奥山城
本殿に行くには拝殿脇のゴツゴツした杉の根っこの階段を昇って行きますが、まぁこれが歩きづらいんです。また雨の時は余計に滑ってさらに大変です。.......
西金砂神社-1
ランキング参加中
慎重に一歩一歩あるいて行くと奥の方に石の階段が見えて来ます。
西金砂神社-2
これがまた急登の階段、最後の難関です。
西金砂神社-3
近づくとこんな感じです。
西金砂神社-4
この急角度を何とか伝えたくて少し屈んで下から縦に撮ってみました。
西金砂神社-5
ひーひー言いながらこの階段を登りきりそして茂みを抜けると前方左手に忽然と本殿が現れます。まぁ本殿というより天守閣ですね。
西暦1180年に源頼朝が佐竹氏討伐に出向いた折、三代佐竹秀義は常陸太田の本城を捨ててここ西金砂山に籠城・応戦、数千の頼朝軍を相手に一歩も引かず奮戦、味方の裏切りにより敗戦となるも落城はしなかったとのことです。まさに天然の要塞ですね。
西金砂神社-6
正面から撮影、本当はもっと引いて全体を撮りたかったんですが、これ以上後ろに下がると崖下に真っ逆さまですのでこれが目いっぱいです。
西金砂神社-7
正面斜め左からもこんな感じでしか撮れません。このフェンスの左は100mはあろうかという断崖絶壁になっています。
西金砂神社-8
西側は眺望が開けていてこんな感じ、中央右側に赤い屋根の建物がかすかに見えます。
西金砂神社-9
ちょっとズームアップしてみましょう、民家ですね。でも周りにはなにも見あたりません、例のポツンと一軒家って感じですかね。
西金砂神社-10
そしてやや南側が我が家方面、はるか遠くにかすかに街並みが見えます。
西金砂神社-11
本殿を見上げると大きな屋根が覆いかぶさっている感じで若干圧迫感を感じます。
佐竹氏は平安時代に那珂郡、久慈郡周辺を支配し、その後紆余曲折の末茨城県北部を治める大名となりました。しかし関ケ原の戦いで中立的立場をとったことから西暦1602年秋田に転封されてしまいましたが、長きにわたりこの地を治めたことから茨城県北部にはここ西金砂神社をはじめ佐竹氏にまつわる名所旧跡が点在しております。また佐竹氏にまつわる逸話などもたくさん残されております。
西金砂神社-12
逸話1
家紋を二つ持っている家があると聞いたことがあります。佐竹氏から拝領した家紋とその後の支配者徳川家向けの家紋のようです。佐竹氏の支配から相当年数経過しているのに佐竹氏に対する忠誠心の高さを感じます。
逸話2
徳川氏は関ケ原の戦いで中立的立場をとったことを理由に佐竹氏を秋田に転封しましたが、その実は佐竹氏の優れた統治能力、武力、財力を恐れ江戸からなるべく遠いところに追いやることが目的だったとの説もあるそうです。そして地政学的にも重要な常陸の地に、お目付けとして徳川家康の11男頼房を初代とする水戸藩を配置したとのことです。徳川氏は佐竹氏をある意味かなり恐れたのかもしれません。話は飛びますが今の秋田県知事「佐竹 敬久」氏も佐竹氏の末裔だそうで、当時からの高い政治能力のDNAを引き継いでいるんでしょうか。(当時の財力の目安のひとつ「金の産出高」をみると、1位は佐渡、2位は甲斐、そして3位がここ常陸だったそうです)
逸話3
佐竹氏が秋田に転封される際に、美人をごっそり連れて行ってしまったという都市伝説ならぬ田舎伝説を聞いたことがあります。そしてこれが秋田美人のルーツになっているとか。しかし佐竹氏は54万石から20万石に減らされての転封であったことから50石100石レベルの家来は連れて行けなかったみたいですので、まぁ都市(田舎)伝説の域はでないような気がします。
西金砂神社-13
裏側に廻って見るとこちらも千尋の谷を思わせる大きな切れ込みになっています。ここを攻め上るのは至難の技と思われます。またここからは間道が延びていて万が一の時はさらに奥に落ち延びられるようになっています。
西金砂神社-14
そして建物の基礎部分は例の強固な男体山角礫岩、セメントを上回る強固な土台になっていて何とも頑丈な作りです。
西金砂神社-15
さてひと回りしましたんで下りることにしましょう。あちゃ~、写真を撮るのに夢中になってしまい拝むのを忘れてしまいました。仕方ありません、拝殿で拝みましょう。
拝殿を後にして社務所の方に下りると途中に第17回(2003年)磯出大祭礼の記念碑がありました。西金砂神社は西暦806年に近江の国の日吉神社の分祀のとして始まり、そして西暦851年に第1回磯出大祭礼がスタート、その後72年に一度ずつ一度も途切れることなく10数年前に第17回目が行われました。この祭りはここ西金砂神社とひと山隔てたところにある東金砂神社の御神体をそれぞれ神輿にのせ1週間かけて日立市の水木浜まで往復する行事です。途中何か所かで田楽舞などを奉納しながら人馬の行列をなし水木浜まで行き御神体を清めるとか、このお清めは一般の人は見られないので内容のほどは判りません。(干しあわびを海水に浸すとかの説も、でもそこは秘密ということで……)
2003年の時は私も近くの学校の運動場で行列と田楽舞を見ました。まぁ見事なものでしたが、何でこんな雅な祭りがこんなど田舎に残っているのかが不思議でたまりませんでした。次の祭りは2075年どう考えてもみるのは不可能、2回見られる人は当たり前ですが非常に少ないそうです。祭りの間隔が72年1回ですから祭りの仔細が分からなくなってしまうのではないかと心配したんですが、そこはうまく出来ていて伊勢神宮の式年遷宮ではありませんが6年に一度小祭礼と称して途中まで行く祭りがあり、いろいろな仕来たりはうまいこと引き継がれるようになっているみたいです。未だに謎は何で72年に一度なのか、12の倍数ではありますが……。
西金砂神社-16
これが御神体がのる御神輿のようです。煌びやかですね。
西金砂神社-17
標高はそんなに高くないんですが山が幾重にも重なって山深いところ、そんなところに1,200年にも及ぶ神秘的な歴史の営みが脈々と受け継がれていました。
久しぶりに来ましたが良いところです西金砂神社、散策して気持ちが洗われるようでした。
またいつか訪れましょう
次回に続く
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本殿に行くには拝殿脇のゴツゴツした杉の根っこの階段を昇って行きますが、まぁこれが歩きづらいんです。また雨の時は余計に滑ってさらに大変です。.......
西金砂神社-1
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慎重に一歩一歩あるいて行くと奥の方に石の階段が見えて来ます。
西金砂神社-2
これがまた急登の階段、最後の難関です。
西金砂神社-3
近づくとこんな感じです。
西金砂神社-4
この急角度を何とか伝えたくて少し屈んで下から縦に撮ってみました。
西金砂神社-5
ひーひー言いながらこの階段を登りきりそして茂みを抜けると前方左手に忽然と本殿が現れます。まぁ本殿というより天守閣ですね。
西暦1180年に源頼朝が佐竹氏討伐に出向いた折、三代佐竹秀義は常陸太田の本城を捨ててここ西金砂山に籠城・応戦、数千の頼朝軍を相手に一歩も引かず奮戦、味方の裏切りにより敗戦となるも落城はしなかったとのことです。まさに天然の要塞ですね。
西金砂神社-6
正面から撮影、本当はもっと引いて全体を撮りたかったんですが、これ以上後ろに下がると崖下に真っ逆さまですのでこれが目いっぱいです。
西金砂神社-7
正面斜め左からもこんな感じでしか撮れません。このフェンスの左は100mはあろうかという断崖絶壁になっています。
西金砂神社-8
西側は眺望が開けていてこんな感じ、中央右側に赤い屋根の建物がかすかに見えます。
西金砂神社-9
ちょっとズームアップしてみましょう、民家ですね。でも周りにはなにも見あたりません、例のポツンと一軒家って感じですかね。
西金砂神社-10
そしてやや南側が我が家方面、はるか遠くにかすかに街並みが見えます。
西金砂神社-11
本殿を見上げると大きな屋根が覆いかぶさっている感じで若干圧迫感を感じます。
佐竹氏は平安時代に那珂郡、久慈郡周辺を支配し、その後紆余曲折の末茨城県北部を治める大名となりました。しかし関ケ原の戦いで中立的立場をとったことから西暦1602年秋田に転封されてしまいましたが、長きにわたりこの地を治めたことから茨城県北部にはここ西金砂神社をはじめ佐竹氏にまつわる名所旧跡が点在しております。また佐竹氏にまつわる逸話などもたくさん残されております。
西金砂神社-12
逸話1
家紋を二つ持っている家があると聞いたことがあります。佐竹氏から拝領した家紋とその後の支配者徳川家向けの家紋のようです。佐竹氏の支配から相当年数経過しているのに佐竹氏に対する忠誠心の高さを感じます。
逸話2
徳川氏は関ケ原の戦いで中立的立場をとったことを理由に佐竹氏を秋田に転封しましたが、その実は佐竹氏の優れた統治能力、武力、財力を恐れ江戸からなるべく遠いところに追いやることが目的だったとの説もあるそうです。そして地政学的にも重要な常陸の地に、お目付けとして徳川家康の11男頼房を初代とする水戸藩を配置したとのことです。徳川氏は佐竹氏をある意味かなり恐れたのかもしれません。話は飛びますが今の秋田県知事「佐竹 敬久」氏も佐竹氏の末裔だそうで、当時からの高い政治能力のDNAを引き継いでいるんでしょうか。(当時の財力の目安のひとつ「金の産出高」をみると、1位は佐渡、2位は甲斐、そして3位がここ常陸だったそうです)
逸話3
佐竹氏が秋田に転封される際に、美人をごっそり連れて行ってしまったという都市伝説ならぬ田舎伝説を聞いたことがあります。そしてこれが秋田美人のルーツになっているとか。しかし佐竹氏は54万石から20万石に減らされての転封であったことから50石100石レベルの家来は連れて行けなかったみたいですので、まぁ都市(田舎)伝説の域はでないような気がします。
西金砂神社-13
裏側に廻って見るとこちらも千尋の谷を思わせる大きな切れ込みになっています。ここを攻め上るのは至難の技と思われます。またここからは間道が延びていて万が一の時はさらに奥に落ち延びられるようになっています。
西金砂神社-14
そして建物の基礎部分は例の強固な男体山角礫岩、セメントを上回る強固な土台になっていて何とも頑丈な作りです。
西金砂神社-15
さてひと回りしましたんで下りることにしましょう。あちゃ~、写真を撮るのに夢中になってしまい拝むのを忘れてしまいました。仕方ありません、拝殿で拝みましょう。
拝殿を後にして社務所の方に下りると途中に第17回(2003年)磯出大祭礼の記念碑がありました。西金砂神社は西暦806年に近江の国の日吉神社の分祀のとして始まり、そして西暦851年に第1回磯出大祭礼がスタート、その後72年に一度ずつ一度も途切れることなく10数年前に第17回目が行われました。この祭りはここ西金砂神社とひと山隔てたところにある東金砂神社の御神体をそれぞれ神輿にのせ1週間かけて日立市の水木浜まで往復する行事です。途中何か所かで田楽舞などを奉納しながら人馬の行列をなし水木浜まで行き御神体を清めるとか、このお清めは一般の人は見られないので内容のほどは判りません。(干しあわびを海水に浸すとかの説も、でもそこは秘密ということで……)
2003年の時は私も近くの学校の運動場で行列と田楽舞を見ました。まぁ見事なものでしたが、何でこんな雅な祭りがこんなど田舎に残っているのかが不思議でたまりませんでした。次の祭りは2075年どう考えてもみるのは不可能、2回見られる人は当たり前ですが非常に少ないそうです。祭りの間隔が72年1回ですから祭りの仔細が分からなくなってしまうのではないかと心配したんですが、そこはうまく出来ていて伊勢神宮の式年遷宮ではありませんが6年に一度小祭礼と称して途中まで行く祭りがあり、いろいろな仕来たりはうまいこと引き継がれるようになっているみたいです。未だに謎は何で72年に一度なのか、12の倍数ではありますが……。
西金砂神社-16
これが御神体がのる御神輿のようです。煌びやかですね。
西金砂神社-17
標高はそんなに高くないんですが山が幾重にも重なって山深いところ、そんなところに1,200年にも及ぶ神秘的な歴史の営みが脈々と受け継がれていました。
久しぶりに来ましたが良いところです西金砂神社、散策して気持ちが洗われるようでした。
またいつか訪れましょう
次回に続く
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