くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは
間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない

2022年10月05日 | 脱あいさつ
目次
1.あいさつは正しいことではない
2.あいさつの特殊さ、異様さ、異常さ
3.あいさつのウソ
4.多くの人は、ほとんどの人や物事などにあまり関心、興味がなさそう
5.あいさつ信者は自分宗教の教祖であり、信者である
6.バカの言葉、おかしな言葉
7.あいさつの押し売り
8.多くの人は色んなことを見栄、体裁、虚栄心、カッコ付け、媚売り、胡麻すりなどでやっていると思う 
9.あいさつ型擬態、あいさつ擬態、擬態生物の人類
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

1.あいさつは正しいことではない

 

大勢の人が一部の人にだけやっている、おはようございます、おはよう、こんにちは、こんばんわ、というあいさつと言われているものがある。あいさつを初めにされたら、オウム返しであいさつを返さなければいけないと大勢の人が正しいと勝手に信じている。一部の人はオウム返しをしなくてもいいけど、最低限、頭を下げる会釈ぐらいはしなければいけないと信じているだろう。このあいさつや、あいさつされたらオウム返しをすることが正しいとか、最低限会釈ぐらいはしなければいけないという信仰は正しいことではない。でも、大勢の人は正しいとか、人としてしなければいけないことだと信じているみたいだ。

私はあいさつをしている人を大きく分けて2種類(2タイプ)に分けている。あいさつを初めにされたら、オウム返しをしなければいけないと信じていたり、最低限会釈をしなければいけないと信じていたり、一部の人は自分や一部の人に初めにあいさつをしなければいけないという決まりを決めていて、あいさつを正しいとか、しなければいけないと信じてあいさつしている人と、あいさつを初めにされたらオウム返しや会釈をすることを正しとは信じていないけどあいさつをしている人。

私はあいさつを正しい、人としてしなければいけないと信じている人を、あいさつ信者、あいさつ信徒、あいさつ信奉者などと呼んでいて、あいさつを正しいと信じていない人を、あいさつ非信者、あいさつ非信仰者などと呼んでいる。そして、あいさつをしないといけない、あいさつは正しいという決まり(ルール)をあいさつ宗教、あいさつ教などと呼んでいる。多くの人はあいさつ信者だと思う。あいさつしないことに不満を持ったり、身体暴力を振るったり、悪態ついたり、影から嫌がらせして攻撃してくるような人はあいさつ信者なのだ。

私は1982年生まれで、幼稚園ぐらいから20代半ばまで住んでいた大阪では周りの人は、ほぼ私にあいさつなどしてこなかったし、私も周りの人にほぼあいさつなどしていなかった。私が行っていた学校にはあいさつ運動もなかった。周りの他の人が誰かにあいさつしていたような記憶もほぼない。周りの人にあいさつしていないからと「あいさつもしねーよー」などと言われたこともない。 私は20代半ばぐらいまでは、あいさつを好きでも嫌いでもなく、あいさつについてなんら普段は意識もしていなかった。20代半ばで、岡山県の母方の祖父母の家に引っ越した後から、家や畑の近所の人や親戚のあいさつに関することで、あいさつをおかしいと思うようになった。

あいさつを返されないことや、初めにあいさつをしてこないことに不満を持ったり、怒ったり、ダメ人間と見下したり、不満を言ったり、悪態をついてきたり、嫌がらせをしたり、身体暴力を振るう人がいる。あいさつしない人に不満を持つ人は、それが自分の姿だということに気づいていないのだ。

あいさつする人は誰にでもあいさつしているわけではなく、身の周りのほとんどの人にはあいさつしていないはずだ。多くの人は家族や友達や恋人などや、仲のいい人にあいさつしていないだろうし、身の周りにいるほとんどの知らない人にもあいさつしていないだろう。

あいさつ信者はスーパーやコンビニや飲食店などの色んな店や、街中や観光地、銀行、郵便局、市役所や駅、バス停、空港や公園、公共の場所のトイレなど、ほとんどの場所で自分の周りにいる人たちがあいさつしてこなくても、自分が周りの人たちにあいさつしなくても不満は持たないだろう。ほとんどの人が自分や誰かに対してあいさつしていなくても「あいさつできない人」などとは言わないのだ。あいさつしていない点では同じであるにもかかわらず、なんで一部の人には「あいさつできない人」と言い、ほとんどの人には「あいさつできない人」と言わないのか?それは、自分や誰かにあいさつしてほしいと望んでいるのにあいさつしてこなかった場合は、例外あれど不満を持つが、一方で、あいさつをしてほしいと望んでいない人があいさつをしてこなかった場合は、望んでいないのだから、不満も持たないし腹も立たないのだろう。自分の思い道りにならなったことに不満を持っており、相手が間違っている、おかしいと思っているあいさつ信者が多いのだろう。あいさつ信者は根拠や裏付けはなくても自分が感じたこと、信じていることが正しいと信じているところがあるのだ。

誰かが日本人は謙虚、控えめ、つつましやか、奥ゆかしいなど言うが、私はあいさつやそれ以外のことで、自分の思い道りの言動取らない人に不満を持つようなことを控えめ、謙虚、つつましやか、奥ゆかしいとは思わない。あいさつすることを望んでいるのにあいさつをしない人に、影で不満を書いたり、言ったり、内心で不満を持っていることを謙虚、控えめ、つつましやか、奥ゆかしいなどと言えばカッコが付いて、綺麗事にはなり、日本人を良く言って褒めることは出来る。下らない言葉遊びだろう。同じ言葉を同じ意味で使っておらず、言葉が通じていないところがあるのだ。

多くのあいさつ信者は子どもが好きで、子どもを悪く言いたくないから、子どもがあいさつ返さなくても、初めにあいさつしなくても子どもに不満は持たない人が多いだろうが、人によっては、子どもがあいさつしないのは大人がしていないからだとか大人が教えていないからだと、大人のせいにしている。同じようにあいさつしていなくても、あの人は許すけど、この人なら許さないというえこひいき差別をしている。だから、あいさつは差別とも言えるし、あいさつは差別ルールとも言える。あいさつ信者とは差別者でもあるということだ。

あいさつをしてほしい人があいさつしなくて不満を持つ人を「モンスターあいさつ信者」「あいさつモンスター」「モンスター信者」「モンスター信徒」「モンスター信仰者」などと呼んでいる。多くの人は数少ない人に初めにあいさつして、百発百中でオウム返しであいさつを返されているだろうが、オウム返しであいさつを返さない人に不満を持たない人もいるだろうが、不満を持つ人もいるわけだ。あいさつしないことで身体暴力振るったり、本人目の前に悪態ついたり、不満言ったり、影から嫌がらせをする人は内面で不満を持ったリ、影で不満を言ったり、書いたりする人よりも、さらにモンスターだということだ。

 

 

 

 2.あいさつの特殊さ、異様さ、異常さ

 

一般に宗教と言われているキリスト教やイスラム教や創価学会やエホバの証人などを、その宗教を信じていない人や興味がない人に「信じろ、入信しろ」と言ったら、宗教の押し売りはしてはいけないとなることが、あいさつの場合だと多くの人が、自分達のあいさつ信仰を押し付けることを許しているのだ。宗教と言われていないことでも、ほとんどのことは押し付けてはいけないと思っている人が多いと思うが、あいさつの場合は多くの人が押し付けてもいいと信じているのだろう。あいさつは大勢がやっていることだから正しいことだと信じている人がたくさんいるのだろう。

 

人は大勢と同じことをしなければいけないところと、大勢と同じことをしなくてもいいところがあり、ほとんどのことは大勢と同じことをしなくてもいいけど、一部のことは大勢と同じことをしなければいけないと信じている人がたくさんいるのだろう。その一部のことの中のいくつかが、あいさつをすることや、年金、税金や刑法違反の罰金を払わなければいけない、値段ついているものには金を払わなければいけない、子どもは学校に行かなければいけない、例外あれど大人の多くは給料や印税を貰うようなことをしなければいけないなどだろう。ほとんどのことはやらなくても、知らなくてもおかしいとは思われないが、あいさつの場合は、特にあいさつをオウム返しで返さないと変な目で見られたり、嫌われたり、攻撃を受ける場合がある。

 

プロレスを見ない人や、プロレスラーのことを全然知らなかったり、よく知らなくても非常識やマナー違反とは言われないが、あいさつしている人はほとんどの人にあいさつしていないが、一部の人があいさつしないことは許さずに、非常識や社会のルールを守っていないと思ったり、ダメ人間などと言ったりして不満を持つのだ。

 

小さい子どもなどは別として、日本人でイチゴやバナナやリンゴを知らない人がいたら、変わっているとか、珍しいなど思われるだろうが、イチゴやリンゴの品種を全部知らなくても変わっているとは思われないだろう。大勢の日本人がイチゴやバナナやリンゴを知っていても、品種を全部知っている人はあんまりいないだろうから、おかしいとか変だとは思われないのだ。

 

大概、ほとんどのことは大勢がやっていることが例外あれど正しいと根拠や裏付けもなく信じられていて、大勢がやっていることが例外あれど正しいと信じられているのだ。何が正しいか分からない世の中で、大勢がやっていることが例外あれど、正しいことだと根拠や裏付けもなく信じている人もいるのだ。悪く言えば、いい加減、適当、勝手、おかしいなどと言えるが、良く言いたい人は普通、普通の感覚を持っている、一般的、一般的な感覚、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラルなどと言ったりするだろう。

 

日本人は親からたくさん否定されてきて自分に自信がないと言っている人がいるが私は違うと思う。日本人は親や、それ以外の人から否定されても、根拠や裏付けもないのに自分が正しいと信じているところがある。その一つがあいさつで、あいさつを返すことが正しいとか、人としてしなければいけないという根拠もないことを信じてたり、一部の人は自分や家族に初めにあいさつをしなければいけないと勝手に信じていて、自分が正しいと信じているような日本人もいるのだ。

 

質問サイトに「日本人って人の表情読めませんよね」というようなことが書かれていたのだが、書いている人が言いたいことは、日本人は人の気持ちが分からないところがある、人の表情が読めないところがあるという意味だろう。日本人は人の表情が読めないところがあるだけではなくて、人の表情を読む気がないところもあるのだ。人の気持ちを知る気もない、表情を読む気もないことの一つがあいさつだろう。あいさつを初めにしたら、あいさつされた人はみんな言葉であいさつ返すと信じている人が日本人にはたくさんいるだろう。人の信仰心、気持ちをあまり分かる気もない人の方が多いだろうし、他人にほとんど興味がない人が多いだろうけど。自分や自分の好きな人や、自分と同じこと信じている人には合わせてほしがったり、従って欲しがるのに、自分はほとんどの決まりを守らないところもあったり、勝手で独裁的なところがある日本人もいるのだ。

 

 

 

3.あいさつのウソ

 

あいさつをすることが正しいなどという根拠などどこにもないのだ。あいさつを正しというのはウソだ。あいさつをしないといけないという決まり(ルール)はウソである。

では、何んであいさつすることを正しいと信じている人がいたり、正しいと信じていないのにあいさつしている人がいるのかは、あいさつを正しいと信じている人は、大勢がやっていることだから正しいと信じていたり、過去にごく一部の人にだけあいさつしてきたら百発百中で全員がオウム返しであいさつしてきた経験がある人が多いだろうから、他の人もみんなオウム返しであいさつ返したいんだと勝手に信じ、あいさつは正しいと信じたのだろう。

あいさつ非信者の場合も、あいさつを正しいと思ってもいないのになんであいさつしたり、最低限でも会釈したりしているのかも、胡麻すり、媚売り、見栄、体裁、虚栄心でやってたり、あいさつされたがってる人にあいさつしてあげないと相手が不快になったら悪いからなどの理由であいさつしているんだろうけど。あいさつをしないことで、身体暴力を振られたり、影からの嫌がらせで攻撃されたり、悪態つかれたり、嫌われたり、変人やダメ人間などと言われて見下されないために嫌々、渋々あいさつしてるんだろうけど。あいさつ信者も良く思われたくて、媚売りであいさつする場合もあるだろう。

「働きたくて働いているんじゃない」と言っている人は、自分や家族が金でやっていく世の中で、金がないと死活問題で生きていけないから、本当は給料を貰うような仕事をやりたくもないし、職場の人を嫌ってたり、職場の人から嫌われてたりして心身不調でも、金がないとやっていけないから、嫌々、渋々、働きに行っているなどの意味で言っていると思うが、あいさつしている人の中にも「あいさつしたくてあいさつしているわけではない」と思ってる人もいるだろう。

例外あれど、人間は自分の思い道りにしたいと思っているだろうから、自分の思い道りにならないと嫌な気持ちになり、不快、不愉快になる。自分可愛さ、わが身可愛さがあったり、自分が正しいと信じている所があるので不快になった原因を相手のせいにする人が多いだろう。

あいさつ非信者は、あいさつされたがってる人にあいさつしてあげなかったら何されるか分からないと怖がっている人もいるだろう。実際、悪態ついたり、不満言ってくる人、嫌がらせしてきたり、身体暴力を振るう人もいる。直接不満を言われなくても、相手に内心で嫌われたり、不満を持たれることを嫌がる人もいて、相手の望む態度を取ることで、嫌われたり、不満を言われたり、攻撃されることを回避させたい人もいるだろう。

無難に生きていくには、人から嫌われない方がいいだろうから、本当はあいさつ返したくなくても、形だけ大勢と同じようにあいさつ返しをしていれば無難な生き方、処世術だ。嫌われたり、攻撃を受ける可能性や危険性が低いからだ。

やらなくてもいいと思っていることを誰かに対してやった人に「甘やかしてる」「甘やかしすぎ」「過保護」「過干渉」などと言って、その人がやったことに不満を持ったりするが、多くの人は、初めにあいさつしてきた人にあいさつ返さない場合、あいさつ返さない方がおかしくて間違っていると思うだろうが、あいさつ返すことを、初めにあいさつしてきた人に対する甘やかし、過保護、過干渉とは言わない人の方が多いだろう。相手の望む態度や言動を取っていても、間違っていると思うことややらなくてもいいと思っている場合は、甘やかしなどと言い、あいさつみたいに大勢が正しいと信じているようなことは、相手があいさつ返してほしいと望んでいて、それに合わせてあいさつや会釈しても、甘やかしなどとは言わないのだ。変な言葉だ。

あいさつ信者が多いから、あいさつ返しを正しいと信じているあいさつ信者たちに毎回構ってあげて、初めにあいさつされたら絶対にあいさつを返せという信仰心の押し売りを、コミニケーション、社会のルールなどと言い綺麗事を言って、カッコ付けているが、「あいさつ信者を甘やかして、過保護、過干渉にしてあげてね。大切でもない人にあいさつしたんだから、気を使ってあいさつ返してあげなさいよ」という感じのことを思っている人もたくさんいるだろう。あいさつ信者に過保護であり、甘やかしているのだ。あいさつ信者は、あいさつさせたい相手のことを例外あれど、大切ではない人や関わる気もない人や、どうでもいい人などと思っている人が多いだろうから、そんな人たちに気を使ってあいさつしたから返してくれと、形だけの機械的なあいさつをしているのだろう。自分が正しいと信じているあいさつ信仰に合わせてほしいと、正しくもないあいさつ信仰が間違っているいるウソだということに気づいていないし、みんながあいさつ返しを正しいと信じていないことに気づいていなくて鈍くてバカで頭が悪いところがあるのだ。

 

 

4.多くの人は、ほとんどの人や物事などにあまり関心、興味がなさそう

 

多くのは、なぜ多くの人達があいさつしているのかの理由、心理、動機、目的、信仰心などに関心や興味が全くないか、あまり関心、興味がなさそうだ。あいさつ以外のことでも、多くの人は、ほとんどのことにあまり興味、関心がなさそうだ。あいさつしただけで「いい人」などと言う人もいるし、あいさつしないことで嫌ったり、ダメ人間などと言い、見下す人もいる。

自分があいさつしてほしいと思っているんだから、自分の思い道りにあいさつしてくれたらそれでいいという自己満足をしている。自分や自分の家族とか好きな人にあいさつしてきただけで、いい人などと好印象を持つ場合があるのも、相手が何であいさつしたのかの動機、信仰心、理由などを知らないから褒めて高評価しているのだろう。いい人も悪い人もいないけど、自分の思い道理の態度を取った人は「自分に都合のいいことをした人」なので「いい人」と言うのだろう。

もし、あいさつした理由が「めんどくさいけど仕方なくやった」とか、「あんたのこと嫌いだけど、今後の関係に支障をきたしたくないから仕方なくあいさつした」とか「嫌われたくないから、あいさつ返しを正しいと信じていなけど形だけやった」などの理由、動機であいさつをしたと知ったら、いい人だとはあんまり言わないと思うけど。

あいさつをしている本当の理由を知らないことによって、自分の都合のいいように思うことが出来るのだ。あいさつされたのは自分が嫌われていないからなんだと思いたければそう思うのだろう。仕事を辞めないのは、仕事が嫌いではないからとか、職場に嫌いな人がいないから辞めていないとでも思うのだろうか?仕事や職場の人が嫌でも金がないとやっていけないから、金貰うために嫌々仕事している人が多いと思うけど。離婚していないのは結婚相手に嫌いなところがないからとか、不満を言われていないのは不満を持たれていないからだとでも思っているのだろうか?

天皇家の美智子様が以前言っていたことで、一字一句覚えていないが、美智子様は人と関わることを、橋を架けるというようなことを言っていて、橋が橋としての機能を果たさなかったり、橋を架ける意思を失った時に人は孤立するというようなことを言っていたと思う。人との関りを橋を架けるという抽象的なはっきり言わない言い方をしていて綺麗事を言っているし、孤立の定義も人によって違う。

多くの人は、誰かと一緒に行動していたり、あいさつを初めにして、相手から言葉であいさつ返されたり、食べ物などを貰ったら、それを孤立とは言わず、コミニケーションやや触れ合い、交流などと言い、よく言うだろうが綺麗事言っているだけだ。

関わる気もない人や、嫌いなだけの人や、どうでもいい人に形だけの応対をしていることを、コミニケーション、交流などと言い、本音や、信仰心を隠して形だけの関りをしている。関わる気もない人や、どうでもいい人に働きかけて自己満足することは出来ても、相手の心理の全くか、ほとんど興味、関心もないのに形だけの応対をしていることを、コミニケーションしていて、孤立していないなどと言えばカッコはつく。

相手の全てか、ほとんどに興味がなくても、一切喋らずに一緒に食事に行ったり、何かの集団に属していて、周りの人と喋ることはなくても、一緒に行動したりしているとコミニケーションなどと言う人もいるだろうが、誰かと一緒に行動していたり、誰かと喋っても相手の心理の部分に全くか、ほとんど興味、関心がない人が多いだろうし、他人の一部分と表面的に関わったと自己満足しているだけだ。

あいさつを一部の人にすることを橋を架けたと言うとすれば、相手があいさつを返したら橋がちゃんとかかってコミニケーションが出来たと自己満足して、相手が無反応や会釈をして、自分が正しいと信じているあいさつの決まりを守らなかったら疑問や不満を持ち、相手に橋がちゃんと架からなくてコミニケーションが出来なかったと言っているような感じだ。橋を架けるなどという言い方をするのではなくて、具体的に言えば、今までごく一部の人に働きかけてきて、相手に自分の思い道りの反応をさせたいと思ったり、自分が正しいと信じている人と人との関りの決まりをまかり通らせたいのに、自分の言いなりにならないから不満や疑問を持ったということだろう。

あいさつでごくごく一部の人に橋を架けてあげてコミニケーションしようとしたと誰かが思ったとしたら、なぜほとんどの人にはあいさつせずに、ごく一部の人にだけあいさつという形で関わってやろう、橋を架けてやろうと思ったのかには、ほとんどの人は興味、関心などない。誰かにあいさつで橋を架けたと言えばカッコが付きそうなあいさつも、あいさつを正しいと信じているから一部の人にあいさつを求めて、自分の信仰心を相手の押し付けたと言ったらカッコが付かんだろう。

誰でも直接的や間接的に言葉で関わっている人はほとんどいないだろう。セックスしたり、抱きしめあったり、手を繋ぐようなことはほとんどの人とはしていないし、ほとんどの人に物などあげていないだろう。誰でもほとんどの人と関わっていないとも言えるが、あの人より友達が多いとか、知り合いが多いという優越や自慢は出来る。

街中で見かけた可愛い女とセックスしたくて、セックスしたいと直接言わずに、遊びに誘ってナンパをしたけど断られたAさんという男について橋を架けたという言い方で言えば、可愛い女にナンパして遊びに誘うという橋を架けるという行動を取ったら、自分の思い道りにならずに断られて、相手と遊びに行ったり、セックスすることが出来ずに、自分が可愛い女に働きかけて橋を架けてやったのに、橋が橋としての機能を果たさなくて、かわいい女とセックスできなかったよとと思っているような感じだ。橋を架けると言えばカッコ付くところがあっても、ナンパが断られたことを橋が橋としての機能を果たさなかったと言ってもカッコが付かんだろう。

嫌いなだけの人や、どうでもいい人で話も合わない人などと一緒に行動していたり、一緒に食べていても退屈だったり、嫌だったりする場合もあるだろうし、3人以上の人と一緒に行動していて自分以外の全員か、ほとんどの人が仲のいい人だったり、話があったりしている人なのに、自分だけか一部の人だけが話が合わない人だったら孤独だと思ったり、居心地が悪い人もいるだろうが、人と行動することを例外除いて良く言いたい人は、「誰かと一緒に行動していたから孤立はしていないし、孤独でもない。私の言葉の定義が正しいんだぞ。」と思うのだろうけど。コミニケーションという言葉の定義は例外除いて、誰かに喋りかけたり、一緒に行動することなんだと思っている人は、関わる気がない人や、どうでもいい人や、嫌いなだけの人と一緒に行動したり、喋るとコミニケーション取ったと言うのだろうけど。

自分だけがしかやっていないことや、自分だけしか思っていないことを孤独や孤立と言うと定義付けたい人、ほとんどの人はそんな人ではないから孤独ではないし、孤立していないと思うのだろう。「あなたは一人じゃないよ」などと言う人がいるが、他の人と全てが同じ人などいないだろう。一人でも同じことを思っている人や、同じことをやっている人がいたら孤独や孤立とは言わないと思いたい人はそう思う。

個性という言葉の定義について、他人から理解されたら個性とは言わないと言っていた人がいた。一人でも自分と同じ趣味を持っていたり、同じことを好きだったり、嫌いだったりしたら、それを個性とは言わない人がいても、ほとんどの人は他人が同じ好みを持っていたり、同じことを思っていても個性と言うだろう。同じ言葉を同じ意味で使っていないし、他人の言葉の定義や意味付けに全くか、ほとんど興味がない人が多いだろうけど。

 

 

5.あいさつ信者は自分宗教の教祖であり、信者である

 

あいさつは正しいことではないが勝手に正しいと信じこんで、あの人にはあいさつをしなくてもいいけど、この人にはあいさつをしないといけない、あの環境ではあいさつはやらないとダメだけど、ほとんどの場所ではやらなくてもいいなど、自分が勝手にあいさつの決まり(ルール)を決めつけたり、気分次第の気ままなあいさつをすることを、「常識、マナー、モラル、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、コミニケーション」などという言葉で言い表し、あいさつはしないといけないことであるかのようにウソをついている。

あいさつ信者のあいさつの決まりは人によって違う。知らない人にあいさつしなくてもいいという決まりや、近所の人にあいさつしなければいけないという決まりを信仰している人もいる。自分が作った決まり(ルール)なら、自分宗教、自分教、自分真理教、あいさつ自分宗教とか、あいさつ宗教自分宗派や、あいさつ独裁教、あいさつ自分勝手宗教みたいな言い方のほうがいいと思う。

あいさつ信者は、それぞれ独自のあいさつの決まりを作っていたり、信じているが、そんなあいさつ信者のことを自分宗教や、あいさつ宗教の教祖であり信者であるとも言える。あいさつ以外でも、誰でも根拠のなことを信じているところはあるだろうから、誰でも自分宗教の教祖であり、信者であるとも言える。

あいさつを「社会のルール、人間のルール、人間の基本」などといえばカッコが付いて、まるで自分が信じているあいさつの決まりごとは、他人が作った決まり(ルール)であるかのように見せかけることもできて、誤魔化しや、カモフラージュができる。気分次第で、気ままに適当に、いい加減にあいさつしてることも「社会のルール、人間のルール、人間の基本」などと言えばカッコが付いて、綺麗事にはなる。

似合っていない不自然なカツラをつけた人に、滑稽でおかしいと思ってバカにしている人が、あいさつ返されたくて人にあいさつしたのに、相手からあいさつ返されなかったことに不満を持って悪態ついたりする人がいるが、自分もほとんどの人にあいさつしているわけがないのに、自分にあいさつ返さなかった人に不満を持って悪態ついているのも滑稽でおかしい。正しくもないあいさつ返しが正しい信仰を人に押し付けてあいさつの押し売りをして、相手が自分の言いなりにならないと不満を持ったり、怒り出したりするバカさ、低俗さ、滑稽さ。

 

6.バカの言葉、おかしな言葉

 

自分のやりたいことをやっていることを悪く言う場合に、我がまま、勝手、自己中心的などの言い方をする人が多いだろうが、同じように自分のやりたいことをやってることを良く言って褒めて高評価する場合は、ありのまま、自分軸、自主性、個性、神、あるがまま、大我、神我などどと言ったりする。あいさつ返されたがっている人がたくさんいるから、あいさつ返されたがることを我がままや勝手などとは言わないのだ。もし、大勢の人があいさつ返さなかったら、あいさつ返されたがって不満を言う人を我がままや勝手、自己中心的などと言うのだろうけど。自分がやりたいようにやってるのは同じなのだ。自分の都合で言葉の言い方を変えているだけだ。

昔、天文学者のエドウィン・ハッブルが、天の川銀河の外に銀河があることを発見して、天の川銀河の外側にも銀河があると認識する人がでてきた。ハッブルが天の川銀河の外に銀河を発見する前までは、天の川銀河が宇宙のすべてだと信じている人がいたのが、天の川銀河の外に銀河が発見されて、信じることが変わったのだろう。

あいさつでも、今まで身の周りのごく一部の人にだけあいさつしてきて、あいさつした相手全員からあいさつ返されたから、みんながあいさつ返すんだと勘違いして間違った、いい加減なことを信じている人がたくさんいるのだ。20歳すぎてたり、60歳過ぎていてもそれが分からない人がたくさんいるのだろう。老人は人生経験豊富だと思っている人もいるが、老人もあまり人間や世の中のことを知らないだろう。角が取れて丸くなるのが老人だとか、人生経験豊富な人などと言われたり、褒めるようなことを言われ、良く言われたりするが、大げさなこと言っているのだろう。  若い人の多くが不満も持たない、腹も立てないことに不満を持ったり、許さない老人もいるわけだし。

私の性別は女だが、声が男の声をしているので男に間違えられる場合があるのだが、多くの人は人の声を大雑把に2種類に分けていて、男は男声で、女は女声であると信じている人がたくさんいると思う。  誰でも人類の中の一部の人の声しか聞いたことがないだろうが、多くの人は女は女声であると思っているのだろうから、人の外見や名前を見て女だと判断したのに、その人が男の声をしていると違和感を感じて、おかしいと思うのだろう。「あれっ、この人胸のふくらみがあって女だと思ったけど、喋ったら男の声だったぞ。なんでなんだろうか?」とか思っている人もいるのだろう。今まで女はみんな女声だと思っていた人が、そうではない人がいると初めて知ったら、その後、男の声をしている女を知ってもびっくりしなくなったりするのだろうけど。

人間は自分の思い道りにならないと、疑問を持って不思議がったり、不満を持ったりして、相手がおかしいとか、相手に問題があると思う場合が多そうだ。大勢と違うところがあると、その違う特徴を持っている人の方がおかしいと問題視されやすい。問題視しておかしいとされた人のことを悪い感じに言う場合は、刑法違反なら犯罪者、容疑者、悪者などと呼び、他のいい方なら、病気、精神病、不審者などと言ったりして、汚名を着せて悪い感じに言い、例外あれど、大勢と同じことをしていると褒めて良く言うのだ。

あいさつできない人と言っている人も、言っていない人もみんなあいさつできない人とも言えるのだ。あいさつできる人と言われている人など、所詮ほとんどの人にあいさつしていなかったり、家族や友達、恋人など親しい人に対しても一度もあいさつしたことない人はたくさんいるだろう。

経験豊富な人と言っていたりするのも、誰かとの比較で言っている場合が多いと思う。例えばAさんよりもBさんの方がセックスの経験が多いと言っているような感じだ。でも、Bさんもほとんどの人とセックスしたことがないので、AさんとBさんはどちらもほとんどの人とセックスしたことがないという点では同じなのだ。誰よりもあいさつできる人などと言われている人が、今まで身の周りにいたほとんどの人にあいさつしたことがないのに、誰かと比較して、あの人たちよりは大勢にあいさつしていると比較しているだけなのだ。ほとんどの人にあいさつしていない点では同じだ。言葉とは自己満足で使っているいい加減なものでもあるのだ。バカの言葉とも言える。

例え話だが、Aさんという人が「ここにある100枚の写真は心霊写真です」と言ったとする。誰かがその100枚の写真のうちの何枚かを「幽霊なんかいない。この100枚の写真は合成で作っている心霊写真だ。お前はウソをついてる。」と言ってきたことに対して、Aさんが「確かに、ここにある写真100枚の中で99枚は合成の心霊写真だけど、一枚だけ本物の心霊写真があるからウソはついていない」と言ったとする。本当の心霊写真一枚の方を持ち出して、ウソはついていないと言い、99枚は偽物の心霊写真なのに、それをウソをついているという言葉で言い表さないのだ。それと同じで、「あの人はあいさつができる人」と言っている意味が、過去に自分や誰かにあいさつを1回か2回以上やっているだけでも「あいさつできる人」という言葉で言い表す人もいるのだ。実際はあいさつできる人と言われている人は身の周りのほとんどの人にあいさつはしていないだろう。言葉とはどうにでも使える。こんにちはや、おはようございます、という言葉を使う人が同じ意味であいさつをしているわけではなく、自分に都合のいいようにあいさつを利用しているだけだ。「あいさつしているところがあるから、あいさつできる人と言ったのは本当だもん」と思う人もいるのだろう。言葉の言い方が大雑把で詳細について説明などしておらず、いい加減な言い方をしているのだ。こういうところは誰にでもあることだろうけど。

 

 

7.あいさつの押し売り

 

数年前の2014年半ばに、私の叔母と叔母の子どもが、いとこの子ども(5歳ぐらいの男と2歳ぐらいの女)と私の住んでいる家にやって来た。私は仏壇のある部屋に一人でいて、そこに叔母たち4人が入ってきて、叔母が孫二人に「こんにちは、こんにちは」と言った。孫に対して姪の私にあいさつしろという意味で「こんにちは、こんにちは」と誘導して言ったのだろう。男の子の方が私にあいさつしたのだが、私が言葉でもあいさつしなくて、会釈もしなかったら、一番後ろにいたいとこが叔母と部屋の外に出て行って、私がいた部屋の近くで「なんであいさつせんのん?あんな子嫌い」と大声で言った。

いとこは今まで私と会った時、あいさつも会釈もしたことはないし、私もいとこにあいさつも会釈もしたことはない、叔母は2017年後半から私に、突然あいさつしてきだしたが、私の記憶にある限り、それ以前にあいさつも会釈もしてきたことはない。

叔母とあいさつした男の孫とは、今まで数回、2人で私の住んでいる家に来ていて、私と男の孫は数回会っているんだが、3人とも誰もあいさつも会釈もしないし、叔母が孫にあいさつしろとも言ったことはないが、その日に限って、叔母はあいさつしろと誘導するために、こんにちは、こんにちはと言ったのだ。 大人があいさつしろというと、しつけ、教育、社会のルールを教えているなど良く言う人も多いだろうが、これもウソであり、自分が勝手に作ったあいさつの決まり(ルール)を勝手に子どもに押し付けたり、気分次第で適当にあいさつしろなどと言っているだけだろう。

自分の子どもや孫に親や祖父母があいさつしろと言っても、あいさつしろと言っている親や祖父母自体は、自分の子どもや孫にあいさつしたことがないというおかしな、滑稽なことしていたりするのだ。あいさつをしろと言っている人や、あいさつしない人を嫌いだと言っている人が、身の周りにいるほとんどの人や犬猫などの動物などにあいさつはしていないのだ。バカ滑稽なことしている。

叔母やいとこは、いとこの子どもが私にあいさつしてない時はあいさつしなくてもいいけど、あいさつした時にはあいさつ返せと言いたいのだろうか?変な正しくもないあいさつの決まり(ルール)だな。いとこも叔母もあいさつ信者だということが分かった。多くの人はあいさつ信者だろうが「自分たちがあいさつしない時にはあいさつしてこなくてもいいけど、あいさつしてあげたらあいさつ返すのが人としてしなければいけないこと」という決まり(ルール)を信仰しているのだろう。根強いあいさつ信仰、あいさつ崇拝だ。

私の母から聞いたところによると、叔母が孫に私の母にあいさつしろと言ってたらしいが、叔母は今まで、私の母に会うたびに毎回あいさつしているわけではない。自分は姉にあいさつしていないところがあっても、孫に対しては自分の姉にあいさつをしろと、孫にあいさつしろよと、あいさつの押し売りしているのだ。バカなあいさつが正しい信仰の押し売りをしている。でも誰かは「常識教えてて、ちゃんとしているおばあちゃん」などと褒める人もいるだろうけど。

2017年後半の私が35歳のある日、私たちが住む家に叔母が訪ねてきた時に、庭で私に対して「ありがとう、ありがとう」と言ってきた後に、間をおいて「こんにちはー」と思い出したようにあいさつしてきた。わたしは会釈もしないし、あいさつ返さなかったけど。叔母が私にありがとうと言ってきたのは、同じ家に住んでいるおばあちゃんが介護されてて、それでありがとうと言ってきたんだろう。おばあちゃんは2018年の6月に亡くなった。この時の叔母のありがとうと言っていたことについても、「何に対して」ありがとうと言っているのかを具体的にはっきり言っていなし、私にあいさつを突然した来た理由や、今まで孫に私に対してあいさつしろとは言っていないのに、2014年に何で孫に私に対してあいさつするように言ったのかの理由を言っていないので、叔母はほとんどの人にあいさつしているわけがないが、なんで一部の人にだけあいさつさせたいのかの心理の部分は言わずに隠しているのだ。自分の都合や気分次第で適当にやっていて、あいさつした時にだけあいさつしてよと言ってもカッコが付かないから言わないのだろう。他の人もあいさつを一部の人にさせたい理由を、どうでもいいと思っている人や、嫌いなだけの人に対して、あいさつしてあげた時にだけ気を使ってオウム返ししてほしいという本音をはっきり言うとカッコが付かないから言わないだろう。

2018年に、祖母が病院に入院していて、私と私の母が病室にいた時に、叔母がドアを開けて「こんにちは」と言って入ってくるが私も母もあいさつを返さないし会釈もしなかった。あいさつ信者の人は親戚、家族があいさつ返さないなら許す人が多いと思うけど、これが親戚、家族以外の人で、好きでもない人があいさつ返さないならば、許さない人もいるのだろう。ダメ人間とか言って格下に見てきたりとかする人もいるだろう。変な異常なあいさつ信仰だ。

2020年の8月のお盆の時に、私の母親のいとこの男の人が一人で私たちが住んでいる家に来て、玄関にそのいとこの人がいた時に、リビングから出てきた私と目が合って、その人が私にこんにちはと言ったのだが私はあいさつしなかったし、会釈もしなかった。その後、私は洗面所に行ったのだが、私の母親と、そのいとこの人が洗面所の隣を通る時にいとこの人がこんにちはと、また言ったのだが私は何も言わなかった。このいとこが帰った後に、私の母親から、一字一句はっきり覚えていないが、こんにちはと言われたらこんにちはと言わないといけないと言うようなことなことを言われた。

私の母親は母親の妹があいさつしてもあいさつ返しをしないし、会釈もしなかったりするわけだが、自分のいとこが自分の子どもにあいさつしたら、あいさつを返さなければいけないというあいさつの決まり(ルール)を勝手に作り信じているようだ。どうやら、私の母親もあいさつ信者だったようだ。私の母親が近所の人にあいさつしたりしているのは何度か聞いたことがあるが、家族にあいさつしているのは聞いたことがないし、私の母親の家族や親戚の人たちに私があいさつを返さなければいけないと信じているとは私は思っていなかったが、自分の子どもは自分の妹にはあいさつ返さなくてもいいけど、自分のいとこには自分の子どもはあいさつを返さなければいけないという信仰を持っているあいさつ信者だということが分かった。まあ、ほとんどの人はあいさつ信者だろうが。

あいさつは社会のルールだとか、常識、コミニケーションなどと言えばカッコが付き、綺麗事にはなるだろうが、「あいさつの押し売り」とか、「あいさつ返せの押し売り」とか「宗教の押し売りはダメだけど、あいさつの押し売りはいいのです。」などと言えばカッコが付かないだろう。同じ理由であいさつをしてほしくても、言葉の言い方を変えれば印象が変わるのだ。人や人間以外の生き物が嫌がることなど誰でもやっているだろうに、刑法違反のことをやって人が嫌がることすれば犯罪者や罪人、悪者など言われて、いかにも悪い感じに言われるが、ほとんどの人は、人や人間以外の生き物が嫌がることをやっても、犯罪者や罪人、悪者などとは言われにくいのだ。誰かが嫌がることをやっている点では同じことなのに。

2018年におばあちゃんが病院に入院している時に、姉もおばあちゃんが先が長くないと思っていたのだろうが、私の姉が叔母に「家族葬にしたら?」と言ったら、叔母が「うちは株内(かぶうち)だから家族葬はできない。みんな株内辞めたがってる。誰も言わないから。」と言っていた。株内辞めたいなら相手に辞めたいと言えばいいだけのことだが、多分言わない理由は「他の株内の人は、株内辞めたいとは言っていないのに、自分のとこだけが株内辞めたいと言って変な目で見られたり、少数派の変わり者みたいに思われたくない」とか「あの人勝手」とか「株内辞めたいと言って、相手のことを嫌っていると思われたくない」とかで辞めたいと言えてなさそうだ。

あいさつについても、あいさつを本当はしたくなかったり、面倒だとか思っていたりしても、あいさつしないと嫌われたり、攻撃受けたり、相手が嫌な気持ちになったら悪いからとかで、仕方なく嫌々やっている人もいるだろう。あいさつ以外のことにおいても同じで、多くの人は、ほとんどのことはやりたくないことだけど嫌々やっているのだろうけど。

自分があいさつをしてほしい時にだけ気を使ってあいさつしてほしいけど、自分があいさつしてほしいと思わない時はあいさつしなくてもいいと許しているだけの、あいさつは正しい信仰をたくさんの人が信じていて、おかしなことをしているが、あいさつ信者の方が多いのでおかしいとは思われにくいのだ。

 

8.多くの人は色んなことを見栄、体裁、虚栄心、カッコ付け、媚売り、胡麻すりなどでやっていると思う 

 

私が20代後半の時、おばあちゃんの家で皿を持って立って食べていたら、その当時60代だった叔父が「座れー、人に笑われるぞ、よその家に行ってそんなことやったらダメだぞ」と言った。この叔父は、その後、私の前で何回も立って食べていた。自分は家族や親戚の前では立って食べる時があっても、よその人の前では座って食べることが出来て、人によって態度を使い分けることが出来るけど、「お前はよその人の前でも立って食べるんだろ。笑われて、馬鹿にされたりしたら嫌だろう。だから座って食べろよ。」とでも言いたいのだろう。つまり、食べる時に座って食べることが正しいから座れと言ってるのではなく、人から笑われないために座れと言っているのだ。

この感じの言い方であいさつのことを言えば「あいさつしろー、人にバカにされるぞ、嫌われるぞ。家族とか親戚にはあいさつしなくてもいいけど、よその人からあいさつされたらあいさつ返さないとダメだぞー。近所や職場の人と目が合ったら、例外あれどあいさつしないとダメだぞー」と言ってる感じだな。

あいさつを返さないといけないと信じている理由が、初めにあいさつされたら、あいさつを返すことが正しいからあいさつ返しをしないといけないと信じているのではなくて、大勢があいさつ返しをしているのに大勢と同じことをしないことは例外あれどおかしいことであり、あいさつ返しをすることが正しいのは、大勢がやっていることだから正しいことであり、やらなければいけないんだと信じている人がたくさんいそうだ。

金でやっていくこの世の中で、値段や価格が付いているものに金払わないと不正で間違っていることであると信じている人がたくさんいるが、それを信じているのもあいさつと同じで、大勢が値段がついているものに金を払っているから正しいと信じているのだろう。もし、ほとんどの人が値段ついているものに金を払わなかったり、「金を払わない人を逮捕しているのはおかしいし、間違っている。逮捕させるような法律をなくせ。」とか「金でやっていく世の中はおかしい。こんな金社会は辞めろ」などと言っていたら、大勢から嫌われたくない人や、大勢が正しいと信じている人は、金でやっていく世の中がおかしいと信じだしたり、金を払わない人を逮捕することを間違っていておかしいと信じるだろう。大勢と同じことをしている人を常識人や、普通の人などと言うが、常識人や普通の人と言われている人が、あながち、いい加減なところがある人たちだということだ。

他人の姿は自分の姿なのだが、叔父は私が立って食べていることを、家以外でもやったら、よその人からおかしいと思われてバカにされるぞとでも思っているのだろうが、叔父のやっていることでも人からおかしいと思われていたり、嫌がられているのだ。叔父は今70代で独身で10年ぐらい前に定年で実家に戻ってきていて、私と私の母親も同じ家に住んでいるのだが、以前は叔父がドアを閉める時には、そんなに大きい音を出してドアを閉めていた記憶はないが、2019年ぐらいからだったと思うのだが、すごい大きい音でドアを閉めだしたのだ。ドアを閉めるときに毎回大きい音を出すわけではないが何度も大きい音を出してドアを閉めていた。その音をすぐ近所に住んでいる老人(この後の文章ではAさんと呼ぶ)やAさんの家族が不満を持っているのだ。

2020年の前半のある日、私が家の庭にいた時に、叔父がパソコンをしている一階の部屋のドアを、叔父がすごい大きい音で一回閉めたすぐ後に、すぐ近くに住んでいる老人のAさんの家の方から、大きめの音で一回ドアが閉まる音が聞こえてきたのだ。私はそのドアの音が「ドアの音がうるさい」という不満を表すためにやったと思っている。でも、その老人がうるさいと思っているのは、部屋のドアを閉める音だけではなくて、庭の門を開け閉めする音もうるさいと思っているかもしれない。うちの庭の門は鉄で横に動かして開け閉めするのだが、ゆっくり動かそうと、早く動かそうと音がするからだ。これ以外の音などでも不満はあるかもしれないが、叔父がすごい大きい音でドアを閉めていることに不満を持っているのは確実だと思う。別の所に住んでいる老人の中年の子どもにも、その不満を言っているみたいで、ある日の夜7時代か8時代ぐらいの時に、私が庭にたまたまいて、庭の前を一人誰かが通り過ぎて、Aさんの家の方に歩いて行ったのだ。その日、Aさんの家の前には軽自動車が止まっていて、その日以外でも同じ車であろうその軽自動車は今までにも何度もAさんの家の前に止まっているのを見たことがあって、その車はAさんの息子の車だと思った。Aさんの家の方に歩いて行った人が、私がいた庭の前を通り過ぎて行った少し後に、すごい大きい音で車のドアを閉める音がしたのだ。今まで聞いたことのある車のドアを閉める音で一番大きい音がしていた。庭の前を通り過ぎた人はAさんの息子だったのではないかと思うのだが、自分の親が私の家から聞こえてくるドアを閉める音で迷惑して苦しんでいるので、その家の庭にいた私を見て不快になり、音を出している本人であろうと、その家族であろうと同罪のように思っているのか、庭にいた私にもドアを閉める音で不快になってほしいと思ったのか、大きい音でドアを閉めている人に対しての不快さを発散させるためなどの理由で、すごい大きい音で車のドアを閉めたのではないかと思っている。その車を閉める音に私の家に住んでいる人間に対する敵意を感じた。Aさんの家の近くにAさんの兄弟も住んでいるみたいで、Aさんの兄弟も音に不満を持っているかもしれない。

それ以外でも、Aさんのとこの人がうちの家から出てくる音に対する不満による仕返しをするために、何度か車のドアを大きい音で閉めていたり、短時間の間に数回ドアをわざと閉めているような感じがする。車のドアを閉める音以外にも、うちの家から聞こえるドアの音以外の音を真似しての仕返しのようなことをやっている感じがするのだ。

叔父はその人たちが仕返しのためにドアを大きい音で閉めているのが聞こえていてもうるさいと思っていなさそうだ。そもそも、大きい音でドアを閉めることをうるさいと思って嫌がっているのなら、今まで何度も大きい音でドアを閉めることもなかっただろうし。

 

 

9.あいさつ型擬態、あいさつ擬態、擬態生物の人類

 

あいさつやそれ以外の多くのことも、見下されたり、バカにされたり、逮捕されたりなどされないために、嫌でも常識と言われていることや、大勢がやっていることをやっておいた方がいいと多くの人が思っていそうだ。見栄、体裁、虚栄心でやりたくもないことや、正しいと信じていないことを嫌々、渋々やっていて、「自分は大勢と同じ人間ですよ。多数派であり、あなたの敵ではないよ」という表向きの演技であり、見せかけ、ごまかし、カモフラージュをしているのだ。

人間以外の生物に擬態生物と言われている生物がいるが、人間も色々と擬態しているのだ。大勢と同じ人間であると見せかけるための擬態をしている人がたくさんいると思う。日本人には日本人以外よりこういう人が多そうだ。

「自分はあいさつする人ですよ」と思われたいがための擬態は「あいさつ擬態」や「あいさつ型擬態」という感じだ。あいさつされたがってる人にあいさつしてあげないと、私みたいに嫌われたり、不満を持たれる可能性がある。多くの人は大勢の人たちから嫌われたくはないだろうからあいさつされたらあいさつを返すのが無難な態度であり、例外あれど、それをやることで嫌われることを回避させたり、攻撃回避ができる可能性があるからあいさつしている人もいるだろう。

入れ墨(タトゥー)を入れる理由がみんなが威嚇目的ではないが、入れ墨を入れている人や、入れ墨を入れたがっている人の中には人を怖がらせて威嚇したいから入れたがっている人や入れている人もいるのだ。入れ墨を入れて人を怖がらせようとしている人の中には、入れ墨を入れていたら暴力団だと思われて、周りの人から怖がられて、バカにされないだろうなどと思って入れ墨を入れたがっている人もいるのだ。こういう人の場合は、「やくざ擬態」「やくざ型擬態」「暴力団型擬態」「暴力団擬態」「入れ墨擬態」「入れ墨型擬態」という感じだ。

以前、テレビで10代の男の子が入れ墨を入れようとしていて、その理由がバカにされないためにという感じのことを言っていたと思う。入れ墨を入れることで人からナメられたり、バカにされない可能性があると思っている人もいる一方で、やくざのことをバカにしていて、下に見て、悪感情を持っている人もいるのだ。体に入れ墨がある人が、入れ墨がある理由が刑罰で入れ墨を入れられている場合もあるし、やくざの人で入れ墨をしている人もいるし、やくざ以外の人も入れ墨をしている人もいるし、入れ墨を入れる理由も人によって違うが、あいさつでも、人によってあいさつをする理由や、一部の人にだけあいさつをさせたがる理由は違うのだ。家族や同僚や近所の人に初めにあいさつする人もいれば、しない人もいるのだ。学校でもあいさつ運動がある学校と、ない学校があり全然違うのだ。

擬態生物と言われている人間以外の生物には、天敵から身を守るために天敵が恐れている生物の外見と同じような模様が体に入っている場合があるが、これも入れ墨を入れることで人を怖がらせようとしたり、威嚇したりしている人と同じなのだ。

隠れキリシタンと言われていた人たちも、見た目ではないけど、キリスト教の信者ではないとウソを付いたり、信仰を隠すのも擬態をしているともいえる。本当はキリスト教を信仰しているけれどキリスト教信仰を隠しているのだ。隠さないと権力者側から殺される危険があったからだ。

大勢と同じ服装や髪型などの見た目をして、大勢と同じ言動をして、大勢と同じ物を持ち、大勢と同じようなことをしていることで、自分にはたくさんの仲間がいると思えて心強いと思う人もいるのだろう。根拠や裏付けはなくても、人として正しいことは、例外あれど大勢と同じことをすることなんだと勝手に信じて、多くの人がこういう根拠もない信仰心を持っているのだろうが、こういう信仰を「信仰」や「信じる」とか「宗教」や「教義」という言い方をせずに、「当たり前」「常識」「社会のルール」「マナー」「モラル」などの言葉で言い表している人が多いのだろう。はっきり具体的に言わなくても、自分が望んでいる言動を取り、自分の思い道りのことをしてほしいと思っているのだ。自分のことを尊重していて、自分と同じことをやらない人を例外あれど、尊重はせずに気味悪がったり、見下したり、バカにするのだ。それを分かっている人が日本人のことを「日本人は排他的な村社会」と言っているのだろうけど。

ある国の外国人を馬鹿にしている日本人の人がネットで、その外国人が人類みな兄弟という言葉を知ったのは最近などと言ってバカにしていたが、日本人や日本人以外の人が、人類みな兄弟という言葉を知っていても、人間全員を兄弟、家族とは思っていないだろうし、仲間だとも思っていない人の方が多いだろう。同県民や近所の人のことも仲間だとは思わずに敵視していたり、嫌がらせしたり、どうでもいい他人だと思っている人もいて、家族や親戚のことも同じ人間だと思っていないところがあるのだ。他人の姿は自分の姿で、他人種や他民族の姿は自分たちの姿なのだ。私はほとんどのあいさつは、形だけで好きでも嫌いでもない人や、嫌いなだけの人や大切ではない人にやっていると思っている。つまり、あいさつしている相手を家族や友達や恋人だと思っていたら、ほとんどの人は初めからあいさつや会釈などしていないだろう。例外除いて、どうでもいい人とか、見下している人や大切ではない人にだから、あいさつをしてほしいと望み、自分が望んだ通りにあいさつされないと不満を持ったり、嫌がらせしたり、見下したりして嫌うような冷酷なところがあるあいさつ信者。

本当は好きな服でもないし、着たいとも思わないのに同年代の人の多くが着ていて流行っている服があり、自分が同じ服を着ていないことでバカにされたくないから、仲間外れにされたくないからなどの理由で形だけ流行っている服を着ている場合は「見栄型擬態」「流行型擬態」という感じだ。誰でも人の外見や言動を見ただけでは、色んな服装などの外見や、色んな言動をやっている理由を分かっていないところなどたくさんあるだろう。分かっていないのに分かっていると勘違いして間違ったことを思っている場合もあるのだ。

 

 

 

1から9章までのリンク



コメントを投稿