日下太鼓台友好会

毎年、東大阪の生駒山麓で
石切神社秋祭り及び夏祭りに奉納される
日下太鼓台をこよなく愛する人達のブログです

土呂幕

2021-07-17 23:37:00 | 新調
新調太鼓台、最後の紹介は土呂幕です

土呂幕:源平合戦

先代太鼓台の物を継承の予定でしたが
ひび割れ、欠損部分が多々に見られ完全新調に至りました

作製は木下彫刻工芸です

敦盛の最期

敦盛の最期 一の谷の合戦
一の谷の戦いの先陣を切った源氏の武将熊谷直実は、
戦いの中で平氏の若武者に一騎打ちを挑みます。

その若武者を馬から引きずり下ろし兜を外して首を取ろうとすると、
自分の息子と同じような歳と見て、一度ひるみます。

直実がその若武者を逃そうとしますが
味方の軍が迫っているのを見て、
泣く泣く自分で首を取りました。

その後、その若武者は平敦盛(清盛の甥)で、
その歳が17であることがわかります。

そして、その約10年後に直実は無情を感じ出家を決意します。


先代正面:熊谷次郎直実

新調正面:熊谷次郎直実



先代左:平敦盛

新調左:平敦盛



宇治川の先陣争い
宇治川の戦いの戦いを語る上で欠かせないのが
佐々木高綱と梶原景季による先陣争いです。

先陣争いというのは簡単に言えば一番槍を上げることであり
武士としては名誉ある行為

さらに佐々木高綱と梶原景季の間には馬を巡る騒動もあり、
両者の仲はあまり良くなかった。

そして始まった宇治川の戦い
この戦いにおける先陣は増水した宇治川を
渡りきることでしたため、両者とも宇治川に入り
なんとか泳ぎ切る事に必死であった

両者一歩も譲らない、そんな中佐々木高綱は梶原景季に対して
「帯が少し緩んでいるから直せ?」と助言

しかし、この助言は実は嘘
この助言によって少し油断した隙に佐々木高綱が
一気に宇治川を渡りきり見事に先陣を奪い取りました。

こんなことをやっているうちに宇治川の戦いは一気に
義経優勢となり、宇治川の戦いは義経軍の圧倒的な勝利にて終結


先代後方:梶原源太景季

新調後方:梶原源太景季



先代右:佐々木高綱



新調右:佐々木高綱




敦盛の最期 一の谷の合戦は
取るか取られるかの時代に情けも入る悲しい場面の彫り物

一方、宇治川の合戦は
仲間の利権争いの果て・・・・

新調土呂幕の彫りの奥深さと場面の意味合いを
じっくりと見て頂ければ面白味が増すと思います

あと、後ろ布はより奥行きがよくなるように
赤から漆黒に変更しました

以上、新調太鼓台の詳細でした

7/18でお披露目は終了です

時間が許すならば

もう1度、細かい所を覗きに来てください

そして後は秋季大祭の開催を祈るばかりです





欄干、錺金具

2021-07-17 21:52:00 | 新調
欄干部分です

勾欄合い:花鳥
欄干が大きくなったので
先代の花鳥の彫りが使えず新調になりました

精巧さの一言に尽きます


魚を咥えた鳥・・・

細かすぎますね


縁葛:唐子遊び・雪遊び
先代からの移植です
戦の彫り物が多しですが
少しほっとする場面ですね


錺金具:鳥獣戯画・原始蓮



龍神


龍頭・胴体のみならず、別の金具で尾と龍爪まで全体になります




錺金具も宮内庁、御用達の請け合い業者様になります

伊達幕

2021-07-17 21:08:00 | 新調
新調に辺りここが1番の変更点かもしれません

伊達幕:川中島


正面左:武田信玄


正面右:上杉謙信

後方右:甘粕影持

後方左:原大隅守




新たに製作、夏季大祭幕
福島県・いわき絵のぼり吉田・絵師 辰昇
元は、のぼり旗の図案です
ふとん太鼓の幕では初かも・・・

全て手書きの染めで製作
復興祈念の願いを込めて製作して頂きました


幕を吊るす紐と装飾:四獣神


方位により
東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武





箱提灯・金綱・鳴り太鼓・・・

2021-07-16 18:20:00 | 新調
箱提灯です

先代の物を使用・・・
金具は新調、提灯部分はクリーニングです

正面左:伊勢神宮



正面右:石切神社


後面左:金毘羅宮

後面右:住吉大社


金綱
太くなり結びも大きく変更になりました



金綱後方の刻印:織田瓜と鳳凰





この刻印は
宮内庁にも御用達の請け合い業者様の一品です



鳴り太鼓
2尺7寸の大きさになりました
石川県白山にある浅野太鼓店の鳴り太鼓です


内部は網状鱗彫りと言う技術を使い
より響きわたる良い音色、音の伸びがあります

現地に何度も足を運び音色を調整していただきました



新調太鼓台 狭間

2021-07-15 22:41:00 | 新調
狭間の彫り物です

場面の説明と共に読んで頂くとありがたいです

狭間 正面:神功皇后三韓征伐 
弓で弭岩に字を書く
(神話伝説)

皇后は安雲礒良から竜宮の千珠・満珠を受けて
海を千満させ三韓を征する高麗、百済、新羅の大王が
貢物を捧げ服従の意を示すと
皇后は石壁に弓弭にて
「三韓(惑いは新羅)の大王は日本の犬なり」と書きつけた




向右:信玄と謙信 龍虎相打つ(川中島の合戦)

川中島最大の合戦、永禄4年9月10日の戦に於いて
上杉謙信は白布にて顔を覆い、夜明けの濃霧を幸い
唯一騎武田信玄の本陣に斬りこむ。
信玄は謙信の鋭い太刀先に刀を抜く間もなく軍扇にて受け止める




向左:姉川に火花散らす木村又蔵
(姉川の合戦)

元亀元年、姉川の合戦に於いて、加藤清正の臣・木村又蔵正勝は、
朝倉義景軍に苦戦する織田信長軍の助成に向かい、
縦横無尽の戦いで斬りまくり
朝倉方の宿将・島田権右衛門を初め、幾多の勇将を討ち取った
後年、正勝は清正四天王の一人として名を馳せた




後面:源頼義 霊水を得る(前太平記)

源頼信、頼義、義家は河内古市郡を本拠としたので
河内源氏と呼ばれる奥州で
安倍頼時、貞任が反きし頼義、義家父子が追討を命じられた
頃は、6月上旬で炎えるような熱さは耐え難く
口内は渇き一点の水の滴もなかった
こんな時に強敵に当たればどうしょうもないように思われた
頼義は神に祈願し自ら弓で河の岸を探ってみると
岩かどより霊水が急に湧き出て流れ始めた。
兵士たちはこの奇端に勇み立ち敵兵を討つ事ができた
天喜5年6月7日の事である




狭間の彫りは全て先代太鼓台からの移植

ニス取りと洗いで仕上げ、欠損部分を修復し足し彫りをしました