日下太鼓台友好会

毎年、東大阪の生駒山麓で
石切神社秋祭り及び夏祭りに奉納される
日下太鼓台をこよなく愛する人達のブログです

資料4

2013-03-28 15:01:00 | 資料
向左:山崎の合戦

明智光秀と豊臣秀吉

天正10年6月13日、信長を倒した明智光秀に対して羽柴秀吉が
京都乙訓群大山崎町で挑んだ弔い合戦。
敗走の途中で光秀は土民の竹槍にて殺害される

向左:姉川に火花散らす木村又蔵

元亀元年、姉川の合戦に於いて、加藤清正の臣・木村又蔵正勝は、
朝倉義景軍に苦戦する織田信長軍の助成に向かい、縦横無尽の戦いで斬りまくり
朝倉方の宿将・島田権右衛門を初め、幾多の勇将を討ち取った
後年、正勝は清正四天王の一人として名を馳せた




資料3

2013-03-25 15:46:00 | 資料
向右:桶狭間の合戦
織田信長と今川義元

上洛の軍旅に立った駿河の今川義元が永禄3年5月19日、
尾張の織田信長の奇襲を受けて横死した合戦。
桶狭間の古戦場は愛知県豊明氏有松町で、義元の墓がある


向右:信玄と謙信 龍虎相打つ

川中島最大の合戦、永禄4年9月10日の戦に於いて上杉謙信は白布にて顔を覆い、
夜明けの濃霧を幸い唯一騎武田信玄の本陣に斬りこむ。
信玄は謙信の鋭い太刀先に刀を抜く間もなく軍扇にて受け止める




資料2

2013-03-23 16:35:00 | 資料
正面の布団締めです。
源頼朝と平清盛

源平合戦

政治的器量と才能によって平家に栄華をもたらした清盛であったが、
皇室をないがしろにする行為により冶承4年(1180)7月4日後白川法皇は
平家討伐を源頼朝に命じた
頼朝の拳兵と共に平家討伐の声が高まり
清盛はいたたまれず治承4年12月神戸の福原より京へ戻り戦わずして治承5年2月
「頼朝の首を」と叫び狂死した。

平清盛の日招き、沈む夕日を扇で招き返したとの伝説



枡合(狭間)の彫刻


正面 神功皇后三韓征伐 弓で弭岩に字を書く


皇后は安雲礒良から竜宮の千珠・満珠を受けて海を千満させ三韓を征する
高麗、百済、新羅の大王が貢物を捧げ服従の意を示すと皇后は石壁に弓弭にて
「三韓(惑いは新羅)の大王は日本の犬なり」と書きつけた






資料・・・

2013-03-21 18:31:00 | 資料
色々と資料を頂いたので改めて太鼓台の紹介です。


製作日:明治中期以降

型式:淡路型

請負大工:不明

彫刻師:和泉彫りの名門 岸上家の流れを組む
二代目 高松彦四郎の門下
平間勝利(二代目)生没年不明
玉井行陽 慶応2年~昭和12年没 享年72才

玉井行陽35歳の作品ならば100年以上を経た太鼓台です。
そして今では当たり前の3段彫りも当時は珍しい作品です。

さらに、すべて一つの大木から製作された貴重な太鼓台です。

次回は彫り物です。