枡野俊明著【「ゆるす」という禅の生き方】(水王舎)に次のような文章があった。
*****以下引用*****
「独座大雄峰」という禅語があります。百丈慧海禅師の言葉とされるものですが、「いまこの大自然の中で、自分がここにたった独り坐っていることが、いちばんありがたいのだ」という意味です。孤独の中にありがたさを感じ、幸福感を見出すのが、禅の世界観なのです。
事実、禅僧が理想とする生き方は、いわゆる隠遁生活です。独り自然と一体になって、鳥のさえずりを聞き、川のせせらぎに耳を傾け、風のにおいを感じながら坐禅を組む。また一方では田畑で鋤鍬をふるい、ときに書物をひもとく。そんな暮らしの中に、生きる喜びも楽しさも、充実感も満足感も、一切合切があるとするのが禅的な考え方だといっていいと思います。もちろん、あえて人との繫がりを断つということではありませんが、人が生きるということの根底に流れているのは「孤独感」なのです。
出家後、漂泊の旅を続けながらすぐれた和歌を詠んだ西行さんも、孤独に寄り添って生きた人でした。その晩年の歌に次のようなものがあります。
「ねがわくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」
できることならば、(旧暦)二月の満月の光の中、花の下で死にたいものだ、という意味ですが、歌の調べの背後には、独り自然の中で静かに死を迎え、やがては土に還っていくのだという孤独への愛着、あるいは孤独者の矜持のようなものが見え隠れしていないでしょうか。
孤独であることを怖れたり、孤独でいる自分を責めたりする必要などはありません。独りぼっちをじっくりかみしめ、ゆるりと楽しんだらいいのです。
*****引用終り*****
坐禅こそ組まないが、私の生活も随分禅的だと思う。母が死んで以来独り暮らしだから、14年も孤独な生活が続いていることになる。母は平成14年に亡くなった。父ともそれ以来、ほぼ離れ離れに暮らしていたが、その父も4年前に亡くなった。
日本人の生活の根底には禅があるといわれるが、私にも日本人の血が流れているということだろう。孤独にあっても、不思議と寂しさを感じない。ありがたさや幸福感を感じるのも事実である。孤独も慣れてくると、相手がいないので、知らず知らず、無心というか無の境地に陥り、自分の存在さえ忘れて生活していることに気づくことも多くなる。自分がいないのだから寂しさを感じようがない。
まさしく、私の生活は隠遁生活だ。朝、朝食を済ませると、自転車で川崎方面の南河原公園に行く。途中、鳥のさえずりを聞き、鶴見川のせせらぎに耳を傾け、風のにおいを感じながら一行三昧。コンビニで菓子パンと緑茶を買い、路上に坐って、喫茶喫飯。鋤鍬をふるいはしないが、自宅を掃除し、書物をひもとく。たしかに、こんな暮らしの中には、生きる喜びも楽しさも、充実感も満足感も、一切合切がある。
私には孤独者の矜持を持つというよりも、己を忘れて生きている、という感覚が強いので、プライドさえもない。
将来は何が起こるかは誰にもわからない。わからないものは分からないとして、不安を感じず、その日その日を、精一杯生きていきたいものだ。人の人生は次の歌によくでている。
みわたせば 花ももみじも なかりけり 浦の苫やの 秋の夕暮れ (藤原定家)
荒井公康
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