so far, not so bad

"unselfconsciousness"

「読書メモ2021:その10」の分冊。

2021-10-23 22:53:12 | 

宗教ってどんな感じ?という事をつかみたくて幾つかの本を読んでいる。図書館の本棚で手に取った都合でキリスト教が先行したが、キリスト教についてはまあ何となく一区切りかなと思っている。
もちろんあくまで自分の好奇心がいったん満たされたかなと思っているだけの話。把握したとか真理にたどり着いたとかはかけらも思っていないしそもそもそんな気は無い。でもまあ何となく分かった気になったきっかけである二冊の本を挙げる。

原理主義者ではないのだけれど「そもそもどうだったのか」、その一端に触れることが書いてあったのが『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』。
色々な観点で興味深い内容が満載なのだが、"観点"を強いて言葉にすると、言語の違いと宗教の関係、そしてそれをも利用した宗教、政治の歴史、という感じだろうか。

一例がマリアさんの「処女懐胎」。これは翻訳がきっかけでできた話なんだそうな。
ギリシャ語圏が広がって来た都合で、最初ヘブライ語で書かれていた幾つかの文書を、ユダヤ教徒がギリシャ語に翻訳した。その対象にはイエスさんが生まれる時の部分「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み」も有り、ヘブライ語の「おとめ」をギリシャ語の「おとめ」で訳した。ところが、ヘブライ語の「おとめ」は「若い女」を指すだけで、いわゆる処女性は問われないらしい。一方ギリシャ語の「おとめ」は若いだけでなく処女を意味する単語を使ったそうな。ギリシャ語訳を読んだ人はギリシャ神話などの背景もあるものだからこんな事ができるなんて"やっぱ神"みたいな雰囲気で受け取る。という事が発端だったらしい。
ただし、話はここで終わらない。本家のユダヤ教の方々は「俺たちの宗教の話曲がって伝わってない?言語が違うとちゃんと伝わらないよね」と、ギリシャ語訳を放棄したそうな。一方新興宗教でギリシャ語訳を旧約に置いたキリスト教の方々はそのまま使い続けて、みんな信じてるし時間も経っちゃったし(歴史是認主義とある)神っぽいし(イエス以外の人を崇めるのはそもそもおかしな話だけど)お母さん人気もあるみたいだからそのままにしとこ、となった。宗教の神秘的な一つのポイントのようなものは、こんな風に成立しているらしい。

もひとつ同じく翻訳について。個人的には、序盤で一番インパクトがあって得心した部分。
古典ヘブライ語には、動詞に過去形が無いらしい。時制によって動詞が形を変化させることが無い。周辺に使われている言葉からいつなのか推測する、と。
ただ翻訳先のギリシャ語には時制があるので、翻訳する時にはその推測した時制で過去なら過去、本当に現在なら現在、と書いたらしい。
本にあった例としては「初めに、神は天地を創造された。こうして、光が(あった)」これをできる限り直訳風に書くと「神は天地を創造(す)。光が(ある)。」ほんの短い文章だが、実はこれ、ものすごい論理の組み換えを起こす原因を作っている。
遊牧民がテントの中で火を囲んで語っている(ヘブライ文字は表音文字だが当時は母音を表す文字がなく、伝承には音読、朗誦が必要だったらしい)中で、現在形で語られるか過去形で語られるか。「むかーしむかし」と言われると「ああ昔の話なんだ」と受け取るが、「光がある」と言われると、神の存在は現在形で身近に感じられる。(日が沈んだ後に深い森の中を歩いている所を想像すると分かるかもしれない。木々のざわめきを単なる物理現象と思う事ができるだろうか。)超越したもの、神聖なものに対する受け取り方が全く違ってくるはずだ。
ただしこれ、キリスト教にとっては非常に都合が良かった。最たるものが旧約、新約。以前の神との契約はキリストが全部引き受けたから全部リセットね、あとは新しい契約で。乱暴に書くとこうなるが、そもそもこの「以前の」とか「新しい」とかいう発想が使えることは、旧約部分を同根にしているがユダヤ教からの脱皮を図りたいキリスト教にとってはとても重要なロジックなのだ。

なるほど。

一方の『ユダの福音書を追え』。
タイトルの「追え」の部分から分かるが、ひとえに古美術でお金を稼ぎたい人達と、自分の研究の学術的価値を高めたい研究者達のパピルスをめぐるドタバタ劇、という感じの話。キリスト教の説明と思って読んではいけないことは最初から分かっていたが、その中にも福音書の内容が書かれている部分もあるので、それを拾い読みしようと。でも、登場人物達から受ける印象が余りにも自分の欲求に素直であるために、その影響を受けた感は否めない。パピルスの文書を一番長い期間保有していた人(かつその内容や保存状態をこれっぽっちも顧みなかった人)が、"コプト教の敬虔な信者"だと表現されているのも原因かもしれない。が。

ユダというキリスト教の一つの落としどころにされている部分について、なぜそうなったのかが分かればと思っていた。けれどユダの福音書についてはまずグノーシス主義でキリスト教の本流ではない方々が書かれたものという事が分かり少々関心度が下がる。また、題名からして想像は付くがやはり「イエスは使徒の中で一番優秀だと思っていて、イエスの事を本当に理解していたのもユダだけだった」という話で、余り驚きの無い結果となる。
なぜ驚きが無いのか。

現存の聖書類の中ではすべからくユダは裏切者である。それに対して"衝撃的な内容を伝えるノンフィクション"、"宗教界に衝撃を与える問題の書"とくれば、まあその逆が書かれているのだろうと誰でも予想できる。ただ本当にそういう内容の物があったら聖書とは共存はできなくて闇に葬られたのだろう。それが今回ひょっこり出てきた、という事なのだろう、と。

そうなると、ユダの福音書は単なるお話だったのだろうか、という疑問も出てくる。仮にお話だったとすると、では今の聖書に書かれているのは事実か、という疑問も出てくる。一方はお話で一方は事実?そう迷わせること自体が狙い?

一体何が正しいのか。

そんなこんなを考えていて、何となくたどり着いたのは、ユダと呼ばれる人の扱いも、ユダの福音書という文書に書かれた内容も、それから広げてその他の福音書も正典も、まあ言ってしまえばキリスト教って『ガンダム』みたいなものなのだな、と。プラットフォームとして使いやすいとなると、議論され、拡張され、都合の良いように解釈され、オリジンがあり、外伝があり、、、。それに携わっている人達も、それを大事に思っている人もいれば、単なる商品の一つとして扱う人もいる、売れればなんだっていいやと思っている人も、崇め奉っている狂信的な人も、、、。(ガンダムに例えることに怒りを感じる方がいるのであれば、ギリシャ神話でもいい。でも、ギリシャ神話ならまあ、と思った人がいるのなら、もうその時点でお話にならない。神って付くならって納得するようなら、盲目もいいところ。自分が信じる物が信じるに足りうるのか、いくら考えても足りることはないと思うのだが。)

現代に生きる者として、様々な状況や都合、時間経過を通した物を、様々な人達から受け取っている。そうなると、やはりそれらは多種多様に変化してしまっていて、そもそも伝えたかったことが薄まったり伝わりづらくなったりしている可能性がある。一つの言葉から受けるイメージが、全く変わってしまっている可能性だってある。最初に原理主義者ではないと書いたが、宗教を知る上で、大本を知ることはとても大事なことだと思っている。なぜなら、多分そういう一つ一つの言葉の積み重ねで、僕らは救われるはずだから。

神の話としてリスペクトし過ぎた感もある。神なんだから、人知の及ばない、物事を超越した存在で、その真実は一つで曲がるはずがない。それを伝える話も曲がっているはずも無く、もし万が一曲がっているのであれば、何等か"人"の手が入っているはず。さかのぼって行けば、"人"の手が入る前の本当の神の姿が見えるはず。と考えたのが、間違っていたのだろう。



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