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リートリンの覚書

東京史跡巡り・人物編 陸奥宗光宅跡


東京史跡巡り・人物編

陸奥宗光宅跡



日本の幕末の武士で、明治期の外交官・政治家である、陸奥 宗光(むつむねみつ)が
明治5年(1872)から同10年(1877)までの間、住んだ跡地です。

江東区登録史跡
 陸奥宗光宅跡(むつむねみつたくあと)

 陸奥宗光は、明治時代の外交官・政治家で、弘化元年(1844年)、和歌山藩士・伊達宗広(だてむねひろ・千広)の第六子として生まれ、明治30年(1897年)西ケ原(北区)の自邸で逝去しました。
 父宗弘は藩の要職にありましたが、政争により失脚、宗光は一五歳で江戸へ出ました。文久2年(1862年)に脱藩し、京都で尊王攘夷運動に加わり、のち坂本龍馬の海援隊に参加しました。このころより陸奥の姓を用いるようになりました。
 明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。明治10年(1877年)、西南戦争に呼応した土佐立志社内の挙兵派の政府転覆計画に加担したとして、翌一一年に免官、五年間投獄されました。出獄後は、外務省に入り、明治二三年(1890年)弟一回衆議院選挙で当選。第二次伊藤内閣の外務大臣として日英通商航海条約締結を実現、日清戦争(1894~95)の開戦と講和に関わりました。
 宗光の深川清住町(現清澄)に在住したのは明治5年(1872)から同10年(1877)までの間で、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるい、また薩長藩閥勢力による政権の独占を批判した論文「日本人」を書きあげた時期にあたります。
この邸宅は、隅田川に面して眺望がよく「三汊水碧楼(さんさすいへきろう)」と呼ばれていました。
江東区教育委員会
説明書きより引用


所在地

東京都江東区清澄1丁目5


最後に

清洲橋に向かう途中、

清洲橋通り沿いに案内板がポツンと建っていました。

何の案内板?

と近づいてみると、陸奥宗光宅跡とありました。

陸奥宗光の奥様といえば、
「ワシントン社交界の華」と呼ばれた、亮子さん。

(出典・Wikipedia)

大変美しい方ですよね。

明治5年2月に、陸奥宗光の先妻が亡くなり、

同年5月に17歳で客である宗光の後妻となったとありますから、

この辺に住んでいたのですね。

しかし、

あたりを見渡してもその当時の面影なんてありませんでした。

少しでも残っていたらいいのにね。




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