リートリンの覚書

日本の神様102・吉備武彦・七掬脛


日本の神様102

・吉備武彦
・七掬脛


吉備武彦
(きびのたけひこ)


日本武尊の東征の従者のひとり

稚武彦王の孫
吉備下道臣の祖


「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

“天皇はそこで、吉備武彦と大伴武日連とに命じ、日本武尊に従わせました。”

日本武尊の東征の従者のひとりで、
稚武彦王(わかたけひこおう)の孫。
吉備下道臣の祖です。

景行天皇40年6月、
東夷が叛逆しました。

7月16日に、
東夷征伐を誰にするのか議論し、
日本武尊が派遣されることになりました。

そこで天皇は、
吉備武彦と
大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)とに命じ、
日本武尊に従わせました。

蝦夷の平定を終えた日本武尊は、
信濃国(しなののくに・長野県)、
越国(こしのくに・北陸)だけが、
王化に従っていなかったので、

甲斐から北の、
武蔵(むさし・東京・埼玉)、
上野(かみつけ・群馬県)を巡り、

西の碓日坂
(うすひ・群馬・長野県の境の碓氷峠)
まで至りました。

そこで、二手に分かれて、
吉備武彦を越国に派遣。

その地形と険易、
及び人民が従順かどうかを視察させました。

その後、
吉備武彦は、美濃で日本武尊と合流しました。

日本武尊は、
さらに尾張(愛知県)にもどり、
尾張氏の娘、宮簀媛(みやずひめ)と結婚し、
長く留まり、幾月か経ちました。

そこで、
近江(滋賀県)の
五十葺山(いぶき・滋賀県の伊吹山)に
荒神(あらふるかみ)がいると聞きました。

日本武尊は、
その討伐に出かけましたが、
病に臥してしまいました。

どうにかして起き、尾張に還りましたが。
すぐ伊勢に移り、
尾津(三重県桑名市多度町か)に
到着しました。

しかし、
能褒野(のぼの・
三重県の鈴鹿山脈の野登山辺りの山麓)
に到着しても痛みはひかず、

そこで、
日本武尊は、
吉備武彦を遣わして、
天皇に遺言を伝えたといいます。

娘、吉備穴戸武媛(あなとのたけひめ)は、
日本武尊の妃です。

吉備穴戸武媛は
武卵王(たけかいごのみこ)
十城別王(とおきわけのみこ)とを生みました。


主な神社


・吉備神社(岐阜県瑞浪市)

・熱田神宮 摂社 龍神社(愛知県名古屋市)

・久佐奈岐神社(静岡県静岡市)

・建部大社 末社 行事神社(滋賀県大津市)


七掬脛
(ななつかはぎ)


膳夫
久米氏の遠祖

・別名
七束脛命(ななつかはぎのみこと)

・神格


「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

“また七掬脛を、膳夫としました。”

日本武尊の東征に随行した従者です。

景行天皇40年6月、東夷が叛逆しました。

7月16日に、
東夷征伐を誰にするのか議論し、
日本武尊が派遣されることになりました。

そこで天皇は、
吉備武彦(きびのたけひこ)
大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)
とに命じ、日本武尊に従わせました。

また七掬脛を、
膳夫(かしわで)としました。


そのほか


・建部大社 末社 蔵人頭神社(膳夫神社)
では、料理の神として祀られています。


神徳


料理の神


主な神社


・建部大社 末社 蔵人頭神社(膳夫神社)
(滋賀県大津市)

・焼津神社 相殿 (静岡県焼津市)

・久佐奈岐神社(静岡県静岡市)



勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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