番楽特攻隊長(こっき)

富根のいろいろ!
感じるままに、楽しんで!

私が番楽を始めたのは・・・第3話。

2014-05-15 16:41:23 | 番楽
こっきです。

今回は、少し番楽から離れます。
というのは、例会で集まって、話しているうちに始まった事をお話しします。

7月24日、お祭りの行列の後、昼食を食べながらの話です。
タカヒトさんとの会話で、昔は神社の中に舞台が建ってにぎやかっだったよな~・・・二人で話してました。

確かに私の小さいころは、神社の境内に舞台が建って、歌や踊りが披露され、凄い人でにぎやかな祭りでした。
私は低学年でしたが、はっきりと覚えています。

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その時はといいますと、祭の行列が終われば、神社には誰もいなくなり閑散とした寂しいものになっていました。

そんな話をしていると、タミさんが「おめがだやれじゃ、祭りが寂しくてだめだ」の一言。
よくよく話をすると番楽の先輩達も、過去に何らかの形で舞台に携わってきた人たちでした、協力するからっという話でした。
その時は、そのうち、みたいな返事をして、終りました。

時が過ぎ、そんな話をしたことすら忘れてしまっていましたが、1月の例会で、タミさんが「おめがだやるきあらったが」、「やっるたば、はえぐやらねば、まにあわねど」
先輩たちにさんざん「協力するから」って言われ、7月の祭に向け動き出すことに・・・

とはいうものの、何からなればいいのやらそれすらわからず、とりあえず会館の倉庫の片づけから始めました。
今思うと大変でした、回覧板を回したり、スタッフを集めたり、機材の準備、毎週のように集まって話し合い、そして出し物の練習。
仕事どころではありませんでした。

何とか、実現でき現在にいたる・・・・・・・・・・

今年で6年目に向かって動き出そうとしています。

  

番楽の例会が生んだ新たな動き。
第4話は、番楽に話を戻してお送りします。







私が番楽を始めたのは・・・第2話。

2014-05-14 08:33:30 | 番楽
こっきです。

昨日に続きまして、第2話をお送りします。

1話でお伝えしたのは、きっかけになった出来事でした、今回はその後をお送りします。

夏の二週間程の練習は、アッという間に終わり、次に集まるのは11月の能代市民俗芸能発表会。
そんな年に二回の集まりしかない状態が3年ほど続きました、その間何度か、子供たちの後ろについて踊りを練習してみたりしましたが、練習期間があまりにも短く、とてもものになる状態ではありませんでした。

何もできないながらも、行っていたのは、その当時の区長さんに言われた一言がきっかけです、
それは、「酒ばし、飲んでだってだめだったで」の言葉でした、正直カッチンきました。
この言葉で私は「今は、何もできなくても、年よりしかいないんだから、必ず俺の時代が来ると」その様にとらえたのです。
今考えると、吾ながら凄い解釈をしたもんだ、と思っています。
しかし、この考え方が私を支えたのでした。

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そうして雑用をこなしてるうちに、徐々に師匠達にも存在を認知されていきました。
その頃、町内の役員として同級生でもあるタカヒトさんが入ってきました。
この方との再会がのちに新たな展開を生みます・・・。

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その後まもなくして、番楽に動きが出てきます。
ミツグさんが、保存会を町内会から離して単独にしたいというものでした。
師匠達は反対しました、しかしミツグさんは、「自分が会長としてやるから・・・」っと説き伏せて保存会が立ち上がることとなりました。
そこでまずは例会なるものを月に2回、第2、第3水曜日に集まって練習や話し合いを行うことを提案、これが新たなエネルギーを生むこととなります。

この会は、番楽についての各々の考え方などを話し合う場となりました、時には深夜まで及ぶこともしばしば・・・
マサヒデさんと、酒も入り、意見がぶつかることもありました。

私個人が、子供の頃に番楽をやっていないために、子供の頃からやっていたマサヒデさんとは、考え方が違うのは感じていました、目指すところは同じでもそこまで至るプロセスが違っていたんだと思います。

その当時のマサヒデさんの考えは、何とかして残していかななければいけないと必死でした、ブログや動画配信など・・一人で頑張っていたからです。
一方私はと言いますと、何もできないながらも、自分の考えは持っていました、私のポリシーは「楽しくなければやる意味がない」っというものでした。
それは番楽だけの話だはなく何事もなんですが、無償で自分の時間を削ってイベントやら、でるんで自分たちで楽しまないと続かないと思っているからです。
そこは、大分、マサヒデさんとはぶつかった記憶があります。

例会には様々な年代が集まります、80代~30代までの幅広い年代で意見を交換します、そうしているうちに化学反応でエネルギーが生まれてきます。
くすぶっていたものが燃え上がるまでには、そんなに時間のかかるものではありませんでした。

第2話は、ここまでとします
第3話は、このエネルギーが生んだ新たな動きをお送りします。

私が番楽を始めたのは・・・第1話。

2014-05-13 20:14:24 | 番楽
こっきです。

私自身の番楽の歴史を語ってみたいと思います。

私は長男で神社の近くに家がありながら子供の頃、習っていませんでした。
なぜかは自分では覚えてません・・・しかし師匠達のお話では来るには来たそうです、でも上級生とケンカしたらしくその時から来なくなったそうです。

そして、今から10年くらい前でしょうか? 実家に住むことになったんです。
7月のお祭りの当番にここの地区があたりまして、親父に「今回の行列おめ、いげじゃ」って言われたんです。
別に旗もって歩くだけだし祭自体は好きなんで、「いいよ」っと二つ返事でOKしました。
今思うと、これが引き金となりました。

お祭りには、100人以上の住民で、町を練り歩きます、そこには天狗さん、お神輿、羽立大神楽、駒形ささら、下部通り音頭、そして番楽が参加しています。
これは現代も続いています。

そこに私も旗持ちで参加したわけですが、番楽には個人的に私のことを知ってる方が何人かいませて、そこである方に声をかけられたんです。
「おめ、家さいるったべ、んだば番楽さこいじゃ」ということです、祭りは7月24日で、8月になると、作番楽に向けて練習があるんでそん時に来いっというお誘いでした。
そこは、大人の対応で社交辞令の返事をしてもよかったんですが、メンバーを見たら、私が子供の頃に見た囃子方と全く変わっていませんでした。
これを見た私は、「このままじゃ間違いなく無くなるな~」っと確信したのをはっきり覚えています。
そこで私は「自分に何ができるか解らないけど行ってみるか」っと決意、顔を出すことに・・・・・

まずは、会館に誰よりも早くいって電気をつけて窓を開けて、ここから始めました。これしかできることがありませんでした。
でも、毎晩、アツシさん(私を誘った人)とコウサクさんと終わった後日付が変わるまで酒を飲んでそれもまた楽しくて毎日行った気がします。
しかし、番楽の方では何ができるわけでもなく、師匠達には、常に「こいつ何しに来てんだ」と、いう目で見られていました。

そうこうしているうちに、2週間の練習期間は終了。 作番楽が終わればまた来年、当初の番楽はこんな感じの団体でした。
それは保存会が単独でなく、町内会におんぶにだっこ、だったんで、率先して何かをやろうなんて考えてもできない状況だったんです。
毎年決められたことを淡々とこなしていくそんな味気ない感じでした。
この中で、一人奮起している人がいました・・・マサヒデさんです、この方との出会いが私の番楽人生を変えることとなります。


第2話に続く・・・・・

今一度、番楽に思うこと・・・

2014-05-09 08:46:54 | 番楽
こっきです。

ご無沙汰しております。

今、FBのほうで「富根報徳番楽を支える人々。」と一週間くらい前から更新しているのですが、ある方からとてもうれしいお言葉を頂きましたので、パソコンに向かった次第です。

ここからは私の言葉ではなくその方の文面です。

全国的に名前は知られずとも、郷土芸能(秋田では番楽といいます)を、地道に続けておられる方がいます。
生まれた時からその地に住み、風土を感じながら、番楽と共に歩み、生きた芸能を継承している方々です。
こういった方々には、上方で「能」の一流とされる人にはない魅力や、日本で有名とされている(下手な)芸能人とは全く違う力があると感じます。

以前、私は五城目の中村集落にあるガンバ句を取材したことがありました。
その当時で一番歌を知っていて、一番踊ることができた男性は、足を痛めてからはそれを継承すること叶わず。ほんの3年前のことです。
その男性は「もともと地域外には門外不出だったんだが、このままでは廃れてしまう。地域外の人でも、興味を持たれた方には教えたいと思いはある」
と、悲しそうな表情で話されていました。

私は、その時やってみたいと申し出たのですが、女性では不可ということで、とても残念な気持ちになりました。
今は、五城目は「山内番楽」の子どもたちによる「内川ささら」だけと聞いています。
せめて、それらを地道に継承していく人々が、人間国宝とまではいかなくても、文化功労賞の対象になれば、名前が知れて、継承しようと地域に帰ってくる人や興味があって話を聞きに来る若者がいるかもしれないと思ったりもしましたが、そういう「側」の評価や賞賛、「有名になること」は、もしかしたらこの方々には全く興味ないことなのかもしれません。
無名であるが故、後を継がなければいけないと苦悩する「能」役者のようなプレッシャーを感じることなく、常に身近であり、自然体で、自身の生と共にあることが、更に魅力的な舞台をつくりあげてきたのでしょうから・・・・。

とはいえ、地域外の人間がどんなに「勿体ない」と言っても、そこに住む地域の人々が必要なければ、自然に消えてしまうのが郷土芸能です。
地域外の人間では、本来の意味で入り込めない「仕方のないこと」です。
「単なる郷土芸能ごとき」、「古い芸能」、面倒くさい近所づきあい」。
そうやって、故郷を去って方々の中にも、少しでも思い出としてもらいたい景色があります。自分が何を捨てて、何を選んで今の地に住んでいるのか。

それらを、望んでも、手に入れることのできない人間にとっては、少し羨ましいと思ってしまうのは、無いものねだりなんでしょうけど。

技は、鍛錬の賜物です。
寝食をするように生活の一部として舞ってきた者だけが習得できるもの。
番楽が体に染みついた技というものは、競いようがない。
けれど、彼らの想いを継承していこうと頑張っている若者が、能代にはいます。


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ここからは、これを読んで私の率直な感想を少しお話したいと思います。

おそらく私個人の感想ではなく、会のみんなが共感してくれると思いますが、継承とかあまり考えていません。
番楽は楽しいことをする(酒を飲む)口実であって、大義名分に隠れておいしい酒が飲みたいそれが本心です。
なんで、関係なくBBQなんかもやりますし、師匠と弟子の関係は存在すらしていますが、「仲間」としてのとらえ方が我々番楽には正しい言葉だと感じています。

みんなで楽しくやろう~

これは、9月に神社で行われる「作番楽」に見に来ていただければ、感じていただけると思っています。
是非一度、いらしてください。