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どうも、こんにちは。
毎年夏になりますと、京都とその周辺の寺社では、様々な行事が開催されます。
その中には、妖怪や幽霊の伝説や伝承に関するものもあります。
今回紹介する京都・寺町通りに建つ古刹・行願寺で8月の「六地蔵巡り」の時期にのみ公開されるという「幽霊絵馬」の公開も、そのひとつです。
その「幽霊絵馬」には、今で言う虐待死させられた少女とその幽霊の伝承が残されています。
『京都妖怪探訪』をやっている者としては、是非とも観に行かなければ、と思い立ち、行ってきました。
まずはいつもの通りアクセスから。
今回は京都市営地下鉄「京都市役所前」。
駅と直結しているゼスト御池地下街の出口11から、京都市役所の西を縦断する寺町通りに出ます。
近くには京都市営バス「京都市役所前」停留所もあります。
そこ(市役所の西側)から寺町通りをしばらく北へと歩き続けます。
すると、行願寺の立派な山門が見えてきます。
この行願寺は、寛弘元年(1004年)、行円上人という高僧によって創建されたとされています。
ここには、京都市営バス「河原町丸太町」停留所からも近いです。
元々は一条小川の辺りに創建されたそうですが、過去何度かの火災で焼け、再建や移設を経て、現在の地に建っているそうです。
案内板には、創建のことと、創建者・行円上人の話と共に、ここが「革堂(かわどう)」とも呼ばれるようになった由縁も書かれていました。
ここの創建者・行円上人は、出家前は猟師をしていたそうです。
ある時、山中で一匹の牝鹿を狩ったところ、その腹の中から子鹿が生まれ落ちました。母鹿は苦痛に悶えながらも、生まれた子鹿を愛おしんで子鹿の身体を舐めていましたが、やがて息絶えました。
それを見た行円上人は罪の意識に囚われ、それまでの殺生を悔い、出家しました。
比叡山で修行をし、行願寺を建てた行円上人は、その時の母鹿の皮に経文を書き、常に身に付けながら諸国を行脚したと伝えられています。
その為、行円上人は「皮聖(かわひじり)」と、上人が建てた行願寺は「革堂(こうどう)」と呼ばれるようになったのです。
まずは本堂に礼拝します。
さて、旧暦の「地蔵盆」、京都で言えば「六地蔵巡り」のある何日かの間、ここでは「絵馬供養」という行事が行われます。
(※京都「六地蔵巡り」については、シリーズ第209回から第216まででとりあげています)
この時期にのみ、普段は非公開となっていますが、この寺に伝わる「幽霊絵馬」が公開されます。
本堂のご本尊の前に、少女の幽霊の姿が描かれ、生前の少女が持っていたという手鏡がはめ込まれた「幽霊絵馬」が、安置されていました。
この「幽霊絵馬」については、次のような話が伝わっています。
江戸時代の終わり頃、この革堂の近所に質屋があり、この店の主人・八左衛門という人物は、強欲で気が荒く、「鬼の八左衛門」と呼ばれ、嫌われ、恐れられていました。
今で言うと、パワハラ経営者みたいな人物でしょうか。
その八左衛門には幼い子供が生まれ、仕事で多忙な八左衛門には子守りを付けよとしましたが、嫌われ者の八左衛門のところに子守に来てくれる人が見つかりません。
そこで近江の貧しい農家の娘、ふみを奉公人として迎えました。
その時、母からもらった手鏡を肌身離さず持っていました。
ふみは八左衛門の子供に、近くの革堂から聞こえてくる御詠歌を子守歌の代わりに聞かせていました。
子供は喜んでいましたが、ある時八左衛門はそれを聞いて激怒します。
何故なら八左衛門は熱心な法華(日蓮宗)信者であり、天台宗である革堂の御詠歌を子供にきかせるのが許せなかったからです。
八左衛門はふみに殴る、蹴るの暴行を加えたあげく、遂には殺してしまいました。
そして遺体を隠し、「ふみは家出をした」と誤魔化します。
文を探す両親は、生前ふみがよく通っていたという革堂の観音様に祈り、その晩は革堂に泊まりました。
その晩、ふみの幽霊が現れ、両親に全てを話します。
翌朝ふみの両親は奉行所に訴え出たので、ふみの亡骸は発見され、ねんごろに葬られました。そして供養の意味で、ふみの姿を描き、ふみが持っていた手鏡をはめ込んだ絵馬を、革堂に奉納しました。
それが今もこの古刹に伝わる「幽霊絵馬」です。
なお、悪事を暴かれた八左衛門はその後、捕らえられた死罪になたっとも、流罪の後罪を悔いて出家したとも伝えられています。
「幽霊絵馬」の撮影は禁止されていた為、その姿をここでお届けすることは出来ませんが。
そこには10歳というには妙に大人びた感じの、痩せた、はかなげな感じのする少女の姿が描かれていました。
御朱印も頂きました。
ひとつは「革堂」の御朱印、もうひとつは
「 花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん」
という御詠歌です。
おそらくはこれが、生前のふみが子守歌代わりに歌ってたであろう御詠歌です。
この絵馬と御詠歌が、これからもこの悲劇を伝え続けるものとして、遺されていくのだろうな、とそんなことを考えながら、この古刹を後にしました。
今回はここまで。
また次回。
*行願寺の周辺地図はこちらへ。
*‘革堂’行願寺のHP
https://saikoku33.gr.jp/place/19
*『京都妖怪探訪』まとめページ
https://kyotoyokai.jp/
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