第二次世界大戦中、多くの艦船が沈没し、多くの人命が失われました。それら艦船のほとんどは沈没位置が確認されないままに放置されています。一般社団法人ラ・プロンジェ深海工学会は、沈没した艦艇や戦時徴用船の正確な位置を特定し、現状を明らかにすることが、歴史的にも、犠牲者の鎮魂のためにも大切なことと考え、最新の技術を利用して、位置の特定と現状の調査を行いっています。
東シナ海に沈没した大洋丸一万四千トンの位置を特定し、沈没から75年たった大洋丸の現状を明らかにする「大洋丸探索プロジェクト」を2018年に開始しました。調査活動は、学会のプロジェクトチームがボランティアでおこないます。
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沈没地点と言われている
北緯30度45分、東経127度40分(日本郵船戦時船史)
周辺には、海上保安庁海洋情報部が取得したデータによると5隻の船が沈んでいます。その内の1隻は大洋丸であると考えています。そこに大型の遠隔操縦式無人探査機(ROV)を下ろして5隻の船名を確認します。「戦没した船と海員の資料館」のHPの資料によりますと、その内の3隻は、「りま丸」「富生丸」「錫蘭丸」の可能性が高いと考えられます。また、「錫蘭丸」を沈めた米国潜水艦「Grayback」も近くに沈んでいるはずで、それが第5隻目かもしれません。
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大洋丸を含め4隻の船名と正確な位置が判明すれば、その位置で亡くなられた方々の洋上慰霊が出来ると願っています。
1936年8月太平洋航路の大洋丸船上で昭和の二人の風雲児、辰巳栄一氏と白洲次郎氏は初めて出会い、日本の将来を議論し、その後の日本の歴史をともに背負っていきます。戦争が始まり、徴用船となった大洋丸は、1942年5月5日、多くの民間人を乗せてシンガポールに向けて宇品港を出港しました。8日午後8時40分頃、東シナ海の北緯30度45分 東経127度40分の海域でアメリカの潜水艦グレナディアー(SS-210)の雷撃を受け、沈没。1360名の乗員、乗組員の内、817名が殉難しました。
乗員はほとんどが東南アジア各地に赴任途次の経済人でした。台湾烏山頭ダムを建設した八田與一氏もお亡くなりになりました。開戦から半年も立たない時の出来事で、当時はまだ日本全体が全戦全勝と浮かれていたのですが、実際にはすでに日本近海の制海権を奪われていたと云う事です。国民の戦意喪失を恐れた軍部が報道を抑えた為、大事件ながら一般には多くを知らされていませんでした。
私たちは、2018年の八月下旬に4日間にわたって、国際ケーブルシップ(株)のご協力を得て KDDI PACIFIC LINK」(全長:109m、総トン数:7,960トン)を支援船として同社のROV「MARCUS-V」を現場に展開し、調査をおこないます。
東シナ海に沈没した大洋丸一万四千トンの位置を特定し、沈没から75年たった大洋丸の現状を明らかにする「大洋丸探索プロジェクト」を2018年に開始しました。調査活動は、学会のプロジェクトチームがボランティアでおこないます。
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沈没地点と言われている
北緯30度45分、東経127度40分(日本郵船戦時船史)
周辺には、海上保安庁海洋情報部が取得したデータによると5隻の船が沈んでいます。その内の1隻は大洋丸であると考えています。そこに大型の遠隔操縦式無人探査機(ROV)を下ろして5隻の船名を確認します。「戦没した船と海員の資料館」のHPの資料によりますと、その内の3隻は、「りま丸」「富生丸」「錫蘭丸」の可能性が高いと考えられます。また、「錫蘭丸」を沈めた米国潜水艦「Grayback」も近くに沈んでいるはずで、それが第5隻目かもしれません。
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大洋丸を含め4隻の船名と正確な位置が判明すれば、その位置で亡くなられた方々の洋上慰霊が出来ると願っています。
1936年8月太平洋航路の大洋丸船上で昭和の二人の風雲児、辰巳栄一氏と白洲次郎氏は初めて出会い、日本の将来を議論し、その後の日本の歴史をともに背負っていきます。戦争が始まり、徴用船となった大洋丸は、1942年5月5日、多くの民間人を乗せてシンガポールに向けて宇品港を出港しました。8日午後8時40分頃、東シナ海の北緯30度45分 東経127度40分の海域でアメリカの潜水艦グレナディアー(SS-210)の雷撃を受け、沈没。1360名の乗員、乗組員の内、817名が殉難しました。
乗員はほとんどが東南アジア各地に赴任途次の経済人でした。台湾烏山頭ダムを建設した八田與一氏もお亡くなりになりました。開戦から半年も立たない時の出来事で、当時はまだ日本全体が全戦全勝と浮かれていたのですが、実際にはすでに日本近海の制海権を奪われていたと云う事です。国民の戦意喪失を恐れた軍部が報道を抑えた為、大事件ながら一般には多くを知らされていませんでした。
私たちは、2018年の八月下旬に4日間にわたって、国際ケーブルシップ(株)のご協力を得て KDDI PACIFIC LINK」(全長:109m、総トン数:7,960トン)を支援船として同社のROV「MARCUS-V」を現場に展開し、調査をおこないます。
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