里海邸|大洗海岸。東京都心より90分、大海原が広がる静かな別邸へ

「素朴を上質に」海の別邸は、隠遁時間。~波と光色。湯と縁側。陶と食。磯と木の食卓。|里海邸 金波楼本邸 公式ブログ

新旅館構想 ―桟敷―

2007年12月24日 | 思うこと

新しい旅館には、ロビーを作る予定がありません。


そのかわりに海を静謐な雰囲気のもとで眺める「桟敷」という場所を考えています。


「桟敷」とは、辞書によれば「劇場・相撲場などで、一段高くつくった板敷きの見物席」のことです。



海を劇場の舞台に見立てて、当館のもつ絶景絶佳の海景色を肌で感じられる、そんな場所が「桟敷」です。


前記事の横内さんの若王子のゲストハウスのような落ち着いた空間の借景に大洗の荘厳な海が重なったら、どんなに風情があるだろう。。などと考えています。

そこに控えめに、光圀や斉昭、山岡鉄舟(茨城県初代長官)などとリンクさせつつ「神道」や「禅」の空気を入れてゆき、物語をしのばせる。


そしてこの空間が人に与える癒し効果はアン・モロウ・リンドバーグが説明する通りです。

この桟敷でチェックインしましょう。



この場所だからこそできる海の癒し―。

最大限に引き出そうと準備中です。

横内敏人さん

2007年12月23日 | 思うこと
雑誌によく紹介されている有名建築家です。

公式サイトの建築コンセプトの記事に大変共感を覚えました。

HPはこちら


湯河原の石葉の離れも横内さんが設計。素敵です。



また横内さんの作品も施工している数奇屋の匠、中村外二工務店は、京都の俵屋、美山荘などを施工しています。

余計なものがなく自然と同化したストイックな空間に、とても癒されます。

癒しの海

2007年11月19日 | 思うこと
今日の海は凪。

数日前まで荒々しかった海が穏やかになりました。
冬が大洗の海にもやってきました。潮風が冷たいです。

冬の海辺で深呼吸するのって、とても気分が良いものです。
今日も海の空気を深々と吸いましたよ。

目を大きく見開いて大海原を見つめていると、目がとっても気持ちいいんですよ。

両手を大きく左右に開げたり、手指を大きく開いたりするのも、これまた気持ちいいです。潮風が体の隙間に入ってきます。

海は見るだけでなく、感じるほうが癒されます。

資金収支計画づくり

2007年11月19日 | 思うこと
excelで新旅館の投資計画・収支計画表を作っています。

投資計画は、資金、土地、環境などの条件下で、新旅館のコンセプトに沿った宿を新築するという計画です。建築工事費用や設計監理料、家具・食器などの装備品、創業費、そして建築に関わる税金も相当高額になりますので慎重に準備しています。

収支計画表は、銀行からの借り入れを返済するのに、どのような営業収支構造で安定したキャッシュフローを確保してゆくかという予定表を20年~25年分作成します。ここで食材原価、人件費、光熱費、消耗品費などの損益に大きく影響する重要な費用計画を決定します。

綿密な計画をつくると思うのですが、きちんとしたコストコントロールも大切であるが、何といっても収入。お客様が多く泊まって売上が上がらないと意味がない。

事業の要はコンセプトと顧客満足に尽きると思いました。



るるぶ茨城’08

2007年11月16日 | 思うこと
旅行ガイドるるぶの最新版の「るるぶ茨城'08」が届きました。

今回の特集は、水戸の老舗店で江戸時代から大正時代に開業している、中川楼、山口楼、魚周の老舗店を紹介しています。その他、定番の水戸藩ラーメン、実は茨城発祥のけんちんそば等が紹介されています。

大洗のガイドページでは、大洗町観光協会「よかっぺ大洗」でも紹介している大洗の最近の人気飲食店がこぞって登場しております。

かつては旅行ガイドブック記事の掲載店は地元での評価と同じではないという声もありましたが、そんな事はないですヨ。
近年はインターネットの普及により観光地情報が入手しやすくなっており、取材精度も良くなっていると思います。


あ、当館もちょこっと掲載されています。

海のリズムに身を委ねて

2007年11月13日 | 思うこと
 設計事務所さんにお泊り頂き、宿周囲の環境を確認しました。

 本日改めて感じた事は、近すぎる海との快適な付き合い方を考えることと、館内ではよけいなものをそぎ落とし、気が散ることのないよう配慮し、ただひたすら海に意識を向かわせる環境づくりが大切であること―。

 それを追求することが何よりお客様への貢献であると再確認いたしました。


 次々と押し寄せる波を見続けていると、日常生活のゴタゴタとか心のコリがほぐされるというか、流されてしまうというか。。。あまり良いたとえではないのですが、デジタル用語で言う「フォーマット」(初期化=元の形式に整理整頓される状態)されるような感じです。

 よく私達が身近な生活ストレスの解消手段として日常的に用いているような、カタルシス(=音楽で感情が高揚したり映画の感動したりして、感情の澱が解放されスッキリ浄化される作用)とちょっと違って、波が作り出す穏やかな自然のリズムに乗ってしまう感覚が非常に心地良いのです。サーフィンを体験した時にもそういう感じがしました。

 心理学や精神医学・哲学の専門家ではないので、間違った解釈なのかもしれませんが、カタルシスは人間の作り出したものに対する共感感情がどこかにあって、同質の原理に基づきストレスが解消されるのかと思います。 一方で、海の癒しは人間を超えた自然という大きな存在がもたらす心理作用なので、効き方が違うのだと思います。

 イライラしたり、悲しかったりする場合、それぞれの心の状態に合ったカタルシスの経路があると思いますが、現代人の生活ストレスにはもっと複合的な感情パターンが重なって、心の疲れの原因が自分で判別できないということもあると思います。

 そういう場合は、海の前に身を委ねて、波による自然のリズムで全てを洗い流せれば良いのかもしれません。

金波楼らしさ

2007年11月05日 | 思うこと
ホームページの表紙部分をちょこっと雰囲気を変えてみました。
「金波楼らしさ」は、抜群のロケーションですので、写真などで強調してみました。お客様の撮影された写真が素晴らしかったので、表紙に取り入れてみました。

吾唯足知

2007年09月01日 | 思うこと
「吾、唯、足るを知る」(われただたるをしる)今回も禅の格言です。

実際に訪れたことがないのですが、京都の龍安寺(世界文化遺産)にあるこの格言を刻んだ蹲(つくばい)は光圀公が寄進したものとされ、「私は満ち足りていることを知るべし」と言う意味です。

大雑把に言えば、あれもこれもと欲張らず、現状のあるがままで満足するべし、ほどほどが良いという意味です。

光圀公がこの言葉を龍安寺に送ったというエピソードや、江戸時代に日本で最も贅沢な場所であった江戸城から西山荘へ隠居したという人生の歩み方は、生活姿勢を窺わせるものですね。


このテーマに遠からずのシンプルライフ提案として、アン・モロウ・リンドバーグの「海からの贈りもの」を読んでいます。以下抜粋。

「海辺での生活で覚えることは、必要のないものを捨てること」

「衣類はスーツケースにひとつ入るだけあればいい。爽快なのは、何を着るべきか頭を悩まさずにすむこと。衣服からの解放は虚栄心からの解放を意味する」

「住まいには貝と同じように屋根と壁だけの家に住んでいる。暖房も電話もお湯を沸かす設備もない。あるのは石油ストーブだけ。。。絨毯もない。砂を掃くには何も敷いていないほうが便利だから。むやみに掃除する必要もない。ほこりも気にならなくなった。。。整頓とか整理といったわたしの中の清教徒的良心はどこかに消えてしまった。そういった良心もまた、物がもたらす重荷のひとつなのだろう」

「貝殻のように簡素なこの家に、わたしは心から打ち解けられる友人しか招かない。そう、私は人とつきあう際の偽善というものも捨てはじめている」


多くの人があえて複雑な暮らしを選択しています。
その事がいかに人を疲れさせているか、それを海辺での簡素な暮らしがもたらす平穏な気分によって知ることができると、アン・モロウ・リンドバーグは伝えてくれます。

秋風に

2007年08月29日 | 思うこと
今日はさらに一段と涼しくなり、夏の終りを感じる日でした。

宿の仕事も一段落―。
スタッフもお疲れ様でした。

海の目の前で仕事しているのですが、今日はしみじみと夜の潮騒と潮風を楽しみました。このごろ寝床で読んでいるレイチェルカーソンのセンス・オブ・ワンダーの文を思い出しながら、海の癒しに浸りました。

流星群とか皆既月食とか、プチ天文ファンとしては気になる出来事のあった夏ですが、あまりの忙しさでどこえやらでした。プラネタリウムでも行きたいなと考えています。じっくり夜空が見たい。

物見遊山から壷中日月長へ

2007年06月25日 | 思うこと
現在進めている施設のリニューアル構想。

当館の旅館改革として重要なのが「物見遊山」から「壷中日月長」の宿への転換です。これなくしては、大洗の海水浴観光地の影響を免れず、平日休日関係なく季節波動のない営業は望めません。

壷中日月長。
これは禅の言葉で、ある者が仙人に連れられて壷の中に入ったら、そこは広々として景色が美しく、素晴らしいおもてなしを受け、ごちそうになり、ついでに10日間の修行を受けました。そして家に帰ったら、なんと10年たっていたという話。浦島太郎と同じ意味ですね。

当館も竜宮城のように時間を気にせず、世間から深いところに降りていくような施設の雰囲気を考えていて、お客様が時計を気にせずゆっくり過ごしていただき、日常生活で痛んだ羽根をじっくり治癒していただきたいのです。

さて、当館の素晴らしい海景色を観光商品として活用しようと思うとき、リゾートホテルの発想であれば、海側にデッキテラスを設置し、そこでランチを食べたり、ワインを飲んだりというイメージがあって、普通は誰もがそういうシーンに憧れたりしますね!

記念日などのハレの日や非日常性を楽しむ海外旅行なら、ふさわしい雰囲気と思います。しかし、日常生活で「疲れた」という人には、むしろ原始人のように海辺の洞窟の中のように、岩に囲まれた空間で食事するような環境のほうが落ち着くのではないかと考えています。

開放感ある美しい景色は、その中にいると気持ちを高揚させてくれますが、ちょっとほら穴のような所から景色をそっと覗いていると、気持ちが落ち着くのです。

疲れている人は生命エネルギーの低下している状態と考えられ、無意識に安全な場所を好むのだろうと考えています。疲れていると、仕事場や生活上の気忙しい現場から離脱したくなり、自分の部屋などの「最も安全な場所」に篭りたいと思うものです。

しかし、現代生活では自分の住み家ですら落ち着かない場所となっているため、それを代替してくれる場所を探しています。

例えばそれが「仙仁温泉岩の湯」の取り組んでいる宿づくりなのだろうと考えています。

近頃の旅館のPRとして、見栄えの良い地物料理、露天風呂付客室。スパ&エステ。。。顧客を惹き付ける要素があふれておりますが、そういうものは表層的なニーズであって、お客様がなんとなく居心地がいいと感じるのは実は「ほら穴」の効果がある宿なのかなと考えています。

大抵の観光旅館は窓を大きくとったロビー、大露天風呂といった具合ですが、これらは「ほら穴」ではないので、疲れた人が行く宿としては向いていないのではないかと考えています。

景色を見せる場所だけでなく、見せない場所もつくる事が大事なんだと確信するようになってきました。ようやく、黒川温泉の後藤哲也さんの「景色を露骨に見せてはいかん」と言っている意味が理解できたような気がします。

「穴」考察でした。

海岸線渋滞

2007年05月04日 | 思うこと
今日の大洗は大渋滞でした。
混雑度は昨日とは比べ物にならないぐらい超渋滞でした。

午後から次第に海岸道路が混雑し、4時過ぎにはすっかり渋滞。
16時頃が混雑のピークで、身動きできない状態に。。。完全に渋滞が解消したのは20時半頃でした。観光地の宿命とはいえ、年々酷くなる渋滞には困ったものです。

宿泊ご予定のお客様も大幅に到着が遅れて、さすがに疲労困憊の方もいらっしゃいました。渋滞に嵌ったスタッフの出勤も数時間遅れてしまい、混乱を極めた一日になってしまいました。

思い出

2007年04月26日 | 思うこと

先週、私の友人から一通の手紙が届きました。
先月宿泊され、その時にお子様と海で遊んだ時の思い出が一枚の絵となって届きました。海で親子が貝拾いをした様子の絵です。お子様の周りにはいっぱい貝が描かれています。楽しそうですね。

私の幼い頃の思い出もぼんやりと残っています。

詳しい出来事は結構忘れてしまったけど、温かいひだまり、そよ風の心地よさ、暑い日の日差しなどとともに楽しかったような。。。

熊本の田舎の伯父の家のクヌギの木、クワガタムシ、遠浅の海でとった山いっぱいのヤドカリ、肥溜めと田んぼ、ザリガニ捕り、菊地水源、立山のトロッコ列車、北海道では摩周湖と知床の風景、しょっぱい温泉などなど。。
まだまだいっぱいある思い出―。

よい思い出は生きる糧となります。

是非当館もお手伝いしたいと思います。

海水の癒し

2007年03月30日 | 思うこと
 海水というものはヘタな温泉より成分が濃く、実は海水を超えるほどの温泉成分を含有する温泉というものは非常に少ないという話を読んだことがあります。

 海水は血液と成分が似ているそうです。
 人は皆、お母さんのお腹の羊水で育ってから生まれてきます。海はこの羊水を思わせるところがあるそうで、人が海に浸っていると心が落ち着くのは羊水の経験からだとか。。

 地球上の生命は海の中で誕生し、進化を遂げて現在の姿になっていると言われます。人間も元々はアメーバーというか単細胞な生き物から出発しているはず。海の中にいる単細胞な生命は、波が運ぶ酸素の泡を吸収し、海中の豊富な鉱物を取り込んで、生命を維持しているのだと思います。

 その後、生命は多細胞化して様々な形態に進化し、海水から栄養を取るのではなく捕食によって栄養を取るようになりました。すると細胞に栄養や酸素を取り込むために血液が海水と同じ役割を果たすようになった。そんな事を想像してしまいます。

 人も細胞レベルで見れば、海に包まれている状態なのでしょう。
 海に包まれると落ち着くのは、羊水の思い出もはもちろん、もっと原点で考えれば、体中の細胞が、欲している海水に包まれて安心するからなのかもしれません。

「お客様は神様」か

2007年02月25日 | 思うこと
 旅館の仕事を手伝いはじめた頃、温泉旅館に泊まりに行きました。
 お部屋で夕食でした。自分の母より年上と思われる仲居さんが、それはそれは低頭な接客をされ、どうも身の丈に合わないというか居心地が悪いので、

「いやそんなに気を使わなくて大丈夫ですよ、ごく普通に接して下されば」

とお伝えしました。そして

「実は私も旅館の人間なので、気楽にどうぞ」

と申し上げました。すると緊張の糸が切れたのか仲居さんはこう言ったのです。

「お食事を朝晩毎日お世話し、布団を敷き続けて、
           こんなにみじめな仕事はありません」

 私は暗い気持ちになりました。自分も関わっているこの仕事がみじめだって?

 その後、仲居さんに「そんなことはないですよ。素晴らしい仕事ですよ。」などとお話したりしました。心情を吐露してほっとしたのか表情が明るくなって、朝はすごく元気でフレンドリー、サービス満点でした(笑)

 男性客の歓楽中心という感じの温泉旅館―。悲哀を感じさせる疲れ切った仲居さんの姿に、複雑な思いでした。男性団体客からの扱い、旅館の仕事の現場でどのような待遇をされていたのでしょうか?ご主人とは若いうちに別れ、一人息子の為にやむをえずこの仕事をしているという話ぶりに、経営者である私は苦々しく思ったものです。しかし若い私にはその記憶が残り、とても勉強になりました。

 まあ、お客様である私共に「本音」をつい見せてしまったこの仲居さんのお陰で、こっちは旅行の雰囲気が台無しになったのですが(苦笑)

 その後、私も旅館の現場で、「心無きもてなしの姿」―つまり自分の仕事に誇りを持てないスタッフがいて、やれやれと仕事をこなすという態度を見てきました。これでは、お客様と心を通い合わせることは困難です。

 「お客様は神様」っていう言葉は絶対的な上下関係を暗示させ、お客様の厳しい要望にも心ならずとも応えてゆくという絶対権力の思想を感じます。昔は士農工商つまり封建制度の支配社会でしたので、これが日本の「お客様は神様」サービス業思想の原点なのでしょうか?(いい加減な憶測ですが)。

 その後、日本の現在は階級社会が無くなりましたが、「お客様は神様」の精神が残っています。でも、世の中は平等公平だって教育している日本で、このような格差崇拝はどうかと思うのです。元々買い物は生きてゆくために、魚と野菜を交換するような原点があるわけで、商売は売り手にも買い手にもありがたみのある公平な世界だったと思うのです。

 しかし、豊かな時代になり供給過剰になったので、買い手の力が強くなり、「お客様は神様」の合言葉で、横柄なお客様の存在にも甘んじています。お店のオーナーがこの言葉を言うと、お客様は「謙虚なお店」という好感を持つかもしれません。しかし全ての従業員が必ずしもこれを心から受け入れているとは思えません。現実問題として、仕方なくお客様を神様と思って、演じるように仕事をしている人が多いのです。だから、挨拶にも心がこもって感じられない。

現在、当館ではお客様は神様という指導はしていません。
お客様は同じ人間です、と。

同じ人間だから思いやりを持って、お客様が居心地よく過ごせるように配慮の気持ちを忘れないで。そう伝えています。

挨拶や最低限の接客マナーは少し指導しますが、胸を張って自信を持って、自分の人柄の良さで接して欲しいとそう伝えています。




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波打ち際で「ひとやすみ」| 五感を洗う海辺の別邸
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