「共産主義の運動と思想にとって新しい地平を展望する内容に満ちている」
革命的共産主義者同盟再建協議会の橋本利昭さんから『重度精神障害を生きる』への感想を寄せていただきました。
共有させていただきます。
以下感想への簡単な僕の感想です。
橋本さんは、よく本で書いたことの意図を読み取り、深く考察することで、こういう言い方は偉そうかもしれないが、新たな地平に到達していると思います。
「プロレタリアート」概念についての考察は、僕が知らなかったプルードンの指摘など、マルクス再評価にもかかわる重要な視点を提示している。それはマルクスの「プロレタリアート」概念が工場労働者だけを指し、フランス2月革命を支持したのと同じ労働者がナポレオン3世の反革命クーデターを支持したこと、マルクスはそれを「ルンペン・プロレタリアート」の仕業と規定してしまい、「プロレタリアート」がいつも革命的な訳ではないことをも落としてしまったことを指摘する。後年のマルクスがザスーリチへの手紙では農民の果たす革命的役割を強調するようになりながら、結局プロレタリアート概念に変更を加えた形跡はない。橋本さんは「プロレタリアート」概念に変更を加えるというよりは、農民や女性、被差別・被抑圧人民が現代革命に果たしている役割を再評価し直すべきだとしている。それはそれで、理解できる立場だ。
またレーニンの評価についても僕の知らなかった事実を指摘されており、僕の本の足りなかったところを補っている。
それらから、橋本さんは「人権」概念の重要性を指摘している。それは「共産主義に通じ全人間解放を求める重要な概念である」として、また欧米語には『差別』に該当する言葉がないという指摘も、欧米を重視しがちな日本の障害者運動にとっては重要な指摘であろう。
国連障害者権利委員会がいうところの「医学モデル」「社会モデル」に代わる「人権モデル」を我々が理解し深めるうえでも重要な指摘となろう。
ジョン・レノンが「イマジン」で共産主義の理想を歌ったように、国際的な障害者運動が共産主義の理想に近づいたとしても何らおかしなところはない。
本の感想への感想など無粋とは思いますが、障害者解放運動の言葉として僕の理解したところを書いてみました。理解の参考になればと思います。
高見本が共産主義に突きつけるもの
2023.7 橋本利昭
高見元博著、『重度精神障害を生きる――精神病とは何だったのか 僕のケースで考える』は、私自身と私たちにきわめて重いものを突きつけている。それと同時に、共産主義の運動と思想にとって新しい地平を展望する内容に満ちている。読後感を提起し、批判を乞いたい。
精神障害者の自己解放宣言
本書の核心は、「はじめに」に書かれている「精神障害者の自己解放宣言」にある。同時に、終章の第1節の見出しになっている「人は変わることができる」が全体の総括となっている。まず宣言し、考察を尽くして、結論を「変わることができる」に置いている。見事な構成となっている。
著者は、マルクスやレーニンの著作にも差別語が使われていることを指摘している。またわれわれの、在日朝鮮・中国人民、ひいては被抑圧・被差別人民に対する「7・7自己批判の立場」に対する動揺的であいまいな態度があったことを弾劾している。それに踏まえて、われわれの原点であるロシア革命の問題性を改めて確認したい。1917年革命の直後に出された憲法や法律には社会保障、とくに職業病や労働災害の条項は確かにあるが、病気や障害についての条項はない。それどころか、1919年には早くも精神障害者に対する隔離収容が制度化される。これがスターリン時代となると政治的反対派に対する弾圧の手段とされる。エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」に印象的な場面があった。オデッサのデモで松葉杖をついた障害者と乳母車(を押す女性と乳児)が登場する。その後、宮殿の階段を駆け上がったデモ隊が軍隊に蹴散らされる。階段を乳母車が転げ落ちる場面が出てくるが、松葉杖の障害者がどうなったかは分からない。これを障害者が革命に参加している場面とむかし感激した覚えがある。しかし考えると、障害者を革命の主体としてではなく、単なる客体として描いている。当時の既存社会主義の限界をここに見る。
本論にもどって、高見さんは、高校生以降の自己史の総括を通じて自らの発症の契機を追求している。病歴や診断名はもちろん、ベトナム反戦や学園闘争とのかかわり、郵政職場の情況、家族関係などを考察している。そして従来の精神病についての学説である「医学モデル」と「社会モデル」を超えて、障害があるがままに労働し、「健常者」と同等の権利を要求するという立場を確立する。ここには病因と適薬を求める求道者的闘いの軌跡がある。
また明治以降、精神障害者を治安管理の対象としてきた日本社会への全面的糾弾とともに、障害者差別の構造を解明しつくしている。すなわち、障害者を劣った者とし、危険な者とし、虐待と虐殺の対象とする。そして権力・行政は、障害者を意志なき者として扱ってきたことを厳しく糾弾している。
普遍的人間解放を目指して
著者は、さらに労働者と障害者、さらには被抑圧・被差別人民の解放の相互関係に踏み込む。マルクスのアイルランド問題に関する提起に踏まえて、「労働者階級は差別・抑圧と闘い、自らの差別を乗り越えて、それらの解放を勝ち取ることで、被差別・被抑圧人民の信頼を得ることが、プロレタリアート解放の『前提条件』」であるという結論を導いている。
さらに高見さんはマルクスを継承し、革命主体はあくまでプロレタリアートとし、障害者、精神障害者、被抑圧・被差別人民をプロレタリアートに含めるべきだと主張している。この点は私も悩みに悩んで、帝国主義段階では農民や被抑圧民族、被差別人民はプロレタリアートに含めるべきだと主張したことがある。生産関係における地位によって規定される階級概念からすると工場労働者しか意味しない「プロレタリアート」概念は確かに狭すぎる。逆にマルクス自身のこのような狭い理解が、フランス2月革命が裏切られナポレオン3世を権力に押し上げたのは分割地農民であるという理解をもたらす。しかしプルードンが言うように、ナポレオン3世を権力に押し上げたのは、6月暴動の敗北で絶望した労働者階級自身であった。マルクスはそれをルンペン・プロレタリアートだとしてしまう。ここにはマルクスによる労働者への一面的重視と反革命に加担するのはルンプロだとしてしまう政治的決めつけがある。しかし2月革命から6月暴動を主導したのも、ナポレオン3世のクーデターを支持したのも同じ労働者である。
20世紀世界革命を見ると、1919年のモンゴル革命は、牧民とラマ僧が主体で労働者は1人もいない。中国革命は流民化した農民、キューバ革命は土地なき農民(農業労働者と言える)が主体であった。これをもって見ると、現代革命の主体はプロレタリアートとともに、農民や被抑圧・被差別人民であるということができる。結局、階級規定と社会(学)的規定の相互関係を明確にして、階級規定はあくまで堅持するとともに、それを豊かに発展させるべきだと思う。それに対して、サバルタン(グラムシ)、マルチチュード(ネグリ)、また被抑圧・被差別人民を指す言葉として使われる「マイノリティー」という言葉は、階級性と差別・抑圧関係をあいまいにする意味しかない。女性という存在を考えれば分かる。女性は少数派でも劣った存在でもない。英語をはじめ欧州系統の言葉に、「差別」をはっきりと意味する言葉がないことも問題である。
高見さんが言うように、結局、晩年のマルクスが当時ナロードニキであったザスーリッチに宛てた手紙で述べている、農民の共同体がそのまま共産主義社会の源基になるようなあり方を模索することが課題となる。あらかじめそのような共同体が存在しない場合は、それを闘いとる運動論が必要である。
高見さんは、共産主義の目的として、「働かざる者食うべからず」という1917年ロシア革命の標語を否定する。スターリン主義とナチスがともに掲げたこの標語を否定することは現代革命の重要な課題である。高見さんはそれに替えて、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことに将来社会の原理を置く。これは障害者にとって「ひとりの人間として生きていくために」必要な原理であるとともに労働者、被抑圧・被差別人民の人間的共生にとって不可欠の原理である。同時に、この原理がマルクスが言うように分配に偏った規定であることに踏まえ、人間生活の全局面で、性の区別や民族の分断、障害のあるなしを超えた共生を実現することが必要である。そのためには、抑圧的権力の排除とともに、搾取する側、抑圧する側、差別する側の(「償い」とレーニンが言う)努力が必要になる。高見さんはまさにそのことを強調しているのだと思う。
実践的提起と決意
高見さんは、実践的結論として、虐待事件を頻発させた神出病院事件について、理事長・院長の徹底的追及を通じて、さらに「精神科病院を全て解体するまで闘いぬく」と決意を表明している。これは精神障害者にとって生きるための不可欠の闘いであるだけでなく、労働者人民および共産主義者にとって現在焦眉の課題であると思う。
それとともに、障害者を抑圧し、抹殺する優生思想の典型的あらわれとして、優生保護法による強制不妊手術の問題がある。全国で闘われているこの裁判闘争を支持し、政府・国会・行政をはじめこれを推進したすべての責任を徹底追及し、強制不妊措置を受けたすべての人に補償を実現させなければならない。
高見さんが強調しているように、現在の日本の障害者に対する差別・抑圧、隔離・虐待と闘う武器として、国連の障害者権利条約とそれに基づく、2022年9月に出された対日勧告「障害者権利条約対日審査総括所見」を政府・行政に認めさせる闘いは全労働者人民の課題である。
「骨格提言」の完全実現を求める大フォーラム実行委員会が掲げる「私たち抜きに私たちのことを決めるな」という標語は、世界の障害者解放を闘う者の運動と理論の到達地平である。それは、障害者自己解放の思想そのものであるとともに、真の共生社会=コミュニズムの展望を与えるものである。
在日外国人を無期限に強制収容し、強制追放する日本の入管体制や、派遣などの非正規労働者、女性に対する差別・抑圧と闘う立場から「人権」という言葉が最近強調される。これはたんなるブルジョア的政治的権利だけでなく、共産主義に通じる全人間的解放を求める重要な概念である。障害者解放運動が切りひらいたこの地平を、労働運動、社会運動が共有し、共産主義の世界的発展を切りひらこう。