イランのハメネイによるイスラエル「懲罰」命令は実行されるだろう: IRGC
迫るイランのイスラエルへの対応。想定されるシナリオとは?
中東情勢が10月7日以降で最も緊迫している中、我々はどのようにしてここに至り、次に何が起こりうるのか?
レーニン解体
エセ「マルクス主義者」たちに
マルクスは激怒した
このパンフレットは前作「精神障害者の〈包摂〉」の補遺として、そこで扱いきれなかった問題について詳論しました。世界が帝国主義諸国と植民地人民の二つに分裂するなかで「レーニン主義」を解体することは焦眉の課題です。
「もしそれがマルクス主義であるならば、私はマルクス主義者ではない」(カール・マルクス)
前ページにある言葉はマルクスの有名な言葉ですが、独り歩きしており元の意味とは無関係に勝手な使い方をされているケースが多く見かけられます。ここでは原典に即して、マルクスの意図はなにだったのかを見ていきたいと思います。
この言葉が出てくるのはエンゲルスの手紙で「ところで、フランスにおけるいわゆる『マルクス主義』はたしかにまったく独特な産物なのであって、しかも、マルクスがラファルグに、もしそれがマルクス主義であるならば、私はマルクス主義者ではない、と言ったような独特な産物なのです。」というものです。(1882年11月2-3日 エンゲルスからエードゥアルト・ベルンシュタインヘ)
この手紙にある、マルクスが「もしそれがマルクス主義であるならば」と言った「それ」というのは何を指しているのでしょうか。これはベルンシュタインが当時のフランス労働党内の内紛をめぐって質問したことへのエンゲルスからの回答のなかの文章です。この内紛ではエンゲルスとマルクスは、内紛を起こしている当事者のうちのポシビリスト(実現可能なものから改革していくべきだという社会主義者、フランス労働党に加盟していた)の指導者であったブノア・マロンを批判して、ジュール・ゲード(フランス労働党の設立者で、もとは無政府主義者。フランスにおけるマルクス主義の宣伝者)を支持していました。結論を先に言うと「それ」が指すものはゲードの思想のことなのです。しかし、この手紙の意図は、内紛に関してゲードを批判するものではありませんでした。では何を批判しているのでしょうか。
その答えは、1881年10月25日のエンゲルスからベルンシュタインへの手紙の中に見出されます。ゲードがロンドンのマルクスを訪ねてフランス労働党綱領の前文をマルクスに口述してもらい、綱領のその他の部分(後半)の内容を討議していた時のことです。
「だが、ゲードがどんなにマルクスの代弁者ではないかは、ゲードが彼の最低賃金制の愚論を挿入することを頑固に主張したことから明らかであり、その責任を負うのはわれわれではなくてフランス人なのだから、われわれは、けっきょく、彼の好きなようにさせました――もっとも彼は理論的無意味さを認めはしましたが。」とエンゲルスは書いています。「フランス労働党綱領の最低賃金制」とは「B、経済綱領 二、法定の最低賃金。これは毎年各地域の食料価格におうじてきめられる。」というものでした。(「マルクス・エンゲルス全集」第35巻)
では、マルクス自身はこの件について何を言っていたのでしょうか。1880年11月5日のフリードリヒ・アードルフ・ゾルゲ宛の手紙のなかで「われわれの反対にもかかわらず、ゲードがフランスの労働者たちにあたえる必要があると考えた若干のどうでもいいこと、たとえば賃金の最低限を法律で定める、等々といったことを除けば(僕は彼に言った、フランスのプロレタリアートがそのような餌を必要とするほどまだ子供っぽいとすれば、だいたい綱領なんかを起草する必要はないではないか、と)・・。」(「全集」第34巻)
「Marxists Internet Archive Library」に即して、この問題がマルクス主義者の間でどのように議論されているのかをみていきます。(自動翻訳機を使って訳したので少し不自然な日本語であることはご容赦いただきたい。)「このときのマルクスとゲードのやり取りについてマルクスは次のように書いています。「この非常に短い文書の経済部分は、労働運動自体から実際に自発的に生じた要求のみで構成されています。さらに、共産主義の目標が数行で定義されている序文があります。」・・・しかし、綱領が合意された後、最小部分の目的をめぐってマルクスとフランスの支持者の間で衝突が起こりました。マルクスはこれを資本主義の枠組み内で達成可能な要求を煽動する実際的な手段と見なしましたが、ゲードはまったく異なる見解をとりました。「ブルジョワジーからこれらの改革を引き出す可能性を否定し、実際的な闘争綱領ではなく・・」、ゲードは、これらの改革を拒否すれば、労働者は革命的になると信じていました。「プロレタリア階級を最後の改良主義的幻想から解放し、労働者階級に・・・労働戦争を避けることは不可能であると納得させる」と。マルクスは、ゲードを「革命的言い回し」をして改良主義闘争の価値を否定していると非難して・・(冒頭の)有名な発言をしました。」以上が「Marxists Internet Archive Library」の記述です。
一見すると、「最低賃金制」の主張が労働者を「改良主義的な幻想から解放し、革命戦争を避けることは不可能であると納得させる」ような「革命的主義的な要求」であるということは、現代の私たちからは分かり難いことです。それには歴史を見ないといけないかもしれません。フランスで最初の最低賃金制「全職業最低保証賃金(SMIG)」が実現されたのは1950年の戦後革命期の獲得物でした。そのパリ集中傾向が正されて「全国一律の最低賃金制度(SMIC)」が創設されたのは1968年のパリ5月革命―フランス・ゼネストの成果としてでした。まさしく、「最低賃金制は革命によって実現された」のです。(「新たなる最低賃金制」労働省労働基準局賃金時間部長五十畑明1996)
マルクスはこのフランス労働党綱領をどのように評価していたのでしょうか。マルクスは先のゾルゲ宛の手紙のなかで、「これはフランスの労働者たちを、彼らの言葉だけの雲海から現実の地上に引きおろす強力な一歩となった。」「僕の見るところでは、これがフランスにおける最初の現実的な労働運動であることを証明している。」と高く評価しました。国際労働運動的にも、この綱領は高く評価されているそうです。
マルクスは運動の上で百かゼロかというような議論をする人ではなかったけれど、理論を歪めることは許せないということははっきりさせていました。だからゲードがフランス労働党綱領の中にマルクス主義を歪める議論を持ち込んだことがよほど許せなかったのでしょう。それが最初の言葉になったのだと思います。(この章を書くにあたって立教大学経済学部教授の佐々木隆治さんに助言をいただきました。感謝いたします。)
「ロシアのマルクス主義者」
ちょうどこのころ、マルクスはヴェラ・ザスーリチへの手紙で、当時のロシアの「マルクス主義者」のことを語っています。これはザスーリチから1881年2月16日の手紙で聞かれたことに答えたものです。その手紙のなかで、ザスーリチは、ロシアでは「資本論」が大きな人気を博しており、農業問題、村落共同体についての革命家たちの議論でも「資本論」が役割を演じていることを書き、「最近では、村落共同体は古代的な形態であって、歴史・・によって没落するべき運命に定められているという意見をしばしば耳にします。そういう意見をとなえる人々は、あなたの本当の弟子、『マルクス主義者』だ、と自称しています。」と書いてこの問題についてのマルクスの意見を求めました。(「マルクス・エンゲルス全集」第19巻p599)
マルクスはロシアのナロードニキの海外亡命者であって実際の革命には関与していない、いわば「評論家」だと見なしていたザスーリチには、その問題は「人民の意志」党に答えるつもりだからあなたには答えない、しかし、「私の理論が適用できるのは西ヨーロッパ諸国だけに限られている」というそっけない手紙を出しただけでした。しかし、その「下書き」では詳細に「村落共同体」の意義について検討しています。この下書きは生前には発表されることはなかったのですが、ロシア語で出版された「共産党宣言」第二版のマルクス・エンゲルスの手による序文にそこから導きだされた結論が書かれています。
序文には「ロシアの農民共同体は・・これから直接に、共産主義的な共同所有という、より高度の形態に移行できるであろうか?」「この問題にたいして今日あたえることのできるただ一つの答えは、次のとおりである。もし、ロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる。」と明確に、ロシアの村落共同体を基盤とした「人民の意志」党による革命が世界革命に火をつけるものとなりうると考えていたことが明記されているのです。
「ヴェ・イ・ザスーリチの手紙への回答の下書き」のなかで、「下書き『第二草稿』」では「あなたの言うロシアの『マルクス主義者』は、私にはまったく未知の人々である。私が個人的な関係をもっているロシア人は、私の知っているかぎり、まったく反対の見解をいだいている。」と書いています。マルクスが関係をもっていたのはナロードニキの「人民の意志」党だったからです。これはザスーリチらとは対立していた党派でした。(「全集」19巻p400)
当時のロシアでは、「資本論」が1872年にロシア語に翻訳されていました。この本のことをマルクスは「優れた訳だ」と書いています(マルクスの生前にはドイツ語版の他には、フランス語訳、ロシア語訳しか外国語にはなっていませんでした。)「『資本論』が他のどの国よりもよく読まれ、評価されているロシアでは、われわれの成果はいっそう大きい。われわれは一方には、批評家たち(大部分は若い大学教授たちで、一部は僕とも個人的に交際があるが、それと若干のジャーナリストだ)をもち、他方にはテロリストの中央委員会(「人民の意志」党のこと)をもっている。」と先のゾルゲ宛の手紙(1881年11月5日)にマルクスは書いています。
「共産党宣言」はバクーニン(無政府主義者)の翻訳で1869年にロシアで出ていましたが、当時は「珍品」扱いされていたそうです。初めてマルクス・エンゲルスが関与したロシア語のマルクス主義の本が出たのは、1882年のプレハーノフの翻訳による「共産党宣言」第二版でした。
ザスーリチが言っていたのは、このロシア語訳「資本論」を学んだ人たちだったのでしょう。プレハーノフによる「共産党宣言」ロシア語訳が出た後のマルクス主義のロシアでの普及をマルクスはとても喜んでいました。ザスーリチらの亡命者グループはのちに「マルクス主義者」になり、プレハーノフを含めて「ロシア・マルクス主義者」と呼ばれました。このなかからロシア社会民主労働党(1898年結党。のちのボリシェヴィキとメンシェビキ)が生まれました。
「左翼社会革命党」の誕生
いっぽうで、マルクスが支持し、ザスーリチらとは対立していた「人民の意志」党はナロードニキのなかから1879年に生まれ、1887年に帝政ロシアの大弾圧によって壊滅しました。この間に、1881年にはロシア皇帝アレキサンドル二世の暗殺に成功しました。1887年の大弾圧は皇帝アレキサンドル三世の暗殺計画の失敗によるものですが、このときの暗殺者にはウラジミール・レーニンの兄も含まれていました。
その後も再建の動きは続き、1890年代末には「社会革命党(エスエル党)」として再生されました。この党は、ロシアの人口の大多数を占めた農民を基盤としており、「ロシア・マルクス主義」派が「共産党宣言」ロシア語第二版のマルクス・エンゲルスによる序文に背反して、都市労働者による革命を主張していたことと激しく論争しながら生まれました。彼ら「エスエル党」は、マルクスが「人民の意志」党を支持していたことも、ロシアでの村落共同体を中心とした農民革命からの世界革命を展望していたこともまったく知らなかったようです。(「左翼社会革命党1917―1921」スタインベルグ)
「村落共同体」はストルイピン反動期(1906-1911)に、革命の母体になるとして解体を目的とした激しい攻撃を受けました。しかし、農民は抵抗し続け1917年2月革命によって完全に息を吹き返しました。
「社会革命党(エスエル党)」はのちに、1917年10月ソビエト革命を「ボリシェヴィキ」と共闘して実現した「左翼エスエル党」に発展しました。「左翼エスエル党」は「ボリシェヴィキ」内閣に入閣しましたが、「ブレスト・リトフスク講和条約」に反対して内閣を離脱しました。「右翼エスエル党」員によるレーニン銃撃事件(この犯人が「エスエル党」内の左翼なのか右翼なのかは分からないのだと伝え聞いていましたが、レーニン全集第28巻p527には「右翼エスエル党」員だったと書かれています)や、「左翼エスエル党」自身による「ボリシェヴィキ」に対する警告的な小蜂起を口実として、「ボリシェヴィキ」によって「反革命だ」と規定されて弾圧され、数年後に国内組織は壊滅しました。その「ボリシェヴィキ」による大弾圧は、過酷であったことで知られたツアーリでさえも縮みあがるような、残酷で大規模なもので、のちのスターリンによる大粛清を予感させるものでした。重監獄に超長期間投獄されていた大勢の「左翼エスエル党」員たちが後に釈放された時には、彼ら彼女らは全員が肉体的にも精神的にも「廃人」にされていたと言います。(「左翼社会革命党1917-1921」)
現代の「マルクス主義者」
前章で明らかになったのは、レーニンらロシア社会民主労働党・ボリシェヴィキ(ロシア共産党)が、都市の労働者階級の利益のために、ロシアの村落共同体(農民)から収奪をおこない、国民の多数者である農民たちを虐待、略奪、虐殺していくなかで、農民層を代表していた「左翼エスエル党」をツアーリも上回る残酷さで虐待と拷問、虐殺によって壊滅させるという、目的意識的な「仲間殺し」を組織したことでした。これがのちのスターリン大粛清への道を開きました。それがマルクスの本来の人間主義的な革命論にはまったく反していたことは明らかです。たまたまボリシェヴィキに逆らう党があったから弾圧したという面よりも、むしろ、ロシアの人口の圧倒的多数を占める農民が都市労働者による「独裁的な収奪」に抵抗していたから、その農民層に支持されていた「左翼エスエル党」の存在そのものを消してしまいたかったのでしょう。
日本の左翼は、歴史的にはマルクス・レーニン・スターリンを賛美する中から形成されました。1956年のハンガリー・プロレタリア革命とそれに対するスターリン亡き後のフルシチョフ体制下でのソ連軍による反革命的な大虐殺に驚愕した左翼の一部は、反スターリン主義という立場をとる「新左翼」党派を結成しました。その内実はレーニン主義を継承したのはスターリンではなくて、トロツキーだという思想でした。路線的には「マルクス・レーニン主義」というスターリンによって定式化された思想を引き継いでいました。しかし上記のことから明らかなように、「マルクス・レーニン主義」というのは形容矛盾しています。マルクス主義と「レーニン主義」は相矛盾する対立的な思想体系です。マルクスの思想は少数者であるブルジョワジーによる多数者である労働者階級への支配と独裁に反対し、多数者による少数者への独裁的な支配から「階級の廃絶」への道が開かれるという人間主義的な思想です。「レーニン主義」は人間解放の思想とは無縁のただの独裁政党と独裁者を正当化する思想体系でした。スターリンは極端なかたちで正しくレーニンのやり口を継承していたのです。「レーニンを継承する」として結党された新左翼諸党派ははじめから「人民への暴力的な独裁者」という烙印を押されて誕生したのでした。
レーニン主義を引き継いだ日本共産党や新左翼各派は、他党派との意見の相違を暴力で相手を屈服させることで沈黙させるという「内ゲバ主義」を採用しました。(社会党社青同・解放派はレーニン独裁主義に反対していたローザ・ルクセンブルクの思想を採用しました。しかし、ローザも反「左翼エスエル党」でした。)このなかで1969年の東大安田砦決戦で機動隊導入前夜に敵前逃亡するなど、数々の右翼日和見主義的な行動を批判されて左翼内で孤立していた「革マル派」が、劣勢を挽回し、左翼運動や労働運動内での独裁的な地位を確立しようとして高度に組織化された軍事力と諜報機関(組織的な盗聴アジト)を使った「他党派解体のための党派闘争」を基本路線としました。だから、「革マル派」への対抗暴力はまったくの正当防衛でした。しかしそのことは、そのほかの党派への「レーニン主義的暴力」を免罪するものではありません。中核派が三里塚闘争における運動論の違いを理由として「第四インター派」幹部に重傷を負わせたことは「革マル派」と同断でした。(ただし「第四インター派」の「反内ゲバ主義」は「革マル派」とは闘わないという誓約でした。)レーニン主義はその出発点から、マルクスの「共産党宣言」ロシア語第二版序文への背反と「仲間殺し」という血塗られた思想として始まっていたのです。
反レーニン主義のマルクス主義者
そのなかでレーニン主義への批判として始まった「西欧マルクス主義」は別種のものでした。この思想は、ハンガリーのルカーチ・ジェルジュやイタリアのアントニオ・グラムシのレーニン主義への批判から始まりました。
また、日本では世代的に新左翼世代よりも若い、佐々木隆治や齋藤幸平が反(非)レーニン主義的なマルクス主義者として思想形成したようです。最近では学生がマルクスの本に興味をもって読み始めていると聞きます。
彼ら新世代のマルクス主義者に対して、私たち旧世代の新左翼思想家ができることは、彼ら彼女らのじゃまをしないように、レーニン主義の罪業を暴ききり、再びレーニン主義の害毒が若いマルクス主義者を支配しないように、根底的に「レーニン主義」を思想的に解体しきることだと思います。
それが若い世代のマルクス主義者に旧世代が贈る、最後の一仕事です。
若きマルクス主義者たちに贈る
イスラエルによるハマスのハニヤ氏暗殺に際して
私はネタニヤフの7月24日のアメリカ議会演説の次の箇所に注目する。
すなわち、抵抗するパレスチナ人の皆殺しと、イスラエルに屈服するアラブ国家だけからなる全中東の支配を議会壇上から宣言したことだ。7月31日のイランへの侵略攻撃はただこの脈絡でのみ理解することができる。ハニヤ暗殺は明確なイラン国家への侵略的な挑戦なのだが、イスラエルがイランによる報復を避けることができると判断していたのだろうか。そうではない。かえって挑発によってイランを戦争に引き込み、軍事的に、すなわち殲滅戦争によってイラン国家を叩き潰す決意が背景にあるのだ。その決意を示したのが、アメリカ議会演説の「イスラエルに従うアラブ国家による新中東支配体制建設」の決意表明だったのだ。
それがアメリカ帝国主義議会主流派の支持を受けたということは、全世界の抵抗勢力(レジスタンス)と帝国主義諸国支配階級の全面戦争が開始されているのだということをわれわれも自覚し覚悟しなければならないということだ。自覚し覚悟して戦いを始めよう。
以下、ロイター報道より
「ネタニヤフ氏は戦争終結後のガザについて、イスラエルの破壊を求めないパレスチナ人が主導する「非武装化・非過激化」した姿を描いていると説明。当面の間はイスラエルがガザの治安を全面的に管理する必要があるとの認識も示した。
また、イスラエルとアラブ諸国の間で中東の安全保障同盟を構築する将来像についても語った。」