狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

値段が付けられないもの

2020年11月27日 | 聖書
昔のインドでのこと。
ランバウという、真珠を取ることで暮らしているおじいさんと、アメリカから来た宣教師が出会って2年後の話です。

おじいさんには、家族がなかったので、その宣教師は、それまでの2年間、色々と、おじいさんの力になってあげました。 おじいさんは、次第に、宣教師に心を開き、宣教師が語る“キリストの救いの福音“を、よく聞いてくれるようになりました。 おじいさんは、神様がおられること、神の御子イエス様がおじいさんの罪のために死なれたこと、そして、イエス様が死後3日目によみがえられたことは、よくわかったのでした。 けれども、おじいさんには、罪を悔い改めて、イエス様を救い主として信じるだけで救われるということが、納得できなかったのです。それというのも、おじいさんは長い間、“一生懸命、努力し、頑張ってこそ、神様に認められ、救われる“という、イスラム教の教えを信じていたからでした。

ある日、おじいさんは、大切な話をするために、宣教師を自分の家に招きました。 宣教師がおじいさんの家を訪ねると、おじいさんは部屋の奥から、とてつもなく大きな真珠を持ってきました。 そして、おじいさんは、話し始めました。

“私には、息子がひとりいました。 それはもう、すばらしい腕前の真珠取りでした。 けれども、この真珠を取るために長時間潜りすぎて、息の限界を越えてしまいました。そのために、水から上がってすぐに死んでしまったのです。“

おじいさんはうなだれて、その全身が小さく震えていました。

“それからずっと、この真珠をとっておきました。 でも私は、これから巡礼の旅に出かけます。 もう、帰ってくることがないかもしれません。 だから、この真珠を、私の一番の友達であるあなたに差し上げたいのです。“

宣教師は非常に驚きましたが、その時、あるアイデアが浮かびました。

“ランバウさん!何という素晴らしい真珠でしょう!こんな素晴らしい真珠をただで受け取ることはできません。 お金を払います。 一万ドルで、どうでしょうか?“

と、宣教師は言いました。
ところがおじいさんは、硬い表情になって答えました。

“お金なんかで売れません!どんなに大金を積まれても嫌です!この真珠は、私にとって、かけがえのないものです。 お金には変えられません。 たとえ、市場で何百ドルの値段が付いたとしても、手放すことはできません。 あなたに、贈り物として、受け取って欲しいのです。“

宣教師は、答えました。
“いいえ、ランバウさん、私には受け取れません。 私は、そんなに素晴らしい真珠をそんな風に手に入れたくないのです。お金でも、何でも、それ相応なものを、引き換えに、支払わなければ気が済みません。“

おじいさんは、唖然としました。
"先生は、私の気持ちを少しもわかってくださらないのですね…。 私のひとり息子が、この真珠を取るために死んだのです。 この真珠には、私にとっては、私の息子の命と同じ価値があるのです。 どんなにお金を積まれても売れません。 大切なものだからこそ、差し上げたいのです。“

宣教師は、おじいさんの手をつかんで言いました。
“ランバウさん!私が今言ったことは、そっくりそのまま、あなたが神様に向かって言っていた事なんですよ!“

おじいさんは、長い間、宣教師の顔を見つめていました。 そして、次第に宣教師が言いたいことがわかってきました。
宣教師は、続けました。

“神様は、何かと引き換えに、救いを下さるのではないのです。 その救いは非常に大きなもので、神様の最愛の御子イエス様のいのちがかかっているのですよ。 だから、値段が付けられないのです。 何百ドル積んでも、たとえ何百年生きて働いたとしても、何百回巡礼を繰り返しても、イエス様のいのちと引き換えにはならないのです。 ただ、罪人である私たちのために、神様が与えて下さった愛のしるしとして、受けることを神様は、望んでおられるのですよ。…もちろん、私は この真珠を、素晴らしい贈り物として、受け取ります。 ランバウさん、あなたも、神様が下さる罪の赦し、天国での永遠というプレゼントを、お受けになりませんか?“

大粒の涙がおじいさんの頬を流れました。 ついにおじいさんは、理解できたのです。

“先生、やっとわかりました。 この二年間、私はイエス様の教えには納得したものの、その救いがただで与えられるということだけは、信じることができませんでした。 けれども今、やっとわかりました。お金でも買えず、働いても手に入らない、何にも代えることが出来ないほど尊いもの…
私も、今、イエス様の救いを、喜んでお受けします。“

(比類無き真珠より)


神の御子? ただの善人?

2020年11月24日 | 聖書
“彼は誰ですか?“
イエスを取り巻く群衆の何人かは、こう尋ねました。
もし、私が、あなたに同じ質問をしたら、あなたは何と答えますか?
“彼は、善人でしたが、人々は、彼を不当に罪に定めて十字架につけて殺しました。“
これが、あなたの答えでしょうか?

しかし、イエス様の弟子のひとりであるペドロの答えは、こうでした。

“あなたは生きる神の子キリストです。“

すると、イエス様はペドロに言われました。

“あなたは幸いです“。

後にイエス様は、次のように宣言されました。

“私は神の子であり、父は私を、この世に送りました。 私は天から下ってきました。“

あなたはこれを信じますか?また、福音書にあるように、十字架につけられた後、イエス様が死からよみがえり、天に昇られたことを信じますか?それとも、“いいえ、イエスは私たちのような人間だったのだと思います。善を行った人間です。“と答えますか?

はっきりさせておきましょう。 イエスは神の子です。 彼を神の御子と信じないのであれば、あなたはイエスを嘘つきな、ペテン師とすることになります。
“あなたは人間でありながら、自分を神として、神を冒涜している。“ という理由で彼を殺した当時のユダヤ人たちと同じ考えです。

ペテロは、イエスを神の子として信じました。 また、彼は「私は罪深い人間だ。」と認めなければなりませんでした。
どうか、あなたも、ペドロが言った、この二つのことを、真剣に考えて下さい。

“あなたは生ける神の子キリストです。“

“私は罪深い人間です。“

イエスを神の御子、救い主であると認めないのは、多くの場合、私たちが罪人であることを認めたくないからです。 けれども、神様には、全てが明らかです。神様の前に、 私たちの罪を隠すことは、不可能なのです。

(La buena semilla より)


父の悲しみ

2020年11月14日 | 聖書
先日、ある友人がこんなことを話していました。 彼には4人の子供がいるのですが、年の近い、中学生の長男と次男が、しょっちゅう、ケンカをするのだそうです。 その日もまたケンカをしている長男と次男に頭を抱えていると、長男が、彼にこう言ったそうです。
“心配しないでいいって。 僕たちがケンカしても、放っておけばいいじゃん?“
親としては、そういうわけにもいきません。
けれども、まだ、彼らのケンカの原因は、たわいのないものですし、しばらくすれば、また二人でじゃれ合って、笑いこけていたりするのですから、かわいいものかもしれません。 しかし、これが、いい歳をした大人の兄弟げんかとなると、話しは全然違ってきます。 現に、もう何年も話していないとか、絶縁した兄弟姉妹の話もよく聞くところです。 そこで、ふと考えました。

例えば、私に多くの息子と娘がいるとします。 私は、息子たちも娘たちも、心から愛していて、必要なものは惜しまず与えて、一生懸命育てました。 ところが、大人になった彼らは、親の私を無視します。 そのうちに、長男は次男を憎み、殺し合いをするようになりました。かと思うと、長女は三女を奴隷として扱い始めます。三男は、小さい姉妹たちを、犯します。また、次女は災難に会い、飢えて死にそうなのに、お金持ちのその他の兄弟姉妹は、彼女を蔑み、セレブな生活を楽しんでいます。 もう一人は趣味に、もう一人は仕事に没頭し、他の兄弟たちのことなど眼中にありません。 多くの息子、娘たちが、騙し合い、妬み合い、殺し合い…そして、誰も親の言葉に耳を傾けようともしないのです。 それどころか、親さえも馬鹿にし、罵倒します。…あなたが親だとしたら、どうするでしょうか?どう感じるでしょうか?

これが世界の縮図です。

この親は、私たちを造られた神であられ、この息子たちが、私たち人間です。こう考えると、神が、私たちを裁かれるのは、当然のことではないでしょうか?

けれども、神は、その憐れみにより、一人でもその裁きから救おうと、イエス•キリストという、救い主を与えて下さり、私たちが悔い改めることを、忍耐深く、待って下さっているのです。

(Semakimo)


道しるべ

2020年11月13日 | 聖書
日本の町であれば、どこにでも行き先をはっきりと示した道路標識があり、大変便利です。
昔、“八甲田山“という映画がありました。 山中、大雪によって遭難した陸軍の部隊の話です。 ふもとに降りる道が分からなくなってしまったその時、ひとりの兵隊が、かつてこの山を登った時に見た一本の木を見つけたと言ったのでした。 そして、全部隊は、彼の言葉を信じて、やっと家に帰れると期待して、彼の指し示す道を行ったのです。 しかし、道しるべと思われたその木は、全くの勘違いで、その結果、全員、死んでしまったのでした。 皮肉なことに、その木さえなければ、もう少しで、ふもとに降りることができるところでした。
道しるべ…間違っているのなら、無い方が良いのです。

なんと、多くの間違った道しるべが、この世にはあるのでしょうか?いいえ、道路標識のことではありません。この人生においてです。 色々な道しるべが、それぞれ全く矛盾したことを示しています。

生き方について。
幸せについて。
死について。
死後について。

あまりの道しるべの多さと、その示すことの違いに、“一体、なにが 真実なのか!?“と、叫びたくなるほどです。

しかし、本物の道しるべを見つける方法はあります。 それは、それらから、根拠の無いものを、一つ一つ除外していくことです。そうすると、ただひとつ残るのは、聖書です。

“ わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。“
(ヨハネ14:6)

イエス•キリストは、聖書の中で、こう宣言なさっています。イエス•キリストだけが、唯一、わたしたちを、正しい道、そして正しいゴールに導くことのできるお方なのです。

(Grace album より)

完全な人として

2020年11月10日 | 聖書
イエス•キリストは、人間として生まれるために天を離れ、この世に生まれて飼い葉桶に寝かされ、マリアの子として育てられました。 彼は両親に服従し、生計を立てるために働き、貧困の中で暮らしました。

その御働きにおいては、自分の家も持たず、自分自身の渇き、飢え、疲れを考慮することもなく、人々の肉体的または精神的な苦痛を和らげるために、町から町へと渡り歩き、病人を癒し、苦しんでいる人や世から見捨てられた人を慰めました。

しかし、友人や家族からさえも誤解され、見下されていました。 そして、彼に最も近い人々によって否定され、見捨てられ、彼らの一人によって裏切られました。

イエス様は、約3年間の働きの後、無実にもかかわらず、逮捕され、侮辱され、殴られ、非難され、十字架につけられました。 それでも、その間、彼は神に彼を虐待していた人々を許すように祈りました。 罪の無いイエス様は私たちを救うために、罪そのものとなって死んで下さいました。

“神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。“
(コリント第二5:21)

イエス様は彼に起こることすべてを前もって知っていたましたが、父なる神様の栄光と私たちへの愛のために、十字架への苦しみの道を自発的に歩んでくださったのです。 そして、死後三日目に甦り、弟子たちの幼い信仰を強めるために彼らに御自身を現されました。 そして、父なる神のいらっしゃる天国に昇り、地上にいる信者たちの助け手として、一人一人に聖霊様を送ってくださいました。
このイエス•キリストこそが、死後の裁きと、罪の刑罰である永遠の地獄から私たちを救って下さる、唯一、まことの救い主なのです。

今、天国で、イエス様は、信じた私たちが彼と共に天国で永遠を過ごすようになることを待ちながら、日々私たちの必要に応えて、守り導いて下さっているのです。

(La buena semilla より)