狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

神様か、大嘘つきか?

2021年02月27日 | 聖書
人間には、色々なタイプがあります。私は、どちらかと言えば、物事の白黒をはっきりさせたいタイプです。けれども 、私と違って、白黒はっきりさせるより、中間の、グレー部分の位置に居たい人々も居ます。話のテーマによっては、白黒はっきりさせない方が良い場合も多々あるでしょう。

「あなたにとって聖書のイエスとは、何者でしょう?」と質問すると、しばしば 、「すばらしい道徳を説いた偉人です。」と、いう答えが帰ってきます。これは、グレーゾーンの答えと言えます。

けれども、こと、この質問に関しては、このグレーゾーンは、存在しません。

イエス様は自分を神としました。ですから、イエス様は、真実、神であるか、さもなければ、自分を神とする、大嘘つきかのどちらかです。

また、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)とも、おっしゃいました。これが、事実でなければ、イエス様は、ただのペテン師か狂人、メンタルを患っている人ということになります。

この神の御子イエス様は、この地上に、人間として生まれて下さいました。それは、全ての人間の罪を背負い、十字架で、本来なら私たちが受けるべき罰を代わりに受けて死ぬためでした。そして、死後三日目に、死の力を打ち破って よみがえり、天に帰られたのです。

誰でも、「イエス様は自分の罪の身代わりにその罰を受け死んで生き返った救い主である。」と信じるだけで、全ての罪が許され、死後、永遠の天国に行く者とされると、聖書は語っています。そして、イエス様が実在されたことは、歴史上の事実です。

さて、イエス様は、あなたにとって、何者ですか?

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(ヨハネ3:36)

「私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。…」(申命記30:19)

人はその栄華の中にあっても

2021年02月24日 | 聖書
人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(詩篇49篇20節)

 聖書が示している神様を信じている人と、信じていない人の数を比べると、信じていない人の方がずっと多いのが現実です。 ただ、漠然と神様を信じている人なら、少なくないかもしれません。 けれども、聖書を通して私たち人間に語ってくださる、この宇宙の創造主である本当の神様を信じている人は少数です。     

 さて、最近は、動物愛護主義者の活動をよく目にします。 彼らは、自然破壊に反対し、動物達が住みやすい自然環境を守る活動をしています。 たとえば「グリンピース」の活動などが、有名です。 彼らの主張は進化論をベースとしており、進化論から割り出した彼らの計算によれば、地球に生物が存在している期間を46年とすると、人間が存在しているのは最後のたった4時間程度の割合にあたるということです。 人間は、動物の歴史のほんの最後の部分に登場したのだから、いわば、動物としては新米なのだから、もっと動物の先輩たちを尊重しなければならないというのが、彼らの主張です。 要するに、わたし達人間も、単なる動物に過ぎないと言っているのです。

 けれども、聖書は、神様は人間を、特別な目的を持って、神様と似たかたちに創られたと、語っています。 ですから、人間には、知恵、感情、そして物事を決断する自由意思が与えられているのです。 動物にはそれらは与えられずに、本能が与えられました。 動物は、人間のように、罪を犯すことができません。 なぜなら、動物には自由意志がないからです。 また、良心も持っていません。 「罪を犯してしまったので、良心に責められて苦しい。」ということは、動物にはありません。 人間だけが、善と悪の概念を持ち、何か悪いことをすると良心に責められるのです。 また、生き物の中で、祈ることをするのは人間だけです。 普段は神様を信じていなくても、自分の力ではどうにもならない状況に陥った時、思わず、「神よ!」と、手を合わせた経験がある人は、少なからずいらっしゃるのではないでしょうか? これは、人間には、神様と交わるために霊が与えられているからなのです。 しかし、残念ながら、罪によって、神を離れてしまった人間は、霊的に死んでしまい、神様と交わることができなくなりました。

 では、どうして、人間には、動物には無いこれらのものが与えられたのでしょうか? 神様が人間に対して持っていた特別な目的とは何でしょうか? それは、神様と共に永遠を生きるということでした。 ところが、人間が罪を犯したことにより、死ぬことが定められ、永遠に生きることができなくなってしまったのです。 さて、最初の聖句を、もう一度、見てみましょう。

人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(詩篇49篇20節)

 神様は、聖書を通して、人間も、神様を知らなければ、獣と同じであると言っています。 神様に似せて創られ、知恵、感情、意志を持つわたし達には、神様を求め、知るという責任があるのです。 神様のご存在を認めず、また、なぜ死ななければならないのか、なぜわたし達は罪人なのか、死んで後、どうなるのかを知ろうともせずに、ただ、食べて飲んで楽しむことだけを考え、罪を犯し続けて死んでいくなら、動物より、あわれな生き物と言えるかもしれません。 なぜなら、動物は、地獄に落ちて苦しむことはありません。 彼らには、罪を犯すことができないからです。 けれども、わたし達人間は、違います。 神様は、わたし達人間を、死後、ひとりひとりこの地上で犯した罪に応じて裁かれるのです。

そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(テサロニケ第二 1章8,9節)


 けれども、こう言う人もあります。

「もちろん、わたし達は、動物とは違います。わたし達には理性があります。 確かに、悪いと分かっていても罪を犯してしまうこともありますし、また、良いと分かっていても、できないこともありますから、聖なる神様は、こんなわたし達人間を受け入れられないことも分かります。 けれども、わたし達には、宗教があります。 宗教を通して、善と悪を学び、良い行いをすれば、神様は、わたし達を受け入れて下さるはずです。」

これは、神様の存在を認めているが、自分の努力によって救いを達成しようとする人たちの考えです。 けれども、神様は同じ詩篇49篇7、8節で、こうおっしゃっています。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。

自分の身のしろ金を神に払うことはできない。

―たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。―


 イエス様がこの世に来られるずっと以前から、神様は旧約聖書を通して、「人間の努力や良い行いによっては、愛する家族はもちろん、自分自身さえ地獄の刑罰から救うことができない。 なぜなら、たましいの贖いしろは、それぐらい高価なのだ。」と、おっしゃっているのです。

 けれども、こんなわたし達に、神様ご自身が、御子イエス様をこの世に送ることによって、救いの道を供えてくださいました。 わたし達全人類の罪を償うことのできるお方は、イエス様のみです。 なぜなら、イエス様は、一度も罪を犯されたことがないからなのです。 罪の無いイエス様のみが、神様が要求する全人類の罪の代償と成り得るのです。

 イエス様は、十字架上で、わたし達が受けるべきであったすべての罪の罰を受けて死んでくださったのです。 そして、死んで三日目によみがえられ、天に昇られました。 あなたが神様の前に罪人であることを認め、イエス様は、あなたの罪のために、あなたの身代わりとして十字架にかかって死んでくださった唯一の救い主であると信じれば、あなたの罪は許され、死後、永遠の天国に行ける者とされるのです。 神様は、この救いを、求めるすべての人に、値なしに与えておられます。

 この世の権力者たちは、自分の利益のためには、人の命さえ軽んじます。 日本では、がんのための薬が早くから開発されているそうですが、とても効果がある薬もあるのに、保険が適用にならないそうです。 会社の儲けの方が、人の命より重視された結果です。

 また、外国でも同じです。 武器を作る会社の儲けのために、戦争や闘争を起こそうと、争いの原因を捏造することさえ躊躇しません。 アメリカが、ブッシュ元大統領の時代に、大量殺害できる有毒ガスを持っているという理由でイラクを攻撃しましたが、結局イラクはそんな有毒ガスは所持していなかった・・・というのは、記憶に新しいところです。

 発展途上国や、戦争や紛争が絶えない貧しい国では、子供たちがやせ細って死んで行きます。 豊かな国が物資やお金を援助しても、結局は、その貧しい国の権力者たちが、それらを独り占めにしてしまうので、相変わらず子供たちは、やせ細ったままという実態もあるそうです。

 悲しいことですが、多かれ少なかれ、これが、この世界の現実なのです。けれども、神様は違います。 あなたの命を救うため、最愛の御子イエス様という、大きな犠牲を払ってくださいました。それほど、あなたのいのちは、神様にとって尊いものなのです。

 どうか、神様のこの恵みを無駄になさらないで下さい。心より、お願いいたします。
 
(礼拝メッセージより)

イエスキリストの系図 7

2021年02月24日 | 聖書
今回は、イエスキリストの系図に出てくる最後の女性についてです。

ウリヤの妻(マタイ1:6)
この女性の名は、バテシェバと言います。 けれどもこの系図には、「ウリヤの妻」と、書かれています。

「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み…」(マタイ1:6)

要するに、不倫です。
ダビデは少年の頃から篤い信仰を持っていて、神に選ばれてイスラエルの王となりました。 王となってからも、その信仰によって数々の敵を倒し、領土を広げた名君です。 有名なミケランジェロの彫刻のダビデ像を見たことがある方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、残念ながら、人間が権力を持ち油断すると、数々の誘惑の罠に陥るものです。 ダビデも例外ではありませんでした。
ダビデが屋上にいた時、部下ウリヤの美しい妻バテ・シェバが沐浴しているのを見てしまいます。 ウリヤはダビデに忠誠を尽くし、最前線で戦っていました。
ダビデは、使いを遣って彼女を王宮に呼び、彼女と関係を持ちました。 そして、彼女は、身籠ったことをダビデに知らせます。
それを知ったダビデは、戦争の最前線で戦っているウリヤを呼び寄せ、なんとか彼女と関係を持たせ、その子がウリヤの子であるように偽装しようとしますが、忠誠を尽くすウリヤはそれに応じません。
ついにダビデはウリヤを激戦地に送り、彼だけをそこに残して仲間を退かせ、敵にウリヤを殺させます。 そしてバテシェバを妻として召し入れたのでした。
この事は、神の怒りを招き、ダビデは深く悔い改め、死は免れたものの、不倫によって生まれた子は死に、ダビデの家には争いが絶えないようにされてしまったのです。
このダビデ王とバテシェバの間に生まれた2番目の子ソロモンが、王位を継ぎました。

あの時代、バテシェバは女の身で、王の要請に抵抗することはできなかったのでしょう。
彼女は自分の夫を殺したのがダビデだと知っていたのかどうか、気になるところです。知っていたとしたら、ダビデの妻として暮らすのは、辛かったのではないか?それとも、そもそも彼女もダビデに心惹かれていたのか?色々と興味がそそられますが、彼女のことは、詳しく書かれてないのでよくわかりません。
それにしても、こんな大きな罪が、ハッキリとわかるように「ウリヤの妻」と、系図に記されているのです。


旧約聖書には、イスラエルの王や民、神が送った預言者などのことが詳しく書かれていますが、たとえ篤い信仰を持っていた者についてでも、彼らの罪や、不信仰不従順による失敗が、これでもかというほど、書かれています。
けれども、これは決して他人事ではありません。 私たちも同じです。 人間は、罪を犯さずに生きることができないのです。
神様は、いつでも、一瞬のうちに、この世界を滅ぼし、罪人の私たちを罰することもおできになります。
けれども、神様は、こんな罪人である私たちのために、その大切なひとり子であるイエス様を この世に送って下さったのです。 なんという、恵みでしょう!

イエスキリストは、私たち人間の全ての罪を背負い、十字架上でその罰を受けて死んで下さり、死の力を打ち破って3日目に甦られました。
誰でもこのイエス様を自分の救い主と信じる者は、全ての罪が許され、永遠の天国に行ける者とされるのです。
どうか、この神様の恵みを無駄になさらないで下さい。





イエスキリストの系図 6

2021年02月23日 | 聖書
今回はイエスキリストの系図に出てくる三人目の女性です。

3)ルツ (マタイ1:5)
ルツはモアブ人です。 モアブ民族は、昔、イスラエル民族に敵対したために、神に呪われていました。
エリとナオミというイスラエル人の夫婦が、イスラエルの飢饉の時に、二人の息子を連れてモアブの野に滞在しました。 ナオミの夫は死んでしまい、その後、二人の息子たちは、それぞれ嫁を迎えます。 そのうちの一人がルツでした。 けれども、この二人の息子も死んでしまいました。
ナオミは、嫁たちに、モアブの実家に帰るように勧め、自分はイスラエルに帰ろうとします。 しかし、ルツは、姑と一緒にイスラエルに行くと言って譲りません。 ルツは、彼らと一緒に暮らしている間にイスラエルの神に対する信仰を持ったのです。 ルツは結局、姑ナオミと共にイスラエルに帰り、落ち穂拾いをして、健気に姑に尽くすのでした。
そして、結局、ボアズというイスラエル人と結婚し、子供を生みました。 ボアズは、ルツが落ち穂拾いをしていた畑の所有者で、姑ナオミの親戚だったのです。 彼女はこうしてイエスキリストの先祖に加えられました。(ルツ記)


神がモーセを通して与えられた律法の中に、こういうものがあります。

「あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、刈るときに畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。 収穫した後のの落ち穂を拾い集めてはならない。
また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。 あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。 それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。」(レビ記19:9,10)

「寄留者を苦しめてはならない。…
やもめ みなしごはみな、苦しめてはならない。
もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。
そして、わたしの怒りは燃え上がり わたしは剣によってあなたがたを殺す。 あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。」(出エジプト記22:21-24)

今のように社会福祉制度が無い時代の在留異国人、やもめ、みなしごは、どんなに苦労しなければならなかったでしょう? 神様は、そんな、社会の弱者たちを守るように配慮しています。
また、他に、こんな律法もあります。

「あなたは、耳の聞こえない人を軽んじてはならない目の見えない人の前に、つまずく物を置いてはならない。 あなたの神を恐れよ。 わたしは主である」(レビ記19・14)

このような弱者に対する配慮の他、貧民の救済、裁判の公正など、神がイスラエルに与えた律法には、神の正義、愛、恵み、憐れみが、隅々まで、行き届いています。
こんなに素晴らしい律法が、日本で邪馬台国ができる1200年以上も前に与えられていたのでした。
(しかし、残念ながら、どんなに律法が素晴らしくても、罪ある私たち人間には、それを守ることができません。律法が与えられたのは、イスラエル民族を良くするためではなく、彼らの中には罪があり、彼らが律法を守ることができない罪人であることを自覚させるためでした。この事については、「信じるだけで救われる 8」をご参照下さい。)

話がそれてしまいましたが、こうして、神に呪われた民であったモアブ人ルツは、その信仰により、神の御恵みを受けて、イエスキリストの系図に加えられたのでした。

イエスキリストの系図 5

2021年02月21日 | 聖書
イエスキリストの系図に出てくる二人目の女性です。

2)ラハブ(マタイ1: 5)
彼女は、エリコに住む遊女でした。
エリコを攻めようとしていたイスラエルが、エリコに二人のスパイを送りました。 その時にスパイをかくまったのがラハブです。 ラハブは、イスラエルの神の噂を聞いていて、この神こそが真の神だという信仰を持っていたようです。
ラハブは、彼らのことを誰にも言わない代わりに、イスラエルがエリコを攻める時にはラハブと彼女の家族を救うように、二人のスパイに誓わせました。
スパイは、彼女の家に家族を集めておくこと、そして、窓に赤いひもを結びつけておくことを彼女に命じました。
そして、その通り、彼女は窓に赤いひもを結びつけ、家族を家に集めました。 エリコはイスラエルの手に落ちましたが、約束通り、彼女とその家族は救われて、イスラエルの民の中に住みました。(ヨシュア記2章)

この赤いひもは、後にイエスキリストが十字架で流された血を象徴しています。赤いひもがラハブを救ったように、イエス様の流された血によって 私たちクリスチャンは、神の刑罰である永遠の地獄から救われました。
旧約聖書には、その後、ラハブがどうなったかは書かれていませんが、この系図によると、サルモンという人と結婚し、子供をもうけています。 異邦人で、しかも元遊女のラハブが、イエスキリストの先祖とされたのです。 神様の恵みに限りはありません。 その恵みの大きさと深さに心より感謝します。