庭木師は見た!~ガーディナー&フォトグラファー~

庭木師が剪定中に見たあれこれ。

庭木師は見た!~地震と戦争慰霊碑~

2024-05-23 17:48:45 | 日記

        

 能登半島地震で倒壊した古い戦争慰霊碑を見ました。

 碑文を読むと、明治時代の戦争で功績を挙げた軍人の霊を慰めるものでした。

 このあたりには、過去の戦争で活躍した軍人をたたえる碑が少なくありませんが、これはかなり古い方です。

 ふと、作家・新田次郎の有名な小説『八甲田山死の彷徨』を思い出しました。映画やテレビドラマにもなりました。

 日ロ戦争前の冬、日本陸軍が青森県の八甲田山で行った雪の中での訓練で、多くの犠牲者を出した実話を元にしたものです。

 もっとも印象に残っている場面-。

 この雪中行軍の訓練に加わった一人の軍人。彼は、かろうじて生還できたのですが、周囲の人たちは日が経つにつれ、八甲田山の雪中行軍事件のことを話題にしなくなります。

 そうした中、彼は「酒の奴隷」と化します。そして妻に見限られてしまいました。

 ある日のこと。一人酒場で大酒を飲んでいた時、同じ店にいた客の若い男に、「オレは八甲田山の生き残りの勇士だぞ」と告げたのですが、その男性は八甲田山事件の時、まだ生まれていなかったこともあり、「なんだい、八甲田山の生き残りっていうのは…」と言われ、ショックのあまりそのままテーブルにうつ伏せになって絶命したとのことです。

                    ~◆~

 過去の戦争を忘れてはならない、との意味を含めて碑にロープがまかれているのだと思います。

                                          以上

 


庭木師は見た!~能登半島地震とブルーシート~

2024-05-17 18:37:22 | 日記

 能登半島地震で被害を被ったお墓は少なくありません。

 写真の墓もそうですが、見た瞬間、アーティストのクリストとジャンヌ=クロードを思い出しました。パリの凱旋門といった有名建造物や、海岸、水面、樹木となどさまざまなものを布で包む作品で知られています。

 ブルーシートの役割、といいますかそれが持つ意味は、言うまでもないですが、不具合箇所を外部の目から隠し、モノを風雨から守ることにありますが、本来の意味から離れて第三者の目で見ると、なぜか異次元的、非日常的感覚を抱かせることがあります。アート作品に転換と言っていいかもしれません。少なくとも筆者の場合はそうです。痛んだ墓の持ち主には失礼かもしれませんが…。

 

 

 

 

 


庭木師は見た!~能登半島地震のブルーシート~

2024-05-16 15:05:43 | 日記

  

 今年の元日、(※発生が午後4時過ぎですので、「元旦」ではありませんね。NHKのアナウンサーは、元日と元旦の違いが分かっていませんでした)、能登半島で起きた震度7の大地震。

 上の写真は、能登半島の付け根に位置するある墓地です。撮影は5月中旬。

 墓地を管理しているお寺の住職さんによりますと、「(倒壊したは墓の)ご子孫の方は北関東に住んでいて、連絡は取れた。が、墓の状態について伝えたら、“もういいです”との返事だった」と。

 この地との縁が切れて何十年にもなるのだとか…。

 墓石の下に収めてある骨壺が、雨風に当たらないように、お寺でブルーシートをかけたのだそうだ。 倒れた墓を「このままにしておいていいのかどうか…。判断が難しいが、いずれ無縁仏になるのは間違いないだろう…」と、身長182センチの住職は、消え入りそうな声でつぶやいていました。 

                                         (了)

 


庭木師は見た!~“東洋の魔女”の死~

2023-12-22 15:31:47 | 日記

                                                      

         (1964年の東京五輪で金メダルを取った「“東洋の魔女”」チーム)

 

 庭木剪定での骨折事故で入院が1カ月半に及びましたが、この間、いろんな方と言葉を交わすようになりました。

 そのお一人、年齢は70代半ばとおっしゃっていましたが、黙々と病室の掃除をされるその男性とは親しく話すようになり、会話の内容も深まって行きました。

 2023年12月のある日のことでした。

 彼が、病室のマップがけもそこそこに、こう言いながら、手にした新聞を示しました。訃報欄に、1964年の東京五輪で金メダルを受賞した東洋の魔女の一人についての記事がありました。

 「寺山恵美子(旧姓:宮本)さん死去。86才。東京五輪の女子バレーボールチーム、“東洋の魔女”のエースアタッカー」

 ニチボー貝塚チームを中心に構成されて昭和39(1964)年の東京オリンピックに出場、金メダルを取った女子バレーボールチーム。彼女は、大松博文監督、河西昌枝キャップテンに次いで金メダルに貢献した人物です。

 ただ、歳月は流れ、今は-。

 もちろん、私は覚えていました。ただ、目にした記事は、遠い過去のことでしたので、「…えっ、あの宮本が亡くなったの?」と応じたのです。

 掃除担当の彼。「そうか、やっぱりあんたは知っていたか…」と、にんまり表情で。なにが「やっぱり」なのかは聞きそびれましたが。

 彼はこう続けました。「いやあ、姉の子供が、亡くなった宮本と同じ出身地の和歌山にいてね、新聞見たか? と聞いたら「新聞なんてとっていない」とか。…で、宮本の死を伝えたら、なに?  東洋の魔女って?』『ニチボー貝塚? 大日本紡績? ユニチカ?……。知らないねえ』との返事だったという。

 彼は、最後にこうつぶやいたのです。「昭和は遠くになりき、だな」と、元気ない声で。  以上

 

 

 

 

 

 

 

 


庭木師は見た~『キューポラのある街』と吉永小百合~

2023-12-11 16:23:25 | 日記

       

         (『キューポラのある街』(理論社。1963年)

 庭木剪定中に高い脚立から落ちて肋骨を骨折、入院中に筆者が読んでいた本の一つが『キューポラのある街』です。病院の休憩室にある図書コー内にあったその本は、1963年、第六刷とありました。定価は360円。

 入院中は時間があることもあり、パソコンでこの本が今はいくらで売られているのだろうか、調べて見ました。するとある古本屋では、初版本が3万円でした。なるほどですね。

 それはいいのですが、この本には映画『キューポラのある街』のいくつかのシーンが使用されています。添付した写真もその一つです。

 それらを見ていて気付くことがいくつかあります。筆者なりの感想を記せば、まず、モノクロ写真ですが、印刷技術、紙の質が今とは大きく違い、懐かしいこと。次に、映画の舞台となった埼玉県川口市の風景がいまとはまるで違うこと-などです。いずれも誰もが感じるありふれた感想ですが、当時と比べ、あまり変わっていないことが一つあるのに気付きました。

 今から60年以上前の映画なのですが、主演女優の吉永小百合の顔です。

 彼女は、今でもいくつかの広告に登場していますが、どうでしょう。変化が激しい時代の流れと比べるからでしょうか、筆者にはほとんど変わっていないように見えてしかたありません。

                       

 それはそれとしまして、映画『キューポラのある街』の舞台となった川口市の鋳物工場ですが、五味鋳工所という名前でした。もちろんもう存在しません。その工場があった場所は、高層マンション「リビオタワー川口ミドリノ」になっています。このマンションが完成した2006年春、筆者はそこを訪ねました。

 当時のロケ隊は、この鋳物工場周辺の料理屋などで寝泊まりし、吉永小百合は市役所を宿としていたそうです。川口あたりの家はどこも木造の簡素な作りで、監督以下ロケ隊が集まって昼食を取る料理屋もそうでした。

 これは当時、料理屋で皆の世話をしていたある男性の息子から聞いた話ですが、その父親はトイレかたまたま聞こえたある音を、思い出として、ずっと心に留めていたそうです。亡くなるまで。トイレの中に誰が入っていたかは秘密です。…うーむ、納得ですね。                                                    以上