見果てぬ夢

様々な土地をゆっくりと歩き、そこに暮らす人たちに出会い、風景の中に立てば、何か見えてくるものがあるかもしれない。

卒業式という儀式

2007-03-17 23:32:09 | 文化・映画・演劇・音楽
二日連続して小学校、中学校の卒業式に来賓として出席し、祝辞を代読した。

私の友人には、日本の儀式にアレルギーを覚える人たちが少なくない。日本の集団主義的儀式が個々の主張を封じ込め、没個性を生み出しているのではないかと危惧している。そうした友人たちの多くは、組織に所属することに警戒し、個人で生きる道を選択している。

実は、私はそれほど儀式が嫌いではない。儀式には個人的な儀式と集団で行う儀式(集団的儀式)とがあるが、前者は苦手で、後者にはある種の畏敬を感じる。こういうと、カルトを含めて全ての宗教集団を受容するのだと思われるかもしれない。そうなのかもしれないし、そうではないかもしれない。
最初の結婚で、披露宴のストーリーを説明した時に、母から非難されたことがある。何が彼女の怒りの的だったのか定かには覚えていない。ただ、明確に記憶しているのは、「あなたは日本の伝統を否定したいのね」という言葉。
もちろん、そんな気持ちはない。ただ、自分が納得いくストーリーで展開したかっただけのことだった。

小中学校の卒業式は、年々変化している。この地域の小学校では、ステージを使わず、体育館の床を余すことなく使い、卒業生・父母+教職員・低学年・高学年をロの字型に据えた体形である。全員が対面する。送辞と答辞の代わりに全校生徒の掛け合いの合唱で儀式のクライマックスを演出する。

卒業式は、別れをイメージさせ情感を刺激する演出が各所に施されている。
私は、その戦術にはまった一人だ。
子どもたちの熱の入った合唱にこみ上げるものがあり、ぐっと堪えたのだが、目の前が見えなくなってハンカチを出さざるを得なかった。それが集団主義への感動なのかどうか、自分自身の問いに答えを見出すことができない。人間が儀式に忠実であることと、逆らうことのどちらにエネルギーが必要であるかと問われると明確に答えることができない。子どもたちの創り出す「一生懸命」に理屈無く揺れる。

前例踏襲主義や集団主義への違和感をもつ自分の、異なる心の動揺については明確に説明することができない。「けじめ」という都合の良い言葉で始末してはいけないのだと感じてはいる。が、実は、説明できない自分の姿をもてあますことがけっこうあるのだ。


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