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今夜もまた地階から響いてくる咆哮に智子は隣で新しく入院した患者のカルテをチェックするかおるの横顔をちらっと見た。
「気にしないことぉ」
こちらに目もくれず独り言のようにつぶやく声を聞きながら智子は懐中電灯を持った。
「巡回に行ってきます」
「ねえ、智ちゃん。地下に確かめに行こうなんて考えないでね」
「か、考えてませんよ。ただでさえ怖いのに」
「だよね。ごめんごめん」
かおるはカルテに視線を戻すと後は何も言わなかった。
だが智子は病室の巡回をせず、かおるの目を盗んで階段を使って一階に下りた。
考えていないと言うのはうそで、一度確かめに行かねばとずっと考えていた。
地下へと続く暗闇に懐中電灯を向ける。青白い光の輪が照らす常夜灯のついていない折り返し階段には恐怖しか感じなかったが、深呼吸してゆっくり踊り場まで下りた。
振り返ると薄暗くともまだ廊下の明かりが自分を照らしている。
だが、ここから先は真の闇が待っている。進めばもう二度と戻れないような気がした。
結局、下りることができず二階までいっきに駆け戻り、乱れた息を整えながら巡回を開始した。
智子が勤務し始めた頃より入院患者が増え、巡回する部屋も増えた。だが、ただそれだけのことで特に忙しくなったわけではない。
各病室を覗いていくとみなすやすや安らかに眠っていた。
いつもと変わらない平穏に、松橋の言った言葉を思い出す。
ボイラーの音だと慣れてしまえば、気にしなければいいのだ。得体のしれない場所に自ら足を踏み入れる必要はない。
212号をそっと開けると明かりが漏れた。
「もう寝なさいよ」
ベッド灯の明かりの下で絵本を読む由紀生にそう声をかけると彼はにっと笑った。
またあの声のことでわたしを怖がらせるつもりだ。
由紀生が口を開く前にドアを閉め、他の病室に移動した。
最後に六床ある大部屋を覗く。
他の五人は静かに眠っていたが、山尾だけ開いた窓に両手を突き出しておいでおいでをしていた。
「何してるんですか」
他の患者を起こさないよう智子は山尾の背に光を当てて小声で話しかけた。
山尾は動きを止め、じっと動かない。
まさか友達か彼女を中に引き入れようとしてるんじゃないでしょうね?
「山尾さんっ」
智子は少しだけ声を荒げた。
腕をゆっくり降ろして山尾が振り返る。だが様子がおかしい。
瞳が死人のように白濁し、光にも反応しない。
「や、山尾さん?」
呼びかけながらそっと肩に手を触れる。
「うわっ智ちゃん、ま、眩しいっ」
急な山尾の反応に、
「しぃっ」
唇に人差し指を立て、智子は光の輪を床に落とした。
「ひどいな、もうっ」
目を瞬かせる山尾の瞳を観察したが何もない。
見間違いだったのか?
「なに? 人の顔まじまじ見て。さては俺に惚れたか?」
「そんなわけないでしょ。そっちこそこんな時間に誰か呼び込むつもりじゃないでしょうね」
「もしかして智ちゃん妬いてる?」
にやにやする山尾を無視し、智子は窓の下に光を当てチェックした。
豊かな樹木に囲まれたこの病院には塀がない。夜間でも敷地内は自由に出入りができる。
さすがに表玄関は施錠されているが、外付けの非常階段にある出入り口は中から開錠できた。
院内は完全禁煙で、喫煙者はよくここに出て煙草を燻らせている。山尾はその常連だ。
智子はくまなくチェックしたが上手く隠れたのか、すでに逃げたのか、樹木の陰にも植え込みの陰にも誰かのいる気配はなかった。
「彼女なんていないから安心して」
「そんなんじゃないわよ。とにかく、きちんと面会時間は守って下さいね。
ほらほら早く寝る」
ぴしゃりと窓を閉め、山尾をベッドに促す。
「一緒に寝る?」
ケットを持ち上げて誘う仕草に、智子も負けじと懐中電灯を振り上げる真似をした。
「マジで殴るよ」
「白衣の天使はそんなことやっちゃだめだよ」
横になった山尾へ少々乱暴にケットを掛けて智子は大部屋を後にした。
幸い他の四人は二人のやり取りに起きてくることはなかった。
智子は安堵のため息をつきながら、さっきの異様な山尾の瞳を思い起こそうとしたが、きっと見間違いだったのだとそれ以上考えることを止めた。
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