冬は冷よりも熱燗がいい。日本酒の話だが、自分も最近熱燗がいいなと感じるようになった。夏のビールはのど越しがいいというが、冬の熱燗は食道や胃にしみわたる温かみがいいのだ。ウイスキーもややこれに似た感覚はあるが、温かみはそれほど味わえないのではないか。やはり燗酒はいいものだ。しかしこんないい燗酒も今まで呑み屋で気楽に熱燗を頼みにくい風潮があった。いわゆる燗にしていい酒と、冷でやるほうがいい酒を厳然と主張する呑み屋が多かった。が、今では何でも燗にしてくれるようになった。本醸造だけでなく純米酒や吟醸酒もなんでも気楽に燗にしてくれる。潮目が変わったなと思う。考えるまでもなく、燗で飲むか、冷でやるかはその人の好みの問題で他人がとやかく言うものではないのは当たり前のことである。しかし周りの空気が、なかなかそうはさせてくれなかった。
燗にしてもそのやり方でいろいろうんちくがある。電子レンジでチンはありえないというだろう。湯煎で温めるにしても徐々に温めて行って、適温になったら上げて飲む派と、いやいやいったん熱々にして外で冷やして適温で飲むほうがいい派とがある。しかもその適温自体にもいろいろ一家言があるのだ。人肌がいいとかぬる燗がいいとか熱燗だろとか。これもその人の好みで構わないのだが、何が正しいのだろうかと考えてしまう。この酒は熱燗では風味が損なわれるとかどのあたりの温度がいいのだろうかと考えあぐねてしまうのだ。おまけに酒器についても形だとか色だとか盃の形だとか全くいろいろなご意見が世間ではあふれている。まあ自宅でやるときはこんな面倒なことは一切起こらないので、まったく気楽でいいのだが、まったくうるさい世の中になったものだ。本来気にしなければいいのだが、それほどその道に自信がないときは、あれやこれやといらないことまで考えて身構えてしまいがちになってしまう。
世の中、全体を見回すと、まさにポリコレの集団ヒステリー状態に我が国は陥っているのではないか。問題が起きるとその瞬間瞬間にすばやく自分の立ち位置を決めないと、後でひどい目にあってしまう。しかもその判断基準は、深く考えないで表面的で薄っぺらな「一見正義」な判断基準に寄ってしまう。だから平等、人権、環境、平和など当たり障りのない議論に落ち着いてしまう。まあ、個人の感情とか意見とか、国の伝統とか風習などに深入りしないのが良しとされる。最近では米大統領選挙だとか森五輪組織委員長の発言問題だとかミャンマーのクーデター問題などマスコミの伝え方や立ち位置の違いの問題はあるが、結果からみると本当にこの解決結果でいいのだろうかと考えてしまうことが実に多いのではないか。
燗酒や世の中の出来事のポリコレ的解決方法などで疑問に思ったら、とにかく自分流に考えて、自分の頭で考えた判断の結果に従っていくほうが、たとえそれが間違っていたとしても納得がいくのではないだろうか。違いますかね。