気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

日本の夜明けに貢献 ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて・・・再びアメリカへ  (6)

2018-01-17 18:15:48 | 気ままな旅

時は幕末、土佐の漁師の子として生まれた万次郎は、土佐沖で出漁中に遭難、アメリカの捕鯨船に救助された。

船長の好意で民主主義が勃興するアメリカに渡り、高等教育を受けて成長する。

万次郎は、アメリカ社会に溶け込み、欧米の先進的な技術や知識と国際感覚をも身につける。

一等航海士として捕鯨船に乗船して、七つの海で捕鯨活動をするなど貴重な体験をする。

その後、万次郎は強い望郷の想いから、鎖国体制を続ける日本へ決死の覚悟で帰国する。

帰国した万次郎から欧米諸国の先進的的で民主的な国家体制や、産業や航海技術などの情報が、幕藩体制の日本に大きな影響を及ぼしていく。

そんな折、アメリカのぺリー提督率いる黒船が浦賀にやってきて、日本中が大騒ぎとなる。

翌年に再びやって来て、日米和親条約(嘉永7年=1854年)を結び、下田と函館を開港し鎖国体制の終焉をむかえる。

また、この時、下田にアメリカ領事館が開設された。

さらに、4年後の1858年に日米修好通商条約を締結して、函館、新潟、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎の5港を新たに開くことで合意する。

 

日本の開国は、安政元年の日米和親条約の締結を出発点とし、その四年後の日米修好通商条約の締結で最終的に確定する。

この条約の 日米双方の調印は済み、後は批准書の交換だけが残っていた。

江戸幕府は、条約の批准交換のため、外国奉行(神奈川奉行兼任)を正使とする使節をアメリカのワシントンに派遣することに決定した。

そして、万次郎にも思いがけない命が発令された。

それは、 「通商条約批准書交換の為にアメリカに行く使節団に同行せよ」 というものであった。

万次郎の心は大きく弾んだ。

 「アメリカに行ける。 恩のあるホットフィールド船長にも合える. 

ワシントンから フェアヘーブンまでは、そんなに遠くはない。

日本に帰国して10年近く、万次郎は、ずっと気になっていた。

 自分をここまで育ててくれた、ホットフィールド船長への恩の御礼のことである。」

ワシントンで行われる日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使節一行を送迎する米国軍艦 ポーハタン号

2425トン、3本マスト、バーク型外輪機帆船 船体長77.3m、船体幅13.6m、大砲22問 蒸気機関1500馬力、アメリカ海軍最大の軍艦である。

 

当初、ワシントンで行われる条約批准書交換の通弁(通訳)を誰にするか!

万次郎を選出するに当たって、幕府内には反対する声もあがっていた。

万次郎が、批准書交換の際、アメリカに有利な通訳をするのではと! 疑う者がいたのである。

だが、咸臨丸最高責任者の木村摂津守は、万次郎を強く推した。

荒波の太平洋を横断する航海には、万次郎の、英語能力だけでなく、操船、航海の知識、技術・経験を持つ万次郎が是非必要であった。

 

咸臨丸に万次郎と乗船し、後に、米海軍士官学校の教官になるブルック大尉も、万次郎の操船や航海術を絶賛している。

そして、条約批准書交換の、日本側使節団の正使は、アメリカから派遣したこのポーハタン号に乗船して行くことになった。

ところが、当初、ポーハタン号の乗船員がアメリカ320余名と日本側77名と多く、全員を収容できる船室が足りなかった。

そのために、急きょ、ポーハタン号、後部上甲板に十数室の日本人用仮船室を造らねばならなかった。

だが、日本側の使節一行の荷物が、おびただしい分量と種類が雑多となり、ポーハタン号だけでは搭載しきれなく、別艦が必要になってくる。

咸臨丸は、このような理由から、護衛艦として、積み荷と外洋航海の訓練を兼ね、サンフランシスコまで派遣されることになった。

安政7年1月22日(1860年2月13日)、ポーハタン号は、

日本側正使の新見正興、副正使の村垣範正、監察の小栗忠順らを含む日本使節団77名を乗せ横浜を出港した。

 出航した翌日から、天候は荒れ難航する。

同じく万次郎たちが乗船した咸臨丸は、

1860年(万延元年)1月16日 ポーハタン号より3日早く、米国に向って横浜港を出港して サンフランシスコ港を目指していく。

万次郎は、また アメリカに行ける・・・・・  親しい人たちに会える・・・ 心は抑えても、抑えても、大きく躍っていた。

1860年2月(安政7年1月)、米艦ポーハタン号と咸臨丸に分乗した一行は、太平洋を横断するルートでアメリカへと向かう。

咸臨丸 3本マストでスクリュー付の木造蒸気船である。 幕府がオランダから購入する。

江戸幕府の洋式軍艦でバーク型機帆船である。

 重量 620トン、船体長48.8m、船体幅8.74m、大砲12問、100馬力の蒸気機関でスクリューを動かす機帆船、

スクリュー推進は、港の入出航時や風のない時に使われ、帆走中は、抵抗を減らすため船体に引き入れる構造になっている。

 

咸臨丸の最高責任者に軍艦奉行 木村喜毅(よしたけ)、指揮官に軍艦操練所頭取の勝麟太郎が任命された。

咸臨丸の乗組員は、総勢96名で、福沢諭吉も加わっていた。 

日本人乗組員に交って、ジョン・ブルック海軍大尉ら11人のアメリカ人が、遠洋航海の経験のない日本人を助けるために同乗することになった。

咸臨丸は、横浜港を出航し、一旦浦賀に寄港、同19日 浦賀から太平洋に出ると、アメリカ サンフランシスコを目指す航海にでて行く。

咸臨丸に乗船した日本人乗組員は、当初、自分たちの力だけで太平洋を見事に渡りきって行こうと意気込んでいた。

 

荒波の中を航行する咸臨丸

日本人乗組員は、初めて体験する太平洋の荒波に翻弄され、船酔いにも悩まされ、何一つ船上作業ができなかった。

結局は、万次郎とブルック大尉一行に頼るしかなかった。

ブルック大尉の日記の中にも

 「荒海にもまれると日本人は能力がないので、帆をも上げることができない、しかも、士官は本当に船のことは何も知らない」 

と書かれている。

また、万次郎に関しては、、「私が今までにあった人々の中で、最も注目に値する人物の一人である。 

彼はボーデイックの「航海術」 (新アメリカ航海士必携) を日本語に翻訳した。 

彼は天体力学についても学んでおり、冒険心に富んだ勇敢間な男である。 

日本開国について、彼が誰よりも功労が多かった」 と記載している。

 

万次郎には、7つの世界の海を航海した実績から、どんな大時化であろうと、どんな荒波であろうとも、

確実に船を操船する技術や、細かな作業をこなしせる自信があった。

咸臨丸の船中での万次郎の役割は大きく、ブルック大尉からの指示や、意図などを他の日本人たちに的確に伝えていく。

木村摂津守は、こうして機敏に働く万次郎の姿を見ていて、つくづくと自分の判断が正しかったことを痛感していた。

荒波の太平洋を大きく揺れながら航行する咸臨丸

艦長の勝麟太郎も、万次郎の実力を心底認めていた。

サンフランシスコには、かなり近づきながらも、時化のために波頭が高く予定通り着くかどうか! 

心配になった勝は、万次郎に相談してみた。

万次郎は、新顔で、「航海に関する一切を自分に任せて頂けるなら、必ず無事の到着を引き受けましょう」 といった。

勝は大きく笑い うなずいた。 

この時から万次郎が咸臨丸の実質上の艦長であった。

 

浦賀を出港して、37日目に、咸臨丸はサンフランシスコ港に到着した。

入港するや、陸の砲台から次々に21発の礼砲が鳴り響いた。

砲身の火薬を空にして、敵意がないこと、歓迎の意を伝える儀式で、21発は最高の敬意が表されていた。

咸臨丸では、米国側の礼砲に対して、砲術方が答砲をすべきだと、勝艦長に許可を求めてきた。

 勝艦長は 「発射に失敗すると恥をかくから控えた方がいい」

砲術方は 「失敗などしない、是非やらせてください」

「やりたければやれ、成功したら俺の首をやる」 などの些細な問答があっが、結果は大成功であった。

艦長の首をもらっても、邪魔で仕方ないから・・・・・  そういって士官たちは大笑いさせた。

万次郎も笑ったが、久しぶりのサンフランシスコの景色を観ながら、

かつて、ゴールドラッシュで帰国資金作りのために訪れて以来、10年ぶりのカリフォルニアで、思い出が懐かしく甦っていた。

やがて、咸臨丸は、ゴールデンゲートを通過、サンフランシスコの埠頭に錨りを下ろした。 

 ポーハタン号はまだ到着していなく、咸臨丸が先着した。

埠頭には物見高いアメリカ人が、太平洋の荒波を越えてやって来た、日本の軍艦や日本人を見ようと、たくさんの人たちがつめかけていた。

当時の地元紙には、「日本使節一行と万次郎」 とのタイトルで大きく報道され、たちまち全米で話題になっている。

日本側の一行を歓迎するパーテイーも開催され、万次郎の万感を込めた通訳に、

「すばらしい発音だ! ワンダフル」 と 列席の婦人たちを驚かせていた。

万次郎が、東部のフェアーヘブンの学校で航海術などの高等教育を受けていたことを知るや 「ブラボー」 と惜しみない拍手が送られていた。

サンフランシスコ市長も 心のこもった演説をして、日本使節一行に歓迎の意を表している。

こういった日米両国の交流会での万次郎の評価は、

その態度といい、発音の正確さや鮮やかな通訳ぶり、敬語の使い方などは完璧で高い評価をうけていた。

万次郎が話すたびに、アメリカの人々は拍手をおくり 「ジョンはアメリカ人よ」 との声もとびかっていた。

また、咸臨丸には、日本近海で遭難したアメリカ海軍のブルック大尉以下11名が、乗り込んでいたことも、

日米両国の平和と友好のシンボルとしての評価を高めていた。

今般の、日本使節団のサンフランシスへの入港は、日米両国民による最初の出会いであった。

 

1860年3月29日 咸臨丸到着から 11日遅れてポーハタン号が サンフランシスコ港に入港した。

使節団一行も盛大な歓迎を受けていた。 

使節団一行は、10日後、予定通り、パナマ運河を通過する航路を通り、目的地である アメリカ合衆国の首都 ワシントンへ向かった。

万次郎の乗った咸臨丸は、当初はポーハタン号の護衛役を務めて同行する予定であったが、修理に手間取り、

計画を変更して、サンフランシスコから急遽 日本へ帰国することになった。

しかし、ポーハタン号への万次郎の同行は許されなかった。

万次郎は、自分は通訳士であり、あれほど楽しみにしていた、アメリカ東海岸や

かつてお世話に立った船長を初め 親しい人たちにも会えるかもしれないと、心を弾ませてアメリカまで来たが、がっくりと肩を落としていた。

この時に、幕府内の一部から、万次郎にスパイ容疑がかけられていた。

万次郎が 「色々なお世話になったアメリカに有利な通訳をするのでは・・・・」

このことが影響したのか、条約調印への通士から外されていた。

それでも万次郎は、恩義のある船長には、”いつか必ず会える時が来る” と信じ、あきらめざるを得なかった。

 

 5月9日 修理を終えた咸臨丸は、サンフランシスコを出港して太平洋を航行、ハワイを経由する航路をとった。 

万次郎は、ハワイには かつての漂流仲間や、デーモン師など、色々お世話になった人たちにも会える楽しみに思いを切り替えていた。

 

1860年 5月23日(万延元年4月3日)、ワシントンの国務省において、

使節団の正使 新見正興(豊前守)と 米国務長官のキャス(L. Cass)との間で批准書の交換が行われた。

 批准書には、新見正興とキャスのほか、副使である村垣範正(淡路守)・小栗忠順(豊後守)による署名もなされている。 

、1860年(万延元年)5月23日 米国ワシントンにて日米修好通商条約批准書に署名して、両国の批准書交換が行われた。

アマリカ婦人によりミシンの実演を熱心に見つめる日本の使節団一行。

 

咸臨丸は、帰路ハワイのオファフ島ホノルルで、10年前に万次郎たち、日本への帰国組に

惜しげもなく物心ともに協力してくれた、恩人 デーモン牧師に再会することができた。 

再会した万次郎は、デーモン牧師に、かつて受けた数々の恩への感謝を表し、ホイットフィールド船長宛てに手紙を託した。

ハワイでの4日間の滞在を終えた咸臨丸は、1860年5月27日 礼砲が発射される中を、黒煙を上げてホノルルを出港し、日本への帰路についた。

万次郎たちを見送ったデーモン牧師は、地元に新聞に 「万次郎のこと・・・」 を記事にして掲載していた。

 

日本に帰国した万次郎は、同年8月25日、軍艦操練所を突然解職された。

理由は、万次郎が横浜港に停泊中の外国船の船長に招かれ、上司の許可を得ないまま出かけて行ったことであった。

この時代には、日米修好通商条約などを、朝廷の許可なしで幕府が調印したのがきっかけで、

攘夷(外敵を追い払う)運動が高まっていた。

江戸城桜田門外では、大老「井伊直弼」が暗殺されるなどの大事件が発生、幕府の権力は揺らぎはじめていた。

海軍操練所を解職された万次郎であったが、幕府は彼の才能を認めており、1861年 小笠原諸島の開発・調査を計画していた。

同諸島は日本の領土であったが、アメリカ人が住んでおり、退去させる必要があった。

退去交渉の通訳として万次郎が選ばれる。

万次郎は1861年、外国奉行 水野忠徳等と共に咸臨丸に乗船して品川港を出港し、小笠原諸島に向った。

小笠原諸島の到着すると、早速、アメリカ人と面談、ここは日本の領土であることを告げ、

日本の法律に従った誓約書にサインさして解決を図る。

また、島内に上陸して、測量などをして地図を作り、翌年3月9日に品川に帰港する。

 

1862年7月21日 最愛の妻で、万次郎の理解者であった鉄が、当時大流行していたハシカの犠牲になって病死した。 

長男 東一郎と二女を残して、まだ、25歳の若さであった。

万次郎は 大きく落胆していたが、その矢先、捕鯨の話しが持ち上がり、新潟の富豪が出資して西洋式帆船を買い入れていた。

これを 「壱番丸」と命名して 太平洋で鯨を捕ることになった。

しかし 万次郎は捕鯨船に乗って、2頭の鯨を捕ったが、一回の航海だけで、それ以後は続けることができなかった。

日本では、アメリカのように、捕鯨船から鯨油を集め商品化されるまでの工場処理ができなかったためである。 

この処理を行うとすれば、新たに莫大な資産が必要であったが、新潟の資産家にも大がかりすぎて無理であった。

アメリカにおいては、燃える水が発見され、鯨油から急速に切り替わり、鯨油産業は衰退をはじめていた。

 

そんな折、ハワイでデーモン牧師に託した、ホットフィールド船長宛ての手紙の返事が万次郎に届いた。

「ホットフィールド船長・妻や自分も元気で、13歳になる息子や、11歳と9歳の娘も健康であると家族のことが書かれていた。

隣人たちも万次郎のことをよく覚えており 「ジョン・マンは本当に正直で良い少年であった」 といわれていた。 

聞くば、今のあなたは、日本にとってとっても、大切な人物になられたと・・・」 などと書かれている。

懐かしいホットフィールド船長の字で書かれ、万次郎は何度も読み返していた。

万次郎は、その後も、自分の知識や経験などが日本の海軍・海運業の発展につながることを信じ、精力的に、後進の育成に努めた。

1864年(万次郎37歳) 薩摩藩の開成所教授に就任。 航海、測量、造船、英語などを教える。

1866年(万次郎39歳) 土佐藩の開誠館に赴任、航海、測量、造船、英語などを教える。

また、土佐、薩摩の両藩のものを引き連れて上海に赴き、自分の見立てた船を適正価格で購入するなどしていた。

そうこうしている間に時代はどんどん変わり、260年間続いた江戸時代は終わり、江戸も東京へと都市名を変える。

日本も様々な問題点を抱えながら、欧米先進国から制度や機械技術などを学び、大きく変革しようとする大きな波が押し寄せていた。

こういった時代での万次郎の持つ先進的で国際的な知識や役割は大きく、日本が進むべき方向を、若者たちを指導しながら照らしていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2018年(平成30年)謹 賀 新 年・・・・・気ままな旅(希間々兼行)

2017-12-31 22:07:52 | 思い出

2018年 (平成30年)

謹  賀  新  年

 

明けましておめでとうございます。

昨年はgooブログ 気ままな旅 へお立ちより頂きありがとうございます。

昨年も一昨年に続き地球規模で大きな自然災害や、内戦、テロなどが世界各地で、発生するなど痛ましい事件が多く発生した年でもありました。

地球温暖化などによる異常気象が原因だと考えられ、防止する自然エネルギーなどへの転換が叫ばれています。

自然あふれる地球、山や川、海を愛し、そこに生息する動物や魚、植物などを愛する心が多くの人たちに芽生え、

地球規模での適切な環境対策が実行されますように祈願します。

また、世界各地で発生するテロや紛争などによる痛ましい事件も

平和への祈り、希望が持てる社会への実現の為に、紛争地域から日本に対して支援が求められています。

小さな支援でも、輪が広がれば大きな支援となります。

私たちは、こうした国々の内情を理解して、心からの支援を届けながら、世界に平和が訪れますように望みます。

本年は、こうした世界の人々に、心の支援が届き、平和で、明るい年であります様に切望致します。

 

本年が笑いの多い、ご多幸の一年であります様にお祈り致します。

また、お時間にゆとりのある時などに gooブログ 「気ままな旅」に

お立ちより頂ければ幸いに存じます。

平成30年(2018年)             元 旦

 

希 間 々 兼 行   

 


日本の夜明けに貢献 ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて・・・鎖国から開国・・・・(5)

2017-03-25 23:03:19 | 思い出

     ジョン万次郎(中浜万次郎)は、1827年、現高知県土佐清水市中浜で生まれる。

1841年土佐沖で出漁中に遭難し、漂流する。

 漂流先の鳥島で、米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号のウイリアム・H・フィールド船長に助けられ、船長の故郷、アメリカ東海岸にあるフェアヘーブンでの学校で、英語、数学、測量、航海術などの専門教育を受け、優秀な成績で卒業する。  

 米国での学校教育の他に、アメリカの民主主義や男女平等などを学び体験する。

基本的には、身分格差のない国家体制、大統領を選出する国民選挙など、当時の日本人にとって、全く新鮮な概念にも触れ大きな影響を受ける。

 学校を卒業した万次郎は、一等航海士として、捕鯨船に乗船して世界の海で活躍する。 

 下船後は、カリフォルニアの金山で帰国資金を稼ぎ、ハワイにいる漂流仲間3人と共に、ハワイからの貨物船に乗船し、鎖国の日本(現在の沖縄県那覇市)に上陸、帰国する。

万次郎27歳の肖像画

琉球に帰国後、薩摩藩におくられたが島津斉彬公から厚遇され、、西洋式帆船などを造船,高い評価を受ける。

その後、長崎におくられ、江戸幕府の長崎奉行所で厳しい取り調べを受ける。

土佐藩でも、長期間の尋問を受け、1852年やっと故郷の中浜に帰り、母や親族との11年ぶりに涙の対面をする。

しかし、故郷に帰って3日後には、土佐藩から出頭命令があり、高知城下で侍に取り立てられる。

 翌年の1853年、土佐藩では、藩校 「教授館」 の教授に任命された。 この時の聴講生のなかには、後に活躍する藤象二郎や三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎がいた。

万次郎は高知城下で侍の身分で教授として活躍している時に、米国のぺリ-艦隊が浦賀に来航し、日本中が騒然となる。 

ペリー率いるアメリカの艦隊が久里浜(横須賀市)に上陸した時の絵図。

 

1853年(寛永6年)6月3日 米国、東インド艦隊司令長官ペリー率いる軍艦4隻が浦賀(久里浜)にやってくる。

大砲を備えた巨大な 「黒船」 の出現に、幕府は困惑し 慌てふためいている。 

どのように対応するのか! 外国に関する情報は全くと言っていいほど入っていなく事情も分からなかった。

 追い払うにも、そんな武力は日本にはなかった。

 

 ペリー率いる4隻のアメリカ艦隊は、ペリー長官が乗船している旗艦サスケハナ号(外輪蒸気船2450t、大砲数9門)、

ミシシッピ号(外輪蒸気船1692t、大砲数10門)、プリマス号(帆船989t、大砲数22門)、サラトガ号(帆船882t、大砲数22門)の4隻である。

 旗艦であるサスケハナ号の2450トンという大きさは、今日の感覚では中型の護衛艦というところで、当時としては世界最大級の軍艦であった。

 

これに対して、当時の日本での大型船というと、千石船である。 千石というと、約100トン~200トン程度の小さな木造船であった。

突然やって来た黒船を、初めて見る当時の日本人は、サスケハナ号が小山のような巨大艦と思えたのも無理はなかった。

この当時の江戸は、大消費地で、ほとんどの物資を大阪からの海上輸送に頼っていた。

そこで活躍していた和船が、一般貨物専用の菱垣廻船と、酒などを入れた樽物を中心に運ぶ樽廻船である。

当時、一番危惧されていたのは、外国艦船に、東京湾の入り口を封鎖されれば、大都市 江戸への物資の供給に多大な影響を及ぼすことであった。

 

 ペリー艦隊の軍艦に搭載している艦砲は、特にその主力艦である蒸気軍艦が、外輪部に邪魔されて、あまり大砲を搭載できない関係から、合計63門に過ぎなかった。

 この当時、サスケハナ号程度の排水量のある帆走戦艦なら、一隻で80門程度は搭載していた。 

しかし、これに対して、当時、江戸湾にあった多数の砲台に設置されていた計99門の砲のうち、これに比較できる程度の大型砲はわずか19門にすぎなかった。

しかも、その大半は射程の短い臼砲(きゅうほう)で、ペリー艦隊まで届かず、幕府が震え上がったのも無理のないことであった。

ペルー司令長官は、各艦隊の艦船に搭載している不気味に砲口を町に向け、威圧を十分に与えた上で、武装した数百名の海兵隊を従えて、久里浜に上陸する。

日本側が見守るなかでアメリカ海兵隊員が整列し、ぺりー長官が久里浜に上陸しようとしている状況の絵図。

アメリカ海兵隊員が進行している絵図

 

今回の目的は、フィルモア大統領の親書を徳川幕府に手渡して開国を要求するためである。

ペリーは海軍礼服に装い、武装した400人の海兵隊員らを従えて久里浜(横須賀市)に上陸し、浦賀奉行に大統領親書を手渡した。

その後、艦隊は江戸を目指して北上させる示威行動を行ったために、江戸市民は恐怖におののき大混乱に陥った。

幕府は、将軍徳川慶喜の病状などを理由に、返答を1年間の猶予を求めた。

ペリーは、幕府の要求を受け入れて、再度やってくることを明言して 艦隊は浦賀を出港して琉球へ向かった。

 

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たった四杯で夜も眠れず」

とにかく 脅威は去った。 江戸庶民もホット安堵したが、幕府はそれからが大変であった。

幕府の老中阿部正弘は、対応策に関し諸大名にも諮問した、しかし、知恵を出そうにも、新興国アメリカについては何もわからなかった。

そんな折、進歩的な蘭学者が万次郎の登用を進言してきた。

阿波正弘も、長崎奉行から、土佐の万次郎に関して

「頗る(すこぶる)怜悧(れいり)にして、国家の用となるべき者なり」 との報告が入っていた。 

早速 アメリカの知識を必要とする老中阿部正弘は、土佐にいる万次郎を召し出すように、土佐藩に要求する。

 

万次郎は、「何としても、母国 日本を守らねば」 との思いを強くしながら、来春の再来を言い残して、ペルーが去って、2ケ月半後の8月30日、江戸に到着した。

待ちかねていた、老中阿波正弘は、即刻 万次郎を呼びつけ アメリカなる国についての質問をする。

 

時は来た、、、、万次郎は、アメリカで生活していた時に、日本に関するニュースやアメリカ政府の考え方、今後の方針などの情報を聞き、日本が心配でならなかった。

やっと、日本国の中枢にある人に自分が培わしてきた知識や技術、情報を話す機会が訪れたのである。

万次郎は感慨深かった。 自分は、この日のために、アメリカから鎖国を続ける日本に帰国してきたのである。 といっても過言ではなかった。

 

万次郎は、島津斉彬公や土佐の教授館で聴講生に語ったように、老中阿部正弘にも熱弁した。

アメリカの基幹産業である捕鯨漁を維持するためには、食料や水の補給を確保したい。 台風などのに遭遇した際の避難する港が欲しい、 だけの話であり、日本を侵略する意図は全くない。 なのに日本は、外国船を見たら問答無用で追い払う。 それは、世界の国々からは評価されない。

たとえば、漂流船員に対して、日本とアメリカでは大きな違いがある。

自分は、アメリカの船に救われ手厚い保護を受け、しかも教育まで施してくれた。

アメリカは、それを当然のことと思っている。 

このようなアメリカの国であるから 「日本のやり方は人道的でない」 との強い非難の声がでている。

蒸気機関の出現により交通機関は発達し、世界中に物や人が自由に行けるようになった時代である。

もはや、一国が単独で存在できる時代ではなく、日本は世界の国々と共存していくことが必要な時代である。 と万次郎は話をする。

また、今回のアメリカの開国要求を拒否すれば、他の国々から強硬手段に打って出てくる恐れが気がかりである。

すでに ロシアがその動きを見せているように、列強諸国の日本への侵攻が始まり、遅かれ早かれ、日本が列強に植民地にされる可能性が高くなってくる。

今回の危機を回避するためには、「アメリカに対して国を開き、友好関係を築いていくべきである」 と万次郎は提言する。

十余年の永きにわたってアメリカ社会で暮らし、高等教育まで受けた万次郎の話しは、頭の中で考えたものではなく、自分が体験してきた話であることから

強い説得力があった。  老中阿部正弘の脳裏には深く食い込んだ。

阿部正弘は、万次郎の話を聞いて、隣国である清が、イギリスとのアヘン戦争で敗れた惨状を思い浮かべ、 薄々、鎖国政策の限界を、改めて感じていた。

万次郎は、この時、この人は動き、国は動く、と思った。

 その後、万次郎は、幕府随一の開明派と言われた江川太郎左衛門に預けられた。 

 

※ 開明派=国内のことばかりでなく、海外情勢や世界潮流についての情報を積極的に収集し、

それに合わせて、日本国が  “停滞することなく 次にどう展開、変化していけばいいのか”  を真剣に考えていた人々のこと をいう。

つまり、それまでの常識にはとらわれない、保守的思考を好まない人々のことです。  島津斉彬や勝海舟がその代表的人物と言える。

 江川のもとに預けられて間もなく、老中阿部正弘によって万次郎は幕府直参に取り立てられた。

「 御 普 請 役 格 」  二十俵二人扶持。

これにより万次郎は、出生地の土佐国中ノ浜から性を得て 「中浜万次郎信志=なかはま まんじろう のぶゆき」 と名乗ることになった。

この時、万次郎は 26歳であった。

 

翌年の1854年2月13日(寛永7年1月16日) 予告通り、浦賀沖にペルーが旗艦で、最新鋭の大型軍艦 ポーハタンに乗船、7隻の艦隊を率いて再び来航した。

 さらに、後ほどには2隻が来航して、最終的には9隻の大艦隊となった。

ペルーの旗艦であったポーハタン号 2425トン、3本マスト、バーク型外輪機帆船 船体長77.3m、船体幅13.6m、大砲22問 蒸気機関1500馬力、アメリカ海軍最大の軍艦、

 

前回の時と同様に、アメリカの全権を担っているペリーは、幕府に対して強硬な姿勢で開国を迫っている。

幕府側は、林大学頭が中心になって交渉に臨んだ。

 

当初、幕府は、交渉の筆頭窓口を江川太郎左衛門に命じ、万次郎に通訳をさせるつもりであったが、幕府のご意見番である 水戸斉昭公から、万次郎に対してスパイ容疑がかけられた。

そのために、アメリカとの交渉窓口には、江川も万次郎も立つことはなかった。

ペリーも交渉の場にどうして万次郎がいないのか! それをいぶかい、不思議に思っていた。

アメリカの記録によると、この交渉は、一旦、日本語からオランダ語に訳し、さらに英語に訳し、伝えるというものであった。

老中阿部正弘は、江川宛ての手紙で、万次郎を疑うわけではないとした上で、

「交渉のために万次郎を米艦に乗り込ませ、もし そのままアメリカ側に万次郎を連れ去られでもしたら・・・・」 と危惧を述べている。

スパイでは! の疑いをかけながらも、万次郎が、幕府にとって重要な存在であることは、水戸斉彬公も阿部正弘も認めていた。

 

日米両国で幾度かの交渉を得て3週間後の、 1854年3月3日、横浜で 「日米和親条約(神奈川条約)」 が結ばれた。

日本側は、アメリカに対し、薪水、食料、石炭などを供給、その補給寄港地として、下田、函館の2港を開港する。 難破船や遭難乗組員は救助する。 

これにより、日本の二百数十年に及ぶ鎖国は終了し、世界に門を開く第一歩となった。

下田、了仙寺で、アメリカ海兵隊員が整列、日米和親条約の細部を決めた 下田条約が締結される。

 

ぺりーは、その後、下田、函館の両港を視察、 再び下田に来て、5月25日、日米和親条約の細目を詰めた付録(下田条約)を締結。  6月2日、日本を去った。

 

27歳になった万次郎に縁談が舞い込んだ。 

 江戸本所亀沢町で道場を開き、剣道を指南する団野源之進の二女お鉄である。 

当初、万次郎は、見合いを勧められても、渋り、何度か断っていた。

見合いなどというものは、アミリカにはなく、結婚は自分の意思で決めるもので、他人に決めてもらうことではないと思っていた。

太郎左衛門の奥方から

 「万次郎さん、ここはアメリカではなく、日本ですよ。 日本には日本の流儀があります。 なにを迷っているのですか!」 

と諭され、もはや逃げることはできなかった。

見合いをすると、お鉄は目鼻たちがきリきりした17歳の美しい娘であった。

また、父親の源之進も、剣術に生きてきた人間らしく、ものにこだわらない、さっぱりとした性格であった。  

江川太郎左衛門らの仲立ちで 安政元年(1854年)2月 江川邸で挙式は行われた。 お色直しが3回あり、お鉄はとても綺麗だった。

万次郎は、邸内で準備をしてくれた新居で新婚生活に入った。

 

結婚を期に、万次郎に再び運が向いてきた。  大型の西洋式帆船を造る機運が全国で起こり万次郎はひっぱりだこだった。

同年、幕府は、万次郎に対してアメリカの航海術書の翻訳を命じた。

西洋式帆船の導入や日本への出入、物が輸入されるに伴って、日本でも船を操って遠洋へ進む航海術の知識が必要であった。

日本では、オランダの航海術書が使われていたが、初めてアメリカの航海術が紹介されることになった。

万次郎は、他にも幾つかの書物を、日本語に翻訳しているが、英語の意味は理解できても、それを日本語に翻訳するのには大変な苦労であった。 

万次郎は、日本での教育は、ほとんど受けていないために、日本語の基礎教育から進めなくてはならない大きなハンデイキャップがあった。

 

英語が理解できても、それを日本人が理解できる言葉に翻訳しなければならないが、適当な日本語が見つからなかったり、

 日本語そのものに言葉がなかったりして、どう表現するか! どう伝えるか! 多くの時間を必要としていた。

万次郎は、日本語の翻訳に関しては、その専門分野に詳しい方々に相談したり、協力していただいて、翻訳(新アメリカ航海士便覧)を完成させたのではと思われる。

 

翌年、万次郎のよき理解者で、何かと協力してくれた、江川太郎左衛門が55歳で急死した。(1855年(安政2年)1月16日)

この年、万次郎には、待望の第1子(娘すず)が誕生しする。万次郎も人間的に丸みを帯び、周囲の人たちに温かく接するようになっていた。

1857年(安政4年) 今度は、万次郎のよき理解者であった老中阿波正弘が39歳の若さで病没した。

新しい日本つくりに大きな影響力のある人たちを次々と失って、万次郎は何とも言えない寂しさを味わっていた。

 

この年の4月、万次郎は、江戸に設けられた講武所の軍艦教授所教授に任命され、航海術などを教えることになった。

 

この年、万次郎に待望の長男が誕生する 東一郎 である。

30歳を過ぎてからの子供であることから、万次郎は溺愛した。

「そのように甘やかしてはなりません」 子育てにお鉄は厳しかった。

実家の道場はいつも門弟がいて、二女のお鉄は、小さい時から甘やかされることなく、自立心の強い子に育っていた。

留守がちの万次郎にとって、お鉄の実家も近く、子供たちの面倒をよく見てくれていた。

男が仕事するうえで、家庭は大切で、いつも陽気で明るく接するお鉄には常に感謝していた。

 

また、10月には、勘定奉行 川路聖謨(かわじとしあきら)から、捕鯨事業を興すため、万次郎を北海道函館奉行手付に任命、「函館で捕鯨方法を伝授せよ」 との辞令が出された。

はっきりとした記録は残されていないが、捕鯨船がなかったことから考えて、地元の漁民たちに捕鯨方法を教えてたり、捕鯨基地としての函館の調査などをしたのではと推察される。

1859年(安政6年)2月、改めて幕府から 「鯨漁之御用」 を命ぜられる。 

実際の船を使っての捕鯨で、船は伊豆半島西側にある君沢郡戸田(へた)村で造られた 、本格的な西洋式帆船 「君沢形壹番御船」(戸田号)であった。

この西洋式帆船は、当時ロシア特使プチャーチンの乗ったデイアナ号が、地震に伴う大津波で下田沖に難破しており、その乗組員たちの指導を受けて、日本の船大工たちが造ったものである。

ロシアの乗組員は、この船で送還され、その後、日本に寄贈された。 それが 「君沢形壹番御船」(戸田号)である。(同型艦は10席造られる)

万次郎は、この船の船長となり、捕鯨に必要な機材(天体観測器、気圧計、捕鯨用の道具など)、ボート2隻、鯨の見張台(帆柱の先端)などを取り付けた。

日本初の捕鯨船である。

安政6年3月に品川沖を出航、江戸湾を南下し小笠原諸島に向った。 その折に暴風が起こり、船は転覆寸前に追い込まれた。

帆柱を1本切倒して、やっと転覆は免れ、伊豆の下田に帰った。

せっかくの西洋式捕鯨の実習は、ついにご破算となった万次郎は、 がっかりしたが、万次郎は捕鯨の夢は捨てきれなかった。

 

話しは前後するが、ペルーが引き揚げてから2年後の安政3年(1856年)アメリカ国 ハリスが通商条約を締結するために来日した。

ハリスは、翌年10月、老中堀田正睦(ほったまさよし)、続いて将軍徳川家定と会見し、第14代米国大統領ピアスの親書を手交して、自由貿易の公認を要求した。

このころから日本国内は大混乱の時期に挿入していく。

開国して通商に応じていくか! 鎖国して攘夷(外国人を追い払って入国を拒む)するか! で意見が対立する。

安政5年 彦根藩主井伊直弼が大老に就任してまもなくのときである。

ハリスの 「英、仏大艦隊が日本に来航する」 いう情報を憂慮した幕府は、全権を井上清直、岩瀬忠震(ただなり)に命じていた。

井上と岩佐は、6月19日、神奈川沖に停泊中のポーハタン号を訪れ、天皇の勅許を得ないまま、日米通商条約に調印する。

同条約に基づいて幕府は、外国奉行の新見正興(まさおき)を正使とするする批准使節団を。ポーハタン号でワシントンに派遣することになった。

また、使節団の護衛を兼ねて航海演習のため、咸臨丸(かんりんまる)をおくることになった。

吉田松陰が外国留学のために密航を企て接触したのは、このポーハタン号である。

 

3本マストの咸臨丸 スクリュー付の木造蒸気船で幕府がオランダから購入する。

江戸幕府の洋式軍艦でバーク型機帆船である。 重量 620トン、船体長48.8m、船体幅8.74m、大砲12問、100馬力の蒸気機関でスクリューを動かす機帆船、

スクリュー推進は、港の入出航時や風のない時に使われ、帆走中は、抵抗を減らすため船体に引き入れる構造になっている。

 

咸臨丸の最高責任者に軍艦奉行 木村喜毅(よしたけ)、指揮官に軍艦操練所頭取の勝麟太郎が任命され、中浜万次郎は教授方、通弁(通訳)として同情することになった。

咸臨丸の乗組員は、総勢96名で、福沢諭吉も加わっている。 

日本人乗組員に交って、ジョン・ブルック海軍大尉ら11人のアメリカ人が、遠洋航海の経験のない日本人を助けるために同乗することになった。

咸臨丸は、1860年(万延元年) 1月16日 横浜港を出航、同19日浦賀を経て太平洋に出ると、アメリカ サンフランシスコを目指す航海にでる。

ポーハタン号は、それより3日後に横浜港を出港する。 出航した翌日から、天候は荒れ難航する。

 

当時の日本には、国際感覚を身に着け、英語を自由自在に使いこなせるのは、万次郎一人だけである。

幕臣に登用されても、国と国が威信をかけた条約締結に、万次郎や江川太郎左衛門が出席できなかったのは国家的損失である。

だが、当時の幕閣たちは、国家的な条約が、永く鎖国を続けたためにか、内容を理解できてなく、不平等な条約であることにも気が付いていないようである。

後から、条約内容を知った万次郎は、どんな思いであったのか! 想像するのも難しくはない。

ただ、万次郎が、徳川幕府にとって、なくてはならない存在であることはよく理解できる。

万次郎は、航海術書などの専門的な翻訳以外にも、英会話の本「日米対話捷径」の出版を行うと共に、自宅でも教えを乞う者に英語を教え、世界を語り、新しい日本の人づくりに貢献している。

万次郎の世界を語る言葉に、誇張も先入観もない正確な西洋の情報こそが、幕末の若い多くの志士たちの心に訴え、行動に走らせたモチベーションであったといえる。

このモチベーションが、サムライ国家から近代国家へと進んでいく日本の大きな礎になっているように思われる。

 

 

 

 

 


日本の夜明けに貢献 ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて・・・鎖国日本へ帰国・・・・(4)

2017-03-06 23:34:33 | 思い出

 1851年2月2日 万次郎、伝蔵、五右衛門の3人は、 11年前に土佐沖から5人の乗った小さな漁船は,鳥島に漂着、通りかかったアメリカの捕鯨船に救助される。

           それから12年、万感の思いで、夢にまで見た祖国、日本が目の前に見えている。 

アメリカの商船サラ・ボイド号に乗船、ハワイホノルルを出港して30日余、船は黒潮に乗って琉球沖に接近して行く。

琉球・沖縄

サラ・ボイド号の船長以下、乗組員の方との別れの時が来た。

 何かと親身になって心配してくれる、ホイットモアー船長らの好意に対して、感謝の言葉を述べると、乗組員たちは、パンや飲み物をのどをボートに積んでくれた。

いよいよ、アドベンチャー号がゆっくりと甲板から海上に下ろされ、サラ・ボイド号の全乗組員が見送る中を、小さなアドベンチャ号に乗り込んでいく。

そして、波間にもまれながら、万次郎達3人が乗ったアドベンチャー号は、陸を目指して進んで行く。

アドベンチャー号は、しばらく帆走していたが、この日は、折あしく、帆を上げていられないほどの強風と、みぞれ交じりのあいにくの天気で寒い、

3人は、帆を下ろし、オールを漕ぎながら、湾内に入って行く。 それを見届けた、サラ・ボイド号は、開帆して去って行った。

間もなく日も暮れ、波風は収まったが、上陸は無理と判断し、陸から千数百メートルの地点のボートを止めて仮眠する。

万次郎(左)と 伝蔵(右)の洋装の姿

 

アドベンチャー号で仮眠した翌朝(1851年2月3日)万次郎・伝蔵・五右衛門の3人は、オールを漕ぎ、ゆっくりと接岸していく。

「日本だ!、日本にとうとう帰ってきたんだ!」 3人は喜びをかみしめていた。 

しかし 喜んではいられない。 これから役人による取り調べが待っているのだ。 鎖国を続ける日本の役人から、どんな取り調べをうけるか! 不安な気持ちも漂ってくる。

万次郎たち3人が上陸したのは、現在の沖縄県糸満市大戸浜である。

 

万次郎たちの服装は、服にズボンという異人の姿である。

島の人が数人集まってくるが、万次郎たちの姿をみると、姿を隠していく。 

残った人に声をかけても、いっこうに返事が返ってこない。 3人は家のある方へ歩いて行った。

伝蔵が漂流してからの顛末を村の人に話すと、村の人は それを役人に伝え、薩摩藩からの指示を待つことになる。

この当時、琉球は、薩摩の統治下にあった。 

薩摩藩の役人は、番所に入り、入れ替わり、立ち代り、何度も同じようなことを7ケ月間に渡って尋問する。

万次郎たちは、琉球での取り調べ中の間、地元の言葉も覚え、村民たちとも交際をした。

琉球には1844年と1846年の、2回にわたってフランス軍艦が来航しており、薩摩藩は諸外国の動きに注目して情報収集に躍起になっていた。

そのためにか、薩摩藩は、万次郎たちからの海外情報を知りたがっていた。

そんなおり、薩摩藩は3人を鹿児島に召喚することを決め、1851年7月、那覇から薩摩藩の船「大聖丸」で出航し、12日後には鹿児島湾入りする。

 

万次郎一行を厚遇し、海外情報入手に熱心だった薩摩藩主 島津斉彬公

薩摩に着くと、3人には屋敷を提供され、衣装のほかに、金銭を与え、酒食を供にして賓客並みに扱って厚遇した。

薩摩での取り調べは、琉球からの情報が届いているのか、万次郎一人に、連日、集中的な取り調べが行われた。

特に万次郎一行に興味があったのは、薩摩藩士 島津斉彬公であった。

斉彬公は、開明家で西洋文物に関心が強く、自ら万次郎に海外の情勢や文化、国家体制等についても興味深々としていた。

斉彬公は、今までの役人とは取り調べが全く違っていた。 万次郎を罪人としてではなく、初めてアメリカで学んだ者として、また、先進的な多くを経験した知識人としての扱いであった。

万次郎は、このような若い殿様がいるのに驚き、また、うれしくなってくる。 自分の知っている全てを伝えようと思った。

そのことが、日本を狙っている外国に対して、抵抗力を強めると信じていた。

万次郎は、英語交じりのたどたどしい日本語で、アメリカという国の生い立ちから、現状まで、国民がすべて、法の下で自由であり、平等であること、

国家体制や大統領を選ぶのは、全国民の数(投票)で選ばれること、蒸気機関などの文明の実情、捕鯨の話などを情熱的に話をする。

斉彬公は、万次郎が西洋の船に航海士として乗船し、世界の海を航海したことに強い関心を示していた。

斉彬公は、万次郎に西洋船を造ることができるか! 万次郎は、船大工を集めてくれれば可能であると返答する。

斉彬公は、早速、藩内の腕のいい、船大工を3~4人を万次郎の基に派遣して、西洋船の造船技術を学ばせた。

万次郎は、捕鯨船 ジョン・ハウランドやフランクリン号の隅々まで、覚えており、絵を描いて、船の構造、仕組みを解説した。 蒸気船についても、教えた。

斉彬公の特命で、捕鯨船の模型が造られ、 また、この模型船をもとに、小型の帆船をも試作された。

洋式帆船は、地元船大工と伝蔵や五右衛門も手伝って、日夜の突貫工事で造船を急ぎ、わずか48日で完成さした。

進水の日、錦江湾内は、地元の人にとって、奇異な形の船に興味を持ち、一目見て見たいとの思いで黒山の人たちが見守ってていた。

この帆船は、「越通船(おっとせん)」と名付けられた。 その船が錦江湾(鹿児島湾)を見事に帆走する姿を

磯御殿から眺めていた斉彬公は、 「でかしたぞ、でかしたぞ」 と拍手喝采しながら喜んでいた。 

斉彬公は、万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の開成所(洋学校)の英語講師として招いている。

 

万次郎たちは、やがて薩摩から、長崎におくられた。

島津斉彬公は、長崎奉行 牧志摩守宛てに送り状を添えていた。

3人の漂流民に邪宗等の問題が一切なきことに加え、

「万次郎が儀、利発にして、覇気あり。将来必ずやお国のために役立つ人材であるがゆえ、決して粗末に取り扱わぬよう」

 

江戸幕府の長崎奉行所での取り調べは10ケ月間も続いた。(1851年から1852年)

奉行 牧志摩守 が中心になって 「踏み絵」も試され、キリスト教徒でないことが証明され、外国から持ち帰った物は没収された。

 

万次郎が日本に持ち込んだ品

書籍(ボーデイッチの航海術書、数学、辞書、歴史、ジョージ・ワシントン伝記、農家歴など13冊の英書と地図7枚)

日用品(薬、かみそり、マッチ、裁縫道具、はさみ、時計等)

道具類(船具、のみ、かんな、オクタント(八分儀、天体観測器)、コンパス、石板、ピストル、鉄砲など)

衣類(西洋衣装、靴、帽子)、貴重品(砂金、金、銀)

金と銀については、日本銀85.3匁(もんめ)(一匁は小判一両の六十分の一)と好感された。

これらの没収品のほとんどは、後に江川太郎左衛門らの努力によって返還された。

 

※ 「江川太郎左衛門(1801~1855)」

「江戸幕府の世襲代官。文化4年 兄の英虎の病死により、代官職を継いだ。天保4年、高島秋帆より西洋砲術の伝授を受け、伊豆韮山に鋳造所を設け、諸藩の求めに応じた。

嘉永6年、黒船来航に当たり、海防の儀に参画した。

品川の台場設置、湯島や韮山での大砲製作、また、韮山郊外に反射炉を設けて鉄砲を製造するなど海防に尽力した。

嘉永6年、万次郎は幕命により江戸に及ばれた。万次郎の能力を高く評価した江川は幕府に願い出て、万次郎を御普請役として自分の手付とした。

蒸気船を造船中であった江川は、万次郎を本所の屋敷に住まわせ、蒸気船の乗組員を呼び、操帆術を学ばせた。

嘉永7年、黒船が再来した際、交渉役の江川は通訳に万次郎を起用するつもりであった。 しかし、水戸烈公と阿部伊勢守に反対され、結局、万次郎は、交渉の通訳をしなかった。」

 

 

 長崎の取調べは、万次郎を時々いらだたせた。 

せいぜい1ケ月もあれば終わると考えていたが、同じことを何度も聞かれ、万次郎は深い失意に陥っていた。

アメリカと日本ではこれほど違うのかと、万次郎は国の違いを、いやというほど見せつけられた。

アメリカは移民の国であり、異国人に対しては寛大である。 何年も暮らせば市民権も与えてくれる。

ところが日本は、かたくなに鎖国をまもり、異人を卑しみ嫌い、漂流した自国民を犯罪者として取り調べている。

万次郎は、納得できなかった。

 海の彼方の国はどんどん進歩している。 

このままの日本では、取り残され、やがて占領される恐れさえある。

何とかしなければと思いが強くなってくるが、何ともし難いと、地団駄ふんで悔しがる万次郎であった。

 

それにしても、鎖国体制下にあっても唯一の窓口であり、国際情勢に一番明るい立場にいる長崎奉行所が、この体たらくでは、失望するほかはなかった。

長崎奉行と薩摩の対応の違いを身を以て感じていた、薩摩の島津斉彬公は、進歩的で異例中の異例であったかも知れない。

万次郎はさらに奉行に海外事情の説明をする。

「アメリカの大統領は、能力と学識によって、人民の中から選ばれる。 任期は4年で、人民から評価されて、徳を備えていれば、任期がきても解任されない」

「身分の高いお役人が道を通るときでも、商人や百姓は、土下座する必要はなく、また、誰でも役人になれる。 身分の差などはないのです」

奉行は、その都度万次郎に 「 待て、待て、その話は危険な考えであるぞ」 とか 

「でたらめを申すな」 「そちの話は どうも偏っている。 気を付けて喋れ」 などといっている。

これに対して万次郎は、奉行に 「私は自分の考えをお話しているのではありません。 アメリカのことを話しているのです」

「このようなお話も、薩摩のお殿様にもお話をしました。 お殿様は そうか!そうか!と言って、よく聞いてくれていました」

などを話して、奉行に応答している。 

長く続けられている長崎奉行所での取り調べていた最中に、土佐藩主 山之内容堂公より 「3人の漂流民を引き取りたい」 との連絡がはいってくる。

万次郎たちは、喜び、「これでやっと 故国 土佐に帰れる。 おっ母に合える」

 

その後、長崎での取り調べは終わり、土佐藩から身柄を引き取りに来た17名の役人と共に、6月25日、長崎を徒歩で、郷里土佐を目指して行った。

一行は船を乗り継いで伊予(愛媛県)に着く。 さらに国境を越え、土佐国に入りして 7月11日 高知に着く。

 

大手門から、高台にそびえる高知城天守閣を望む

 

高知城下に着くと、万次郎たち漂流民を一目見ようと大勢の人たちが出迎えに集まっている。

一行は物見高い群衆の中を通り、その日は城下の旅籠で宿をとった。

山之内容堂公は、島津斉彬公より、万次郎の稀有まれな体験や博識ぶりを聞いており、一日も早く帰国を望んでいたが、幕府長崎の取り調べが長期間に及び、やっと願いがかなった思いであった。

容堂公も開明派の主君で、ものの道理をわきまえていたが、家臣のおおくは、保守的で頑固な人たちであった。 

高知でも、やはり万次郎ら3人が高知入りした時から役人による尋問責めが続けられていた。

しかし、数日たって様子が変わってくる。 

土佐藩重臣の吉田東洋が選んだ、高知城下随一の知識人 河田小龍が尋問にあたることになった。

小龍は幼い時から秀才ぶりを発揮、特に絵画は藩より認められ、江戸にも出て腕を磨き、帰国するや吉田東洋の門下にはいる。

吉田東洋の海外政策論に傾倒し 「鎖国はもう古い。大船を建造し、大砲を製造して、異国とも付き合わねばならぬ」 という思想に共鳴し、学問に励んでいた最中に、万次郎が帰国したのである。

小龍の尋問は、罪人としてではなく、すこぶる穏やかで、万次郎が喜んで海外事情を伝えたい!と思うほどであった。

小龍の願いもあって、小龍の家で寝食起居を共にしながら、万次郎は熱心に海外事情の話をしていった。

小龍は、万次郎から聞きとっった海外事情を丁寧に記載し、後に 「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」 にまとめる。

万次郎にとっても、小龍との出会いで、小龍の人徳に惹かれた。 逆に、小龍から日本事情や日本語を学び、教養・知識の幅を広げることができた。

これは、万次郎のその後の人生を、きわめて有意義に過ごすのに大いに役立っていく。

 

長崎奉行の保守頑迷な態度の比べ、土佐の開明思想は際立っているように思える。

河田小龍は、高知城下で学問塾を主宰するテキストに、万次郎の話した漂巽紀略を使用していた。

門下生には、日本の夜明けに大きく貢献した坂本竜馬、中岡新太郎、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎などを輩出する。

万次郎は、土佐藩主の山之内容堂や吉田東洋、河田小龍のどの重臣に気に入られ、生まれ故郷の土佐で羽ばたくことになる。

 

高知城下での3ケ月に及ぶ、取り調べも終わり、万次郎たち3人は高知城下を後にして 、伝蔵の故郷である宇佐浦(土佐市)に陸路で向かった。

伝蔵の村では、心温まる大歓迎を受け、新しく用意された伝蔵の家で一泊して、万次郎は、翌朝一人で足摺岬を目指し、仲ノ浜に帰って行く。

 

高知を出て4日目に中ノ浜に着く。 万次郎が宇佐浦を出たことは、昨日のうちに中ノ浜に伝わっていた。

峠には何人もの村人が万次郎を出迎えに来ていた。 峠を越えると、11年ぶりに見る懐かしい故郷の光景が広がっている。

昔と変わらないリアス式の美しい海岸線があり、子供の頃によく遊んだことが昨日のことのように思い出され、やっと故郷に帰った実感から心が奮い立ってくる。

「とうとう帰ってきたのだ!」 「 夢にまだ見た 故郷に帰ってきたのだ」

万次郎は,出迎えてきてくれた一行と共に、まず庄屋の家に帰国の挨拶に出向くことになった。

峠から曲がりくねった坂道には、大勢の村人たちが、万次郎を一目見ようと集まり、庄屋の家までぞろぞろと一緒に歩いて行く。

万次郎の生家のある現在の中の浜地区(土佐清水市)

庄屋の家の門をくぐると、村人の視線が万次郎に集中する。 大勢の村人たちが集まっている。 見覚えのある顔が並んでいる。

兄の時蔵、姉のせきと志ん、妹の梅、その真ん中には、片時も忘れることがなかった母親の汐が座っていた。 

さらに、万次郎の家族を大勢の村人たちが集まり、取り囲んでいる。

集まった全員が、万次郎と家族の感激の再会を固唾を呑んで見守っている。

「おっかさん ただいま帰りました!」

と いうなり万次郎は、母親の膝にすべり寄って母親を抱いた。 兄弟、姉妹のすすり泣きで泣いている。

この感激シーンに、多くの村人たちも、もらい泣きしたのか! 目には一杯の涙を浮かべている。

母親の汐は、万次郎と抱き合いながらも、庄屋の方を何度も振り返り、

「ほんとうに万次郎ですか!私の倅の万次郎ですか! 」 幾度も問い返した。

「間違いなく汐さんの大事な倅、万次郎さんだよ」 庄屋は、笑顔できっぱりと答えた。

「ほんとうに、万次郎ですか! ほんとうですか!」

想像もできないほど別人のように立派に、逞しく育って、12年ぶりに見る倅を母親を見上げていた。

「万次郎・・・・・」

母親の汐は、感激にむせんで、目を手ぬぐいで押し当てたままで言葉が出てこなかった。

万次郎も 「ただいま帰りました。お達者で・・・・」 というのが精一杯で、目には大きな涙がこぼれていた。

母親の汐は、倅は海で亡くなったものと思い、近くの大覚寺の境内に自然石を置いて、それを、万次郎の空墓とし、一日とも欠かさずに、毎朝 お参りを続けていた。

「自分が 宇佐浦などに漁師見習いに、だしさえしなければ」 と、己の過ちを責め続けていたのである。

それが、1年ほど前に、 薩摩へ漁に行った者から、「万次郎は生きており、メリケの国から帰ってきたらしい」 との噂が流れていた。

信じられなかった。 しかし 2ケ月前に、土佐藩の役人が現れ、聞き取りの調べも済み、万次郎が帰ってくるとの連絡を受けていた。 噂は本当であった。

 

万次郎の中ノ浜(土佐清水市)にある生家

12年ぶりに再会した万次郎と家族、親子水入らずでゆっくり落ち着いた生活もあっという間に過ぎ去った。

中ノ浜に帰って3日後、万次郎に高知城から出頭命令が届いてくる 。

万次郎を定小者(さだめこもの)とういう士分に取り立て、高知城下の教授館(学校)の教授に任命するというものであった

身分制度の厳しい時代に、一漁師から下級武士であっても、さむらいに昇格するのは異例の出世である。

 

この時代は、万次郎が侍に昇格するよりも、世界の先進国で学んだ知識や経験が、当時の日本が必要で、万次郎の国際的な高い知識や能力が活かされる時代が到来したのである。

当時25歳の万次郎は、高知に出ると、教育に情熱をそそいでいく。

聴講生には、吉田東洋の門下生の若者たちが多くをしめていた。 みんな一語一句も聞きもすまいと真剣に受講していた。、

後藤象二郎とともに山之内容堂公に勧めて、大政奉還を将軍徳川慶喜建白させた坂本竜馬や三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎などもいた。

万次郎は、自らの体験したアメリカの民主主義、自由、平等、独立の精神、さらに航海術や捕鯨船による活動状況などについて講義した。

土佐の若い聴講生の目は輝き、新しい日本の姿などに夢を膨らましていた。

また、万次郎は英語の教育にも力を入れ、耳から覚えられるように、発音やイントネーションに優れた授業を行った。

書く力も、現在の大学生の平均値より高いといわれ、英語的な表現方法も、さすが本場仕込みと思えるほどである。

軍艦4隻を率いて浦賀にやってきたアメリカのペリー提督

1853年6月 日本に大きな事件が発生する。ア メリカの提督ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に現れ、開国を要求する事件(黒船)が起きる。

この事件は、万次郎の耳にも入った。 「いよいよやって来たか!」 と 万次郎は予期していた。

大砲を備えた 「黒船」 の出現に幕府は慌てた。 追い払おうにも、そんな武力は日本にはなかった。

軍艦の砲口を町に向けて、不気味に威圧した上で、武装した数百名の海兵隊員を従えて、ペルー提督は久里浜(横須賀市)に上陸し、親書を浦賀奉行に突き付けた。

アメリカ大統領から鎖国を解き、開国するようにとの要望書であった。

来春に再び来るまでに、返答を用意しておくように一方的に言い放った。

4隻のペリー艦隊が浦賀から江戸湾を航行したコース、測量も行っていた。

 

ペリー艦隊は、江戸の至近まで接近させ、号砲をうつなどの示威行動で江戸市民を震え上がらせ6月12日(西暦7月17日)悠然と去った。

浦賀に現れた黒船 ポーハタン号

幕末の西洋艦船の外輪船

ぺリー-艦隊が去って江戸庶民はホットしたが、幕府は、それからが大混乱に陥っていった。

老中阿部伊勢守正弘は、対応策に関して諸大名に諮問したが、情報が分からず、知恵を出そうにも新興国アメリカの情報は、全くと言っていいほど入っていなかった。

そんな時、進歩的な蘭学者が土佐の万次郎の登用を進言してきた。

万次郎のことは、阿部正弘も知っていた。

長崎奉行から 「頗る(すこぶる)怜悧(れいり)にして、国家の用となるべき者なり」 との報告が入っている。

急ぎ 阿部正弘は、土佐藩江戸屋敷に 「万次郎と申す者を、外国の様子等を尋ねたいので江戸に呼び寄せて貰いたい」 との書状を届けた。

書状を受け取った土佐藩江戸屋敷や江戸から報を受けた高知城下も慌てて対応していた。

土佐藩では、幕府が必要としている重要人物に、自分の藩では、足軽にも及ばない最下級の身分しか与えていなかった。

このままでは、幕府に 「人材も見抜けない愚かな藩だ」 と思われる可能性があった。 これは、土佐藩の威信にかかわる問題だ。

急いで万次郎の身分を 「定小者」 から 「徒士格(かちかく)」 へ引き上げた上で、江戸へ送り出したのである。

 

ペリーが去って1ケ月後に、ロシアの艦隊が長崎に強引に入港して、通商を要求して来たとの情報も万次郎に入っていた。

しかし 万次郎は驚かなかった。

 ロシアもアメリカが、浦賀に軍艦を引き連れて強引に開国を要求したとの情報を入手した後の行動だと思った。

日本の混乱ぶりをみて、力による外交交渉を始めてきたのである。

万次郎が恐れていたことが、本当に始まろうとしている。

「何としても、母国 日本を守らねば」 との思いを強くしながら、来春の再来を言い残して、ペルーが去って、2ケ月半後の8月30日、万次郎は江戸に到着した。

待ちかねていた、老中阿波正弘は、即刻 万次郎を呼びつけ アメリカなる国についての質問をうけた。

 

時は来た、、、、万次郎は、アメリカで生活していた時に、日本に関するニュースやアメリカ政府の考え方、今後の方針などの情報を聞き、日本が心配でならなかった。

やっと、日本国の中枢にある人に自分が培わしてきた知識や技術、情報を話す機会が訪れたのである。

万次郎は感慨深かった。 自分は、この日のために、アメリカから鎖国を続ける日本に帰国してきたのである。

といっても過言ではなかった。

 

 

 

 

 


日本の夜明けに貢献・・・ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて(漂流・・米国で教育・・航海士に・・鎖国日本へ)・・(3)

2017-02-26 03:08:19 | 思い出

 

1841年12月1日、捕鯨船ジョン・ハウランド号は、日本人の遭難者の5人のうち4人をハワイに残し、新人のジョン万次郎一人を加えてホノルル港を出航する。

ホノルル港で、別れの朝、船頭の筆之蒸たち漂流民4人は、涙を流して万次郎を見送った。

ハワイ諸島 オアフ島 ホ ノルル港に停泊する捕鯨船群の様子。

 

前年の11月20日に鳥島から寄港する。 出航の折には筆之蒸たち4人はワイに残り、万次郎のみ乗船する。

 万次郎は、ホイットフィールド船長から、アメリカ行きを誘われた話しを聞いた時、初めは夢ではないか! と思った。

万次郎は捕鯨船に乗って、先進的な国、未知の世界に想像を膨らましていた。

星を見て海を走る方法、逆風に向って走れる異国の船、方角を示す磁石、各国の地図など、どれを見ても驚きの連続であった。

万次郎がアメリカ行きを了解した折、ホイットフィールド船長は、「ならば、私がすべて保障する」 と言ってくれた。

万次郎にとって、船長の言葉は、涙の出るほど、うれしく、また、船長の父親のような温かい人柄に、感謝の気持ちで一杯であった。

そして、アメリカ行が現実のものになったことを実感して、これから体験する未知の世界への喜びや希望・不安が交差していた。

万次郎たち漂流民5人を乗せたジョン・ハウランド号が寄港したハワイ諸島 (オアフ島ホノルル)

 

捕鯨船 ジョン・ハウランド号 

ホノルルを出港して、捕鯨のできる海域に入ると、船長は乗組員を甲板に集め、 サー 鯨を捕るぞ! と檄をとばした。

  

甲板から30m上方のマストに取り付けられた ”カラスの巣” と呼ばれる見張り台

ジョン万次郎も、船長の指示で見張台に昇った。 揺れが激しく、振り落とされそうだった。

「潮を吹くぞ! ほら、ほら、吹いているぞ! 鯨の大群だ」

3隻のボートが下ろされ、乗組員が、器用にピョン、ピョン ボートに飛び降りる。 

ボートは6人乗りで、オールや3~4本のもりややりなどの七つ道具と、食料や水などが積み込まれている。

本船から信号旗で、「鯨はどこにいるか! 浮上しているか! 潜っているか!」 などの情報をボートに伝える。

本船からの情報を受けた3隻のボートは、先陣を争って鯨に近づいて行く。

「それ、もりを打て! 打て!」

鯨に 当たると もりに取り付けてあるロープが、逃げる鯨に引っ張られ、疲れたところを仕留める。

実際は、大きな鯨の暴れ具合で、船員の腕がちぎられたり、海にぶっ飛ばされたりする事故も多く、大変危険な仕事である。

鯨と乗組員たちとの格闘はすさまじく、乗組員たちは精根尽きてぐったりする程である。 しかし、仕事はそこで終わらない。

鯨を母船に運び、皮脂肪を切り取って油をとる仕事が残っている。 これは大変な作業である。

鯨との格闘を終え、精根尽きた体で最後の仕事をする。 揺れる船のげん側で、危険な鯨の皮脂肪を切りとって油をとる作業である。

普通だと、母船が鯨の所まで接近するが、風の状態が悪いと、ボートで鯨を引っ張って行かなくてはならない。

80トンもある大きな鯨を引っ張るのは、大変な労力のいる作業である。

作業時間の経過とともに、鯨の血の匂いをかぎつけたサメが群がり、不気味な状況が続いていく。

ハワイを出港した、ジョン・ハウランド号は、所々で捕鯨を続けながら、ギルバート諸島、グアム島で食料や水を補給、台湾近海をとおって、日本近海に入る。

万次郎にとっては懐かしい鳥島付近にもいかりを下ろした。

日本から200~400kmで捕鯨を続けて目標の捕獲を達成したジョン・ハウランド号は、捕鯨を終え、ホノルルに向かった。

ところが、強風と荒波でホノルルには寄港できず、南東に進路を向け、南米最南端のホーン岬を経由してアメリカへと向かった。

 

万次郎にとっては、初めてのアメリカ本土が近づき、心がわくわくとする。 これから始まる新しい生活に想像が膨らんでくる。

そんな折、ジョン・ハウランド号は、アメリカ東海岸を北上、マサチューセッツ州の南端に近いブザード湾を航行している。

海の彼方に、帯のように長く平ぺたい陸がうっすらと見えてくる。

「あれが私の故郷フェアヘーブンだよ」 ホイットフィールド船長が、指をさしながら、万次郎に誇らしげに説明する。 

船はさらに湾内を北上している。 アクシネット川を挟んで右手がフェアヘーブン、左手がニューベッドフォードである。

船はさらに進む。 前方に二つの島があり、橋が架けられている。

舟が近づくと橋の一部が左側に寄せられていく。 アー 「橋が割れた!」 と 驚く万次郎に、ホイットフィールド船長らは笑いころげた。

「船を通すための架道橋である」 と教えられたが、万次郎には強い印象を与えた。

やがて船は世界最大の捕鯨基地であるニューベッドフォード港に帰港する。

「帰ったぞ!」 「とうとう帰ってきたぞ!」 船員たちは帽子をほうり上げ、肩をたたき合って喜んだ。

岸壁には、大勢の船員たちの家族である婦人や子供たち・関係者が出迎え、飛び上って歓声を上げている。

上陸して家族と対面し、抱き合い抱擁する姿を目にした万次郎は驚き、やはり、ここは日本ではなくアメリカだと改めて思った。

乗組員たちは、家族と喜びの対面をした後、港近くの会計事務所でレイ(配当金)を受け取り、にこやかに、次々と家路へと去って行った。

親しくしてくれていた航海士や、やり打ちは、 「万次郎 、今度、また船で会おうぜ!」 と手を握って分かれて行く。 

今回の航海で、ジョン・ハウランド号が持ち込んだ鯨油の樽は多く、ホノルルからも別便で送っていた。 

船長が、万次郎を連れて、税関・船主の事務所などを回り航海の報告をすると、今回の航海は大成功だと、みんなから賛辞が贈られた。

関係先に行く度に、船長は万次郎をみんなに紹介した。

船長から紹介された人たちは、日本という秘境の国から はるばるアメリカ東海岸までやってきた少年、万次郎に好奇の眼を向けていた。

万次郎も、この頃には、日常の挨拶や英会話には、かなりの力をつけ、話すことに不自由はなかった。

時に、1843年5月7日 のことである。、

捕鯨基地のあるニューベッドフォード、その隣に、ホイットフィールド船長の郷里 フェアヘーブンがある。

 

万次郎が日本人として初めて土を踏んだアメリカ 東海岸の町・フェアヘーブンは、隣のニューベッドフォードと共に捕鯨で栄える港町である。

万次郎が訪れたこの時期は、まさに最盛期で、両港合わせて260隻の捕鯨船を有するアメリカ最大の捕鯨基地であった。

世界最大の捕鯨基地ニューベットフォード港 数十隻の捕鯨船が停泊し、鯨油樽が波止場一杯に所せましと並べられている。

 

この当時のアメリカでの捕鯨は、肉は捨てられたが、その他の部位は徹底的に利用されていた。

皮から煮出した鯨油は、ランプの燃料やローソクの原材料として、

誕生して間もない蒸気機関や紡績機械の潤滑油としても使われていた。

骨もスッテキの柄や洋服のボタンなどに使われ、市民生活を営む上でなくてはならない資源や原材料であった。

そして、ホイットフイールド船長は、万次郎に

 「世界中の捕鯨船の数は900隻で、そのうち八割以上が米国籍であり、欧州にも輸出している。」

「捕鯨は、アメリカの重要な基幹産業であると・・・・・」 と説明する。

ニューベットフォードに帰港して、主だった仕事や連絡を終えたホイットフィールド船長は、万次郎を連れて、馬車に乗り込み 船長の郷里 フェアーヘーブンに向った。

やがて、二人を乗せた馬車は、帰港する時に見かけたあの架道橋を渡って行く。

橋を渡ると、船長の家のある町 フェアヘーブンだった。 人口1000人ほどの小さな町である。

フェアヘーブンは、ヨーロッパを思わせる、落ち着いた雰囲気を感じさせる街並み続き、その周辺には、緑豊かな農地が広がっている。

敬虔なクリスチャンが多く、南部の奴隷解放運動への理解力も高く、突然現れた 日本人の万次郎を、温かく受け入れてくれそうであった。

 

馬車は、架道橋から10分ほどで、ホイットフィールド船長の家に到着する。 家は海辺に近い美しい住宅街にあった。 

だが、4年ぶりに航海を終えて、船長を温かく迎えてくれる家族はいなかった。 (船長は、前回の航海中に夫人を亡くしていた。)

家の近所の住民たちが船長を見ると窓越しに手を振り歓迎してくれている。 子供たちも 「キャプテン」 と言って集まってくる。

船長と一緒にいる万次郎に好奇のまなこが向けられる。

 ついぞや見たことのない顔立ち。 東洋人!、中国人! 

ささやきあう隣人に 船長は 「ジョン・マン。 日本人だ。 私の息子だ」 と大きな声で紹介する。

 

フェアヘーブンの丘の上にあるホイット・フィールド船長の自宅、万次郎も一緒に住む。

 

翌朝、船長は近所に住み、船長の下で航海士をしていたジエームズ・エイキンの家を訪れ、

「船長は、これからニューヨークに所要があって出かける。」

「しばらく万次郎を預かってほしい。」

「そして、万次郎を基礎から勉強さしたいので小学校に通わせてほしい。」 と依頼した。

「よくわかりました。 ジョンを世話しましょう」  と承諾してくれた。

  船長とは、海で生死を共にした仲間同士。 友情の絆は強かった。 その後、船長はあわただしくニューヨークに向けて船で出港して行った。

 

 そして、万次郎のフェアヘーブンでの新しい生活が始まった。 

「ジョン万次郎君を紹介します」  万次郎は、オックスフォード学校の1年生に入学する。

体の大きい 1年生 に 生徒たちは驚き、目をパチクリさしていた。 

万次郎はこの時16歳で、日本からアメリカで学ぶ最初の留学生となった。

先生は、隣家に住むジエーン・アレン(女性)で、のちに捕鯨船の船長と結婚する。

この船長が、日本が開国後して最初に入港した米国船の船長であった。 縁とは不思議なものである。

 この時、船長が日本で買った着物や装飾品がフェアヘーブンの資料館に現在でも展示している。

当初から、ホイットフィールド船長は、万次郎の才能を見抜き、アメリカの学校で基礎から学ばせる方針を立てていた。

万次郎に高等教育を受けさせ、修行積んでいけば、必ず社会で役立つ人間に成長していく! と信じていた。

万次郎は船の仲間たちから英語を教わり、話すことは上達していたが、読み書きが不十分であった。

万次郎は学校でも人気があり、幼いクラスメイトは、万次郎に近づいては話しかけてきた。

万次郎は、いつも微笑みながら 幼いクラスメイトに付き合っていた。

学校で習った言葉や文字は、何度も書いて覚え、スペリングも歩きながらつぶやいて暗記していた。

弟や妹のような低学年生たちを、追い抜くには、あまり、時間はかからなかった。

 

8月のある日、ホイットフィールド船長がニューヨークから、30歳そこそこの夫人を連れて帰ってくる。

ニューヨークで初めて知り合い、結ばれた新しい夫人で、アルバタイナさんという名前の人だった。

働き盛りの船長は、家庭を任せて、捕鯨に出て行くためには妻が必要で、万次郎のことも気がかりあった。 

アルバタイナ夫人は、船長の意趣にかなう優しい人だった。

船長は新しい生活の出発を気に、ここから9km離れたブザード湾に突き出た所で、海のよく見える丘の上に家を新築した。

また、船長は数ヘクタールの土地を買い農耕をも初めた。

人を一人雇い入れ、農地に開墾し、作物の栽培や家畜などを、万次郎を入れて3人で農作業を行った。

アメリカに来て万次郎が初めて通った学校、フェアヘーブンのオックスフォード学校

万次郎が通ったオックスフォード学校で学ぶ幼い生徒たち

万次郎が書いたアルファベット

万次郎は、オックスフォード学校で、基礎的なことを学んだあと、さらに上級の学校に進学することになる。

ジョン万次郎が住んだフェアヘーブンは、ニューベッドフォードに隣接する町で、航海術などの専門学校があった。

ホイットフィールド船長は、万次郎の能力と意欲を高く評価していた。

船長は万次郎に、フェアヘーブンの航海専門学校(アカデミー)に通って、本格的な技術を学ぶように勧める。

年が変わって1844年、万次郎は17歳になった。 その年の2月、万次郎はアカデミー(専門学校)へ進学することになった。

 

フェアヘーブンでは、この専門学校のことを、パートレットアカデミーと呼んでいた。 現在の中・高等教育の学校である。

小学校と違って、1時間の授業に対して、2~3時間分みっちり自習しないとついていけないほどレベルが高かった。 読書の宿題も多く与えられる。

英語、文学、歴史、数学、測量術、航海術など、内容は大変高度なもので、万次郎は、歯を食いしばって勉強した。

 

当時、万次郎と机を並べて勉強し、のちフェアヘーブンの教育委員になったジョップ・トリップという方によると、

「万次郎は驚くほど読書好きだった。 このため学業は著しく進歩し、いつもクラスのトップで、優秀な成績で卒業した」

この話は、1916年1月発行の地元新聞紙に掲載されている。

トリップ氏は、さらに 万次郎の人柄についても語り、

 「恥ずかしがり屋で物静かだった。 いつも優しく、丁寧だった。」 と述べている。

また、万次郎は、フェアヘーブンに住みながら、アメリカの国家体制や社会・法・風土・それに、アメリカ人の一人一人の、人を観察するのに絶好のチャンスであった。

当時の学友が述べているように、「万次郎は、高い意欲や向学心が旺盛で、なんでもグングン吸収しつくした少年」 でもあった。

ただ、万次郎は、母への絶ちがたい思慕の情が強く、一人きりになると、母を思い、時々、頬を涙で濡らしていた。

町の中で、同年配の子供が母親と連れ立って歩く姿や、よその家庭に招待されて、温かい接待を受けたりすると、

郷里である土佐中浜の母を、思い出さずにはおられなかった。

 

万次郎がアカデミーに通い始めて間もなく、ホイットフィールド船長は、再び 捕鯨船に乗り込んだ。

 アルバタイナ夫人や万次郎らの盛んな見送りを受け 1844年6月に 出航して行った。

この時、船長夫人は、妊娠中であって、間もなく男の赤ちゃんを出産する。

万次郎は、この目のクリクリとしたウイリアム坊を弟のように可愛がった。

子守していると、悲しいことも、苦しいこともすべて忘れることができた。

専門学校に学び、家に帰ると農作業をする。 

そして、ちびちゃん相手の楽しいひと時が、17歳の万次郎にとっては、何よりの楽しみで、申し分のない恵まれた日々であった。

しかし、いつまでも船長の好意に甘えていても、いいのだろうか! と思うようになってくる。

 早く自立しなければ! という思いも強くなってくる。

捕鯨の町で17~18歳といえば、もう立派な働き手である。

「手に職をつけて働きたい!」 

万次郎は、ある日、船長夫人に心の内を打ち明けて、同意を得る。

1845年2月から隣の町ニューベットフォードの桶屋に住み込み奉公することになった。

万次郎が住み込み奉公に出る。この桶屋で鯨油を入れる樽つくりの基本を学ぶ。

 

厳しい仕事で食事も三食とも乾いたパンで、万次郎も栄養失調状態に陥り、ついに倒れてしまった。

ホイットフィールド船長夫人の熱心な取りなしで、万次郎は農場に移り、新鮮な野菜や牛乳を摂ってやっと健康を回復する。

だが、万次郎は、この後も、しばらく就業し、辛さを耐え忍び、樽造りの腕を磨きあげていった。 

樽は鯨油を入れる為のものであり、この奉公も捕鯨船の船乗りになって役立つ修行となる。

万次郎が過ごしたアメリカ東海岸 フェアヘーブンの展示資料

 

このころ万次郎は、アメリカ社会の様々な問題点についても考えるようになっていた。

街頭では新聞が売っており、それを買って読むと、アメリカでどのようなことがおこっているのか! 社会の出来事や問題点などをよく知ることができた。

特に、万次郎が関心を持ったのは、アメリカの奴隷制度であった。

奴隷制度の廃止は早くから叫ばれていたが、南部では綿の輸出が盛んになるにつれて、奴隷は益々必要になり、どんどん増えていた。

その数は、300万人から400万人に達しようとしている。

 

万次郎はアメリカの高等教育を学び基礎学力をつけていく。

英語、数学、測量、航海術・造船技術など幅広く学んだことは、万次郎の能力や人格育成に大きく寄与している。

こうしたアメリカで受けた高等教育が、その後の航海にも活かされ体験し、アメリカのみならず、知識の幅や見聞などが鎖国時代の日本に活かされていく。、

こうした情報や技術は、その後の、近代日本の国造りや、発展の礎になって大きく貢献していく。

この意味から、ホイットフィールド船長は、万次郎のみならず、日本にとっても大きな恩人であるといえます。

 

ホイットフィールド船長と万次郎

万次郎は約2年間、ホイットフィールド船長の指揮するジョン・ハウランド号で捕鯨や航海術を習得する。

 

万次郎は、オックスフオード学校を卒業した後、船長の意見に従い、航海士養成学校のパートレット アカデミーに17歳で入学する。

学校では、最先端の捕鯨技術、航海技術、造船技術などを学び、優秀な成績で卒業する。 この時、万次郎は19歳になっていた。

 

パートレッとアカデミーを卒業後も、ホイットフィールド船長農場で働いていたが、ジョン・ハウランドに乗船していた アイラ・デービスから航海の誘いを受ける。

アイラ・デービスはフランクリン号の船長に任命されていた。

この時、ホイットフィールド船長は、「ウイリアム・アンド・エリザ号」 で2年前に出かけたまま留守だった。

大恩のある船長に相談しないまま航海に出るのは気がかりだった。

幸いにも船長夫人が、万次郎の航海に賛成し、熱心に勧めてくれた。

万次郎は、アイラ・デービスからの誘いを承諾し、捕鯨船フランクリン号に乗船することに決める。

アメリカの捕鯨専用の木造船 フランクリン号 (重量=273トン、全長=30.8m、幅=7.4m、深さ=3.7m)

3本マスト(バーク型帆船) 1830年代にアメリカ マサチューセッツ州ニューベッドフォードで建造。

万次郎の大航海記

 万次郎は、1846年5月~1849年9月までの3年4ケ月間、フランクリン号に乗船して、鯨を追って、大西洋、インド洋、そして太平洋を航海する。

「ほら 潮をふいたぞ!」

甲板の上30m、マストに取り付けられた見張り台 ”カラスの巣” から、鯨の群れの発見を知らせる一報が発せられる。

太平洋のマッコウ鯨の好漁場に入って、連日、多忙な日が続いている。

デービス船長の命令が飛び、船体の両側に吊るされた捕鯨ボートが一斉に下ろされた。

万次郎はボート長に昇進、5人の漕ぎ手に命令を下し、鯨がゴールの激しい先陣争いが始まった。

マッコウ鯨の巨大な姿が海面を割って現れる。

「モリ打ち 立て!」 万次郎の命令が飛んだ。

「まだ まだ。 それ打て! 打ち込め!」

もりが突き刺さり、黒い巨体の猛進が始まった。 鯨に打ち込んだモリにつながられた1本のロープがピーンと張り、

6人乗りのボートが鯨に引っ張られて行くが、時間の経過と共に鯨の勢いは弱まり、最後は急所にとどめを・・・」

鯨をボートに引っ張り、母船に横付けすると、乗組員たちは、皮脂肪に切り取り、樽詰めと、決まった工程の作業へ移っていく。

この作業は、捕鯨の度に繰り返し行われる。

 

グアム島に寄港した際に、他の捕鯨船長から 「日本近海へ出漁するが同行しないか」 と誘われた。

万次郎は、その時、「日本へ帰国できるかもしれない」 と思った。

デービス船長に相談すると、船長は首を横に振って反対した。

日本は鎖国令が出ており、外国に在住した日本人が帰国した場合は、「死罪」 として処刑されることになっていた。

この情報はオランダやイギリスなどからアメリカにも伝えられていた。

デービス船長も、万次郎の身を案じ、万次郎の申し出を拒否した。

18478年10月 フランクリン号はハワイ ホノルル港に入った。 港は相変わらず捕鯨船で賑わっていた。

 

万次郎は、6年前に別れた筆之蒸たちに会いたく、居場所をつかむためにホノルルの役所へ足を運んだ。

6年前よりも町は発展しているようで、立派な建物が増え、人も多くなっているように感じる。

役所で日本人一人が住んでいると教えられ、万次郎はその住居地を訪れた。

男は寅右衛門だった。 寅右衛門は最初、万次郎の顔を見ても、反応を示さなかった。

「おれだ。万次郎だ」 寅右衛門の顔が見る見るうちに輝き、懐かしさの余り、涙がこぼれ落ちてくる。

寅右衛門は、大工の仕事をしていてホノルル生活に溶け込んでいるようであった。

最年長の筆之蒸は、地元の人たちが発音しにくいことから、「伝蔵」 に変えていた。

重助は、病がもとで1846年に亡くなっていた。

伝蔵とご五右衛門の兄弟は前年、ホイットフィールド船長が、ホノルルに見え、日本の近海に行く捕鯨船 フロリダ号 の船長を紹介してくれた。

伝蔵兄弟は、喜んで 1846年11月、二人はフロリダ号に乗ってホノルルから去って行った。

残った寅右衛門にも、日本に向う米船を紹介してくれたが、愛人ができて、ハワイに永住したいといって断った。

万次郎は、寅右衛門から漂流仲間たちの、その後の状況を聞いてから20日ばかり過ぎたころ、一隻の捕鯨船が入港して来た。

伝蔵たちが乗船したフロリダ号であった。 万次郎は桟橋に行ってみた。 船から伝蔵と五右衛門が下船してくるではないか!

3人は手を取り合って再会を喜んだ。

伝蔵によると、3月下旬に八丈島へ上陸しようとしたが、波風が強すぎて上陸できなかった。

そこで、蝦夷(北海道)東海岸に上陸したが、全く人がおらず、船長の指示で船に引き上げた。

万次郎は 「また、機会がある、3人で日本に帰ろう」 と言って励ます。

フランクリン号と同型の船

1847年11月 フランクリン号はホノルルを出航する。 出航して間もなくデービス船長の言動が急変する。 もともとは捕鯨船に似合わず、おとなしい性格の人であった。

ちょっとしたことで、激しくののしったり、暴力も振るうようになった。 

そのまま航海を続けていると、船長の容体は益々悪化し、ナイフや鉄砲まで振り回すようになっていた。 このままでは、乗組員に危害が及ぶ恐れが強くなってくる。

万次郎たちフランクリン号の幹部は協議のすえ、一時的に船長を監禁することに決めた。

4月下旬フィリッピン沖で激しい暴風雨に見舞われ、一時は、座礁、沈没の恐れにあったが、乗組員の必死の努力で乗り越えて行った。

5月下旬にフィリッピンんのルソン島 マニラ港に寄港する。 その折にアメリカ領事館に、デービス船長の状況を説明し、本国に送還してくれるように依頼した。

 

フランクリン号は、船長が不在になったことから、後任を選ぶ全員投票が行われた。

開票の結果、新船長には、一等航海士のエイキンが選ばれ、万次郎は一等航海士に選任された。

万次郎が選ばれた理由は、仕事に対する取り組みが積極的である。 みんなに親しまれている人柄。パートレット専門学校で航海術の知識が豊富である。などであった。

万次郎は3年余りの航海の経験で一等航海士に選ばれたのは、異例の昇進である。 

一等航海士になるには、通常だと3~4回の航海と、9年から12年の経験から選ばれる場合が多い。

この航海で、万次郎は、世界の様々な国や土地を訪れ、様々な経験を積んでいく。

捕鯨活動も順調に推移して成果を上げている。

万次郎の乗船したフランクリン号の大航海経路

フランクリン号での万次郎の航海ルート

 

フランクリン号はマニラでデービス船長を下船させた後、台湾、琉球沿いに北上し、再び 日本近海で捕鯨をしてグアム島に戻る。 

約1ケ月間、停泊した後、進路を南にとり、ニューアイランド島付近を経て、セラム島に寄港する。

セラム島で万次郎は、ホイットフィールド船長家族のお土産をかった。 

船はインド洋を西進し、アフリカの最南端である喜望峰を回って、1849年8月 数千樽の鯨油を船倉一杯に積んで母港ニューベットフォードに帰港した。

万次郎の配当金は、350ドルだった。

万次郎が帰港したニューベッドフォード港には、ホイットフィールド船長が出迎えてくれた。 二人は久しぶりに固い握手をして再会を喜んだ。

船長はデービス船長の不幸な病気や万次郎の昇進のニュースは知っていた。

「ジョン、君は最先端の航海術で世界を回った最初の日本人だ」 と褒めたたえてくれた。

万次郎も 「ありがとう。 みんな船長のおかげです」 と感謝の言葉を述べた。

しかし、突然、船長の言葉からウイリアム坊やが、万次郎が航海に出かけて5ケ月後に病気で亡くなったことを知らされる。

万次郎の顔色が変わった。 万次郎をあれほど慕っていた赤ちゃんが、信じられない。 失意のどん底に落とされたような気持であった。

万次郎が、第2の故郷、フェアヘーブンに帰ると、多くの人たちが 「一等航海士への昇進おめでとう」 と言って喜んでくれた。

オックスフォード学校・パートレット専門学校の友人や先生たちも祝福してくれたが、ウイリアム坊やを失った心の傷はいえなかった、

 

万次郎は、今回の航海(フランクリン号)で世界を知る。 世界の情報を集め、知識を深め、大きな心と視野を持った人間に成長していく。

1849年10月 3年余に渡るフランクリン号の航海から、フェアーヘーブンに戻った万次郎は、

鎖国を続け、世界各国が日本を植民地にしようと狙っているとの情報が新聞等で知り、気がかりであった。

世界の列強から、日本は狙われ、様々な情報が新聞紙上などで報道されていた。

捕鯨航海を終えて、わずか2ケ月後には、「何としても故国 日本 を守らねば、救わねば 」との使命感が万次郎を駆り立てていた。

万次郎は、着々と日本への帰国計画の実行案を考えてすすめていた。

「まずは ハワイに渡って、伝蔵たち漂流仲間と合流し、捕鯨船か! 貨物船に乗って琉球沖で下してもらい、

後は小型ボートを漕いで琉球に上陸する。」 というものであった。

しかし この計画を実行するには、資金が必要であった。 その策が、ゴールドフラッシュにわく、カリフォルニアでの砂金堀だった。

ホイットフィールド船長に、この計画について相談するが、船長は驚かなかった。

万次郎が航海中のグアムからの手紙に、万次郎の帰国の意思が強いことを知っていたからである。

船長は、カリフォルニア行きを賛成してくれ、大いに励ましてくれた。

そうなれば万次郎の行動は早かった。 万次郎は22歳になっていた。

カリフォルニアの金山は、サンフランシスコの北東、サクラメントからさらに奥地にあった。

帰国資源を稼ぐ為にカリフォルニアにある金山で働く万次郎

 

 1849年 カリフォルニア州におこったゴールドラッシュに万次郎も、帰国資金を稼ぐ為に テリーという青年を誘って

第二の故郷であるフェアーヘブンを出発して行く。

当時のカリフォルニア州は、まだ合衆国に加盟していない辺境の地だった。

1850年5月 金山に到着した万次郎たちを待っていた労働は、さらに過酷なものだった。

ツルハシとスコップを持って、休まず、一切遊ばず、万次郎とテリーはひたすら掘り続けた。

最初は雇われ、鉱夫として掘り、間もなく独立して掘り、70日余りの労働で600ドルを稼いだ。

これだけあれば帰国資金に足りるだろうと、採掘道具等一式を、テリーにタダでくれてやり、稼いだ資金を手に、万次郎はさっさと山を下りる。

 帰国資金を手にした万次郎は 「一度フェアーヘブンに帰って、ホイットフィールド船長に挨拶してから、日本に帰国しなければ・・・」 

との思いが強かったが、往復すると半年間はかかると思われ、 資金ができたことから 日本への帰国の はやる気持ちを抑えることができなかった。

結局、万次郎は、伝蔵たち漂流仲間のいるハワイ島ホノルル行きの船に乗り込んだ。

1850年10月10日、万次郎はホノルルに到着した。 前回の航海で立ち寄ってから3年ぶりに漂流仲間たちと再会をした。

早速、仲間たちに帰国の計画を話をすると、伝蔵と五右衛門は即座に賛成し同意したが、

寅右衛門は、妻もおり、大工の仕事もある。 このままホノルルに残るとの意思が強かった。

万次郎たちは、ハワイで色々とお世話になっているデーモン牧師から、上海行きの商船「サラ・ボイド号」のホイットモアー船長を紹介してもらった。

交渉した結果、日本近海まで乗船さしてもらえることになった。

あとは、上陸用の小舟が必要で、イギリス人から購入し、この船をアドベンチャー号と名づけた。

また、デーモン牧師は、アメリカ領事にはたらきかけ、万次郎たちが遭難してから今日に至るまでの経緯等を述べたうえで、3人の身分証明書を書いてもらった。

 

万次郎は、ハワイを出発する前に、ホイット・フィールド船長に、

今まで育ててくれ、アメリカの高等教育まで受けさしてくれたことへの恩と、感謝の気持ちを、お別れの手紙に書いた。

 

1850年12月17日 万次郎たちは、デーモン牧師に心からの礼を述べ、サラ・ボイド号に乗船した。

万次郎たち、3人の日本人を乗せた船は、帆に一杯の風をはらませてホノルル港を出港した。

1851年1月9日 の「フレンド紙」には、デーモン牧師による記事が掲載されていた。

 

『我々は、ジョン・マン船長が乗り出した冒険の旅の成功を心から期待している。

ジョン・マンは、利口で勤勉な青年である。

あらゆる機会を有効に活かし、英語を間違いなく話し書くようになった。

彼が故国への帰還に無事成功すれば、日本と外国との国交樹立に大いに貢献するであろう。

日本人と英国人、そしてアメリカ人との間の意思疎通をもたらす優秀な通訳となることは間違いない。

ジョン・マンの、アドベンチャー号の成功を祈る。』

サラ・ボイド号は順調に航海を続けた。

船内での万次郎の働きぶりをつぶさに観察していたホイットモア船長は、航海士としてのその資質、能力の高さに驚き、感心した。

だからこそ、アメリカが育てたこの優秀な青年に、鎖国を続ける日本で、

死罪になるような、強行突破的な行動をさせるのが忍びなく、万次郎に説得を試みた。

「この船は上海についたらアメリカへ戻る。 君たちも一緒にアメリカへ戻ろう。

現状の日本への帰国は、あまりにも危険を伴う。

今回は帰国を思いとどまり、改めて慎重な帰国計画を練った方がいい」

このような理に適った提案をする。

しかし 万次郎は、微笑って忠告への礼を述べるにとどめていた。

 

思えば、万次郎は、当時の日本人が驚くほどのアメリカで学んだ最新技術や、その後の航海体験などを身に着け、幕藩体制が続く日本に持ち帰ってくる。

ジョン・ハウランド号は、万次郎だけでなく、近代的な日本の国作りの原点に繋がる船といっても過言ではない。

そして ホノルル港を出港して一月半後、サラ・ボイド号は黒潮に乗って琉球沖に到着する。

そして、小型船のアドベンチャー号が下ろされていく。

万次郎たち3人が、日本への上陸用に購入したアドベンチャー号

 

船長は、万次郎たちを気遣って 

「もし琉球に上陸できないようであれば、本船に戻るように・・・・、 そのために出港を遅らすから・・・」 と言っくれた。

万次郎は、船長に感謝の言葉を述べ、アドベンチャー号に乗り移ると、ゆっくりと鎖国を続ける日本の陸を目指して漕いで行った。

 


日本の夜明けに貢献・・・ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて(土佐沖で漂流・・・島からの救出)・・・(2)

2017-02-22 01:04:48 | 思い出

 2017年1月6日 高知県土佐清水市、妻と二人で、同じ県内の佐川町の実家から、足摺岬にある万次郎像や生家を訪ねて旅行している。

万次郎の生家や足摺岬の観光を終え、万次郎の資料館に向っているが場所が分からない。

土佐清水市の中心部で通りかかった女子高校生に訪ねると、親切に教えてくれた。

教えられた道路を走行して行くと、すぐに美しい海岸が見えてくる。

 さらに走行すると公園らしきものが見え、その先は、「海の駅」 と書かれ看板と、その下に、「ジョン万次郎資料館」 と書かれた建物が見えてくる。

見える方向にある公園の中を、そのまま走行していると大きなモニュメントが見えてくる。

「なんだろう!」 と思って、車から降りて行ってみると、万次郎たち5人が漂着した無人島 鳥島でのモニュメントであった。

 この公園は、「足摺港公園」 との名称がつけられている。

公園の横には、「海の駅 あしずり」 があり、その施設内に 「ジョン万次郎資料館」 がある。

公園の側に車を止めて散策してみると下の写真のようなモニュメントが展示されている。

万次郎少年像(万次郎と仲間達の群像)

この像は、1991年万次郎漂流150周年を記念して足摺港公園内に建立されている。

無人島 鳥島に漂着し、仲間4人と共に助けを求めている情景を表している像で

「ジョン万次郎少年群像」 と呼ばれている。 (銅像=濱田浩造作)

この群像の横には、下記のように書かれて石碑が置かれている。

 

「天保12年1月5日(1841年1月27日)早朝 宇佐浦(現 高知県土佐市宇佐町)船出した5人の漁師。

 船    頭  筆 之 蒸 38歳 (後にハワイで伝蔵と改名)

 漁 労 係   重   助 25歳  (5年後ハワイで病死) 

 櫓    係  五右衛門 16歳  (以上3人は兄弟で筆之蒸 萬次郎とともに日本に帰還)

同     寅右衛門 26歳  (ハワイに移住)

 炊    係  萬次郎   14歳  (中浜出身で ただ一人アメリカ本土に渡る)

船は足摺岬の南東15km程の沖合で操業中に、突然強風が吹き荒れ 「辰巳の方に押し流され 其疾きこと箭の如し」 (漂巽紀略)とあり、

なんら成す術もなく漂流 5日目にして 南海の孤島(鳥島)に漂着する。

九死に一生を得て島に上陸した5人は、143日間の無人島での厳しい生活に耐え抜き、5月9日(1841年6月27日)

米国捕鯨船 ジョン・ハウランド号(船長ホイットフィールド)に発見され、無事に救助される。

この出会いから 少年 萬次郎(ジョン マン)の波乱万丈なドラマが始まっていくのである。

そして 後に 日米親善の橋渡しと文化の発展に大きく貢献した 萬次郎と仲間達の漂流時の群像である。

平成8年3月 土佐清水市 」

 

足摺港公園のモニュメントを散策した後、「海の駅 あしずり」内にある 「ジョン万次郎資料館」 にむかう。

資料館の入り口で入場料 400円を支払って入館する。

私は、万次郎と同じ高知県出身であることから、万次郎の物語については、若い頃から興味を持っていた。

その興味を決定的にしたのは、20余年ほど前に 津本 陽が書いた、「椿と花水木 万次郎の生涯(上、下)= 読売新聞社」に出会ったときからである。

私はこの本をむさぼるように一気に読み、大きな感動が私の心に芽生えていたことを鮮明に記憶している。

万次郎の勇気ある行動や、ホイットフィールド船長の国家間の将来を見据えた万次郎への愛・教育などが思いだされてくる。

また、日本へ帰国後に、江戸時代末期や明治維新に活躍した多くの改革派の人たちに重大な影響を及ぼしている。

万次郎がアメリカで体験したことや、アメリカの国家体制、経済のシステム・文化など、日本人では考えられないような先進的な情報を日本に伝えている。

このことが幕末の改革派の人たちに、討幕した後の新しい日本の姿や未来の方向に大きな影響を与えている。

万次郎が、こうしてもたらしたアメリカの先進的な情報は、当時の坂本竜馬や、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎、

土佐藩や薩摩藩・長州藩などの人たちに大きな影響を及ぼし、それを元に、新しい日本の姿を描いていったのではないか! と思われる。

足摺港公園の側にある 海の駅 「あしずり」 その施設内に 「ジョン万次郎資料館」 がある。

「ジョン万次郎資料館」 の玄関 手前には、日本とアメリカの国旗が掲揚され、その中央には、両国を結ぶ船のハンドル(ステアリングホイール=舵輪(だりん)が展示されている。

 

入館してすぐに

 「拓く! 土佐清水では ジョン万次郎の事績を軸に 時代の先駆け、国際交流の礎を築いた万次郎の勇気あるフロンテイア スプリットと その気性を育んだ土佐清水の おおらかな風土を紹介します。」

 と書かれている。 

ジョン万次郎資料館

資料館では、最初に挨拶として ジョン万次郎を次のように紹介している。

「ジョン万次郎資料館へようこうそ。

中濱万次郎(ジョン万次郎)は貧しい漁師の家庭に生まれましたが、類まれな精神力と行動力で自身の運命と未来を切り拓き、日本の夜明けに多大な功績を残した非常に重要な人物です。

ジョン万次郎がアメリカから持ち帰った理念・情報・知識・技術は、幕末の日本をめざめさせ、

坂本竜馬や勝海舟、山之内容堂(土佐藩主)をはじめ、身分の上下を問わず、人々に大きな影響を与えました。

私たちは、その偉業を学ぶと共に、今日の日本だからこそ、ヒューマニズムとチャレンジ精神、ネバーギブアップのジョン万スプリットを

万人の心にと願わずにはいられません。

ご来場の皆さまにおかれましては、会場内に展示されたジョン万次郎の 人生の軌跡を追いながら、

国際人第1号としてのジョン万次郎の崇高な思想と理念を体感していただきますと共に、

ジョン万次郎のふるさと 土佐清水市をまんきつしていただきたいと思います。 」

このように書かれている。 

 

※ジョンマン・スプリット

冒険(アドベンチャー)とは、夢を形に変える行動力の意である。

最大の災難を最大の味方(幸運)に転ずる生き方。

つまり どんな困難に遭っても、希望を持ち、決してひるんではいけない、

人間 前が見えてきたら、後は自分の力で泳ぎきれ、

中濱万次郎は、限りない人間愛と、不撓不屈の精神(ジョンマン・スプリット)を発揮して活躍する。 

ジョン万次郎の肖像画

ジョン万次郎は、1827年1月1日に土佐国幡多郡中浜浦谷前の漁師 悦助と志 夫婦の二男として生まれる。

貧しいながらも、両親の愛に育まれ、万次郎は利発にすくすくと育っていく。

しかし 9歳の時に父親を亡くした万次郎は、母を助け、家計を支えるため、わずか10歳から土地の老役 今津家の下働きに出ることになった。

万次郎の主な仕事は、薪割り、米つき、子守等であったが、年の暮れにもなると、一日に何俵もの米つきを任され、少年万次郎にとっては重労働であった。

そんな折に、米つきの件で、今津家の主人との間でトラブルが発生する。

そんな折に、近くの港に入港し、荷揚げをしていた高岡郡宇佐浦の漁船に出会って事情を話したところ

この漁船の 漁師見習い(かしぎ) として乗り込むことになった。

 

14歳になった万次郎は、漁師見習い(かしぎ)として、宇佐浦(高知県土佐市)の筆之丞(ハワイで伝蔵に改名)に雇われた。

宇佐浦は万次郎が生まれた中ノ浜(現土佐清水市)から80km余りも離れた漁村だが、

どちらも鰹(かつお)漁の盛んな土地柄で、漁師たちの交流は古くから行われていた。

 

万次郎たち5人が乗り込んだ小さな漁舟(伝馬船)

万次郎たちが乗った船は、4間一尺(約7.5m)、櫓を2挺立ての天馬船で、白米2斗余りの食料と、わずかな薪や水が積み込まれていただけであった。

1841年、万次郎、筆之丞、重助、五右衛門、寅右衛門の5人は、足摺岬沖で操業中に、突然の大しけ(北西風)にまきこまれて漂流する。

 

鎖国をしていた当時の日本では、幕府が漁船や商船の大きさ、形態、装備などを制限しており、外洋を航行できないような法をだしていた。

嵐に遭遇する万次郎たち5人の乗った小さな漁舟、突然の大しけ(北西風)に巻き込まれて漂流し、7日目に無人島の鳥島に漂着する。

万次郎とその仲間たち4人が乗った小さな漁船は、宇佐浦(土佐市)を出港し、

足摺岬の沖合で操業中、突然発生した暴風に流され、鳥島に流された漂流経路

 

暴風のために櫓を折り、航行困難になった舟は、足摺岬沖から漂流し、一晩で室戸沖まで流された。

さらに、強風にあおられて紀州沖を過ぎ、黒潮に乗って、そのまま成す術もなく太平洋を流されていく。

出発時に積んできた米(約38kg)で、おかゆをつくり、魚を食べて飢えをしのぎ、雨水をためて飲料水にする。

漂流してから7日目の昼ごろ、東南方向の海上に、小島を発見、全員気力を振り絞って、島に接近する。

夕方、島から200mのところ(舟付)に、いかりを下ろして停泊する。

翌朝,みんなは疲れてはいるが、一人を残して上陸して食べ物と水を求めて島内を散策する。

島の周囲は約8.5km、山の頂上には噴火口があり、溶岩の跡がいたる所でむき出しになっている。 樹木は背の低いものが少しある。

騒がしい鳴き声の鳥のアホウドリが生息している。

羽根を延ばすと2mほどの大きさである。 全部で2,000羽ほどで、巣をつくりヒナを養っている。

さらに散策を続けると近くで洞穴を見つける。 

洞穴は5人が生活するのに十分なスペースがあり、結構温かく、雨露を防ぐことができそうであった。

鳥島の地図

万次郎たちが漂着した鳥島は、八丈島を中心とする伊豆諸島南部の小島である。

鳥島は東京から南へ580kmの海上に浮かぶ活火山島で、東西2.7km、ほぼ円形、海岸線の長さ8.5km

面積4.54平方Km、島の南端のわずかな草むらが、アホウドリの生息地として知られている。

火山活動の活発な無人島である。

鳥島は、黒潮の影響で、難破船などでの漂着者の多い島であった。 近くの小笠原諸島にも漂着することが多く発生していた。

 

現在の鳥島

無人島でアホウドリの生息する鳥島 火山活動も活発な島である。 

 

鳥島に生息するアホウドリ

万次郎など鳥島への漂着者が、生命を永らえることができたのは、アホウドリのおかげである。

それは、海草、魚貝類とともに、かけがえのない栄養源となった。

後に、羽布団などのために乱獲される時期があったが、現在は特別天然記念物、国際保護鳥に指定されて保護されている。

 

万次郎たち漂着者 5人が、無人島であるこの島に漂着してから143日間もの過酷な生活を余儀なく過ごしていた。

 

ある日の朝(1841年6月27日)

東南の方角に黒い物体を見つけた。 島ではない。 雲か! じっくり見ると動いている。 船だ!

土佐周辺では見たことがないような大きな帆船であった。 筆之蒸が 「あれは異人船だ!」

船はどんどん近づいてくる。 大きな船体、帆がいくつも張ってある。

「助かるぞ!」 誰もが叫んだ。 「やっと運が俺たちにめぐってきたんだと!」 と、誰もが思った。

みんな、こおどりして喜び、両手を振り、大声を上げて、懸命に救いを求めた。 

しかし、船は、5人に気づかずに、そのまま走り去って行った。

大きな喜びが、大きな失意に変わり、がっくりと力が抜けていく。

みんなの顔には、涙が流れ、じっとしていられなくなり、住みかの洞窟に戻ると号泣していた。

万次郎は、悲しみをまぎらわすために、海辺に下りて海草や貝などを取り始めた。

そうすることで、興奮をおさえ、平常心を取り戻そうとしていた。

ところが、昼が過ぎた頃、朝見かけた船が、また、島に近づいてくる。 信じられない気持であった。

しばらく見とれていると、沖合にピタリと止まり、大きな帆船から小舟が2隻下ろされた。

2隻とも帆を張って、5~6人の大きな男たちが漕ぎながら、島へ近づいてくる。

万次郎たちは、驚いて飛び上った。

 大声で 舟が来るぞ! と 叫ぶと 全員が集まってくる。

 ぼろぼろになった着物を棒切れにくくりつけ、それを振って大きな声で叫んだ。

「おおい 助けてくれ! 助けてくれ!」

向こうも気づいた様子だった。 小舟は、帆をおらし岩場を縫うように近寄ってくる。

変わった服装の異人、顔が真っ黒の異人もいて、初めは怖いと感じ、後ずさりしたが、

異人たちは、ニコニコ笑いながらこちらに向かって手招きしている。

みんな 海に飛び込み、小舟に向って泳ぎ始めた。  近づくと相手の小舟に引き上げてくれた。

その後、万次郎に、もう一度飛び込み、島に帰るように指図してくる。

最初 何かと思ったが、島においてある荷物を持ってくるように言っているようであった。

洞穴から 荷物を持って小舟に変えると、小舟は本船に向って漕ぎだした。

本船は見上げるばかりの大帆船であった。

乗組員が見守る中、5人は船長室に案内された。 家具といい、調度品といい、見たこともないような立派なものであった。

 

 万次郎たち漂流民の全員が救助される状況については、お互いに言葉が分からず、手振り、身振りで、伝えるしかなく、定かな情報はないが、

万次郎たち5人が救助された当時の様子を 航海日誌には、

「1841年6月27日、日曜日、本日南東の微風。午後1時 島を見かけ、海ガメがいるかどうか調べるため、2隻のボートを出す。

やせ衰え、直ちに救助を要する5人を島で発見、救出するも、飢えを訴えるほか何も理解できず。 島は北緯30度30分」

鳥島での、漂流者との劇的な出会いを、このように淡々と記している 。

 

万次郎たちを救助したジョン・ハウラン号の船長をはじめ、乗組員の方々は、万次郎たち漂流民に対して好意的であった。

ただ、当初、船長は、突然舞い込んだ遭難者の扱いに困惑していた。

太平洋のど真ん中の船の中で長期にわたり、言葉のわからない5人分の食料や水の確保を心配していた。

気の荒い船乗りと、些細なことでのトラブルも心配していた。

船長は、彼らに仕事を与えた。 甲板の掃除、牛や豚の世話などの仕事だったが、みんなよく働いた。

特に、なんでも敏捷にこなす、万次郎には、船員たちも好意的だった、

たまたま通りかかり、万次郎たち5人の漂流民を無人島 鳥島で救助したアメリカの捕鯨船 ジョン・ハウランド号 

通りかかったアメリカの捕鯨船 ジョン・ハウランド号の模型、 3本マスト 建造重量377トン、船体長38.4m、船体幅8.3m 

の捕鯨専用の木造帆船で、30人~35人程度の船員が乗って捕鯨活動をする大型捕鯨船。 さらに小舟を8隻乗せている。

アメリカの捕鯨船 ジョン・ハウランド号の ホイット・フィールド船長,万次郎をアメリカに連れて帰り、高等教育を受けさした恩人 ホイットフィールド船長

1841年1月、当時14歳の万次郎が、宇佐浦から仲間4人と漁に出て遭難し、漂着した鳥島で、

143日間に及ぶ過酷な無人島生活をおくっていたところを救助したのが、海ガメの捕獲のため、

この島にやってきたのがアメリカの捕鯨船 ジョン・ハウランド号であった。

 

ジョン・ハウランド号の船長や乗組員は、万次郎たちには親切で、身振り、手振りで、話しかけてくる、実に陽気で、親しみのもてる人たちだった。

万次郎は、彼らの話すことに一生懸命に耳をかたむけ、教えられた言葉を、何度も繰り返し、声を出していた。

覚えだての言葉を使うと、みんなが喜んでくれた。

万次郎は、どんなことでも、ぐんぐん吸収した。 鳥島を後にしてから、およそ 5ケ月間で、異人の言葉を一生懸命に覚え、彼らの習慣もまねをしていた。

万次郎は、動作が機敏で いつも 「アイ・アイ・サー」と答えて、良く働く万次郎に、愛称が贈られた。

「マン・ジ・ロー」は 三つに分かれ、発音しにくいことから、

万次郎を 「マン」 にちじめて、性とし、船の名前のジョンをとって ジョン・マン」(Jhon Mung) と呼ばれるようになった。

万次郎の仕事は、甲板の掃除や船長の身の回りの世話が主な仕事であったが、志願して捕鯨の仕事も覚えていった

 

本船から何艘かの小舟に分かれて、本船からの信号旗で情報交換をしながら鯨漁をする。

捕鯨船であるジョン・ハウランド号は、万次郎たち5人を救出後も捕鯨をしながら航海を続ける。

太平洋は、足摺岬の海と違って、すべてが雄大であった。

風の強さも想像を絶するものがあり、いったん荒れると、大きな山のようで、船を呑み込み、一瞬のうちに沈める力があった。

万次郎たちは、もう駄目かと何度も思ったことがあった。

しかし、船はむっきりと起き上がり、大波を乗り切っていく。

特に、嵐のときは、船長が舵輪を握り、どんな大波でも、どんな強い風でも、鮮やかなさばきで乗り切っていく。

万次郎や筆之蒸は、文句のつけようもないすごい腕だと思った。

特に船頭である筆之蒸は、兜を脱がざるを得なかった。

このような捕鯨と航海を続けて、三か月ほどたったある日、遠くに島が見えてくる。 

日本は冬であるが、この辺りは夏のように暑かった。 ハワイ諸島 オアフ島のホノルルであった。

 

ハワイのホノルル港に寄港するまでの約半年間、万次郎は持ち前の勘と利発さで、アメリカの先進の捕鯨技術、言葉、習慣などを覚えようと一生懸命に働いた。

  知識欲が旺盛で吸収率も高かった万次郎は、言葉や習慣、捕鯨の仕事なども少しずつ覚えて、船員たちになじんでいった。

ホイットフィールド船長は、何事に関しても一生懸命になって取り組んでいく万次郎に好感をもつようになり、他の船員たちも万次郎を仲間として受け入れ、とても可愛がっていた。

この年(1841年) 11月、期待通りの漁獲を挙げたジョン・ハウランド号は、太平洋の真っただ中に浮かぶ、ハワイ ホノルル港にいかりを下ろした。

 

ジョン・ハウランド号が停泊した  オアフ島 ホノルル港のあるハワイ諸島

当時、日本は鎖国を続け、オランダ船以外は寄せ付けなかった。 

ハワイが捕鯨船の補給基地として利用され始め賑わっていた。

ホノルル港に寄港して、ホイットフィールド船長は、5人の日本人漂着者を連れて、今まで親交のあった宣教師で、医師でもあるG・P・ジャッド氏を訪ねた。

船長は、5人の遭難のいきさつを話すと、ジャッド氏は快諾してくれ、引き受け人になってくれた。

 役場の斡旋で、住居もあてがわれ、ハワイの人たちは、5人の漂流民を温かく迎えてくれた。

 

そんな折に、船長のウイリアム・H・ホイットフィールドは、5人を保護した後、一番若く、利発で、まじめに仕事をこなす万次郎の姿をよく見ていた。

この若者ならば、将来、きっとアメリカや日本のために役立つ人間になるかも知れない。

そのためには、アメリカに連れて帰り、高等教育を受けさすことが大切である。 と考えるようになったいた。

船長は、このことを親代わりで、船頭でもある筆之蒸に先に話をする。

 筆之蒸は、「みんなを無事に日本に連れて帰らねば」 と日ごろから責任を感じていた。

万次郎の将来を考えると・・・アメリカに行ってで先進技術を学んだ方が・・・などの考えもあって、

「本人さえ よければと・・」 と返答する。

その後、船長は、万次郎に直接話をする。 

万次郎も、日本と違ってアメリカの社会制度や捕鯨や航海技術などに興味が深々と湧いていたのと、自分を子供の用に可愛がってくれる船長や船の仲間たちと別れたくはなかった。

「万次郎をアメリカの自宅へ連れて帰りたい」 との船長の申し入れを 快諾したのはいうまでもなかった。

 

 ハワイ諸島 オアフ島 ホノルル港に停泊する捕鯨船群

1842年1月、捕鯨船ジョン・ハウランド号は、筆之蒸などの漂流民4人をハワイで下船さして宣教師に預けた後、

日本人の新人 ジョン万次郎 一人を加えて捕鯨の航海へと、ホノルルを出港していく。

 

ホイットフィールド船長との運命的で、奇跡的な出会いがあった万次郎の人生は、これから大きく変わっていく。

日本の鎖国時代が続くなかで、自由で先進的な体験や教育を受けることになる万次郎は

日本に帰国後、アメリカで学んだ知識や技術、情報などが活かされ、新しい日本の国造りに大きな影響を与えていくことになる。

 


ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて・・・(1)

2017-02-03 00:35:28 | 気ままな旅

 2017年1月6日(金) 今朝は高知県佐川町にある私の故郷の家で、正月休暇を過ごしている。

 お正月の2日までは、南大阪にある自宅で妻と二人で過ごし、1月3日から高知へ帰省する。

 帰省しても高知の家は、誰も住んでおらず、空き家になっているが、私たちは、年に数回帰省し、家の状況確認や墓掃除などをしたり、

地域の祭りなどに参加して、親しい人たちと、杯をかたむけ、旧交を温めたりして楽しんでいる。

この高知の家は、生活するのに必要なテレビや布団など全てが整っていることから、今はセカンドハウスのように考えて利用している。

 小さな家であるが、住み心地は良く、生活するのに必要な電化設備なども全て整っている。 

 10年程前に、内装や設備などをリニューアルして、生活に必要な機能面でも、大阪の自宅と大差はないほどで使いやすくなっている。

 高知での午前中は、愛車で15分ほどの距離にある喫茶店で、コーヒーモーニングなどで食事をしたり、食材などの買い物などをしたりしている。

 夕方近くになると、のどかな田園風景がつづく自宅近くを、妻と二人でウオーキングなどをして楽しむのが日課である。

 ウオーキングコースは、だいたいは決まっているが、どのコースを選んで行っても、幼い時に過ごした時のことが、懐かしく思い出されてくる。

 大阪の自宅でのお正月も、例年にないような好天に恵まれた快晴の天気であったが、高知の天気も好天であった。

 真っ青の秋のような空と、夜になると無数の星空が天空に広がり、大都会では味わえない宇宙の光景に、感動させられてしまうほど魅せられてしまう。

 そんな折、急に思い立ち、高知県西部の足摺岬方面に行って、江戸末期から明治時代にかけて活躍したジョン万次郎の痕跡を訪ねてみようと思いたった。

高知県西部は、高知県では幡多(はた)地方とも呼ばれ、日本最後の清流として知られている四万十川が中心部を流れ、太平洋にそそいでいる。

 今日も上天気で青い空が広がり、コートなしでも過ごせるような暖かい気温である。

午前8時40分頃に佐川町の自宅を妻と二人、マイカーで出発する。

  出発してすぐに国道494号を走行し、山越えした後、須崎市で国道56号に入り、10分ほど走行すると高知自動車道の須崎西ICがある。

 高知市ら高知県西部方面に行くには、国道56号線が幹線道路として利用されているが、高知自動車道の開通に伴い、交通の流れが大きく変化している。

 高知自動車道は、現在は窪川(四万十町)まで開通している。(この区間は無料)

 窪川から国道56号を30分ほど走行していると、風光明媚で広大な太平洋の海岸線に出てくる。 

海岸沿いには、南国特有のシュローの木などがあり、その先には、180度の角度で広がる太平洋の水平線が見えている。

さらに、手前の海岸線には、無数の小島があり、その小島に白い波が打ち寄せ、美しい景観を見せている。

 そこから、20分程走行すると、幡多地方の中心都市である四万十市(中村市)に到着する。

四万十市から土佐清水市までは、50分ほどで到着し、足摺岬は、さらに20分ほど行った所の半島の先端にある。

今日の目的であるジョン万次郎(中浜万次郎)は、現在の土佐清水市中ノ浜地区の出身である。

万次郎の生家のある中ノ浜地区は、土佐清水市の中心部から、10分ほど走行して行った所にある。

四国最南端の足摺岬

万次郎について簡単に紹介する。

 ジョン万次郎は、土佐清水市の中浜の出身で、14歳の時、船で漁に出ていて嵐に遭遇、無人島(鳥島)での生活を得てアメリカに渡る。

 万次郎を救助した船長の好意で、高度な教育を受け日本に帰国する。

 アメリカからの帰国後に万次郎の持ち帰った知識や技術、情報は、薩摩藩や土佐藩、坂本龍馬などの、新しい日本の方向を決める考え方に大きな影響を及ぼしていく。

 足摺岬には、ジョン万次郎の銅像があり、広大な太平洋を見渡しているように立てられている。

日本人初の国際人と言われる中浜万次郎(1827年-1898年)の像

この像の裏側には次のように万次郎の功績を称えている。

「中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割をはたし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。

万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれた。

14歳の時出漁中、嵐にあい遥か南方の無人島、鳥島に吹き流されたが、半年ののち運よく通りかかったアメリカの捕鯨船 John Houland号に救助された。

船長 William・ H・Whitfieldは、万次郎少年の人柄を深く愛して本国に連れ帰り、3年間正規の学校教育をさずけた。

万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第1号となった。

彼は10年に及ぶ国外生活中 John Mung と呼ばれ、英語、航海術、測量術、捕鯨術等を習得し、二度に亘って七つの海を周航した。

しかし 万次郎は既に24歳の青年になっており、祖国と そこにのこしてきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令化の日本に帰ってきた。

とき1851年2月、かの黒船にさきだつこと2年であった。

このような時機もさいわいして、彼は罪にとらわれなかったばかりか、名字帯刀を許され幕府の直参にとりたてられた。

これより中万次郎は、外国事情の講話や、アメリカ航海術書とか、公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日をおくることになった。

洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたった。

日本人による初の太平洋横断、咸臨丸の成功のかげには、彼のすぐれた航海術が大きな力となっていた。

帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれている。

明治2年には東京大学の前身である開成学校の教授に任ぜられた。

44歳のとき、すこし健康をそこねて公的な活動からしりぞき、数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。 1968.7.11 」

このように万次郎を紹介している。

万次郎の生家のある中ノ浜地区にも立ち寄ってみた。

万次郎の生家のある中ノ浜地区

 地元有志らによって復元(2010年)された万次郎の生家

茅葺屋根の木造平屋建ての生家で、生家として残る写真をもとに復元される。

生家のある中の浜地区の海寄りの防波堤には、下記写真の 「ようこそ 中浜万次郎 生誕地ヘ」 と書かれた案内板があり、

その横には、「中浜万次郎物語」 と書かれた絵図が、防波堤に掲示されている。

防波堤に掲示されている中浜万次郎の物語

14歳の時に漁船に乗る万次郎

万次郎たち5人の漁師たちが乗った舟は 足摺岬沖で嵐に遭遇し遭難する。

7日間漂流して南海の孤島・鳥島(とりしま)に漂着する。 九死に一生を得る乗船していた5名たち。

143日間の無人島で海草や海鳥を食べて生きながえる。

漂流していた鳥島の沖合に米国捕鯨船が現れ救助される。 ホイットフィールド船長の温かい保護を受ける。

アメリカの捕鯨船に救助され、万次郎たち5名の新しい生活が始まる。

万次郎たち5人が乗った捕鯨船は、一旦 ハワイ島ホノルルに寄港する。

その後、万次郎は仲間たちとホノルルで別れ、捕鯨船員として一人乗り込み太平洋へ乗り出していく。

万次郎は、何事にも積極的に取り組み、捕鯨船でも勇気をだし大活躍する働きぶりであった。

捕鯨船の仲間たちからも、勇気のある積極的な働きぶりや、まじめで人懐こい性格から、みんなに親しまれ、ジョンマンの愛称で呼ばれるようになった。

船長のホイットフィールドは、万次郎の才能や人柄を認め、教育を受けさせるため、米国(フェアーヘブン)へ万次郎を連れて行く。(他の4人はハワイに残る)

米国で10年間、近代的な教育を受けた万次郎、小中等の教育、英語、数学、航海術、造船等の高度な学問を優秀な成績で習得する。

その後、捕鯨船の一等航海士および副船長として、七つの世界の海を航海し大活躍する。

3年余りの捕鯨航海を終え、万次郎が乗船した捕鯨船は、母港 ニューベッドフォード港へ帰港する。

 

帰港し上陸した万次郎は、第二の故郷で、懐かしいフェアーヘーブンの町に帰り、ホイットフィールド船長や級友たちと5年ぶりのに再会する。

この時代の新聞に、鎖国下の日本に漂着したアメリカの船員たちが、人的に不合理な扱いを日本から受けたとの情報が、現地の新聞で報道されていた。

万次郎自身も、日本を早く開国さして、西洋のような先進的な国家建設を と思い、日本への帰国の思いが強くなっていく。

万次郎は、帰国資金を稼ぐ為に、フェアーヘブンからカリフォルニア州の金山へ砂金堀に出かける。

 砂金を掘り出して70日余りの間に、600ドルを稼ぎ山を下りる。

 

帰国資金を稼いだ万次郎は、金山からサンフランシスコ(カリフォルニア州)に戻り、

ホイットフィール船長のいるフェアーヘブンには戻らず、そのまま、漂流仲間たちのいるハワイ行きの船に乗り込んだ。

 

万次郎は、ハワイ島ホノルルで仲間たちと再会するが、漂流仲間の一人がハワイで病死していた。

 

万次郎は、長年お世話になったホイットフィールド船長への帰国の挨拶ができなったことを気にしながらも、

祖国や母への思いが忘れがたく、望郷の念が日増しに強くなっていた。

万次郎は、漂流仲間たち4人で話し合った結果、一人はハワイで結婚、家族も出来たことから日本への帰国を望まず、3人で帰国することになった。

3人はハワイから船に乗り込み、数十日間経過した後、意を決して鎖国下の日本の琉球(沖縄)に上陸する。

 

上陸した万次郎たちを待っていたのは、罪人扱いするようなひどい取り調べてあった。

その後、沖縄から薩摩に護送されるが、薩摩の殿様・島津斉彬(なりあきら)公は、

万次郎の話すアメリカでの事情や技術・文化などに高い興味を持ち、万次郎を優遇する。

さらに薩摩では、斉彬公の命により、腕の良い船大工が急きょ集められ、万次郎が設計・指導した西洋式帆船を試作することになった。

出来上がった西洋式帆船が、薩摩の錦江湾を見事に帆走する姿を眺めて、斉彬公は拍手喝采をして喜ばれていた。

 

その後、万次郎たちは、薩摩から長崎に送られ、取り調べを受けるが、琉球と同じく罪人のような扱いであった。

やがて、土佐藩主 山之内豊重(とよしげ)(後の容堂)の命により、

身柄引き受けに来た土佐の役人と共に、長崎を発し、郷里の土佐を目指す。

 

土佐藩主豊重公も、島津斉彬公と同じく進歩的な人物で、万次郎の持つ海外事情を藩士たちに習得させるように努めさした。

なかでも、河田小龍は、万次郎の十余年間の体験談や海外事情を筆記したり、画にしたりして

それを、「漂巽紀畧=ひょうそんきりやく」の書にまとめる。

この書が、海外事情紹介書として、維新の多くの人々に読まれ、伝わったいく。

サムライ国家から、新しい日本の姿の方向を具体的に現わし、維新に活躍した、坂本龍馬などの人たちに大きな影響を与えていく。

高知城下で2ケ月半に及ぶ取り締まりも全て終わり、

待ちに待った3人は、心を膨らまし、それぞれの故郷に帰って家族と感激の対面をする時が訪れてくる。

 

11年10ケ月ぶりに目にする故郷の景色に、万次郎は懐かしさに心が奮い立っていた。

中ノ浜に帰り、最初に庄屋さんに挨拶した万次郎は、自宅に帰って行く。

母親は、最初、想像を絶するように逞しく、立派になった万次郎を見て、

自分の倅であることが信じられないような態度であった。

母親たちは、万次郎が14歳の時、漁に出て嵐に遭遇し、消息不明になったことから死んだと思い、お墓までつくっていた。

その万次郎が生きて帰ってくる! と庄屋さんから聞いた時の驚きや、うれしさは想像を絶するものがあった。

「本当に、万次郎ですか! 私の倅の万次郎ですか!」 と幾度も問い返した。

 

11年10ケ月ぶりの感激の対面、遭難して万次郎の墓まで作られていた愛息子の立派な姿に母は、涙、涙で言葉が出なかった。

 

中ノ浜に帰った3日後、高知城から、再び呼び出し命令が届き、教授に任命され、帯刀が許され、侍としてのスタートをきる。

万次郎の講義の聴講生には、大政奉還で活躍した後藤象二郎(14歳)や、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎(19歳)たちがいた。

さらに、聴講生の中には、日本を動かすことになる者たちを輩出していく。

坂本竜馬や維新で活躍した多くの若者たちの目を海外に向けさしたのも、万次郎の海外事情の講義からであった。

万次郎の活きた時代に、海外事情などの講義で大きな影響を与えた人たち。

寛永6年(1853年)6月3日 ペリー提督率いるアメリカ艦隊が、4隻の黒船で浦賀に来航する。

江戸幕府から土佐藩に対して、万次郎の江戸への呼び出しがあった。

万次郎は、早速、江戸に赴き、江戸幕府閣僚と対面してアメリカ事情を説明する。

 

1854年、万次郎(27歳)周りの人たちの勧めもあって、剣術師範の娘 お鉄(17歳)と結婚する。

 

1860年 咸臨丸で日米修好通商条約のため、通訳としてアメリカに行く。

1869年(明治2年)東京大学の前身である開成学校で教授として英語を教える。

1870年(明治3年)新政府から晋仏戦争(プロシャを中心とするドイツ諸邦とフランスの戦い)の視察団の通訳として参加する。 

この欧州出張は、アメリカ経由でニュ-ヨークで5日間滞在してイギリスへ向かう予定である。

万次郎は、ニューヨークに着くと、すぐに休暇をもらって、目と鼻の先にあるフェアーヘブンへ汽車で向かった。

フェアーヘブンは、万次郎がアメリカに来て住んでいた街であり、懐かしさがこみあげてくる。

万次郎は、ホイットフィールド船長宅へそのまま直行する。

懐かしい船長宅に着くと 玄関で 「ジョンマンです。 ジョンマンですよ。 船長」

ドアーが開き、突然、自宅に訪問してきた万次郎の姿を見た船長は、まるで夢でも見ているように目をまるくしていた。

ホイットフィールド船長は、実子のように可愛がっていた万次郎のことが気がかりで、もう一度会いたいと! 切望していた。

船長は遠い日本にいるはずの万次郎が、目の前に立っている姿に、最初、夢でも見ているのか! と思っていた。 

しかし 夢ではない。 立派な大人になって日本で活躍している本物の万次郎が目の前に立っていた。

突然、船長宅を訪れるて、永年お世話になったホイットフィールド夫妻と感激の対面をする万次郎

 

ホイットフィールド船長は、夢にまで見て会いたかった! 万次郎だとわかると、万次郎を抱きしめ、そして、みるみるうちに感激の大粒の涙が溢れてくる。

万次郎も感激のあまり、しばらく言葉にならなかった。

21年ぶりの涙の、感激の再会であった。 夫人の頬にも感激の涙が流れていた。

ホットフィールド船長は、自宅にいる娘と3人の息子たちを万次郎に紹介する。

子供たちも万次郎のことを、船長から聞いており、よく知っていた。 

大喜びで万次郎を迎え、祝福する。

この時、ホットフィールド船長は65歳、万次郎は43歳になっていた。

ジョンマンが帰ってきたことは、直ぐに知れ渡り、翌朝、船長の自宅前は大騒ぎになっていた。

一緒に学んだクラスメイトをはじめ、友人知人たちがどっと押し寄せてきていた。

「ジョンマンだよ。 あのジョンマンが帰ってきたんだ!」

ジョンマンが帰ってきたニュースは、たちまち、フェアーへ―ブンの町中を駆けめぐっていた。

万次郎は、フェアーヘブンにいる短い間、みんなと一緒に思い出に花を咲かしたり、街を散策したりして懐かしく過ごした。

万次郎は、第2の故郷を訪れ、ホイットフィールド船長家族や、フェアーヘブンの人たちの心の温かさに接して、本当によかったと思った。

 

ホイットフィールド船長と別れを告げて、ニューヨークに戻った翌日の地元紙には、万次郎の訪問を好意的に報じていた。

 

やがて、ニューヨーク滞在を終えた日本の視察団は、イギリスへと向かった。

明治4年 廃藩置県によって日本は新しい中央集権国家に生まれ変わっていく。

大学で先生となったが老後は役職につかず静かに暮らす。

そして 明治31年11月 71歳で激動の人生の生涯を終える。

中浜万次郎の出番と活躍

中浜万次郎の出番と活躍

ジョン万次郎が生きた時代

ジョン万次郎が生きた時代

ジョン万次郎が生きた時代

 今回は、万次郎の生家のある中ノ浜地区の堤防に掲示されていた 「万次郎物語」 を中心に紹介さしていただいた。

生家や足摺岬などを見学した後、私たちは、同じ土佐清水市内にある万次郎の資料館を目指して行った。

しかし、資料館がどこにあるか場所が分からず、近くにいた女子高校生に訪ねると、

ここから、すぐ先にあるとのことで、マイカーを走行して行くと、海に面した公園があり、その先に資料館が見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2017年(平成29年)謹 賀 新 年・・・・・気ままな旅(希間々兼行)

2017-01-02 21:41:23 | 思い出

2017年 (平成29年)

謹  賀  新  年

  

明けましておめでとうございます。

 

昨年はgooブログ 気ままな旅 へお立ちより頂きありがとうございます。

昨年も地球規模で大きな自然災害や、内戦、テロなどが世界各地で、発生するなど痛ましい事件が多く発生した年でもありました。

その一方で明るい出来事もありました。

リオ(ブラジル)オリンピック陸上男子400mリレー、水泳、卓球、バトミントンなどで、

日本選手が大活躍、私たちを感動さししてくれました。

毎年のように受賞するノーベル賞などでも明るいニュースもありました。

本年が自然災害や紛争、テロなどが少なく、

世界の人々にとって平和で希望に満ちた、明るい年であります様にお祈り致します。

 

私たちは人間は、社会を形成になければ個人では活きられず、

社会では、社会の必要とする、食料、衣類、住居などの仕事を必ず誰かがしなけば、人間は生きていけません。

本来、社会では人々は、平等であり、公平が原則です。

しかし、努力する人、怠ける人、すべてが同じではありませんし、社会では法も必要です。

また、地球では、人間だけのものではなく、

動物も、自然も、お互いに共存できる環境が必要です。

私たちは、こうした自然摂理をよく理解し

、自然との共存共栄を図りながら、豊かな地球環境を築いていく努力が求められています。

この一念がご多幸の一年であります様にお祈り致します。

また、お時間にゆとりのある時などに gooブログ 「気ままな旅」に

お立ちより頂ければ幸いに存じます。

平成29年(2017年)             元 旦

 

希 間 々 兼 行   

 


満開のあじさいが咲き誇る大阪蜻蛉(とんぼ)池公園・・・岸和田市

2016-06-23 19:17:57 | 

 平成28年6月18日(土) 晴れ 私たちは、南大阪の自宅から30分ほどの距離にある蜻蛉(とんぼ)池公園に妻と二人で出掛けた。

 今回の目的は、蜻蛉池公園内にあるアジサイの花である。

かつて私は、この公園のある岸和田市と隣接する和泉市に住んでいた。

その折に、妻と二人でサイクリング用の自転車で、この蜻蛉池公園を何度も訪れている。

しかし、この公園がアジサイの名所になっていることは、全く知らず、ネットで初めて知った。

どんなアジサイなのか! 胸がワクワクするような思いで、この公園を訪れる。

近くの駐車場に車を止め,蜻蛉池公園内に入って行く。

公園内に入って行くと、幾つかのテニスコートから、大会が開かれているのか、時々大きな歓声が聞こえてくる。

さらに進んで行くと、左に大池が見えてくる。 正面には小さな橋があり、

その向こう側には、柱のような白い角柱が数本立てられ、それぞれに、根元からつるバラの緑の葉が巻き、よく整備された庭が見えてくる。

バラ園では、シーズンを過ぎたバラが、モニュメントと共に所々でさびしく咲いている。

 

ここで、蜻蛉池公園の概略について触れておきたい。 

蜻蛉池公園は、大阪府岸和田市の緩やかな丘陵地の、変化に富んだ地形を、最大に活用した大阪府営の自然公園である。

広大な緑豊かな公園内は、大人から子供までが楽しめる、数々のゾーンが造られている。

「水と緑の音楽広場」の芝生の前には大池があり、白鳥やカモ、アヒルなどがのんびりと泳いでいる。

春と秋のシーズンには2500本のバラの花が咲き乱れ、周辺のギリシャ建築を思い浮かぶような大回廊や、

数々のモニュメントと共に多くの人達を楽しませてくれる。

6月には、40種の10,000株の色とりどりの花を咲かせるアジサイ園がある。

小さな家族連れの人たちが楽しめる遊具も、たくさんあり、充実している。

子供たちを楽しませる長いすべり台など、45種類の遊具があるフィールドアスレチックスや、

お弁当などを広げたり、バトミントンのような簡単なスポーツが楽しめる広場なども整備されている。

その他にも、フジ棚や花ミズキなど季節の花を観賞できる「花木園」もある。

スポーツ施設も充実しており、16面のテニスコート、野球場、球技広場、スポーツハウスなどがあり、

老若男女や、車いすを利用する方々など、全ての方々が楽しめるように造られた公園である。

蜻蛉池公園案内図

トンボ池公園の周辺は、太古の昔から、大きな河川がなく、農業用水が不足するために、多くのため池が造られていた。

ため池は、稲作の栽培などに農水として利用され、多くの人々の生活を支えていた。

また、ため池は、人間の生活だけではなく、トンボをはじめとする水辺の生き物たちにとっても、大切な命を育む所でもあった。

そんな多くのため池がある中で、周辺の池は「たんぼ池」や、「トンボ池」と呼ばれ、

江戸時代にゴロの良い「トンボ池」に改名されたのが、この公園の名前の由来になっている。

 

開花時期のずれたポケット広場のバラ、水辺にはガセホという施設がある。この広場は、1994年(平成6年)に開設された。

バラは春と秋のシーズンには、約200種・2300株のバラが楽しめる。 

バラの広場から大池を望んだ施設や、広場周辺には、たくさんの彫刻が施されたモニュメントがあり、ヨーロッパの雰囲気が醸し出されている。 

この場所では、シーズンを過ぎたバラが、大池を臨みながら静かに咲いている。

バラが植樹されている、ポケット広場を過ぎると、ギリシャ建築を思わせる回廊風のシエルターが、

広場に敷き詰められた芝生と共に、美しい姿を見せている。

この先には大池があり、水辺にはステージが造られ、緑の芝生広場と共に、調和のとれた、安らぎの雰囲気を醸し出している。

古代のギリシャ建築を思い浮かべそうな回廊風のステージ、と緑の広場が美しい「水と緑と音楽広場」

 

回廊の中に造られた石のベンチには、若い二人が思い思いに過ごしているが、

ギリシャ建築が思い浮かぶアーチ形の回廊から、水辺にあるステージや大池方向の眺望は抜群である。

私たちは、野原広場を通り、アジサイ園方面に進んで行く。

 

野原の広場からのアジサイ園と左上にある展望台、私たちはこの広場を通りアジサイ園に向かって行く。

約40種10,000株の色とりどりのアジサイの花が咲く「あじさい園」の入口

 

アジサイ(紫陽花)は6月から7月にかけて開花し、白、青、紫または赤色の萼(がく)が大きく発達した装飾花をもつ花である。

原種は日本に自生するガクアジサイである。 

日本、ヨーロッパ、アメリカなどで観賞用として広く栽培され、多くの品種が作りだされている。

ヨーロッパで品種改良されたものは、セイヨウアジサイと呼ばれている。

アジサイの歴史は古く、万葉集などでもうたわれ、花の色がよく変わることから 「七変化」 「八仙花」 と呼ばれていた。

アジサイの群生

アジサイは土壌のPH(酸性度)によって花の色が変わる。

一般的に 「酸性土壌なら青」 「アルカリ性土壌なら赤」 の花が咲くといわれている。

 

入口付近にあり、アジサイに囲まれたあずま屋で休憩する人達

 

入口の近辺には、以下のような看板が掲示されている。

(あじさい園魅力 UP プロジェクト)

綺麗に咲いていたのに何で工事したの? とのお声が聞かれます。

入り口付近のアジサイは、木陰が全く無く、数日の日照りや、一度の寒風で全く花が咲かなくなる場所もあり、過去には、花がほとんど咲かない年もありました。

そこで、今回の改修では、近年の急激な天候の変化にも耐えうるよう、木陰をつくる樹木をたくさん植え、アジサイの生育に適した環境を創りました。

小さな苗が以前の大きな株に育つまでは数年かかりますが、もう一度満開の花が咲き誇るまで温かい目で見守ってください。

このように書かれている。

あずま屋からのアジサイ、この近辺が「アジサイ園魅力 UPpロジエクトの区域」

入口付近の近くには、アジサイの花々に囲まれた東屋があり、ベンチに座りながら、ゆったりとした気分でアジサイが鑑賞できるように造られている。

東屋では、何人かの方々が、アジサイを鑑賞しながら、談笑している光景が見られた。

若いアジサイ「アジサイ園魅力 UPプロジエクトの区域」

あじさい園を訪れた方々の中で、多くの女性のカメラマンが見られた。

カメラマンと云えば、比較的年配の方が思い浮かぶが、最近は若い女性の方が多くなってきているように感じる。

園内の色とりどりのアジサイの花が、訪れた人々をひきつけるのか! 

こまめに構図を描き、シャッタを切っている姿が至る所で見られた。

若い色とりどりのアジサイ「アジサイ園魅力 UPpロジエクトの区域」

赤いアジサイの群生(西洋アジサイ)

赤い可憐な花をつけたアジサイ

紅白のアジサイ(白=アナベル)

赤いアジサイ(西洋アジサイ=コエルレア)

色とりどりのアジサイの花

変わった小ぶりのガクアジサイの花

大木の枝間に寄りそうように咲く、色とりどりの可憐なアジサイの花

ガクアジサイは日本が原種である。可憐に咲くガクアジサイ(隅田の花火)

変わった花弁をつけるガクアジサイ(城ケ崎)

あじさい園の中央には、石組みされた川が曲線を描くながら流れ、アジサイ園の最奥部まで続くように造られ、アジサイの花とうまく調和している。

石組みされ、曲線を描きながらアジサイ園を流れる川には、日本庭園を思わせる大きな石や石橋が架けられ、東屋と共に庭園情緒を一層高めいる。

川の畔に造られたあずま屋からのアジサイ、小高い丘の頂上部までアジサイの花が咲き、そのスケールに驚かされる。

あじさいの花が咲く頂上部まで、あじさいの花を縫うように遊歩道が造られ、それぞれの角度や、手に取るように身近な場所からアジサイを鑑賞できる。

上部から流れ落ちてくる水が溜まると、竹筒が反転し定期的に「カコン」と音を発生し、庭園の情緒を高めてくれる。

これは、東屋方向から小高い丘一面に咲いているアジサイの花を、かき分けるように遊歩道の側に造られた添水(そうず)の装置である。

添水(僧都、そうず)は、水力により自動的に音響を発生する装置で、竹筒の中央に支点を作り、上向きになった竹筒に水がたまると、

その重みで竹筒が頭を下げ、竹筒の水がこぼれる。 竹筒が空になると、その反動で竹筒が元に戻り、下に置かれた石をいきよいよくたたき、音響を発生させる仕組みである。

日本庭園やお寺などで良く見かける。「ししおどし」ともいわれている。

大木の森林委囲まれ、小高い丘一面に咲くアジサイの花

あじさいの花が咲く、小高い丘の頂上部から東屋方面のアジサイ園の眺望

小高い丘の頂上部から東屋方面のアジサイ園の眺望

小高い丘の部分からのアジサイ園の眺望、川の側では若い女性たちが戯れている。

あじさいの鑑賞を終えた後、私たちはあじさい園からの階段を少し登り、駐車場方面に帰って行く。

帰路についた道路の脇には、子供たちが喜びそうな遊具が見えてくる。 中でも滑り台には、その長さに驚かされる。

秋になると、池周辺のもみじが真っ赤に染まり、美しい風景を醸し出してくる「かえで池」

 

さらに道路を進んで行くと、左下には池があり、そのそばには、展望台が造られている。 これが、美しい紅葉で知られている「かえで池」である。

このように 蜻蛉池公園のアジサイを鑑賞した跡、新鮮な地元野菜の販売で有名な「愛彩ランド」に立ち寄って家路につく。

 

アジサイ園の鑑賞を終えたあとも、見事なアジサイが次から次へと頭に浮かんでくる。

私は10数年前に、弁当を持参しながら、何度も自転車で蜻蛉池を訪れていたが、このようなアジサイ園の記憶はない。

蜻蛉池公園のバラや、大池を臨む大回廊、広場、遊具などは鮮明に記憶に残っているがアジサイに関してはない。

今日、アジサイ園を訪れて、そのスケールの大きさや、日本庭園の趣向を生かして、アジサイを植樹していることが印象的で、

多くの種類のあじさいが、数多く色とりどりに咲いている光景は圧巻である。

 

入口近くには、多くのアジサイが植樹され「魅力UPプロジエクト」が進行中であるが、

個々のアジサイは、まだ若く小さく、数年後には、立派なアジサイに育ち、アジサイ園そのものをグレードアップすると思われる。

その時の、あじさい園の光景を想像し、楽しみにしながら家路について行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


清流日本一・仁淀ブルーの安居渓谷(仁淀川=高知)

2016-06-10 14:12:44 | 思い出

 2016年5月5日(木)晴  かつてNHKで仁淀ブルーとして報道された安居(やすい)渓谷(県立自然公園)を目指して妻と二人で出かけて行く。

私たちは、現在、大阪に住んでいて、年に2~3回、先祖の墓参や掃除のために、実家のある高知県佐川町に帰省している。

実家は現在、空き家であるが、今回は半年ぶりの帰省である。

ゴールデンウイーク中であることから滞在期間もながく5泊6日を予定している。

実家のすぐ下には仁淀川の支流である柳瀬川が流れ、子供の時から魚とりや水泳など、大変思い出深く、親しみのある川である。

地元では柳瀬川とは呼ばれず尾川と呼ばれ、川名が地名にもなっている。

柳瀬川は、佐川町を流れ、越知町で本流の仁淀川と合流する。 その後、伊野町、土佐市、高知市へと流れ、土佐湾(太平洋)に注いでいる。

仁淀川(によどがわ)は、国土交通省の発表によると、全国一級河川の水質ランキングで、平成24年、25年、26年、27年に第1位を獲得している。

私たちの行こうとしている安居渓谷は仁淀川の支流である安居川にある。

仁淀川の本流は、その源を西日本最高峰で、愛媛県にある石鎚山(標高1982m)におき、愛媛県から高知県の7市町村を経由して土佐湾(太平洋)へと注いでいる。

流路延長124km、流域面積1560平方kmの清流で、四万十川(しまんとがわ=全長196Km)、吉野川(よしのがわ=全長194Km)と並ぶ四国三大河川の一つである。

仁淀川源流の石鎚山(標高=1982m・2011年7月撮影)愛媛県久万高原町の面河川(おもごがわ)から仁淀川に流れ太平洋に注ぐ。

仁淀川山系の瓶ケ森(かめがもり=標高1897m)UFOライン(2013年8月撮影)

石鎚山を背景に伸びる全長27kmの町道、標高1,300m~1,700mを走るルートで、仁淀川山系の山々が抜群の眺望で臨める。

 

私の実家のある佐川町を流れる柳瀬川沿いの県道を5~6分程走行すると国道33号に出る。

国道33号は高知と松山を結ぶ主要国道である。 

この国道を松山方面に走行して行くと、すぐにトンネルがあり、越知町中心部に下って行く。

越知町は高知県の中西部に位置する自然豊かな町で、町の中心には、仁淀川、坂折川、柳瀬川の3河川が合流する場所にある。

越知町の中心部には、商店や住宅が立ち並んで賑わっている。

越智町は、コスモスの名所でもあり、近くには植物博士で佐川町出身の牧野富太郎が研究のためによく訪れていた 「横倉山県立自然公園」 が広がっている。

また、この地には、源平合戦の後、安徳天皇が逃れてきたという伝説も残っている。

美しい山間部の谷間を流れる仁淀川に架かる浅尾沈下橋(越知町=2010年8月撮影) 夏場には多くのアユ釣りの人達で賑わう。

沈下橋は、大雨などによる増水時に橋が流されないように、橋の両側に欄干を造らない構造になっている橋で、橋そのものが沈むことを前提として造られている。

 

私たちは、越知町を過ぎると、仁淀川沿いに造られている国道33号を松山方面に走行して行く。 信号機もなく、風光明美で快適なドライブを楽しめる道路である。

 

 安居渓谷は、高知と松山を結ぶ国道33号線、旧仁淀川町役場近くの交差点を、右方向の国道439号線を池川町方面に走行して行く。

走行する車窓からは、山の上空に山林や斜面を利用した茶畑などが広がって見えてくる。

南国土佐のお茶どころとして知られる仁淀川町  山の斜面を利用した茶畑が広がっている。

さらによく整備された道路を走行すると、山岳風景の中に開かれた街並みが見えてくる。 旧池川町の中心部である。

 

旧池川町の風景 道路脇には、「池川ふれあい公園キャンプ場」の施設の屋根が見え、安居渓谷のある安居川が流れている。

国道438号線と平行して流れる安居川と、川沿いにある 「池川ふれあい公園キャンプ場」、 夏場には多くの人たちで賑わう。

調理施設やトイレなども完備されており、夏には大勢の人達で賑わいをみせるようである。

さらに、このキャンプ場脇の道路(国道439号)を5分ほど走行すると、下記の安居渓谷の案内図があり、左方向に行くと安居渓谷である。

仁淀川の支流、安居川にある安居渓谷案内図

私たちは、国道439号線から安居川沿いを走る県道382号線の狭い道路を北上して行く。

そうすると左側の眼下に安居川千仞峡(せんじんきょう)と呼ばれる、安居渓谷屈指の切り立った絶壁が続き美しい渓谷美を見せている。

ただ、残念なのは、木の枝が伸び、少し見づらいことである。 時々車から降りて絶壁の眼下を流れる渓谷の眺望を楽しむ。

川幅の狭い安居渓谷の絶壁を清流が流れ、渓谷の美しさを見せている。

安居渓谷の絶壁の下には、段差の凹凸や、青みがかった、色彩豊かな岩場を真っ白い泡をたてながら流れ、際立った美しさを見せている。

 渓谷の眺望を楽しみながら少しずつ車を進めて行くと瀑布の轟音が耳に入ってくる。

 その個所には小さな駐車があり、その真向かいには広沢谷という支流があり、二段の滝となって安居渓谷の谷間に流れ込んでいる。

 

支流の広沢谷から安居渓谷に2段になって流下する見返りの滝

見返りの滝名には、「立ち去る時に思わず振り向いて、もう一度見たくなる」 ということから名付けられたという由来がある。

広沢谷から2段になって流下する 見返りの滝、この一帯は、断崖絶壁が続き美しい渓谷美を見せる「千仞峡」と呼ばれている。

美しい奇岩の谷間を透き通った清水が美しい渓谷美を醸し出している。

安居渓谷を流れる仁淀川の支流、安居渓谷は、流れる川の透明度の高い清流で、青みがかって見えることから「仁淀ブルー」とも

呼ばれ、NHKをはじめTV番組等で紹介されている。

色彩豊かな岩間を真っ白な泡を立てながら流れる安居渓谷の清流

美しい渓谷を流れる清流を楽しみながらゆっくりと走行していると、駐車場のある 「安居渓谷 宝来荘」に到着する。

目の前には、宝来荘の名前の由来になった宝来山が聳えたっている。

安居渓谷沿いに聳え立つ宝来山(標高=1051m)

渓谷の谷間に造られ、しっとりとした落ち着いた雰囲気が漂う「安居渓谷 宝来山荘」宿泊設備やバンガローなども整っている。

宝来山荘は地元の豊かな自然環境から、素朴な山の幸や、川の幸が味わえる人気のスポットになっているようである。

私たちは、愛車を駐車場にとめると、すぐにカメラを持って妻と二人で渓谷の散策に出かける。

安居渓谷の美しい清流の側に建つ宝来山荘、宿泊棟のほかにファミリーやグループに人気のあるバンガローの施設もある。

食事や宿泊もできる宝来荘の前を通り過ぎると、美しい渓谷をまたぐ紅い吊り橋の逢菜橋が架けられている。

新緑につつまれ、美しい山容を見せる宝来山と、渓谷を流れる透き通った清流が、岩場と緑と一体となって見事な風景を醸し出している。

渓谷沿いの遊歩道近くに咲いていたアザミの花, 何とも言えない紫色の美しさが伝わってくる。

紅い吊り橋の逢菜橋から上流側にある滝を撮影する。

私たちは安居川に沿った道を渓谷美を楽しみながら上って行くと、乙女河原という美しい河原に出てくる。

日本一の清流といわれる仁淀川、その支流である安居川の上流域にあたる乙女河原、新緑の山々と共に高い透明度を誇っている。

透明度の高い清流に、太陽の光や空の青さが入り混じって神秘的な色合いを見せる、これが仁淀ブルーと名付けられた。

仁淀ブルーは、時期的に8月中旬頃から1月中旬頃まで見られるようである。

従って、私が撮影したのは、今年の5月上旬である為に、仁淀ブルーの色とは時期的にずれている。

仁淀ブルーが良く見られる場所として、「にこ淵」 「安居渓谷」 「中津渓谷」が有名である(いづれも高知県)

仁淀川が 「仁淀ブルー」として、知られるようになったきっかけは2012年3月25日に放映されたNHKスペシャル 「仁淀川 青の神秘」からである。

2015年10月9日 日本TV系 「沸騰ワード10」 では、日本一の清流が生み出す奇跡の光景「仁淀ブルー」が紹介されている。

仁淀川の原流域には広大な原生林があって、豊富な雨と共に原生林から流れ出る川は、当然、透明度が高くなってくる。

安居渓谷の美しさは、清流のほかに、青みを帯びた美しい石がたくさんあり、これらが緑の森と共に、渓谷の美しさを引き立てている。

安居渓谷は、山と山に挟まれ谷間の絶壁を育みながら渓谷を形成しているが、乙女河原は渓谷内唯一の広い河原である。

この乙女河原は、訪れた人達の憩いの場として古くから親しまれている。

写真上部の橋を渡ると飛龍の滝へと続く遊歩道の入口になっていて、二つの川が合流している場所でもある。

河原には青い美しい色の石が、ころがっており、清流と共にその美しさを見せている。

川の中央では、母と娘が岩にすわりながら、渓谷を流れる清流を見たり、川水に触れたりしながら一時の余暇を楽しんでいる。

川底には色々な石や岩があり、清流とともに美しさを見せている乙女河原の流れ。

乙女河原からは小さな沈下橋が架けられている場所があり、その場所から支流に沿って10分程歩くと飛龍の滝がある。

透き通った清流が、小さな段差のある滝に流れ落ち、渓谷の情緒を一層高め、私たちを楽しませてくれる。

安居渓谷の支流にあるこの道は、原生林のような森におおわれ、朽ち果てた枯れ木が、横たわったり、枝間にあったりしている。

そういった状況が、まるで、もののけ姫のような雰囲気を漂よわしている。

こうした雰囲気のある川と森に囲まれた遊歩道を進んで行くと、目の前に乙女の像が見え、私たちを出迎えてくれる。

私たちを出迎えてくれる乙女像

乙女象の裏側には、 「乙女の象ー泉ーは山紫水明の地の象徴として、多くの方々の御好意により建立する」 と書かれている。

つまり、「この地は自然の風景が清浄で美しく、谷間に射す日の光の中で、山は紫にかすみ、川は澄みきった美しい所である」 の意である。

山の谷間にある渓谷には、大木が生い茂り、その緑の枝間が太陽光線を遮っているが、

青い色彩の岩や、石・清流が見事に調和し、美しい風景を生み出している。

奇岩の谷間を清流が流れ落ち、周辺の風景になじんでいる。 奥行きの木立のある風景から、もののけ姫の世界を感じさしてくれる。

緑と茶色い枝の幹、でこぼことした岩間から、幾筋かに分かれて滝のように流下している、美しい光景を見せている。

その先からは、安居渓谷のシンボル的な存在である 「飛龍の滝」 が見えてくる。

 落差25mの2段の滝、龍が身体をくねらせ飛び立つような姿から 「飛龍の滝」 との名前がつけられている。

滝の流下する水流が風を伴い、しぶきとなって少し離れていても私たちに向かってやってくる。

滝流独特の冷気が、滝つぼ周辺に漂い、この冷気がマイナスイオンを発生させ、心地よさを感じさしてくれる。

滝はひとつの流入口の岩場から、真っ白な泡を立てながら豪快に流下し、下の段差の部分にあたり、左右に分かれて滝壺に落ちてくる。

滝壺の右側には、小さな虹が発生している。

その前では、犬を連れた女性が、90度に右手を上に折り曲げて、写真のポーズをつくっている。

豊富な水量をもった滝が、途中の岩場にあたり、豪快に流下している光景は、まさに圧巻である。

清らかな清流が真っ白な泡を立てながら流下し、下の段から二つに分かれて、ひとつの滝壺に流下している飛龍の滝。

滝の側は、マイナスイオンが豊富に発生し、訪れた人達を心地よい環境の中においてくれる。

私たちを、暫くの間、豪快に流れる滝の姿を楽しんだ後、元来た道を駐車場の方に帰って行く。

日本一の清流として名高い仁淀川。

その支流にあたる安居渓谷県立自然公園の水や、渓谷の美しさは、私の想像以上の美しさであった。

この時期は、仁淀ブルーといわれる水色は、時期が違うようで見ることはできないが、

秋の紅葉した渓谷や、青い空などから想像すると目に浮かんできそうである。

また、違う季節に訪れてみようと、思いながら帰路について行く。