ガエゆだR。

~ガチとエンジョイとの狭間で未来の夢を抱くブログ・REBOOT。~

カンガエル自由

2019-08-14 12:55:32 | (小難しい)雑記/お知らせ
どうも、Klowですおはようございます。

今回はかーなーりー!…真面目な記事になると思います。同時にセンシティブな話題に
素人が首を突っ込んでいますので、まぁ参考程度に留めておくことをお勧めしておきます…。

先日、あいちトリエンナーレで開催されました、「表現の不自由展」
これは、物議を醸し、展示が中止された作品を、そこに至るまでの経緯と共に紹介し、受け取り手の皆さんに、「表現の自由とはなんなのか」と考えて貰う…
という趣旨の展示会でありました。しかし、その中になんとあの慰安婦像があり、日本ヘイトの象徴やんけ!と非難が殺到。
(中には「昭和天皇の肖像を燃やして踏み潰す」というものもあったようですが其方より此方の方が問題だったようです)
芸術監督を行っていたジャーナリストの津田大介さんは、当時は批難する者に対してTwitter上では、「は?俺に対抗してる訳?俺にはいろんな人ついてるんだよ?」
イキり散らしていましたが、展示されている一部作品の展示を、安全確保の面から中止するという事態に発展したことで、改めて謝罪する事となりました。

そして偶然にももう一つ、Twitter上のダイアクロン隊員の間で物議を醸す出来事がありました。

…とその前に。「ダイアクロン」とは、タカラ時代のタカラトミーが世に放ったトランスフォーマーの祖先と言うべき玩具シリーズなのですが、
2016年頃に復活し、その作品の雰囲気やプレイバリューの高さから好評となり、現在に至るまで商品展開されれている人気シリーズとなっている作品です。

そんなダイアクロンで、ある作例をTwitter上でアップロードした人が居たのですが、彼の上げた作例には、
何と広島原爆の名である「エノラ・ゲイ」が冠されていたのです。設定でも明確に「広島原爆の10倍の威力を持つ大型爆弾を投下する」と記述されており、
これが物議を醸して晒され、炎上する騒ぎとなった結果、その作例を投稿した方はアカウントを削除し、Twitter上から逃亡。
謝罪や納得できる釈明が無いまま、この件は有耶無耶となってしまいましたが、「この件は代々まで恨むぞ」と怒りを露わにする隊員もおり、
奇しくも、先述の表現の不自由展にダブる展開を見せました。

この事を受け、自分は時折問題となる「『表現の自由』を盾にするなら何をしてもいいのか?」という問題を、真剣に考えてみようと思い立ち、
今回は自分の中で考え、構築した持論を展開してみようかなと思います。

まず結論から申し上げますと、先ほどの「何をしてもいいのか?」という問題には、答えはNOです。ええ断じてNOです
何故なら、そう言ったあらゆる「自由」とは、

「何物も傷つけず、また何物からも傷つけられないことが保証されており、且つ
ある程度のルールとマナーが設けられた中で謳歌できるものである」


と思っているからです。

自由と言うのは「厳し過ぎる規制や制限があるからこそ、その殻を破って生まれる」みたいなイメージを抱きがち(自分がそうです)ですが、
こう言ったヘイトになりそうなものは流石にまずい、と一旦は考えるものです。
今回、行政が働いて撤去にまで至った話と、一個人の表現が炎上して本人が逃げた件を勝手にオーバーラップさせ、同列に語っていますが、
幾ら赤いふんどしのおじさん

「慰安婦像は大日本帝国へのヘイトであり、現代日本へのヘイトではなく、平和への思いを新たにする方が今の日本に適している」

と言ったところで、(この一件は韓国側による一部捏造もあると言う話もあり)やはり日本そのものへのヘイトととられかねず、かなり多くの人の怒りを買うのは事実であり、
ましてや広島原爆や長崎原爆の話を取り扱うなら、猶の事だと思います。しかもそう言った話は歴史的な問題でもあるため、
扱いには誰もが慎重にならざるを得ず、正直な所、「幾ら表現の自由と言ってもヘイト創作になりそうなラインは越えてはならない」と思うのですよね。

けど、そういうヘイト創作に対して先鋭化し過ぎたのが今であり、それに便乗するかのように、「この表現はいけない!」「この表現は差別だ!」と、
其々が自分の気に入らない表現や、これってどうなのと言う価値観に基づく正義感を掲げている、
ソーシャル・ジャスティス・ウォリアークソフェミと呼ばれ、ポリティカル・コレクトネスを盾にした煙たがられる存在が跋扈しているのが今だとも思います。
そして、そう呼ばれる方は人一倍「『ゾーニング』にうるさい」という印象もあります。
こう言った場でのゾーニングとは、「物品や情報、サービスなどを年齢別に制限する事」を言います。映画で言う所のPG-12/R-15+/R-18+指定」ですね。
が、その手のゾーニングの話って言い分を聞いてると単に「自分の嫌いなものを排除したいだけのような言い回し」に聞こえるのが往々にしてあるので、
正直「何言ってんだこいつ」で終わるものが大半だった筈なのに、困った事にゾーニングの話は「嫌なら見るな」が罷り通りそうな二次創作界隈でもたまーにあり、
ここから発展して「一部センシティブな表現があるものは注意書きなどを添えた方がいいのではないか?」という暗黙のルールが形作られ、
結構多くの方が「○○注意」「なんでも許せる人向け」などいった注意書きを前置きした上で作品を投稿する、という独特の文化が築かれています。
自分としては、そう言った独自の「暗黙のルール」が築かれた事に関しては、割と前向きに捉えていたりします。
暗黙のルールであるが故に、厳しく制定されておらず、「必ずしも守らなければいけない物」ではないというところが大きいからです。

…やや話が脱線しましたし、長々と語ってとっ散らかってる感が有りますが、俺が考える表現の自由とは

「作り手には最低でもヘイト創作になりかねない表現はしないとか、受け取り手には作品の排除を求める動きをしないとか、
そう言った最低限のルールと、ある一定の『規制』ではく『制限』が設けられた上で、表現ができる事」


が理想なのではないかな?と思います。
ぶっちゃけマルクスばりに理想論語って後は丸投げしてる感がありますが、「自由とはある一定の制限の元に生まれる」という自分なりのイメージを、
短いフレーズに可能な限り集約した結果がコレだったりします。

勿論、これは世の中分かった気でいるようなトーシロの意見ですので、正直詰めれば詰める程ボロが出ると思います。
自分が正直過剰な批判と非難にさらされる覚悟は…ありません。けど自分の意見は言いたいと言うクソ野郎の戯言なので、
何卒、穏やかな気持ちで受け止めてくれることを切に願います。

表現の自由をみんなで考えて守って行きましょうね、という事でお終いとさせて頂くことにして。


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