気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

母 ・・・323. : 求心力 ・・・ 母乳

2011-01-31 06:00:37 | Weblog
母乳をきらうお母さんがふえている といいます。

美容にさしつかえるからという理由によるそうです。


「 母乳にPCBが入っているからのませないように 」

  といわれて苦しむお母さんとは 全く逆です。



母が子に乳をふくませることは

  どんなことを意味しているのでしょうか。


友松先生は

「 のむことはのまれることと共にうれしいことである。

  のまれることは へることではない。

  のまれることが母にとって のんでいることだ 」

  ・・・ といっています。


子の栄養の問題だけではない。

乳房を与えることが 母自身のよろこびなのだ ということです。



母心は 生理学的に割り切れるものではありません。

指数や計量をこえた もっと精神的なものです。


子に母乳を与えないのは ・・・ 母の利己心のあらわれです。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・322. : 求心力 ・・・ 自分だけ 

2011-01-31 05:00:40 | Weblog
人間苦は自己愛と我欲にある

  ・・・ これは古今の哲人と宗教的聖者の自覚の第一歩です。


母心は その人間苦からもっとも離れている人です。



自分だけの快楽を無にしてくれる人

  自分だけいい着物を着ようとしない人です。


繁華街で 母と子の買物姿をよく見かけます。

子供のほうが美しく着飾っている。

母は質素です。

世界中どこでも 母はそうなのです。


そして
 
母は母心によって 自分だけ装おうという醜い心を

  ・・・ 子どもからとりのぞいてゆくのです。



七・五・三のお祝いに

  母と子の着飾った厚化粧姿をみると

  ・・・ 私は 母心の衰弱を見せつけられた思いがします。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・321. : 求心力 ・・・ 自分をかばう心の醜(みにく)さ 

2011-01-31 03:53:17 | Weblog
昔日 家内と息子が話しあっていました。

テレビで砂漠の生物記録を見終わったあとのようでした。


息子が画面に出てくるすざましい生存競争にびっくりして

なぜあんなふうに闘わねばならないのか

  弱肉強食と適者生存について訊いていました。


動物には 食うか食われるかの「自分の力」しか信ずるものはない。

食べ物をゆずりあっていたら 強者にうちまかされてしまう。


しかし 人間はちがうといった話を 母親がいいきかせていた。

そのうち 母親が一例をあげて息子にたずねました。

「もし探検中にいっぱいしか水がなかったとき あなたはどうする?」

「わけあってのむさ きまってるじゃないか」 息子は白けていった。

「じゃあ もしあなたが隊長だったら どんな分けかたをする?」

「平等にするね 分量をきめて」

  当たり前じゃないかといわんばかりです。

「それがちがうのよ 隊員にまずのませて 残ったら隊長がのむの」

「なくなっちゃたら」

「ガマンするのね」

「死んじゃうよ」

「その気持ちがあったら 必ず隊長の分を残します」

「きっと?」

「ええ きっと」


私は いい話をしているなと思いました。



母親は 「自分」を捨てる尊さが倫理であり

野獣とちがうことを教え

  自分をかばう心の醜(みにく)さ

  ・・・ を分かってもらおうとしていたのです。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・320. : 求心力 ・・・ まず人のことを先に 

2011-01-31 03:52:15 | Weblog
母心は自分のことよりも 人のことを先にたてようとする心の働きです。



数学者の岡潔さん(故人)は 母上から

「 まず人のことを先にしなさい 」 と教えられ

  それを終世の人生訓にしてきた ・・・ といっています。


母心を自分の人生にうつしとってこられたわけです。





* 2010.11  東ブータンで






母 ・・・319. : 求心力 ・・・ 純一無私 

2011-01-31 03:51:23 | Weblog
父親というものは 時には進んで異端者の道を選ぶものです。


際だった個性と特色のある技量で人を追い抜こうとする。

そこに 失敗や挫折も起こってくる。

しかし

この冒険心をとりのぞいたら 父は牙をとられた虎に等しい。

男は くり返し自分から茨の道を選りごのんで歩むものです。


そうした父心を 母は知りつくして

  敗北にうちひしがれた彼をそっといたわり はげましてください。



母は 子どもが重病にかかったとき

「私が代わってやりたい」 というくらい

  ・・・ 純一無私な心をもっている人です。


自分ひとり かくれて蜜を舐めたり

  安全圏にいようとなどとする人ではない。

父をたて 子をたてることを楽しむ人です。



夫が苦しんでいるとき別れようと思うのは

  ・・・ 母心が曇らされているのです。


離別するなら 父や子が豊かさにひたっているときだ

  ・・・ と考えるのが母です。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・318. : 求心力 ・・・ 共苦  

2011-01-30 13:00:26 | Weblog
夫婦である以上 同歓共苦 ・・・ であって欲しい。

二人は 運命共同体なのだ ・・・ と信じて頂きたい。



子どもも ・・・ 同様です。


どんな非行な子になろうとも ・・・

母は 自分ひとり逃げかくれたり 身をひこうとせずにいて欲しい。

世間や友人 先輩 親類が見放したときでも

  妻や母は自分だけを防ぎ守ろうせずに

  ・・・ 夫や子どもをかばってもらいたい。



父や子どもを捨てて 実家や蒸発先のアパートに住んだところで

  ・・・ 安らぎがわいてくるものではありません。

  ・・・ むしろ苦しむだけでしょう。


共苦の心で 夫や子どもとともに苦難の刑をうける

  ・・・ のが 母ではないでしょうか。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・317. : 求心力 ・・・ 離婚相談   

2011-01-30 11:00:23 | Weblog
健康の相談に応じる仕事と講演依頼などに応じてるせいか
少しは人間の機微に通じているだろうと
  ・・・ 離婚の相談を受けることもある。


そのなかに夫が事業に失敗したり
会社でしくじって失業したりして
  将来見込みがないので離婚したい といってくる母親がいる。

きまって 親戚兄姉が離婚に賛成してくれているし
働く口もみつかりそうだから 主人を納得させて下さいという。

私には どうして夫が苦しんでいるときに離婚しようとするのか
その利己心が分からない。

確かに家庭生活の平和を乱して
  妻子を悲しませることはいけないことです。
しかし よほど勝手な男でない限り
  その種の失敗には善意や誤ちがつきものです。
もっと暮らしを楽にしてやろう
  経済的に豊かにしようとする父親の勇み足が
  ・・・ 思わぬ摩擦や事故をまねくことがよくある。


「 そのご主人の気持はわかりますか 」 というと

  分かるけれども 借金と貧しさに耐えられないという。

「 しばらく待ったらどうです。ご主人も苦しんでいるのだし

   こうなった原因には奥さん自身の不注意もある。

  それに 子どもの幸せを考えたら別れるべきではない。

  父と母の不幸を子に背負わせる権利はないのです。

  それは親の利己心であるし ・・・

  夫を捨てるのは あなたが自分をかばおうとするからです 」


  ・・・ 私は強くいいます。

                  (母 ・・・318.へつづく)





* 2010.11  東ブータンで




  

母 ・・・316. : 耳を傾ける ・・・ 居る ・ 待つ ・ 聞く 

2011-01-30 09:00:33 | Weblog
たがいに理解を強制しあわない流露の会話をつづけてきた母と子は

  断絶を味わう度合いが少ないものです。



母心は

 「理解とは 理解されざることを理解することだ」(亀井勝一郎)

  という広い抱擁力を備えて

  ・・・ 子どもとの二十数年を歩みつづけてゆくものなのです。


父と子の悲劇は

  「理解とは理解することだ」という狭い硬直した心が招くのです。



ひとくちに 子の話を聞いてやるといいますが

  ・・・ これは大変なことです。


忍耐が必要です。

カーッとなる根気のないお母さんにはつらい仕事です。



いかし

子どもの話をじいっと聞く習慣が

  やがて若い母の精神的未熟さやひよわさを消し去り

  ・・・ 成熟した弾力的な母心をはぐくんでゆくのです。


育児ノイローゼに陥る母には

  この母心の成熟への努力が欠けているのです。



「居る」 「待つ」 「聞く」 ・・・ これが母心の第一です。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・315. : 耳を傾ける ・・・ 母と子のコミュニケーション

2011-01-30 06:00:43 | Weblog
子どもが成長したとたんに母をうとんじ

  何も話しかけてくれないと嘆く女性がいます。


子どもの幼少時に そのお母さんは

  「聴聞(きいてくれる)の人」だったでしょうか。

教育ママ風に子どものおしゃべりを拒否し

  批評を加えてきたのではないでしょうか。



成人近くになると 子供と母との間には

  ほとんど通じあうものがなくなってしまうのがつねです。


しかし

子供の生きている世界が分からなくても

あるいは

お互いに理解しあうことが難しくなっても

  ・・・ 母心を会話のうちにまさぐる子の心は永遠です。


それさえ残っていれば

・・・ 母と子のコミュニケーションは途絶えません。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・314. : 耳を傾ける ・・・ 人生の糧 

2011-01-30 05:00:16 | Weblog
「安居」している母の懐に飛び込んでくる子どもとの会話は

母のやさしいまとめと判断によって

  ・・・ その子の長い人生の糧ともなるのです。


どのように労働に疲れていようとも

  それは母のたゆとう心のあらわれとして

  ・・・ 努め 励まなくてはならない母心の一つなのです。


子どもの話に間違いがあったら

ゆるやかに 落着いて聞いてやりながら

  母らしい優美さで教え導いてやればよいのです。


それができなかったら

慈愛の情をたたえて 子ども言葉に聞き入ってやる。

  ・・・ それが母心です。



百科辞典をもち出したり

子どもの話の腰を折って 「ちがいます!」 と冷評したりする母は

  子どもの心の渇き知らない

  ・・・ むごいお母さん といえるでしょうね。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・313. : 耳を傾ける ・・・ 耳をふさぐ母  

2011-01-30 04:11:16 | Weblog
子どもの心は 母とのふれあいに生きがいを味わってこそのびていく。

母心は 子の心の成長の鍵です。


もし 子どもの話に耳をふさぐような母親があったら

どんなに知識や学歴が高くても

  その母は 子の知恵をのばしてやる女性とはいえないでしょう。



ものを聞いてくれない母

いおうとすると つめたい批評をしたり

  むげにさえぎったりする母がいたら

  ・・・ それは 「母心」を欠いているのです。


子どもは母から
  つめたい理屈や批判的な裁きを求めているのではありません。


母が子どものおしゃべりを拒み 冷酷な批判を下せば

  ・・・ 子どもは母を憎みます。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・312. : 耳を傾ける ・・・ 母が家にいてくれてこそ 

2011-01-30 04:10:12 | Weblog
なぜ 先生に叱られたのか

クラスのなかで自分が憎まれるのはどうしてか

女の子に親切にすることが なぜ大切なのか

  そうした学校の体験。


どうしてパパの帰りが遅いのか

父の労働とはどんなものか

テレビ・ドラマと現実の家庭生活はなぜちがうのか

  そういったバラバラの体験や疑問が

母との対話(かりに一方交通であっても)を通じて身につき

  躯(からだ)と心のなかに溶けこんでゆくのです。



ですから
 
子どもが発見した新事実を

  投げかける母という的(まと)がいなかったら ・・・

子どもはむなしい空砲を放つか 逞しい想像力や知的好奇心や

・・・ 小さな胸のなかで澱(よど)ませてしまう以外ありません。


これは 子どもにとって悲しい不しあせなことです。

彼らは 心のなかに澱んだしこりをかかえたまま

  精神的に退廃化してゆかざるをえません。


母が家にいてくれてこそ ・・・ その不幸からまぬがれるのです。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・311. : 耳を傾ける ・・・ 知恵の反射鏡 

2011-01-30 04:09:36 | Weblog
人間の知識というものは ただ学校で勉強したり

  本を読んで覚えたりすることで実るものではありません。

学んだこと 習ったこと 聞いたり見たりしたいろいろのことが

  母に伝え 聞いてもらうことで ・・・ 知恵となってくる。


雑然と投げ込まれた知識や無秩序に並んでいる経験や知識の断片が

  母に語りかけることで

  ・・・ 知恵と結びついたほんとうの知識となってゆくのです。



母は 子どもの「知恵の反射鏡のようなものだ」

  ・・・ と昔の人はいっています。

母と語りあううちに自分を整え 経験した意味を悟っていくのです。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・310. : 耳を傾ける ・・・ 子どもの精神的成長 

2011-01-29 09:00:13 | Weblog
学校から帰宅した子どもは なにも親との知的な会話を求めて

  ・・・ しゃべりたがっているのではありません。

その日の自分の行動についての評価や理解を示してもらおうと望んで

  ・・・ 語りかけてくるのではないのです。


子どもは 母の匂いをかぎたい衝動を

  ・・・ 言葉に託してぶつけてくるだけなのです。

と同時に

自分の行動や悲しみを母とともに分かちあい

ときには 傷口をなめあいたいと願って

  ・・・ 胸のうちをぶちまけるわけです。



甘えといえば 甘えです。


この甘えは 子どもの精神的成長のためにも

  ・・・ きわめてたいせつな要素をふくんでいます。





* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・309. : 耳を傾ける ・・・ 話せば満足 

2011-01-29 06:00:40 | Weblog
子どもは 母がむきになって話を聞いてくれなくてもいいのです。

話せば ・・・ それで満足するのです。



子どもの成長は日に日に新しい事実を知り

  思いがけない体験を経ることで満ちみちています。

その新しい発見や驚きを一刻も早く母に伝えたい

  ・・・ それだけなのです。

母という相手にぶつければ ・・・ 心が爽やかになるのです。



子の代役は 父親にはつとまりません。

拒絶するか すわり直して構えます。

聞く以上 いい加減にしてはならない

  もし誤りがあったら匡(ただ)してやらなくてはいけない

  ・・・ と大げさに受けとめます。


父と子の対話に ものやわらかさが欠け

それとなく溶けこんでゆく微風のような甘さに乏しいのは

  ・・・ そのためです。


これでは 子どもがいじけてしまう。


編物をしながら

  台所で煮物をしながら聞いてくれる母とは勝手がちがうから

  ・・・ ぎこちなく緊張する。

「ううん もういいんだよ」 ・・・ 子どもは白けて離れてゆく。





* 2010.11  東ブータンで