見果てぬ夢

様々な土地をゆっくりと歩き、そこに暮らす人たちに出会い、風景の中に立てば、何か見えてくるものがあるかもしれない。

「感情移入できない」主人公の苛立ちとは

2006-09-15 23:35:22 | 文化・映画・演劇・音楽
日本中を「自己責任論」の渦に巻き込んだ「イラク日本人人質事件」を題材にした小林政広監督の『バッシング』を観ました。

あの時、日本中がどうしてあれほど絶対的確信をもって「自己責任」を口々に唱えたのか、マスコミが先導した異常なまでの国粋主義的世論に背筋が寒くなったことを、映画を観ながら思い起こしていました。

04年4月に3人の日本人が誘拐された「イラク人質事件」は、いつのまにか記憶の隅に沈んでしまい、先日の911テロ5周年の際にも、実は、一片も思い浮かばなかった。記憶なんてそんなものなのかもしれませんが。

映画そのものは、小林政広監督の好きな役者や彼自身の生き方の模索の中から生まれたというだけあって、彼が映画をツールとしてその事件を語りたいという強いメッセージは感じられず、観終わった後に残るのは、主人公の理不尽さや悔しさをかみ締める顔だったり、父親が自殺した直後の曇り空の下の浜辺に寄せる波だったり、それぞれの場面としての印象的な映像でした。

あの事件は、国と個人、国民と市民など、普段意識してこなかった関係性について突きつけられた衝撃的な出来事でしたが、少なくてもこの映画は、逃げ道を許さない問いかけではなく、ゆるやかに起こりうる事例を語りそれぞれが感じるままに観ることのできるつくりとなっていました。

小林政広監督をゲストに迎えた上映後のティーチインで、司会をしていた青年が、盛んに「主人公の有子が最初から苛立っていて、その言動に感情移入できなかった」と、監督の設定意図を聞きたがっていました。
観客が主人公の言動に共感できないような作り方をどうしてしたのかを聞きたかったようなのですが、監督がそれに答えなかったのは、彼の質問の本意がわからなかったのかもしれません。主人公に感情移入することが観客に必要なのかどうか、あるいは主人公の言動を批判する観客そのものを相手にしないのか、その場の雰囲気では、小林監督の気持ちを読み取ることができませんでしたが。

映画の完成後、配給会社からことごとく上映を断られていた「バッシング」が、国際映画祭などで評価されてようやく日本で公開されるようになったという実情も、日本人を語るに有効な材料かもしれません。

結論も着地点もなく何となくうやむやにして、いつの間にふたをしてしまったこの一連の事件。ほとんど忘れかけていた自分も、多数に入る小市民の一人であることの認識を突きつけられた夜でした。


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