ふと「懐かしい」とつぶやいてしまう木造校舎。
直火キャンプを楽しむ人やトレッキング客しか踏み込まなくなった豊丘村の山里奥に、しっかりとした姿で建っていた。
歴史の風格を残す欧州の街に羨望を持ち、日本の木造建造物の耐久性と限界を嘆くのは、きっと間違いなのだろう。
確固とした石造りの街と同様、木造建造物もまた歴史を語り継げるものなのだと、日本の各所に点在する木造建造物が示してくれる。
ただ寂しいのは、建造物は点在していても、面として存在する「まち」が、歴史を想像できないほど変貌しまっているということだけなのだ。
*豊丘南小学校野田平分校:へき地等級3級、昭和51年休校、昭和56年閉校。
門柱の脇にある「望郷の碑」に「最盛期七十戸のも満州移民三六災害等により27戸に減少した 益々進む過疎化に対処し住民の総意により移転を決意し村の指導を仰ぎ集落整備事業により昭和55年新天地への移住を完了した」と記される。
直火キャンプを楽しむ人やトレッキング客しか踏み込まなくなった豊丘村の山里奥に、しっかりとした姿で建っていた。
歴史の風格を残す欧州の街に羨望を持ち、日本の木造建造物の耐久性と限界を嘆くのは、きっと間違いなのだろう。
確固とした石造りの街と同様、木造建造物もまた歴史を語り継げるものなのだと、日本の各所に点在する木造建造物が示してくれる。
ただ寂しいのは、建造物は点在していても、面として存在する「まち」が、歴史を想像できないほど変貌しまっているということだけなのだ。
*豊丘南小学校野田平分校:へき地等級3級、昭和51年休校、昭和56年閉校。
門柱の脇にある「望郷の碑」に「最盛期七十戸のも満州移民三六災害等により27戸に減少した 益々進む過疎化に対処し住民の総意により移転を決意し村の指導を仰ぎ集落整備事業により昭和55年新天地への移住を完了した」と記される。
こういうところは、今ではちょっとした財産ですね。愛着を持って維持していってもらいたいな、と思います。
思い出しました。
寂しい風景の中に、懸命に生きている人々。
レベルは違うかもしれませんが、
「四賀」にも、大きな可能性を感じています。
ただし、ほんのちょっとした、
でも、ちょっと簡単には乗り越えられない、
障壁が立ちはだかっているのです。
「木」「土」ETC。
アイデアを、お貸しください。