
過ぎ去るを追うことなかれ
未だ来たらざるものを念(おも)うことなかれ
過去そはすでに捨てられたり
未来そは 未だ至らざるなり
(中部経典)
釈尊の晩年には 一抹の寂寥(せきりょう)がただよっていたと
多くの仏教学者はいってます。
それは老いゆえの淋しさではなく ・・・
同じサキャ(釈迦)族出身のすぐれた弟子であるデーヴァダッタの
反逆にあい
そしてしばらくして
この事件の大きな支えてであったサーリプッタ(舎利仏)
モッガラーナ(目犍連)のふたりの死に遭遇しているからです。
しかし この人のえらさは
そうした過去にとらわれて自己をとり失うような弱さを
かけらほどももっていなかったことです。
無常の哲理を体現した釈尊なればのことでしょうね。
釈尊はいいます。
過去を追うな また未来をこい願うな 未来はまだやってこない
・・・ 寥(さび)しさをよぶ過去も
自分の死後の弟子たちのことも考えまい
一切は無常である ・・・ と。
未だ来たらざるものを念(おも)うことなかれ
過去そはすでに捨てられたり
未来そは 未だ至らざるなり
(中部経典)
釈尊の晩年には 一抹の寂寥(せきりょう)がただよっていたと
多くの仏教学者はいってます。
それは老いゆえの淋しさではなく ・・・
同じサキャ(釈迦)族出身のすぐれた弟子であるデーヴァダッタの
反逆にあい
そしてしばらくして
この事件の大きな支えてであったサーリプッタ(舎利仏)
モッガラーナ(目犍連)のふたりの死に遭遇しているからです。
しかし この人のえらさは
そうした過去にとらわれて自己をとり失うような弱さを
かけらほどももっていなかったことです。
無常の哲理を体現した釈尊なればのことでしょうね。
釈尊はいいます。
過去を追うな また未来をこい願うな 未来はまだやってこない
・・・ 寥(さび)しさをよぶ過去も
自分の死後の弟子たちのことも考えまい
一切は無常である ・・・ と。