今日は真面目でしっかりした人ほど陥り易い、ある言葉のワナについて、です。
今朝、息子を自転車で保育園へ送って行こうとした時のことです。
その道は狭く、急な坂道になっていて、若干九十九折りにもなっている住宅街の舗装道路でした。もちろん、スクールゾーンです。
私は下からえっちらこっちら急坂を登っていたわけですが(電動自転車なので、そこまで辛くはない)、そこへ一台のカッコいいオートバイが、けたたましい爆音と共に上の方から結構なスピードで降りてきました。
片手はハンドルを握っていましたが、もう片方の手でタバコをプカプカとやっていたのです🚬
しかも若干の蛇行運転です。
近くには通学中の小中学生、散歩中のお年寄りもいました。一歩間違えれば大惨事です。
私も慌てて道の脇に避けたわけですが、普通に走っていたら接触していたかもしれません。
バイクが過ぎ去った後、しばらくして辺りには副流煙の臭いが立ちこめていました。
その場にいた人たちは、既に走り去ったバイクの方をにらんで「なんだあれ?」というような表情を浮かべ、不快そうにしています。
ここで瞬時に浮かんだ言葉は
「あんな大型のバイクをタバコふかしながら、片手で蛇行運転とか正気なのか!?ここはスクールゾーンだぞ。細心の注意払いながら徐行運転すべきでしょうが」
「ぶつかったらどうする気だったんだ。あんなのは運転する資格なんてないんだ!免許を剥奪すべき!」
なんてことでした。
この中に悪魔の言葉が潜んでいます。
完璧主義の悪魔
「徐行運転すべき」「免許を剥奪すべき」
ここに私の中の正義感や倫理観が露骨に出てしまっています。これまで自分の中に蓄積された社会通念、常識、ルールに基づいてこの「〜すべき」「〜しなきゃいけない」と思いながら生きています。
今回は交通ルールに抵触してますから本当に悪いのですが、私たちはとかく他人の行動に対してこのように思ってしまいます。
これはここに置くべきだろう
ここは敬語を使うべき場面だろう!
これはこうしなくちゃいけないのに、なんでこんな風にやっちゃうんだ
これはこの手順でやるべきなのに何もわかってないな。
「〜すべき」、「〜しなくちゃいけない」を使うと途端に正義感溢れる完璧主義の悪魔が目覚めます。しまいには
「私はいつもこうしているのに、あの人はやらない」
「私はルール守っているのに、何であの人は守らなくて平気なの?不公平だ」
などとよからぬ方向へ行きます。怒りや恨みつらみへと発展する可能性があります。
また、この感情が自分に向けられることもあります。
この「〜すべき」「〜しなくちゃいけない」はあくまでも自分自身のルールに過ぎません。
いやいや、「ルールでしょ」と思うかもしれません。
ところが、人の価値観や正義感は同一ではなく、ルールだろうが常識だろうが社会通念だろうが、まして法律で規定されていようが、「え!?何が悪いの?」と思う人もいるわけです。
それは単にその人がそういったルールを「知らない」というだけかもしれません。
実際、我が息子(2歳)は、そのバイクを見て
「おおおーーー!バイクぅバイクぅ、かっくいーー!!」
と大きな声で叫んでました
知らないとはそういうことです。
さて、湧いてきた怒りをどうするか。
昨夜、その次男がおねしょで騒いだので寝不足、そして朝から布団の処理、と機嫌が悪…もとい気分が優れなかったので、これ以上の怒りはごめんこうむりたかったわけです。
ここで、前回のエントリーでもご紹介した「他人の振り見て我が振り直せ」です。
自分の怒りは怒りとして認めつつ、それでも相手をその怒りの矛先にするのではなく、反面教師とします。
「ああいうのは恥ずかしいな。自分はああいうことはしないようにしよう」
と改めて気づかせてくれた、と感謝をするようにすると、怒りのエネルギーをポジティブに変換することができます。
ということで、私はそのバイクの方にこう感謝することに致しました。
「本日のブログのネタを提供下さり、誠に、誠にありがとうございます」
ここまで読んで頂き、誠にありがとうございました
もう、おっしゃる通りの自分でした。
まさに私だわ、、、と思いながら読ませていただきました。
そして「反面教師」で「感謝」
それも実践中です。
自分を解き放たないとしんどいですもんね。
いいお話をありがとうございます。
いつも拝読させていただいてます。
私もついつい「〜すべき」で行動してしまってしんどくなります。相手にもケンカ越しになり反省しきりです。
これが自分へ向くと「〜しないといけない」が積み重なって、結局行動に移せない、ということが続いておりました。
自分にも他人に対しても肩の力を抜いて寛容でいきたいですよね☺️