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今頑張ってホームページのリニューアルを試みているところだ。6月くらいから始めてようやく完成に近づいてきた。今回特に希望したのは、細目にアップデートできることと自分の空手の集大成みたいなページを作りたいということだった。項目としては、従来通りの道場案内と稽古スケジュールに加えてインフォメーションとWEB道場の項目を加えた。インフォメーションでは、時々のトピックを写真入りでアップしたり塾生の皆さんに伝えたいお知らせを掲載していくことにした。そして最も苦労しているのが、WEB道場でこれが自分が今まで半世紀にわたって続けてきた空手道のある種の集大成をまとめたいと思ったからである。
精神的にも肉体的にも、最近はっきりと「前とは違う」という強迫観念に近い自覚が生まれてきている。その自覚が自分を責め立てて、何か形として残さないといけないという行動を起こさせたといえる。そういう思いは漠然と以前から感じていたのだが、親の死んだ年齢に近づくにつれ、そういう思いは強まってきた。肉体の衰えと精神の萎えの競い合いの中でぎりぎり空手を続けてきたのだが、衰えと萎えに抗おうとするのはなぜかというとその裏側には「死」があるからだと思う。「死」に直面すると突然として現れてくるのが、「生」の実感のような気がする。
戦後、特に平成の世になってからの我が国日本は、命の大切さ、長寿を祝う風潮、健康賛美、人権平等社会等々を偏重してきたため、なぜか世の中が嘘っぽくなってきたような気がする。いや、世の中だけでない。己のやってきた空手の世界でも嘘にあふれているではないか。何のために体を鍛えてきたのか、技を磨いてきたのか、ただ単に体を鍛えてきたのだけに過ぎないのではないか。それが何の役になったのか、人の助けになったのか。現在の日本国憲法は、うその塊で虚構の世界である。ただ言葉だけに存在する人権や平等、平和をあたかも世界に充満しているような錯覚の中で無理に生きているにすぎない。空手の「極め」も同じ状態に陥ってないか。「一本勝負」もそうで、単なる「技の出来具合」に依っているだけではないか。
西南戦争で最後に自刃した西郷南洲公も、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で 割腹自決した三島由紀夫も、挫折や敗北の中で生まれてきたものではないような気がする。生や死を超えた「生」の形であったような気がする。つまり生に裏打ちされた死であり、死で裏付けられた生ではないか。
いまだ自分の続けてきた空手というものが、自分にとってなんであるのか、空手はどうあらねばならないのか、断言できるようなものはない。ただ父親とは子供の記憶の中で生きるものだといわれるように、自分の作ってきた歴史の中で、自分が生きているのを見るのが人生ではないかと思うようになってきた。三島由紀夫の本「太陽と鉄」のなかで、文武両道を説いた部分があるが、「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることであるというくだりが頭に残る。これが今の自分の心情である。
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