昨日の礼拝のメッセージの中の、ある“たとえ“ が印象に残ったので記します。
“極寒の地の、とてつもなく広い空間の片隅にストーブがある。 温まろうとするなら、ストーブの前に行くべきなのに、ストーブから、一番遠い所に居て、寒い寒い、ストーブの性能が悪いと文句を言っている人を見たら、あなたは、どう思うか?“
こんなたとえでした。
私たちの創造主であり、私たちを愛し、私たちにとって最善の道を用意し、そこに導こうとされる神様。
ところが、その神様を無視し、自分を自分の神として思いのままの道を歩み、思い通りの結果を、あるいは幸せを得られないと、神様に文句を言う私たち。こんな人間の姿を表すたとえでした。
「御子(イエス•キリスト)を信じることが者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」(ヨハネ 3:18-20 )
確かに、神様は聖なる方であり、私たちの罪を裁かれます。 罪を犯さずに生きていけない私たち人間は、神の裁きを恐れます。
けれども同時に、神様は愛なる方です。その恵みにより、私たちをその罪の裁きから救うために、最愛なる御子イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかり、私たちの身代わりとなって、本来私たちが受けるべき罰を受けて下さるようにしてくださいました。
私たちは、自分が罪人であると認めて悔い改め、イエスキリストを救い主と受け入れることにより、永遠の裁きから、救われるのです。
神様は、私たちが罪人であることを、私たち以上によくご存じです。その上で、私たちを許そうと、待っておられるのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
(ヨハネ3:16-17)