立場が逆転すれば、見方考え方まで、まるで反対になってしまうものです。
道を行くにしても車を運転しているときの歩行者の見方と、歩いているときの車の運転者への見方は逆転します。
車からみるとゆっくり横断歩道を歩いているのをみると、「もっと早く渡ればいいのに」と思い、横断マークのない所を渡る者をみると「歩行者も交通教育が必要だ」と考えます。
同じ車の運転手同志でも、ゆっくり走っているのをみて「早く走れ」と命令したくなるし、とにかく自分に都合が悪いとぶつぶつ言います。
歩いている人の立場になると「道路は人の歩く所、車には遠慮して走ってもらいたい」「乱暴な運転をするものは車を運転させてはいかん」 ・・・ などなど。
これは何も交通走行だけの問題ではなく、人間が一つのイズム、一つの信仰に執着すると、全体が見えにくくなるということです。
そしてこの悲しい習性ゆえに、人間は多くの悲劇をくりかえしてきた ・・・ いえるのではないでしょうか。
道を行くにしても車を運転しているときの歩行者の見方と、歩いているときの車の運転者への見方は逆転します。
車からみるとゆっくり横断歩道を歩いているのをみると、「もっと早く渡ればいいのに」と思い、横断マークのない所を渡る者をみると「歩行者も交通教育が必要だ」と考えます。
同じ車の運転手同志でも、ゆっくり走っているのをみて「早く走れ」と命令したくなるし、とにかく自分に都合が悪いとぶつぶつ言います。
歩いている人の立場になると「道路は人の歩く所、車には遠慮して走ってもらいたい」「乱暴な運転をするものは車を運転させてはいかん」 ・・・ などなど。
これは何も交通走行だけの問題ではなく、人間が一つのイズム、一つの信仰に執着すると、全体が見えにくくなるということです。
そしてこの悲しい習性ゆえに、人間は多くの悲劇をくりかえしてきた ・・・ いえるのではないでしょうか。