目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
94.あいさつの信仰とコロナ関連のことについての信仰は似ている
95.あいさつという同調圧力
96.みんな心の盲人、みんな貧しい人で情報貧乏で人脈貧乏など
97.あいさつを初めにした人が王様、女王様、殿様の様になっている
98.叔父の言ったことと天皇家とあいさつのことなど
99.性的なことや暴力とあいさつ
94.あいさつの信仰とコロナ関連のことについての信仰は似ている
2020年にコロナウイルスのことがメディアで取り上げられだして、外でマスクをつける人がたくさん出てきた。
一見表面上は口元にマスクを付けている点では同じような感じだが、マスクを付けている理由、目的が同じなわけがない。
江戸時代の権力者はキリスト教に禁教令を出していて、キリスト教徒が殺されていたので、殺されるわけにはいかないからキリスト教信者の人は自分の信仰を隠す人もいて、その人たちのことが隠れキリシタンなどと呼ばれているが、コロナのことでマスクを付けている人の中には、マスクを付けなくてもいいと思っていながら、マスクを付けないことで誰かから不満を言われたり、店への入店拒否や乗車拒否されたら嫌だからなどの理由で仕方なくマスクを付けている人もいるだろう。
一方でコロナに感染しないためにマスクを付けている人もいる。
政治家の麻生さんとかが口元に付けていた透明なシールドマスクは、
マスクを付けていてもシールドマスクだとマスクと顔の間が離れているので、そのマスクを付けている人がコロナに感染している人だったらシールドマスクでは感染するかもしれないと思い嫌がる人もいるだろう。
マスクを付けている時に鼻が出ている人のことをおかしいと思っていない人が、少数派のマスクを付けていない人やシールドマスク付けている人のことはおかしいと思ったりして変な目で見る人もいるだろう。
コロナについても、コロナウイルス感染防止するための信仰も人によって違い、自分が信じたいことだけ信じているだけで、あいさつやそれ以外の色んなことでも同じことだ。
あいさつしない人に不満を持ったり、ダメ人間と思ったりして見下している人も、ほとんどの人にあいさつしなかったり、好きな人があいさつ返さないことは許したりなどして、自分独自のあいさつのルール(決まり)を作って、おかしな信仰を持っている。
私が自分が住んでいる近所や近所以外の住宅街を通っている時に歩いていたり自転車に乗っている人のほとんどはマスクを付けていない。
スーパーやホームセンターに行くとマスクを付けている人の方が多かった。
住宅街で小さい子どもを連れた親らしき人が、走っている一人の若者がこの人たちの数メートル横を通り過ぎる時に、あごに付けていたマスクを上に上げて口元をマスクで覆っていた。
私が標高が低い山に登った時、山の上の方には公園があって、そこに若者2人がいて、私がこの人達から数メートル離れた所に来た時に、
一人の若者があごに付けていたマスクで口元を覆ったのだ。
人と一緒にいても家族や友人、恋人はコロナに感染していないと信じている人が多いだろうからマスクを付けずに、他の人が来たらマスクを付ける人もいるだろう。
スーパーで大人1人と子ども2人の3人組が私の近くにいたのだが、親らしき1人の大人は口と鼻をマスクで覆ってショッピングカートを押していて、
ショッピングカートの下にいた小さい子どもはマスクは付けていなくて、大人の後ろを歩いていた幼稚園児ぐらいの子どもは、あごマスクをしていて
鼻と口が見えていた。
スーパーにいた他の人もマスクで口元を覆っている親らしき大人と一緒にいる子どもがマスクを付けていないのを何回か見た。
もし、コロナウイルスに感染することを恐れて大人の方がマスクを付けているのなら、子どもにも付けさせるか、子どもは店に連れて来ないことも出来るだろうが、一緒に連れてきているのを見ているとコロナを信じていないか、コロナを信じていてもマスクで感染防止など出来ないと信じていそうな感じがする。つまり形だけマスクを付けているのだろう。
スーパーで見かけたマスクをつけた2人組の人たちが私の目に入ってきた。初めは気づかなかったのだが、2人とも鼻は出ていてマスクで鼻を覆ってはいなかった。
テレビのニュースでも、どこかに出かける人にテレビ局側の人から話しかられていた人が2人映っていて、一人の人は口元にマスクを付けていたが鼻が出ていた。
誰かがブログで、マスクを付けている人やワクチンを打つ人について
「みんながマスク付けているからマスクを付けている。みんながワクチン打つからワクチン打つ」というようなことを書いている人がいた。
コロナ関連のことでみんなが同じことなど思っていないのだ。
ワクチンを打つ人でみんなが打っているからワクチンを打っているとか、打とうと思っている人はあまりいなさそうだと私は思う。
何でかと言うと、ワクチンについて信じていることは人によって違い、ワクチンは効かないとか、ワクチン接種した後に体調が悪くなったとか言っている人がいて、それを信じている人はワクチンを打たないだろう。
ワクチンに対して信じていることが違うだけで、みんなが打っているからワクチンを打っているわけではないと思うが。
マスクを付けている理由も人によって違うだろうし、飲食店以外の店でマスクを付けている人が多くても、私が見たかぎりでは住宅街でマスクを付けている人は少なかったし、飲食店ではマスクを外して食べることを多くの人が許しているだろうし、人がいる所の全てでマスクを付けてるわけではないだろうから、みんながマスク付けているからマスク付けている感じでもないと思うのだが。
コロナをウソだと思っていない人で、飲食店の営業をやってもいいと許可している人で、店内や外でマスクを付けていない人に不満を持っていたりして怖がっている人は何を考えているのか意味が分からない。
コロナはウソと信じている人もいるみたいだが、私の母はコロナのことをウソだとは思っていない方で、コロナウイルスの感染を本当のことだと信じていて、2021年の正月の初詣に行っている人に気が緩んでいるというようなことを言っていたのだが、私が分かっているだけでも、私の母は2020年の春や、2021年の3月に飲食店に食べに行っているのだ。
飲食店など不特定多数の色んな人が来て、マスクを外して飲み食いするところだと分かっているのに、わざわざ飲食店に行って食べているのだ。
本当にコロナの感染を怖がっているなら、わざわざ飲食店に行くとは思えない。
国が時短営業命令に従わないと罰金という決まりを決めているのもおかしいのだが、時短営業しようがしなかろうが、店内で誰かがマスクを取って食べているのは同じことなのに、時短営業させたい目的が分からない。
コロナの感染がなくならないのを飲食店のせいにしたり、若い人のせいにしている人がいるみたいだが、店内でマスクを付けていないのは若い人だけではないし、中年や老年にもマスクを付けていない人はいる。
外でも同じ人がマスクを付けている時と付けていない時もあるだろう。
誰でも常に人がいる所でマスクを付けているわけではないのに一部の人のせいにしたい人もいるのだろう。
2021年の7月下旬に親戚が私の母親にアナウンサーの女がコロナに感染したということを話していた。
「わけーのはあめーんだよ」というようなことを何回か言っていた。わけーのはあめーんだよと言っているのは、若い人は甘いんだよと言っている。
親戚は若い人は甘いからマスクを付けていない時があるからコロナに感染したんだと思っているのだろう。
若いから甘くてマスクを付けていない時があるからコロナに感染したのだと言いたいのならば、テレビ番組に出ている人などでも若い人ではなくてもマスクは付けていないし、中年や老年の人も野外や飲食店や飲食店以外の店でマスクを付けていなかったり、鼻を出しているマスクの付け方をしている人はどの年齢の人にもいるだろう。
まるで、気に入らない言動を取る人に親に甘やかされたから、親が教えてないからなどと、人に不満を言う時によく聞くようなことと同じような感じのことを言っている。
若い人がやったことを若いからやったんだと理由を付けていても、
若い人の多くはコロナに感染はしていないだろうし、若い人以外でもコロナに感染している人の方が少ないだろう。
若い人がコロナに感染したことを、若い人が甘いからという理由を付けているのも、ただの思い込みや、こじつけだろう。
親戚が外に出た時にマスクを付けていない時もあり、私の母親が飲食店に食べに行っていることを聞いても、マスクを外して食べるようなところに行ってはダメだとは言っていなかった。
私の住んでいる近所でも同じ人がある時にはマスクを付けていても、別の時にはマスクを付けていなかったり、
色んな年齢の人がマスクを付けずに住宅街を歩いたり、自転車に乗っているが、親戚はこれを甘いと思っているのだろうか?
田舎の人には感染者が少ないから都会の人よりはマスクは付けなくてもいいと信じているのだろうか?
同じ親戚が「テレビ局はでれー厳しいんで」とも言っていた。
テレビ局側はコロナに感染しないために厳しくしているとでも言いたいのだろうがこれは間違いだ。
私はテレビをあまり見ないが、たまに見るとテレビ番組に出ている人が室内で撮影していても、誰もマスクを付けていなかったり、顔から離して付ける透明なシールドマスクを付けていた。
マツコデラックスを含んだ3人が出ている番組で一人がマスクを付けていて、マツコデラックスと、もう一人の人はマスクを付けていなかった。
数人の芸人が野外で撮影されていて、芸人はみんなマスクを付けていなかったが、スタッフの人がカメラに映りこんでいたのだが、黒いマスクを付けていた。
テレビ局の人たちがコロナに感染しないため厳しいのだったら、テレビに出ている人がマスクを付けていなかったり、マスクを付けていても
顔から離れているシールドマスクを付けているのは厳しい感じではない。
誰かが公共の乗り物に乗った時にマスクを付けていても、マスクの種類で不満を言われた人がいるみたいだ。
その人の知り合いがそれを聞いて、マスクを2重に付けるようになったとテレビで言っていた。
誰かは2重でマスクを付けていたり、形だけで仕方なくマスクを付けている人もいる中で、親戚がテレビ局はコロナのことで厳しいということを言っているわりには、テレビに出ている人がマスクを付けていない人もいるのもおかしいし滑稽だ。
コロナウイルスを信じていて、コロナに感染することをテレビ局の人が怖がっていて、マスクを付けていたら感染防止になると信じているのならばテレビに出ている人にもマスクを付けるようにしてもらうだろうが、テレビに出ている人の中にマスクを付けていない人がいるのは、コロナのことにおいてテレビ局は厳しくはないということだろう。
顔から離れているシールドマスクを感染防止に役に立たないと思う人や、嫌がる人もいるだろうし、嫌がらない人もいるだろう。
コロナに感染しているかもしれない人がシールドマスクを付けている人だったらシールドマスクと顔の間からコロナウイルスが空気中に浮遊して自分の鼻や口からコロナが入ってくるかもしれないと思っている人もいるだろう。
唾がシールドマスクや顔にぴったり付けているマスクに付いたら、そのコロナはマスクからは離れずに、ずっとマスクに付いたままだと信じている人もいれば、顔にぴったり付けているマスクでも、マスクの種類によってはコロナがマスクを通過すると信じている人や、どのマスクを付けていてもコロナはマスクを通過すると信じている人もいるだろう。
コロナウイルスについて信じていることの信仰が全然違うのだ。
今の日本や多くの国では色んな国で作られたものが外国からも入って来てたり、同国内の色んな場所で作られたものがスーパーやコンビニで売られているけど、誰かがコロナに感染していて、色んな商品の物や、果物や野菜にコロナに感染している人が近くにいてコロナウイルスが物や野菜や果物に付いているとは思わないのだろうか?
手を消毒している人もいるが、商品の物や食べ物はほとんどの人は消毒はしていないだろうが、どういう基準を持っているのだろうか?
コロナウイルス関連の色んなことは信仰なのだ。
あいさつされて無反応な人に不満を持つ人の一部の不満の理由は、自分や好きな人に無反応な態度を取ったことで、自分達が嫌われている可能性があると思い不満を持っているのだ。
あいさつを初めにしてきたり、オウム返しをしたり、会釈をしたから相手のことを嫌っていないということにはならない。
嫌いな人にあいさつする人もたくさんいるだろう。
マスクを付けているのもみんなが感染防止のためにマスク付けているわけではない。
マスクを付けているからコロナウイルスが鼻や口から入って来ていないと信じている人はマスクを付けていれば安心なのだろうが、
どのマスク付けてもコロナウイルスはマスクを通過してくると思っている人はマスク付けていても意味がないと思っているだろう。
マスクを付けていても感染防止にはならないと信じてる人がマスクを付けているのは、他人から不満を言われたり、白い目で見られたりするのが嫌だからとか、トラブル防止のためにマスク付けている人もいるのだ。
テレビ番組で日本人の若者数人が鼻と口をマスクで覆って国内のどこかに観光地に行っているのが放送されていたのだが、室内の食べ物を食べる所で、食べ物を器に入れている仕事をしている人はマスクを付けていて、その人の前には透明なシートを張っていた。
若者数人は椅子に座ってマスクを取って食べ物を食べていて、隣にはあごマスクを付けて食べている人がいた。
別の番組でも、口と鼻にマスクを付けた若者が、電車に乗るのが撮影されていて、その電車の中では料理が運ばれてきて車内で食べる電車のようで、
車内の食べる机の横には透明な板が置かれていたが、板の上や下や横は開いていた。
コロナの感染を本当に怖がっているのなら、わざわざ室内でも外でも知らない人がいる所で食べないこともできるだろうが、感染防止のためにマスクを付けているのなら、室内で食べているのもおかしいのだ。
本当に感染を怖がっているのならマスクを外して食べないだろうけど。
感染防止のために人に気を使っているとか言うのなら店内で食べる飲食店の営業を許しているのもおかしいということになる。
オリンピックの開会式の時に色んな国の人が入場してくるのを一部見たが、
外国のどこかの国の人が入場してきた時に、あごマスクで口と鼻が見えている人がいたが、意図的にあごマスクにしているのか、
マスクを付け忘れていたのかは分からない。同じ国の男の選手がマスクを付けていたのだが、その選手がカメラの方を見た時にマスクをずらして口と鼻を見せていた人がいたが、マスクを付けていてもコロナの感染防止にはならないと信じている人だったのだろうか?
他の選手も口だけマスクで覆い、鼻が見えている人がいたが、コロナの感染防止のためにマスクを付けているのなら鼻もマスクで隠すだろうが、
鼻を隠していないのは、コロナ感染防止のためにマスクは付けていないだろうけど。
あいさつでも、あいさつできる人と言われている人が、ほとんどの人にあいさつをしないことなど分かり切っていることだが、あいさつをしたところだけを持ち出して高評価して褒める人もいる。
あいさつを一部の人にだけする人の心理や動機に多くの人は興味、関心がないだろうに、自分に都合のいい捉え方をして、あいさつされたのはあいさつした相手を嫌っていないからだとか、大人に教えてもらったからあいさつしたのだとか、あいさつすることを正しいと信じているからあいさつしていると勝手に信じている人もいるのだ。
マスクを付けている人が何でマスクを付けているのかの理由、心理もあまり分からないだろう。自分が思いたいように思うだけだ。
子どもは大人の真似をするというが、そういうところもある一方で、ほとんどの大人の真似などしていないだろう。
真似するどころか、大人の外見や生き方や言動をバカにしていたりもするのに、都合のいい捉え方をする人は子どもの思うことや、
やることのほとんどや、一部のことを大人の影響だと言う人もいるだろう。
コロナのことで、親と一緒に店に買い物に来ている子どもが親がマスクを付けているのに子どもの方がマスクを付けていなくても親の真似をしているとは言えないだろう。
20代ぐらいの若い人がやったことで間違っていることをやったと思っている人が、大人が教えないからなどと言って、若者を悪く言わずに
大人のせいにする人がいるが、自分より年上の大人がやるなと言ったことでもやる人はやるし、何でも大人の言うことを聞くわけではない。
コロナのことでも、テレビを見ればマスクを付けている人がいるのは多くのテレビを見ている人は分かっているだろうし、街中や住宅街や店内でもマスクを付けていない人がいるのは多くの人は知っているだろうが、感染防止のためにマスクを付けたい人は付けるし、不満を言われたり、入店拒否されないためにマスクを付けたい人はマスクを付けるわけだ。
マスクを付けている理由が周りの人がマスクを付けているからとか、子どものことだったら、大人にマスクを付けている人がいるからマスクを付けたという理由は付けられないだろう。
大人でマスクを付けている人が、人のいる所でどこでもマスクを付けているわけではないだろう。
子どもや若い人が大人の真似をするとか、大人の心を吸っているという人がいるが、子どもにも大人にも色んな人がいることは子どもの時から分かっているだろうに、人が何かをしているのは人の真似をしたのだという理由をつけても、何でごく一部の人の真似だけをしたのかの詳しい理由は言っていないのだ。
人がいる所でマスクを付けている人と付けていない人がいることが分かっていても、マスクを付けるか付けないかは自分が選んでいるのだ。みんながどこでもマスクを付けているわけではない。
あいさつも同じで、誰にあいさつするのか、しないのかは自分が選んでいるのだ。
子どもにあいさつしろと親や祖父母が言った後に、言われた子どもがあいさつした場合は、その子どもはいつでも親や祖父母や、それ以外の人の言うことを聞いている人なのだろうか?
そんな子どもはほとんどいないだろうが、どんなことを正しいと勝手に信じて、他人の言うこと聞いていようと、正しいと信じていないのに色んな理由で他人の言うことを聞いていても、親や祖父母や大人に教えられたと言うのだろう。
2021年の前半に、ある大きい公園に行った時に、たくさんの人が歩いていたが、マスクを付けている人もたくさんいたし、マスクを付けていない人もいた。
老人や中年の人にもマスクを付けている人と付けていない人がいた。
この公園でも赤ちゃんを連れたお母さんらしき人はマスクを付けていたが、赤ちゃんはマスクを付けていなかった。
2人以上で一緒に店に来ている人でもマスク付けている人とマスク付けていない人がいて、コロナウイルス関連のことについて信じていることが違うのだ。
戦時中の日本でも戦争反対の人と賛成の人がいたり、戦争反対の人が逮捕されていたみたいで、同じ日本人とは言っても、同じことを信じているわけではないのだ。
コロナのことで、日本人について誰かが、日本人がデモをしたりしないことや、攻撃的に騒いだりしていない、「緊急事態宣言が出ても出歩いたり、店に行って応援している、みんなで助け合おう精神があって素敵」という感じのことを言っている人がいたが、
店に行っている人を、その店を応援していると言い表している人もいるが、
必要なものがあるから店に買いに行っているだけのことを店を応援していると言って良く言う人もいるのだろう。
私の母親が初詣に行っている人のことを、気が緩んでいるなどと言っていたが、私の母親がマスクを付けずに食べるような飲食店に行っているのは、店を応援するために行っているとは思わないし、食べに行きたいから行っているだけだと思っている。
他の人でも、飲食店や飲食店以外の店に行っているのは、食べに行きたいとか、必要なものがあるから買いに行くために店に行っている人の方が多いと思ってる。
日本人が攻撃的に騒いだりしていないと言っているのも、そもそも攻撃的に騒ぐとはどういうことを言いたいのだろうか?
日本人は影で悪口を言ったり、影から嫌がらせして攻撃しやすいだろう。コロナのことについて多くの日本人が影で何を言っているのか知らないし、知る気もない人がたくさんいるのだろう。
私の親や親戚がコロナ関連のことで日本の総理や政治家が決めたことに不満を言っていたが、不満を攻撃的というなら、攻撃的に騒いでいるとも言えるので、日本人はコロナのことで攻撃的に騒いではいないというのは間違いだろう。
国が緊急事態宣言を出していることにも、国側のコロナに対する対策に問題があり、緊急事態宣言は国民に尻拭いをさせているのだと言って、
コロナの感染者が出ているのは国に問題があると思っている人もいる。
ほとんどの人は感染者が減らないことを国のせいにはしないだろう。若い人がマスクを付けていないからだとか、飲食店が営業しているから、コロナ感染者が減らないと思っている人もいたり、コロナはみんなの意識が作り出したというようなことを言っている人もいるのだ。
他の人が見ていない影でセックスをしていても、それを人に言わなかったり、他の人に見られていなかったら、セックスをしていることも分からないのと同じだ。
身体暴力をやったら攻撃的と言われやすいだろうが、人のことを悪く言うことを攻撃的と言う人はあまりいないのだろう。
外国人より日本人の方が控えめだと言いわれやすいのは、例外あれど、日本人の不満の表し方が、影で悪口(中傷)を言ったり、影から嫌がらせをしていたり、第三者に攻撃をさせたりするから何もしていないように見えて控えめに見えるのだろう。
マスクを付けていない人に不満を持っている点では同じでも、それを内面で思っているだけの人や、本人のいない所で不満を言う人や、
本人に不満を言う人がいて、不満の表し方が違うだけで、同じことに対して不満を持っているのは同じことだ。
緊急事態宣言が出ても出歩いたり、店に行っていると言っていても、出歩いている理由など人によって違うだろうし、マスクを付けて出歩く人と、マスクを付けずに出歩いている人がいたり、飲食店以外の店でもマスク付けてる人と付けていない人がいるので、日本人みんなが同じことを思っているわけがない。マスクを付けている理由が感染防止のためのマスクを付けていたり、誰かに不満を言われるのが嫌だから演技でマスクを付けていたりして、マスクを付けている理由が違うのだ。
飲食店以外の店内や野外でマスクは付けないとダメだと信じている人もいれば、マスクは付けなくてもいいと思っている人もいるのだから、日本人みんなが同じことなど思っていない。
戦争関連のウソみたいだ。お国のためにと思って戦争に行ったと言っていて、みんなが同じ気持ちだったかのように戦後数十年経った今も言っている人がいるが、みんながそんなこと思っているわけがないのだ。同じ言い分を聞いても、同じものを見ても同じことを思っていないということだ。
みんなで助け合おう精神があって素敵と言っているのも、店に行っている人が店を応援するために行っている人は少ないと思うから、
助け合いと言っているのも陳腐だし、本当にみんなで助け合いしているのなら、金でやっていく世の中などをまかり通らせていること自体がおかしい。
値段がついているものに金を払わない人やスリなどと呼ばれている人を犯罪者や泥棒と言って逮捕しているのもおかしくて、本当にみんなで助け合いをしていたら、泥棒と言われている人など出てこないだろう。
こういう人が出てくるのはみんなで助け合いをしていないことの表れだ。
本来全てのものに値段が付いていないことなど考えなくても分かることだが、みんなで助け合いしていないので、
生きていくために金がないと死活問題だから、金でやっていく世の中という合法の詐欺、泥棒社会を多くの人は正しいと信じてまかり通らせているのだ。
戦争でも、同じ国の国民が戦地に一緒に行って助け合いをしたかのように言っているが、本当に人類みんなで助け合っているのならば戦争はやってはいないだろう。
戦地に行ったある日本人が、同じ軍の日本人にされたことに「差別だよね、屈辱だよね」と言っているのをテレビで視聴したことがあるが、
同じ軍にいても仲間だとは思っていないということだろう。
金でやっていく世の中も、武器を持って行く戦争とは別の意味で戦争なのだ。
あいさつも、大切だとは思っていない人や仲間扱いしていない人にあいさつしてほしいと望んでいるのに、自分の思い道りにならないから、嫌ったり、見下したりする差別をしている。
みんなが金でやっていく世の中を正しいとは信じていないが、
あいさつでも同じことで、みんなを仲間だと思っていたら、ほとんどの人はあいさつなどしないだろう。
例外除いて、あいさつはどうでもいい人や、大切ではない人、仲間ではないと思っている人にあいさつを初めにしたり、あいさつ返しを求めている人が多いだろうから。
でも、関わる気もない人や、大切ではない人にあいさつをすることを素晴らしいこと、素敵なことと思う人たちもいるわけで、
どうでもいい人や嫌いな人にもあいさつしたことを良く言い、褒めてコミニケーションなどと言う人もいるのだ。
95.あいさつという同調圧力
私は今まで同調圧力という言葉を知らなかったのだが、新聞の本の宣伝の何かに、「なぜ、日本人だけが同調圧力に苦しむのか」という感じのことが書いていた気がする。
同調圧力という言葉の定義自体が人によっても違うだろうが、大体同じ意味で使っている人が多いと思うが、少数派の人に多数派と同じことをさせようとしていて、色んなやり方で少数派に多数派と同じことをやらせようとしているということだろう。
同調圧力で自分と同じことを信じていない少数派に自分と同じことを信じさせようとしている宗教とも言える。つまり信仰心なのだ。
自分が感じていることが正しい、自分が信じていることが正しいという信仰心の押し売りをしているのだ。
例外あれど少数派が見下されたり、悪者扱いされるのは、多数派にとって都合が悪い場合が多いから少数派を悪者にしたり、見下すのだ。
日本人は無言で説明もせずに大勢と同じことをして当たり前という雰囲気を作っているところがあるのと、日本人はあまり人の気持ちが分かる人ではないだろうから、自分が正しいと信じていることを、
同じ人間ではないと思っている他の人も同じことを信じていると自分に都合のいい捉え方をするところがあるのだろう。
正しいこととは何かという答えが、例外除いて大勢と同じことをすることが正しいと信じている人が世界中にたくさんいるだろう。
つまり、なぜ大勢がやっていることや、大勢が感じたことが正しいと勝手に決めつけて信じているのかについては説明はしないのだ。
そう感じたからそれが正しいと信じているのだろう。
あいさつにおいても、あいさつをされたら言葉であいさつを返すのが正しいし、人はみんなあいさつを返さなければいけないと、
無意識や意識的に勝手に信じている人がたくさんいるのだ。
あいさつを返さない人に白眼視したり、奇異な目で見たり、見下したり、嫌ったり、嫌がらせしてきたり、身体暴力をやる人がいるのも、
正しい根拠がなくても自分が感じたことが正しいと信じているところがあるから、あいさつ返しが正しことで、人として絶対にやらなければいけないと信じ込んでいると、あいさつ返しをしない人をおかしいと思ったり、悪い意味で変わっているなどと言うのだろう。
正しい根拠がないことを正しいと信じまくり、大勢と同じことを感じたり、やったりすることを根拠なく正しいと感じている自分達を変わっているとは言いにくいのだろう。
学校、部活、職場、近所など色んな集団に属している中で、信仰心や望んでいることの満場一致など、ほとんどないだろうが、誰の言い分をまかり通らせて押し通すのかは、自分が属している集団の多数派か、立場が上の一人か一部の人が決めたことで決まりやすいだろう。
つまり、少数派や立場が下の人は多数決で決めたことに不満があっても不満は言うなと言いたいか、不満は影で言えということだろう。
いい加減で適当な物事の決め方をしている人や、根拠のないことを正しいと信じている人が変な人ではないとか、普通の人や常識人などと言われているのだ。
あいさつも自分の周りの数少ない人が、あいさつされたらみんな返していたとか、自分があいさつした相手みんながあいさつ返したから、
あいさつ返すのが正しいと勝手に信じるのだろう。
あいさつ信者の中には、あいさつされたら全員に返したとか、一部の人にだけ初めにあいさつをしたから、常識人で大勢と同じことが出来ている素晴らしい人だと思っている変な人達もいる。
あいさつする時に人の目を全くか、ほとんど見ないような、あいさつしている人の中でも少数派の人が変な人とは言われにくく、あいさつしたところだけを持ち出して、普通の人や常識人や素晴らしい人と言われて褒められて得をする。
自分が感じたことが正しいと信じていることを、自分が正しいんだという言い方はせずに、「自分と同じことを信じていたり、自分と同じことをやっている人がたくさんいるから、私が感じたことや、やっていることが正しいんだ。自分だけがやっているわけではないから、自分は間違っていない」と思っていて、それを常識や社会のルール、良識などと言っている人はたくさんいそうだ。
全く同じことをやっていたり、全く同じことを主張しているのに、大勢がやっていると正しい根拠のないことでも信じられやすかったり、
テレビや雑誌などのメディアが取り上げたことはメディアをバカにしていない人は信じやすかったり、メディアをバカにしているところがある人でも信じやすいところがあったり、メディアで取り上げたものを取り入れやすいのだろうけど。
信用している人が言うと信じやすいが、信用していない人が同じことを言っても信じられにくい。
大勢がやっていることや信じていることの方が正しい根拠がなくても正しいことだと信じやすいのが多くの人の心理だろう。
ほとんどの人は複数の集団に属しているだろうが、あいさつ信者の多くは家族にはあいさつしなくてもいいという信仰を持っているだろうから、
この家族という集団の中ではあいさつしなくても許されるのだ。
でも、一歩家の外に出ると近所では近所の人などにあいさつ返しをさせるために、あいさつを初めにしてくる人がいて、その人たちはあいさつ返しが正しいと信じている人が多いだろうから、あいさつ返してあげないと不満を持たれて、嫌われたり、嫌がらせなどをされる場合があるのだから、
ある地域に属していたら、そこで大勢があいさつを返すことが正しいと信じていると、それに合わせてあげないとその地域に居にくいと感じる人もいるだろう。
ある職場では誰もあいさつをしないが、別の職場ではあいさつする人の方が多かったりして全然違うのだ。
自分が属している集団の中の多数派(大勢)と同じことをしないと目立って、変な目で見られやすいところがある。
こっちの集団ではあいさつしなくても許されるのに、あっちの集団に行けばあいさつしないことは許されないのだ。
私がいい例で、私が初めにあいさつしないことに対して、今私が住んでいるところの近所の老人4人から間接的、直接的に悪態つかれたり、不満を言われたが、他の地域に住んでいる時にこんな態度はとられたことはないし、学校や職場という集団に属している時でもこんな態度を取られたことはない。
今の日本の法律では大麻取締法で上の許可なく大麻栽培、所持していると逮捕だが、他の国なら同じことをしても逮捕にはならない国もある。属している国によって法律が違うので同じことをしても扱いが違うのだ。
あいさつや大麻以外でも同じことだ。
金でやっていく世の中で値段ついているものに金を払わないことを大勢が間違っていると思ったり、それをやった人を見下していたりするのも、
大勢と同じことをしていないからだ。もし大勢が金でやっていく世の中がおかしいとか、金を払わない人を逮捕していることがおかしいと言い出したら、大勢が感じていることを正しいと信じているところがある人が多いだろうから、金でやっていく世の中が間違っていると言い出す人もたくさん出てくるだろう。
大勢と同じことをしないから例外あれど、気に入らないと思ったり、見下してきたり、バカにしてくる。
金でやっていく世の中を人のためとか、社会貢献と言っている人は、自分が金社会を正しいと信じているから、値段ついているものに金払うことを正当化したり、給料という形で金を貰う人を高評価して良く言う人もいるのだろう。
金信者は金でやっていく世の中が間違っていて不正なのに、自分が正しいと勘違いしているのだ。
「なぜ、日本人だけが同調圧力に苦しむのか」というようなことを書いていた人も間違っている。
同調圧力されているのは日本人だけではないだろう。少数派でも歌手や芸能人の様に大勢から好かれたりしている人の場合は、
この人たちを嫌っても、大勢から好かれているからと大目に見る場合もあるだろう。
大勢から好かれている少数派の人には「自分はこの人が嫌いだけど、この人の存在や、この人たちの歌や言動でたくさんの人が好んでいたり、役に立っているのだから許す」という人は多いだろうが、大勢から好かれているわけではない少数派の人の場合はバカにされるだけだったり、見下されやすいのだろう。
「なぜ、日本人だけが同調圧力に苦しむのか」と言っている人は、
大勢と同じことをしろと無言や言葉や態度で不満を表されたり、信仰を押し付けられて、正しいと信じていないのに誰かの信仰に合わせて従ったり、やりたくないことを嫌々やっていて苦しんでいる人がいると言いたいのかもしれないが、大勢と同じことをしないことでも見下されたり、バカにされたり、裁判起こされたり、逮捕されたり、嫌がらせされたりなどして苦しんでいる人もいるわけで、大勢と同じことしていても、大勢と同じことをしないことでも不満を持たれたり、嫌われる場合があるのは同じことだ。
例えば歌手や芸能人がいい例で、大勢と違うことをしていて、他の無名な人達よりも多くの人に好かれたり褒められている一方で、
バカにされたり、見下されたり、不満持たれたりなどもしている。
大勢と同じことをしないと誰か一人からでも変な目で見られたりするから形だけでも同じことをしておけと言いたい人もいるだろうが、
大勢と同じことをしていても、似合っていなかったり、自分が見下している人が自分達大勢と同じことをしているとバカにしたり、見下す場合もあるのだから、どちらをやってもバカにされたり、変な目で見られたり、嫌われる場合もあるのだ。
あいさつ信者の場合は、誰でも人のことなどほとんど知らないが、
自分は人のことを知っているところがあるという知ったかぶりをしているバカで頭が悪い、鈍いところがあるのだ。
あいさつを常識や、社会のルールや、コミニケーションなどと美化したり、綺麗事を言い良く言っている人が多いだろうが、相手を自分の思い道りにさせたがっている支配的で独裁的、自分中心なところがあるとも言えるのだ。
自分の思い道りの言動を取った人や、自分が好きな外見をしている人を褒めて良く言ったり、好きになったりする場合があるのも、我が身が可愛いい人間が自分の思い道りのことをすると褒めて高評価するのだ。
あいさつをしてほしい人があいさつをしないことで嫌ってきたり、見下したりして格下に見たり、攻撃してくるのも自分の思い道りにならなかった不満や不快さを相手のせいにしているからだ。
社会のルールと言っていて、はっきり言わない言い方に隠している意味は、大勢が正しいと信じているルールとか、大勢が守っているルールというような意味で使っている場合が多いだろう。
こんな信仰を持っているのはいい加減、適当なのだが、大勢と同じことをしている方が良く言われやすい。
「みんなまじめにやっているんですよ」とか「まじめな人が損をする」などと言っているのは、ある集団に属していて、その集団の中の多数派と同じことをしないことに対して少数派を問題視ているからこんなことを言うのだ。
ほとんどの決まりを守らない人が、自分が守っている決まりを守らない人に「まじめな人が損をする」などと言い、自分の信仰を正当化したり、正しいとさえ信じていない決まりをいろんな理由で形だけ守り、同じことをしない人を悪く言って、自分に甘いところがあるのだ。
井の中の蛙大海を知らずということわざは、全ての人間に言えることだが、
知らない事が多いけど他の人は何を思っているのだろうかとか多くの人に関心、興味がある人もいるだろうが、多くの人はほとんどの人には関心、興味はないだろうけど。
色んなことを知ろうとはしないけど、人間として正しいことは例外あれど大勢と同じことをすることだと適当に信じている人もたくさんいるのだろう。
信仰心、信じることを常識や社会のルールやマナー、モラル、良識などと言って誤魔化しているのだ。
97.あいさつを初めにした人が王様、女王様、殿様の様になっている
あいさつを初めにした人が正しいことをしている素晴らしい人の様になっていて、あいさつされたら言葉であいさつ返すことが正しいと信じている人がたくさんいるのだろう。
初めにあいさつをした人から選ばれて、あいさつされた人は絶対にあいさつを返さなければならないという決まりを悪い感じに言えば、あいさつを初めにしてきた人の奴隷や召使いのような扱いだ。
私はあんたには合わせないけど、私には合わせてと思っているのを隠しているのだ。
初めにあいさつした人が偉い人で、王様や女王や殿様みたいに上の立場の人であるかのようになっているところがある。
あいさつを初めにやった人に合わせて従えと言葉で言い表さずに隠して、
人を自分の言いなりにさせたいことを、カッコつけて美化して綺麗事を言う人はコミニケーションや社会のルール、人間のルール、常識などと良く言いウソを言っているのだ。
みんながあいさつを正しいと信じているわけではないし、誰にでもあいさつしたいと思っているわけでもない。
自分達あいさつ信者が、ほとんどの人に初めにあいさつしないことは許し、あいさつを返さない人のことは見下したり、嫌ったりして
許さないという差別をしている。
自分はやりたい時に、やりたい人にだけあいさつする自由を許し、他の人があいさつしない自由は許さない勝手な自分中心なところがあるのだ。
98.叔父の言ったことと天皇家とあいさつのことなど
2021年の8月のお盆ぐらいの時期に、私の叔父が私に「人が来るから、ちゃんとしないとダメだぞ、笑われるぞ」というようなことを言ってきた。
私の住んでいる母親の実家に母親の親戚(いとこ)がお盆で来るだろうから、ちゃんとしろよと言っているのだろう。
叔父がちゃんとしろと言っている意味が私にはわからない。叔父が「ちゃんととしろ」と言っているのが、はっきり詳しいことを言わない言い方をしたことが、ちゃんとした言い方をしていないとも言える。
他人に自分の要望や信仰心を押し付けて、ちゃんと説明をしないのに、自分の思い道理にならないと不満や疑問を持ち、本人のいる所や
本人がいない所で不満を言ったりする人もたくさんいるだろう。
あいさつでも同じようなもので、あいさつを初めにする動機や目的や理由は人によって違う。
初めにあいさつする人のほとんどは、あいさつ返しを求めているだろうが、みんながあいさつ返しを求めてはいない。
叔父がちゃんとしろという言葉に込めている意味が私には分からないが、叔父はちゃんと意味を説明せずに、自己満足で喋っているだけだ。
「人からバカにされたり、おかしいと思われて笑われたら嫌だろ。だから、わしがちゃんしていると思うことをやれよ。」とでも言いたいのだろうが
自分が家のドアを凄い大きい音で閉めていることで近所の人から不満を持たれていて、その人たちから音の嫌がらせをされていることに叔父は気づいていない。
音の面では私が以前家の中で独り言を言ってた時に、叔父がその独り言を聞いて不満を持っていて、私のことを頭がおかしいと言っていたが、
自分も音のことで誰かから不満を持たれているのだ。目くそ鼻くそだ。笑われてはいなくても叔父も誰かからおかしいと思われているのだ。
以前に、私の母親が「天皇家をいらないと言っている人がいる」と叔父に言ったら、叔父が「天皇家をいらないと言っているのは、ごくごく一部の人だけ」と言っていたのだが、叔父は天皇家が税金を使って、特別扱いされていることをおかしいとか間違っているとは思っていないと思う。
大正天皇のことは悪い感じに言っていたが、別の天皇のことは高評価していて、天皇家のことはあまり悪くは思っていないようだが、
天皇家を特別扱いして、税金から皇室関連のことに100億以上の金を取っていることをおかしいと思っていたり、間違っていると思っている人もいたり、天皇家の人や皇室関連のことをやっている人を嫌っていたり、バカにしている人もいるが、叔父はそういう人がいることを知っているだろうに、
多くの人は天皇家が特別扱いされていてもいいと思っていそうだが、大勢が許しているから、一部の人がおかしいと思っていたり、
嫌がっていることはやってもいいと思っていそうだ。
全ての人が同じ信仰心や好き嫌いを持っているわけではないし、同じ人間ではないのだから、誰かがバカにしたり、おかしいと思うことを他の人も同じことを思うわけではない。
全ての人から、何から何まで自分の全のことに対してバカにされないようにしたり、おかしいと思われないようにすることは不可能だし、
そんなことを思っている人などいるのだろうか?
誰かが嫌がることは、他の人は嫌がっていないし、同じことを好きな人もいれば嫌う人もいる。
みんなが同じことに対しておかしいと思っているわけでもないし、バカにしたりはしていない。
人からバカにされたくない、おかしいと思われたくないと思っている人など、人のことや世の中のことについて、ほとんど知らないだろうし、
多くの人はほとんどの人に関心、興味などないだろう。人のことをほとんど知らないのに自分や自分以外の誰かが、誰かのやっていることや、誰かの外見をバカにしていることに、バカにされている人は人からバカにされて嫌だと思わないのかなと思うのは、自分が感じたことが正しいと信じているところがあるから、そんなことを思うのだ。
みんなが自分と同じことを感じているわけではないことを分かっていないバカなところがあるのだ。
バカにされたくないから誰かがバカにしていることをやりたくないと思っている人が、誰かがバカにしていることを他の人は高評価している場合があることを知らなかったり、高評価している人がいることを知っていても、
バカにしている人が一人でもいることの方に意識を持っていき、自分がやりたいことを一人でもバカにしている人がいるのならば、やりたいことやらずに、バカにしている一人の人からバカにされたくないと思う人もいるのだ。
そんな人が自分のやることや、やらないことで誰かから低評価されたり、不満を持たれたり、バカにされているのに、それに気づいていないのだ。
私が30歳前後の時に派遣の仕事に行っていた時に、私が職場で食べるための昼食の弁当を作り終えて、弁当箱を使用済みの小さいスーパーのビニール袋に入れていたのを見た私の母親が、「人に笑われる―」と言ったのだ。私の母親は弁当をビニール袋に入れているのをおかしいとか、
かっこが悪いとでも思ったのだろうが、みんながスーパーの袋に弁当を入れているのをおかしいとは思わないだろう。
私の母親にしろ、それ以外の人も、自分中心に物事を捉えているところがあるのだ。
それはあいさつのことにも通じることで、自分があいさつを返すことを正しいとか、絶対にしなければいけないと信じていると、あいさつ返さない方がおかしいとか、間違っていると勝手に思う人もいるのだ。
正しいという根拠や裏付けがなくても、自分が感じたことが正しいと無意識や意識的に勝手に信じているところは誰にでもあることだろう。
以前、私が頭のハゲを隠さずに店内にいた時に、私の近くを通りすがった人が「恥ずかしいと思わないのかな」と言い、その人と一緒にいた人が
「誰も見てない」と言っていたのだが、私のハゲのことを言っていたとと思っているが、この人やそれ以外の人も似合っていないと思うハゲを、そのまま見せている人をおかしいと思っている人は、
自分がおかしいと思うから他の人もおかしいと思っていたり、
バカにしている人がいると思い、似合っていないハゲを隠さずに見せている人の方がおかしいと思っているのだろう。
みんなが似合っていないハゲは隠すべきだとは思っているわけがない。
誰でも自分が感じたことが正しいと信じているところがあるのだろうけど。
99.性的なことや暴力とあいさつ
性的なスケベやエロや暴力も、あいさつに通じるところがある。
性的なセックスなどは誰にでもやっていいものではなくて、
性的両思いの人達はやってもいいが、性的両思いではない人はやってはいけないと多くの人が思っているが、それを言葉でいちいち説明はしない。
多くの人は身体暴力は悪人だと思っている人にはやってもいいと思っているだろう。
牛や豚や鳥を殺したり、蚊やハエやゴキブリなどを殺したりするのも暴力だがこれらの暴力も多くの人はやってもいいことだと許している。
あいさつも、初めにあいさつをしなくても許す人が多いだろうし、
あいさつ返しをしないのが子どもや、耳が聞こえない人や声が出ない人や、自分の仲間なら許しても、それ以外の人があいさつ返しをしないことを
許さない人もいるわけだ。
同じことをしていても、誰がやったかによって違うことを思っているのは人を同じ人間だと思っていないからだ。
同じ人間ではないし、同じ関係性ではないから、同じ態度を取っても思うことが違うのと、見下している人や、どうでもいい人、好きではない人を軽視して軽く見ているから、自分が望む態度を取らないと不満を持つ場合が多いのだろうけど。
性的なことはいい例で、テレビや映画のセックス場面などで、胸やお尻を見せているのをテレビで放送したり、演技でセックスしている場面をテレビで放送したり、AVのアダルトビデオやアダルトDVDやAVの動画を出しても逮捕にならない場合もあれば、逮捕になる場合があるが、何を基準にしているのかが、いい加減であり、差別しているのだ。
日本で外で裸になっていたり、下半身を出して露出している人がいたら、警察を呼ばれたら逮捕になるが、AV動画を販売やレンタルして金を取ることは許していたりなどして、おかしいことをしていて差別しているだけだ。
AVのアダルト動画を出したりしていることに不満を持つ人もいれば、持たない人もいる。
みんな自分を基準にしているだけで、自分が許せることならば誰かが嫌がっていても許す場合が多いだろうし、嫌がった方に問題があるとか、心が狭いなどと思ったりするのだ。
浮気をされた妻の方に問題があると思う人もいれば、浮気相手や浮気した夫の方を問題視する人もいて、自分が思いたいようにしか思わなくて、
自分を基準にしているだけだ。
ミロのヴィーナスやダビデ像などの裸体をワイセツとは言わなくても、
外で幼児が裸だったり、ヌーディービーチで裸になっていること以外で裸ならば警察呼ばれたら捕まる。
無職やニートと言われている人を見下して、正しい生き方をしていないと思っている人がいて、誰かから間違った生き方しているとか、気に入らないとか思われていたり、嫌がられていても、刑法違反ではないから逮捕にはならない。
年金や税金を取られることを正しいとは思っていなかったり、嫌がっている人がいても刑法違反ではないから逮捕にはならない。
みんな自分が正しと信じているところがあるが、信じているという言葉で言い表す人はほとんどいないだろうが、常識や社会のルールやマナーモラルなどの言葉で言い表したりして、はっきり言わずに誤魔化していたり、自分の本当の信仰を隠しているところがある人もたくさんいるのだ。
性的なことで、これはやってもいいけど、あれはやってはいけないというのと、あいさつも似ているところがあり、あいさつは、ほとんどの人にあいさつをしなくても許されるが、一部の人があいさつをしないことは許さない。
みんな、それぞれ勝手な信仰を持っているが、多くの人は普通の人や一般人などという言葉で片づけられている。
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