神宮前に開業した初代敦賀駅/1882年(明治15年)3月10日

明治2年に計画された敦賀への鉄道は、明治13年4月に長浜と敦賀の両方から、日本人だけで工事が開始された。 明治15年3月10日、柳ケ瀬トンネルをのぞく長浜ー金ケ崎間が部分的に開通した。 新橋ー横浜間、京阪神間、北海道幌内鉄道、釜石鉱山鉄道に次ぐものである。 敦賀側には金ケ崎、敦賀、疋田(ひきた)など6駅が設置された。 金ケ崎駅は、旧陸軍砲台跡に埋立地と築堤とを造成して、駅本屋、機関庫、転車台等も造られた。 初代敦賀駅は、気比神宮南西脇に開設された。

明治15年5月、長浜ー大津間の琵琶湖上に、わが国最初の鉄道連絡船が運航され、敦賀から京阪神まで、鉄道と水運によって結ばれた。 疋田ー柳ケ瀬間のトンネル(1352m)は、難工事の末に完成し、明治17年(1884年)4月、長浜ー金ケ崎間42.5kmが全通した。

敦賀港は鉄道の開通により活況を呈したが、北陸線が次第に北進、明治32年(1899年)富山まで開通すると、国内交易は奮わなくなった。

敦賀港で行われる新造船敦賀丸の進水式で集まった群衆、1938年(昭和13年)

ウラジオストクでのシベリア鉄道起工の動きに合わせ、大和田庄七らの運動により、敦賀港は明治32年7月に開港場に指定され、同35年に敦賀ーウラジオストク間に定期航路が開設された。

 同40年には、横浜、神戸、関門と共に第1種重要港湾に指定されて、日本海屈指の国際貿易港としての位置を占めることになった。

同42年から第一期港湾修築工事が行われ、金ケ崎岸壁に3000トン級の汽船が停泊できるようになり、荷揚げ場や倉庫なども整備された。 金ケ崎岸壁には、税関の旅具検査所、金ケ崎駅(敦賀港駅)、大和田商店回漕部、露国義勇艦隊支店などハイカラな建物が並んでいた。

欧州への最短路ー欧亜国際列車が発着していた敦賀港

日露戦争後、ロシアはウラジオストクを「東亜への門戸」と位置づけ、敦賀との間にロシア義勇艦隊による定期航路を運航した。 日本側は大阪商船が国際航路に参画した。 また、ロシアが中国北東部に保有していた東清鉄道の南満州の支線等については、日本が満鉄として経営を引き継いだ。

こうした中、敦賀は明治43年4月から関門や長崎と共に、当時の満州や日本海沿海州との連絡ルートとなり、同44年3月からはシベリア鉄道経由でヨーロッパに至る 「欧亜国際連絡運輸」 が開始され、 その後、大西洋・太平洋航路を利用した世界一周コースの窓口となった。

当時、日本からヨーロッパへは、インド洋周りでは1ケ月間も要したが、シベリア経由では、東京ーパリ間を約半分の17日間で多くの人々や文化を運んだ。

ヨーロッパと日本を結ぶ欧亜国際列車の概略図

新橋(東京)-金ケ崎間の欧亜国際連絡列車は、当初週3回運転された。 毎週、日、火、木の21:00発神戸行急行第9列車に、寝台緩急車マイロネフを連結し、翌朝、米原駅で切り離し、8:35分発不定期の第15列車となり、金ケ崎に11;00分に到着した。そして、毎週月・水・金の敦賀港発ウラジオストク行の定期航路に連絡した。

金ケ崎からは日・火・木の朝8:52分に発ち、米原で下関からの特急列車に乗り換えると、新橋(東京)には20;25分に着いた。

英語表記のマイロネフ37形国際寝台列車(1・2等寝台緩急車)で記念撮影をする敦賀港職員等の人達

敦賀港ーウラジオストク連絡船「満州丸」と北日本汽船株式会社(右手前の建物)

 

日本とヨーロッパを結ぶ 「欧亜国際連絡列車時刻表(昭和5年10月)」  ※ 莫斯科(モスクワ)・羅馬(ローマ)

日本からヨーロッパまでの日数及び運賃概算(昭和4年10月)(当時汽船でインド洋経由だと約1ケ月間を要した)

敦賀港からジュネーブへ向かう松岡洋右外相の一行(昭和7年10月)

鉄道資料館を訪れて、最初に驚くのは、日本海に面した敦賀の重要性と発展である。 特に発展した敦賀港からヨーロッパを結ぶ欧亜国際連絡列車があったことである。 当時は外国航路は汽船が主流であり、列車で行くと汽船の半数の日数でヨーロッパに行くことができた。

日本が鎖国を続けていた時代から明治に入り、わずか45年で鉄道や港が整備され、東京から敦賀ーウラジオストクーヨーロッパに連絡する列車が運行されていたのは、ほんとに驚きで、大きく変化して急速に成長していく日本が姿を感じてくる。

その他鉄道資料館では、トンネルと電化、戦後の復興などがパネル写真などで紹介されている。

 

 見学を終えた後、一階の受付女性に敦賀市内の日替わり温泉と車中泊の出来る場所を尋ねてみた。 

「日帰り温泉は敦賀市内にあり、車で10分ほどの行った所に「越の湯=600円」という近代的な温泉施設がある。」 

「車中泊も、すぐ近くに 「気比の松原」 という美しい浜辺をもつ公園があり、そこに無料で広い駐車場が整備されている。」

 と親切に教えて頂いた。 早速行って見ることにした。

 敦賀市内にある日替わり温泉 「越の湯」 は、すぐに分かった。

 早速、入浴準備をして入館して行くと、大勢の入浴客が訪れ、温泉を楽しんでいる。

 私も露天風呂に入湯、たそがれ時の夕日に、少し赤く染まった空を眺めていると、心身の疲れを癒してくれ、新たなエネルギーを頂いた気持ちになってくる。 旅先での温泉も、私たちにとっては大きな楽しみのひとつである。

温泉でリフレッシュした後、近くのスーパーで夕食の買い物をすまして、すぐに気比の松原駐車場に向かって行く。 

 5分ほどで到着すると200台位は車が駐車できそうな広い駐車になっていて、全面は、敦賀湾に面した砂浜が広がり、左右には美しい緑の松林が囲んでいる。 心配したトイレなどの設備も整っている。

日本三大松原に数えられる 「気比の松原」 敦賀湾に面し、白い砂浜と緑の松林が広がり、四季を通して、多くの人達に親しまれている。

名勝 「気比の松原」 は三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つに数えられている。 その昔 聖武天皇の御代に異属の大群が来襲した。 その時、敦賀の地は突如震動し一夜にして、数千の松原が出現した。 そして、松の樹上には 気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群舞し、あたかも風にひるがえる 旗さしもののように見えた。 敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし、たちまちのうちに逃げ去ったという。 この伝説に因んで 「一夜の松原」 とも称される。 現在、気比の松原は およそ東西1000m、南北400m、広さ37.9ヘクタールで、樹数約12000本を数え、海岸林としては全国的にも珍しく、赤松が群生している。

広い駐車場のある名勝 気比の松原 若い人達にも人気があり、松林や浜辺を潮風に吹かれながら散策ができる。 車中泊の車も多い。

 

 気比の松原駐車場に到着すると、私たちは直ぐに夕食の準備に取り掛かった。 愛車の片隅の松の枝場の下に、折りたたみ式のテーブルと椅子を持ち出し、先ほどスーパー買った夕食の料理を並べる。 青い夕空の下、妻と二人で夕食を摂りながら杯をかたむけるのは最高の気分で、旅の楽しさが湧いてくる。 

 松林に囲まれた駐車場前面にある浜辺からは、静かなさざ波の音が聞こえ、片隅ではグループの若者たちが威勢の良い声を出しながらバーベキューを楽しんでいる。

そして、日は完全に落ち、夜空に星が輝き始めた折に、夕食で準備した用具を片づけて、外灯の柔らかい灯りの浜辺を散歩する。

浜辺には、数人の男女のカップルが訪れ、海を見ながら楽しそうな会話をしている。 5月の少し肌寒い心地よい風が通り過ぎていく。 

  隣の子犬を抱いた若いカップルに話かけると、「大阪から急に思いついてここまでやって来た。 車の運転は全て奥さんがしてきた。今夜はここで車中泊をする」 とのことであった。

このような会話を交わした後、若い夫婦に 「明朝のブラジルの美味しいコーヒーがあるけど」 と話をすると、是非、頂きたいとのことであった。

その後、私たちは愛車に戻り、横になって車外からのさざ波の音をきいていると、いつの間にかぐっすりと眠っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


厳しい戦況の中でユダヤ難民を救った人道的な日本人

2011-07-23 23:44:11 | 気ままな旅

 2011年5月4日(水)みどりの日、福井県敦賀市にある 「人道の港 敦賀ムゼウム」に妻と二人で訪れている。 

先程までは全く知らなかったポーランドのシベリア孤児救出に関する写真や展示物を見ていて、日本の先人たちの功績やポーランドの人達のとの心温まる交流の歴史に感動していた。  

 隣の展示コーナーでは、元リトアニアの外交官 「杉原千畝=すぎはら ちうね」氏が、ユダヤ人に対して「命のピザ」を発給して、6000人の人達を救ったことに関する写真や、当時の細かい状況が詳細に伝えられている。

6000人のユダヤ人を救った元リトアニアの外交官「杉原千畝」氏

第二次世界大戦後、世界各地に離散していたユダヤ民族が、国連総会の決定を受けてイスラエル独立を宣言したのは1948年(昭和23年)5月14日のことである。 日本は昭和27年にこれを承認、同年、東京にイスラエル公使館が設立されて、正式な国交が始まった。

昭和48年両国の公使館が大使館に昇格した直後、ジェホシュア・ニシュリが参事官として日本に赴任してきた。

彼の最初の仕事は一本の電話をかけることだった。 相手は当時、国際交易という会社でモスクワ支店代表を務める杉原千畝である。

そして、2人は同年6月イスラエル大使館で28年ぶりの再会を果たした。

「スギハラさん。 私はこれまでビジネスで来日する度に、ずっとあなたを探し続けてきました。 ようやくお会いしてお礼をいうことが出来ます。 あなたに助けられた多くのユダヤ人はみんな、今も心からあなたに感謝しています。 本当にありがとうございました」 とお礼を述べている。

イスラエル政府は、17年後に最も名誉ある 『ヤド・バシュム賞=諸国民の中の正義の人賞』 を杉原に贈っている。 これは日本人として初めての快挙である。

ドイツナチス党首 アドルフ・ヒトラー 

  1939年9月1日 ドイツ軍がポーランドに侵攻。 9月3日には、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。 戦火はヨーロッパ戦争として拡大して第二次世界大戦が始まった。

  ナチス党を率いるヒトラーは、ドイツの政権を掌握すると直ちに、ドイツ国内にいる52万人のユダヤ人に対する迫害と強制退去をはじめる。 ユダヤ人の公職追放、企業経営禁止、農業などに従事するなどの市民としての生活権も否定された。 その後にナチス党員・突撃隊が、ドイツ全土のユダヤ人住宅、商店地域などを襲撃、放火した。 

 こうしたユダヤ人は排斥政策は、ドイツにとどまらず、多くのヨーロッパ諸国に広がっていった。 

 事態の深刻さを重く考え、急増するユダヤ難民問題を解決するために、アメリカの提案による第1回救済国際委員会が、1938年(昭和13年)3月フランスで開かれた。しかし、会議に出席した各国のユダヤ人に対しての反応は冷たかった。  

 同年11月ユダヤ系ポーランド人の一少年が、パリのドイツ大使館書記官を暗殺したのを機に、ドイツはユダヤ人に対する報復を呼びかけた。その結果、ドイツのユダヤ人教会や商店が破壊された。 ヒトラーもこれを機にユダヤ人の大規模な国外追放をはじめる。

ナチス警備兵追及され両手を上げる少年

 

 1939年9月、ドイツ・ソ連がポーランドを分割し大量のユダヤ人難民が発生する。 ポーランドから逃れようとしたユダヤ人たち 「東方のスイス」 と呼ばれるリトアニアに逃げ込もうとするが、国境近辺には独ソ国境警備兵が駐留、無差別の発砲が待っていた。 なんとか国境での発砲をくぐりぬけたユダヤ難民たちの行先は、カウナスにある日本領事館であった。

 1940年(昭和15年)年7月18日、リトアニア・カナウス日本領事館の早朝、ユダヤ人排斥政策により国境を越え、ナチスの魔手から逃れるため、ユダヤ人難民たちが、日本通過ビザを求めて押し寄せて来る。

発給ビザを求めてリトアニア日本領事館前にやってきたユダヤ難民たち

 

 彼らユダヤ人にとって生きる道は、たった一つ、日本領事発行のシベリア鉄道経由での日本通過ビザを受け、第三国へ行くしか道は残されていなかった。 ビザがなければ収容所送りとなり死を意味していた。

多くのユダヤ人が犠牲になったポーランド・アウツビッシュ強制収容所へつながるレール

 

 次から次へと押し寄せてくる大勢のユダヤ難民、しかし、杉原領事代理はビザを数人分位なら自分の裁量で発給可能だが、何百・何千枚となると外務省の許可が必要なため、何度か外務省へ実情を打電する。 だが、最後の返事も「ビザ発給はならぬ」という回答であった。  

 独ソ不可侵条約により分割されたポーランド。 さらにソ連は、バルト三国を傘化に納めるという秘密合意を得、1940年6月1日、ソ連はバルト三国に親ソ政権を樹立さした。 リトアニアは中立国と考えていたユダヤ人はこれに大いに動揺する。   このことは、近い将来、ポーランドと同様にユダヤ人狩りの修羅場になることであり、その時が刻々と迫り、恐怖がユダヤ難民に襲いかかっていた。

 もはや、ユダヤ人達にとって、リトアニアからの脱出が、緊急を要することは明らかで、猶予する時間は残されていなかった。

 こうした厳しい情勢の中の、1940年(昭和15年)7月15日 朝、ビザを発給すべきかどうか! 悩み苦しんだ杉原は、妻の幸子に問いかけた。

 「彼らの(ユダヤ人)の望むことをすれば・・・僕は外務省を辞めさせられるかもしれないし、ドイツ軍に捕まるかもしれない。 君も幼い子供たちも・・・・。 それでいいかい・・・」 幸子は杉原をまっすぐに見てうなずいた。 「かまいません」  

 こうして杉原千畝は外務省の意向に背いてビザを発給する人道的な決断を下した。 

 そして、玄関前に集まったユダヤ難民たちに向かって、杉原は鉄柵越しに

      「ただいまよりピザを発給する」

 と告げた時、難民たちの表情には電気が走ったような、一瞬の沈黙と、その後の大きなどよめき、キスをし合う姿、天に向かって感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げ喜びを抑えきれない母親の姿があった。 ユダヤ難民たちの喜びの様子を窓から見ていた杉原の妻・幸子の目頭も、夫の人道的な決断と感動で熱くなっていた。 

 こうして、ビザ発給を決断した杉原は、避難民の状況を聞き取り、渡航理由をビザに書きサインしていく。食事を摂る時間も惜しみ、万年筆が折れても、腕が痺れても書き続け、この日に121枚、次の30日には260枚、31日には146枚を発給する。 

 カナウスの日本領事館は8月26日に閉鎖されたが、杉原は9月5日にベルリンへ立つ直前まで、滞在するホテルでビザを発給し続けた。さらにカナウスの駅のホームまで群がる難民のために、列車が出発する間際までビザを書き続けた。 ついに汽車が走りだす。 走り始めた列車の窓にも、難民たちはビザを求め、必死になって差し伸べてくる手に杉原が書いた命のピザが渡される。 列車が動き出しても次から次へと差し出されてくるピザ。杉原も必死でピザを書こうとした。

リトアニアの外交官杉原千畝が発給した命のビザ

 そして、最後に杉原は難民たちに向かって

  「許してください。私にはもう書けない。皆様のご無事を祈っています」 

 といって、杉原は難民たちに深々と頭を下げていた。 

 「バンザイ ニッポン」「スギハラ 私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」

 列車と並んで泣きながら走ってきた人が、何度も、何度も叫び続けていた。

    

命のビザの発給を受けたユダヤ人たちが通過したシベリア鉄道の駅

 

  杉原の発給したビザを受け取ったユダヤ人たちは、数百人毎の集団となって、身動きもとれないような列車で、数週間かけてシベリアを横断してウラジオストックに到着する。 

 ウラジオストックからは日本郵船の船に乗船し3日間かけて福井県の敦賀までやってくる。

 杉原ビザをもつ難民のうち、早いものは1940年(昭和15年)8月上旬から次々と敦賀に到着する。

 日本に着いたユダヤ少年によると 「初めて見た日本、美しい山々に囲まれ、そこに住む日本人は礼儀正しく親切でフレンドリーだった。 家もなく、無一文で行く宛てもない私たち難民に、親身になって接してくれた。 そこから神戸に着くと、しっかりしたユダヤ難民救済会があり、義援金などを集めて援助してくれた。 少年らは、日本に4ケ月間滞在し、その間、日本の着物と風景との調和、青い空と木造の家々の印象に加えて、「日本人の並はずれたホスピタリテイー、言葉が通じないのに、見知らぬ私たちに差し伸べられた親切心を忘れることはできない」 と述べている。 

その後、アメリカの渡航許可を得て、避難民たちはアメリカへ向かった。

  

ナチスの迫害から逃れて日本にやってきた人たち

杉原千畝氏以外にも、もっと大規模にユダヤ人救済に奔走した人物がいる。 関東軍ハルピン特務機関長であった樋口季一郎少将である。 

彼は1938年3月、ドイツからシベリア鉄道経由で約2万人のユダヤ難民が、ソ連と満州の国境の駅、オトポールに集まった。 ユダヤ人たちは満州経由で上海に向かいたかったが、満州国外交部は、友好国ドイツに配慮して入国を拒否する。 ユダヤ難民たちは、満州国境まで来て、足止めを食らい野営生活を強いられていた。 満州国境の3月は寒さが厳しく食料もなく彼らは凍死寸前だった。

 そこで、ハルピン在住の極東ユダヤ人協会会長のアブラハム・カウマン氏の要請により、樋口少将が満州国外交部を説得した。 一方で樋口少将は南満州鉄道の松岡洋右総裁に救援列車を要請、12両編成の列車13本が行き場を失ったユダヤ人救出に出動した。 

 この救出劇は、当然のようにドイツ外務省より猛烈な抗議を受ける。 このため当時の東条英機中将が、樋口中将を参謀本部に呼びつける。 樋口中将は東条参謀長に持論の人種差別についての正統性を、熱心に説明したところ、東条参謀長も深い理解を示し、樋口少将の行為を不問にしたと伝えられている。

 今回は杉原千畝氏のユダヤ人救済に伴う、当時のヨーロッパ戦況を記載さしていただいた。 この救出劇以前の1919年1月パリ講和会議で日本は、「人種差別撤廃法案」を提出しているが、欧米列強の強い反対により葬り去られた経緯があった。  

 アジアやアフリカで行われている欧米各国の植民地遇民政策、アメリカの黒人問題があった。 日本が行った朝鮮半島や台湾の併合は、日本と同等の教育水準を引き上げるための学校の建設、道路、鉄道、治水、衛生などへの莫大な投資を行ったことと、まったく違っていた。 欧米列強は植民地からの搾取を第一目標におき、愚民政策を行っていたのとは基本的に違っていた。 日本人による人道的な行動は、現在も世界から高い評価を受けている。 

敗戦により間違った歴史観が漂っている今日の日本から、再度歴史の真実を見つめ直し、これら、先人達が行った人道的な出来事を知っていただいて、誇りある日本、誇りある日本人に目覚める方が一人でも多く、良い影響を与えれば幸いに存じます。

 

 

 


日本が救済したポーランド孤児たちのその後

2011-06-06 12:19:57 | 気ままな旅

 1920年(大正9年)7月に始まった、シベリアポーランド孤児救済活動も、第一次から第5回にわたり375名の孤児たちがロシアから東京に送られ救済された。  さらに救済の必要な孤児たちがシベリア沿海州などに残されていることがわかり、1922年(大正11年)8月に、388名の孤児と付添39名の合計427名が、3回に分けて敦賀港に入港、大阪に送られ救済されている。

 シベリアで飢餓や傷病など過酷の生活をおくっていたポーランド孤児を受け入れ、敦賀港に到着した孤児達の様子を初めて見た日本の人達は、多大な関心と深い同情を寄せ、国民を挙げての救済に乗り出していく。

 孤児たちの救済活動は、皇后陛下をはじめ、多くの人達から支援を受け、懸命な介護が続けるられる。 やがて、日本の人達の努力も実り、孤児たちは日本滞在中にすっかり体調を取り戻し元気になってくる。 そして、約2年間の滞在を終え、帰国の途に就いた孤児たちは、その後、母国でどうしているだろうか!  私も気になり さらに調査してみることにした。

看護婦を囲み、見違えるような明るさの表情で過ごす孤児たち

大阪の宿舎前で記念写真におさまる孤児たち一行

東京に収容されていた第1次孤児たちは、横浜から6回にわたり、合計370名がアメリカを経由して、ポーランドへおくられる。

大阪に収容されていた第2次の孤児たちは、神戸から2回にわたり、合計390名が香港、シンガポール、マルセイユ、ロンドンなどを寄港してポーランドへおくられる。

神戸港から母国ポーランドへの帰国のために乗船する孤児たちの一行

第一次の孤児たち150名を横浜港からアメリカへ輸送した諏訪丸(11,758トン)、他に香取丸で114名、伏見丸で106名、合計370名が輸送された。

第2次の孤児たち191名を神戸港からポーランドへ輸送した香取丸(9,847トン)、熱田丸でも199名、合計390名が輸送された。

 ロンドン経由で帰国した女の子は、帰国船の船長が毎晩子供たちを見て回り、毛布を肩まで掛けてくれたことをよく覚えていた。 船長は子供たちが長い航海に疲れて熱を出していないかどうか、一人ひとりの額に手を当てて巡回しながら確かめていた。

 日本船に乗せられ 祖国ポーランドに帰還を果たした孤児たちのほとんどは身寄りがなく、バルト海沿岸にある都市近郊のヴェイヘローヴォ孤児院に引き取られて保護される。 元気を取り戻し、無事に帰国を果たした孤児たち出迎え、歓迎するために首相や大統領までが駆けつけている。 

 ポーランドの施設では毎朝、校庭に生徒たちが集まり、日本の国家「君が代」を合唱する決まりがあった。 この施設で育てられた孤児たちもやがて成長し、そこから各々の人生を歩んでいるが医者、教師、福祉事業家、法律家、技術職人など、公の為に尽くす職業を志した者が多かったと伝えられている。 

 こうした日本によるシベリア孤児救済の話は、ポーランド国内では広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が日本に届けられている。 

 その一人で当初、日本に孤児救済を依頼しようと提唱した、当時の救済会副会長ヤクブケヴィッチ氏は 「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」 と礼状の中で次のように述べている。

「・・・日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。 日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。 しかも わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくれた以上、我々ポーランド人はそれを肝の銘じて、その恩を忘れることはない」  

「 ・・・我々の児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ている最も綺麗な衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までとって、ポーランドの子供たちに与えようとした。 こんなことは一度や二度ではなく、しばしばあった」

「・・・ここにポーランド国民も、また、高尚な国民であるが故に、我々は何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。 日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより、米国でも広く知られている」

「・・・ここに、ポーランド国民は、日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい」 このように書かれた礼状が届いている。

                                                                                                                                   

 また、孤児の中の一人、イエジ・ストシャウコフスキさんは、孤児院で働きながらワルシャワ大学を卒業、孤児教育に情熱を注いでいる。 彼は17歳の時に、シベリア孤児の組織をつくることを提唱、ポーランドと日本との親睦を図る 「極東青年会」 を組織して会長に選ばれている。  組織の活動を通じて、彼は日本文化の素晴らしさをポーランドに紹介する。 また、極東青年会は孤児たちの成長と共に拡大し、最盛期には640数名を数えたといわれている。

 成長した孤児たちと当時の日本公使館との連絡も密で、極東青年会の催し物には、努めて全館員が出席して彼らを応援していた。 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動に参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。
 そして、この組織は本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがっていった。
 戦時情勢の悪化にともないワルシャワでの地下レジスタンス運動も激しさを増し、孤児たちのイエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めてくる。 イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。
 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たち、このドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と依頼する。
 そうするとイエジたちは立ちあがり、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱する。 さすがのドイツ兵たちも、あっけにとられて立ち去って行ったという。
 当時、日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使館には、一目も二目も置かざるを得ない状況であった。 
日本大使館は、この三国同盟を最大限に活用して、このようにイエジキ部隊を幾度となく庇護していたのである

 しかし、兵力で圧倒的に勝るドイツ軍への抵抗は長く続づかなかった。部隊の関係者は徹底的に弾圧され、イエジも 再びシベリアにおくられていく。

 ポーランドは、戦時下でドイツとソ連に分割され消滅するが、1945年のヤルタ会談で復活する。 しかし、戦争の犠牲者は人口の22%(600万人)にものぼった。 そして1948年に共産党支配体制が成立、国名もポーランド人民共和国と改めソ連の衛星国となった。

 ところが、1980年(昭和55年)労働者のストに端を発した”連帯”を核とする民主化が大きなうねりを起こし、その中心的な活動の役割を担ったのがワレサ連帯議長であった。

 ワレサ議長は日本にも来日 「日本は大きくて平和で偉大な可能性のある国だ」と評し。「ポーランドを第2の日本に」というスローガンを掲げた。

 民主化の混迷の中でワレサは1983年にノーベル平和賞を受賞、また、この年、イエジも過酷なシベリア生活を生き抜き、76歳で念願の訪日を果たした。

 訪日したイエジは、かつて過ごした宿舎の跡など、ゆかりの地を訪れて、救出当時の関係者のほか、ワルシャワ日本大使館の駐在武官であった上田昌雄(当時中佐)にも再開し、積もる話に時を忘れていた。 そのうち、イエジは感極まって思い出したように 「もしもしかめよ かめさんよ 世界のうちで おまえほど・・・ 」を歌い始めた。

 日本語で最後まで歌いきったイエジは、感情の高ぶるままに 「私はかつてのシベリア孤児として、61年ぶりに皆様にお会いできたことを大変うれしく思います。私の仲間の誰もが、ここでこうして感謝の言葉を述べたかったに違いありません。 私は今ここで、かつての仲間達の分も一緒にお礼の言葉を述べさしていただきます。本当にありがとうございました」

日本を訪れた元孤児のイエジ・ストシャウコフスキ氏と握手する林敬三日赤社長(当時)

15歳の時に大阪に収容され、帰国後に 「極東青年会」を組織して、第2次大戦で祖国のために戦ったイエジ・ストシャスコフスキ氏は、日赤大阪を訪れ、 「64年前、私たち孤児が日本の皆様や日本赤十字社に受けた恩義に全孤児を代表してお礼を言いたく訪れました。 ありがとうございます」 

と大粒の涙を払おうともせずに、感謝の気持ちを伝えている。

 日本で救助された孤児の中には、ドイツ占領下でユダヤ系ポーランド人の男の子をかくまって育て、イスラエル政府から 「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシエム賞)を授与された孤児もいたと言われている。

 

その後も、日本とポーランド関係は友好的に続き、阪神大震災の被災児30名がポーランドに招かれ、3週間近くポーランドの各地で温かい歓迎を受ける。 特にシベリア孤児達との対面は感動的であったと伝えられている。

2002年には、天皇皇后両陛下が両国の友好親善を深める為にポーランドをご訪問している。

日本の柔道、剣道などの武道への関心も高く、スポーツ交流も活発に行われている。

市民レベルにおいても、日本や日本文化に対するポーランド国民の関心も高く、各地でジャパン・デーと称した催しがあり、日本文化に関する行事が開催されている。

 

ポーランドと日本の心温まるような史実に接して、私は心の中に大きな感動が湧かずにいられなかった。この件について色々な書物や、インターネット等での調査をすればするほど大きな感銘と感動が湧いてくる。

 

 このシベリア孤児救済の話は、当初「これは大変だ。早くしなければ命が危ない、ポーランドの子供を救おう」といった小さな善意の心から始まり、日本の国中から温かい声援や支援の輪が広がり、それを受けた孤児たちが 「恩と感謝の心」を生涯忘れることなく過ごしている。 それがきっかけとなって現在までポーランドの人達の日本への温かい善意が続けられている。

 ポーランドは、過去いく度かの大きな苦難の歴史が続き、それを見事に克服して独自の文化を形成してこられた人達。 人々から受けた恩も決して忘れることがなく、ポーランド魂といわれる強い気質で苦難にチャレンジする国民性に、私は心を惹かれていった。 なんとすばらしい国民性でしょう。

 それにひかえ戦後の日本は、国家意識が希薄し、個人においても自己中心的で、他人を思いやる心も希薄しているように感じる。 また、マスコミ全体が偏ったイデオロギーに重きを置いた報道内容で、ほんとに真実を我々に伝えているのか! 時々疑問にさえ感じることがある。 近隣諸国も自国に有利になるように歴史を捻じ曲げて作り上げ、それをあたかも真実であるかの主調や報道をしているように思えてならない。

 そして、いつの間にかそういった間違った主張や報道、悪い教育内容に影響されているのか、現在日本の人達も、日本人としての誇りを失い、自己的で他人を敬う心が欠如するなど、大切な精神が荒廃して心が貧困になっている様にさえ感じてくる。

 人間の社会や国家において何よりも大切なことは、自分たちの先人達が歩んできた正しい歴史認識から生れる民族としての誇りや、私たちの住む国家や社会の大切さ、国を愛し、健全な精神を持った若者や子供たちに、正しい歴史や出来事を伝え、日本人として誇りある未来を切り拓いていくことにあると確信している。

 今回のようなポーランド孤児救出など、数々の心温まる美談を多く残してくれた先人たちに感謝しながら、現在の日本人が失いかけている、人々を敬い感謝する心、日本人としての誇り、武士道の精神などが、国全体に芽生え、明かるく希望に満ちあふれた、誇りある日本に発展していくことを願わずにはいられない気持で一杯である。