人生、何が起こるか、わからない。この言葉を呟くことが、今年になってから、よくあるような気がする。先日も、そうだった。
親しい知人に誘われて、コーヒー・ショップに入った。夕方近くで、店内は、ほぼ満席である。コーヒーを飲みながらの、楽しい会話が弾んでいた。ドイツ語教師をしている彼の、ドイツでの暮らしぶりなど、興味深く聞いていた時である。突然、もの凄い音が響いた。それは、〈ドタンッ〉という音と、〈ガタガタンッ〉という音が、同時に起こったのである。その音の起こった場所が、彼の斜め後方のテーブル席だった。スーツ姿の熟年紳士ふうの男性客が床に転げ落ち、座っていた椅子の、背もたれ部、シート部、数本の脚部すべてがバラバラに壊れた音だったのである。
私と知人は、思わず顔を見合わせ、互いに驚きの表情を浮かべた。
「怖~い」
小声で私は言った。彼も、うなずいた。座っている椅子が突然、壊れるなんて想像もできないこと。その意味で、怖いと言ったのである。店内は、そう広くなく、狭くもなく、という感じで、騒然とした雰囲気にはならなかった。店の従業員が、すぐに駆けつけた。床に転げ落ちた熟年紳士は立ち上がり、特に声を荒げることもなく、何か言葉を口にしている。片隅にあるテーブル席で、その紳士が本を読んでいたのを、私は眼にしていた。インテリ風の男性客で、突然のできごとにも、慌てず、冷静に対処しているというふうにも見えた。
やがて、店の責任者らしい中年男性がメモ用紙のような物を手にして駆けつけ、その客に向かって平身低頭し、謝罪を繰り返していた。壊れた椅子はすぐに片づけられ、もう1つの椅子があったが、客は立ったまま、数分、言葉を交わすと、その場を立ち去った。他の場所で、連絡先など書いたかどうかは、わからなかった。特に打撲などのケガをした様子は見受けられず、客は普通の足取りで歩いて行った。中肉中背の体型で、椅子が壊れるほどの肥満体型の男性ではなかった。壊れた椅子は、製造の段階で何らかの不備、不良があったかもしれないし、そのため、しばらく使用できても、いつかは、どの客が座っても壊れることになったのではないだろうか。
「ケガはしなかったみたいに見えたけど、落ちた時に身体のどこかを打って、後遺症が出るっていうこともあり得るんじゃないかしら?」
他人事とは言えない気がして、私は言った。店の管理責任、という言葉も、ふと浮かぶ。
「当然、あるだろうね。今は大丈夫でも、後になって症状が出て来る可能性もある」
彼も、そう言いながら、うなずいた。
「でも、怖いわね。座っている椅子が、まさか壊れるなんて、誰も考えないものね。壊れる椅子に座った客の不運かもしれないけど。もし、私たちが店に入った時、あのテーブル席が空(あ)いていたら……」
片隅の席で落ち着けるから、間違いなく、そこを選んだはずである。しかも、恋人や愛人関係に限らず、知人であれ友人であれ、男女が同時に飲食店に入ると、大半の男性は女性を奥の席に座らせる。それはマナーというより習慣であり、女性もまた、そうされるのが男性のマナーとかやさしさというより、習慣で奥の席に座ることになる。
その隅の席が空いていたら、私が奥の席に座り、少し身動きしたりして椅子に負荷がかかった時、〈ガタガタンッ〉という音と共にバラバラに壊れて私は転げ落ちていたかもしれない。
そう話し、私はゾッとしたような気分で、
「怖~い」
と、同じ言葉を口にした。
「それが、運命の分かれ道だね」
知人男性が言った。
「本当。人間の運命ね。いつ、何が起こるかわからない運命って言えば……」
ゴールデン・ウィーク中に起こったジェットコースター事故を思い出し、人間の運命について、しばらく語り合うことになった。
本当に、人生って、何が起こるかわからないと、その日もつくづく思った。
親しい知人に誘われて、コーヒー・ショップに入った。夕方近くで、店内は、ほぼ満席である。コーヒーを飲みながらの、楽しい会話が弾んでいた。ドイツ語教師をしている彼の、ドイツでの暮らしぶりなど、興味深く聞いていた時である。突然、もの凄い音が響いた。それは、〈ドタンッ〉という音と、〈ガタガタンッ〉という音が、同時に起こったのである。その音の起こった場所が、彼の斜め後方のテーブル席だった。スーツ姿の熟年紳士ふうの男性客が床に転げ落ち、座っていた椅子の、背もたれ部、シート部、数本の脚部すべてがバラバラに壊れた音だったのである。
私と知人は、思わず顔を見合わせ、互いに驚きの表情を浮かべた。
「怖~い」
小声で私は言った。彼も、うなずいた。座っている椅子が突然、壊れるなんて想像もできないこと。その意味で、怖いと言ったのである。店内は、そう広くなく、狭くもなく、という感じで、騒然とした雰囲気にはならなかった。店の従業員が、すぐに駆けつけた。床に転げ落ちた熟年紳士は立ち上がり、特に声を荒げることもなく、何か言葉を口にしている。片隅にあるテーブル席で、その紳士が本を読んでいたのを、私は眼にしていた。インテリ風の男性客で、突然のできごとにも、慌てず、冷静に対処しているというふうにも見えた。
やがて、店の責任者らしい中年男性がメモ用紙のような物を手にして駆けつけ、その客に向かって平身低頭し、謝罪を繰り返していた。壊れた椅子はすぐに片づけられ、もう1つの椅子があったが、客は立ったまま、数分、言葉を交わすと、その場を立ち去った。他の場所で、連絡先など書いたかどうかは、わからなかった。特に打撲などのケガをした様子は見受けられず、客は普通の足取りで歩いて行った。中肉中背の体型で、椅子が壊れるほどの肥満体型の男性ではなかった。壊れた椅子は、製造の段階で何らかの不備、不良があったかもしれないし、そのため、しばらく使用できても、いつかは、どの客が座っても壊れることになったのではないだろうか。
「ケガはしなかったみたいに見えたけど、落ちた時に身体のどこかを打って、後遺症が出るっていうこともあり得るんじゃないかしら?」
他人事とは言えない気がして、私は言った。店の管理責任、という言葉も、ふと浮かぶ。
「当然、あるだろうね。今は大丈夫でも、後になって症状が出て来る可能性もある」
彼も、そう言いながら、うなずいた。
「でも、怖いわね。座っている椅子が、まさか壊れるなんて、誰も考えないものね。壊れる椅子に座った客の不運かもしれないけど。もし、私たちが店に入った時、あのテーブル席が空(あ)いていたら……」
片隅の席で落ち着けるから、間違いなく、そこを選んだはずである。しかも、恋人や愛人関係に限らず、知人であれ友人であれ、男女が同時に飲食店に入ると、大半の男性は女性を奥の席に座らせる。それはマナーというより習慣であり、女性もまた、そうされるのが男性のマナーとかやさしさというより、習慣で奥の席に座ることになる。
その隅の席が空いていたら、私が奥の席に座り、少し身動きしたりして椅子に負荷がかかった時、〈ガタガタンッ〉という音と共にバラバラに壊れて私は転げ落ちていたかもしれない。
そう話し、私はゾッとしたような気分で、
「怖~い」
と、同じ言葉を口にした。
「それが、運命の分かれ道だね」
知人男性が言った。
「本当。人間の運命ね。いつ、何が起こるかわからない運命って言えば……」
ゴールデン・ウィーク中に起こったジェットコースター事故を思い出し、人間の運命について、しばらく語り合うことになった。
本当に、人生って、何が起こるかわからないと、その日もつくづく思った。