千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

大浜と柳町

今回は先日フラッと行った福岡市博物館の書店で偶然買い求めた
「博多に生きた藩医」て言う書籍から。
現在、大博町にある「原三信病院」の原家の歴史が書かれた本です。
おいしゃんここの初代が蘭方外科医の免状も受け黒田藩の藩医
原三信さんやったていうとば初めて知りました。
昔は藪医者、藪医者ておやじたちが言いよったけどすみまっせんでしたやね(>_<)

この本に博多の歴史も詳しゅう書いてあり勉強になります。
現在の原三信病院の住所は「博多区大博町」です。
昔は「大浜」て言いよって小学校もあった「大浜地区」であります。
現在の大博町の区域です。


その昔はこのあたりから今の奈良屋町も含めて海岸線でした。
先日書いたごと古渓町辺りには魚問屋が集まっとったらしいですけんね。

そして石堂川に面した竪町から西へ順に
竪町浜、金屋町浜、浜口町浜、鏡町浜、市小路浜
萱堂浜、西町浜、芥屋町浜、西方寺浜て言いよって
これば総称して「大浜」て言いよりました。
今も横町筋て呼ぶあの横筋の北側辺りです。
昔の原三信病院の住所も「博多大濱鏡町下ル」やったらしいです。
追山コースの北限がこの辺りて言うとも納得ですね(^^♪
そして明治8年にこの辺りは大浜1丁目~4丁目と名称ば変えました。
そのご埋め立てがすすみ海岸線や無うなってきて昭和41年の
町名改正によりこの町名は消滅し現在の町名は大博通の東側が
大博町、西側が紙屋町となっております。

この大浜1丁目にあったとが「柳町遊郭」です。
もともと100町あった博多の町で寺中町とこの柳町の二町は
「流」に属しておりませんでした。
この「柳町遊郭」は大門通入って左側に「若葉楼」「大黒楼」「三吉屋」
「三浦楼」「一新楼」があり右側には「金玉楼」「朝日楼」「三ヶ月楼」
「酔多楼」「吾妻屋」「万花楼」「月見楼」やらが軒を並べたそうです。
「三浦楼」やらはなにやら場所的に水炊きのにおいのしませんか?(^^♪
明治21年には芸娼妓のために翆糸学校(文字と裁縫を教える学校)もできたほど。
すぐ横がこげな場所やけん原病院はいまでちゃ泌尿器科が得意っちゃろうか?(^^♪
それ以外にも川下沿いに埋め立てた新開地に女郎屋が立ち並び始め「新築(新茶屋)」て呼ばれました。
新茶屋で芸者上げてから大門通の古町の楼に繰り出しよったとが
のちに新茶屋にも営業許可が下りてますます柳町は賑わったようです。

ちなみに今の大博町は海岸線やった竪町浜で水難事故やら遊女の身投げやらがあり
それば弔うことから始まった「流灌頂」が夏の終わりに執り行われよりますね。

明治32年に千代の松原(現在の千代町から箱崎あたり)に
県立病院が新築移転、その後その場所に医科大学ができることが決まります。
現在の「九州大学」ですね。※今は移転したばってん・・
そこで「大学のそばに遊郭があるのは、好ましくない」て言う声が・・・
時の財閥、渡辺与八郎(渡辺通の名称のもと)が住吉村(現清川)の土地ば
買収分乗してそっくり移転させるごと相成ったて言うことです。
昔博多の町ば走りよったチンチン電車の環状線、天神~新柳町~博多駅
千代町、海岸線通って天神・の考案もこの与八郎さんです。

この与八郎さんは福博の町に多大な貢献ばした人で博多町民からも慕われとりました。
市名が「福岡市」に決まった時、博多んもんは怒りが収まらず手に手に武器ば持って
博多んもんがどんだけ福岡に税金納めよるか?税金払わんぞと気色だって
与八郎さんのもとに談判にきたそうな。
福岡の発展に今は我慢してくれと説得してこのチンチン電車はじめ福博の町に
貢献したて言います。

※柳町・寺中町
昔、博多には100の町がありその数ケ町から十数ケ町の町組が一つの流ば
形成して各流で自治を執り行って生活しておりました。
しかしこの柳町は遊郭、寺中町は芝居を行う者たちの住む町(聖福寺境内)でした。
もともと芝居は現世と死の世界をつなぎ演じるといわれるものであったことから
この二つの町は博多の「流」には属しておりませんでした。
いわば「非日常」て言う意味があったとでしょう。

今回はこの辺で・・・・

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