リートリンの覚書

日本書紀に登場する人物・百済国 2 ・久氐 ・彌州流 ・莫古 ・沙白蓋盧 ・木羅斤資 ・沙沙奴跪



日本書紀に登場する人物・百済国 2

・久氐
・彌州流
・莫古
・沙白蓋盧
・木羅斤資
・沙沙奴跪


久氐
(クテイ)


百済人の高官


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“甲子の年七月に、百済人久氐、彌州流、莫古の三人が、我が土にきて、『百済王は、東方に日本の貴国があると聞いて、臣等を派遣して、その貴国に朝貢しようとした。”

神功皇后摂政46年3月1日、
斯摩宿禰(しまのすくね)
卓淳国(とくじゅん)に派遣しました。

この時、
卓淳王・末錦旱岐(マキンカンキ)は、

斯摩宿禰に告げて、
「甲子(きのえね)の年七月の中旬に、
百済人の久氐(クテイ)、彌州流(ミツル)、莫古(マクコ)の三人が、
我が国にきて、

『百済王が、
東方に貴国(かしこきくに)があると聞いて、
臣等を派遣して、
その貴国に朝貢しようとした。
それで道を求めて、
この国に至ってしまった。』
といいました。

そこで久氐等に、
「まだいちども通じていないので、
その道を知らない。
ただ海は遠く、
浪は嶮しい。
大船に乗って、
わずかに通じることができる。
もし路津(わたり)があったとしても、
船が無ければ行くことはできないだろう」
と答えました。

すると久氐らは、
『いちど還って、
船舶を準備して、
後に通じましょう。
もし貴人の使人が来ることがあったら、
かならずわが国に告げてください』
ともいいました。」

そこで斯摩宿禰は、
すぐに爾波移(にはや)と過古(ワコ)の二人を、
百済国に派遣して、
その王を慰勞(いろう)しました。

神功皇后摂政47年4月。
百済王は久氐、彌州流、莫古を使わして、
朝貢しました。

この時、
新羅国の調(みつき)の使が、
久氐と共にやってきました。

しかし、
二国の貢物を検校(けんぎょう)すると、
新羅の貢物は珍しいものがはなはだ多く。

一方、
百済の貢物は少なく、
賤しく良くないものでした。

そこで久氐らに問うと、

彼らは道にまよい、
新羅に到着しました。

そこで新羅人は、
彼らを捕えて牢屋に禁じ、
彼ら殺そうとしました。

そこで、
久氐等は呪詛をしました。
新羅人はその呪詛を
怖れて殺しませんでした。

しかし、
百済の貢物を奪い新羅の貢物とし、
新羅の賤物と取り換え百済の貢物としました。

そこで、
千熊長彦を新羅に派遣して、
百済の献物を穢乱したことを責めました。

神功皇后摂政49年3月、
荒田別、鹿我別(かがわけ)を将軍とし、
久氐等と共に兵を整えて、
海を渡り卓淳国に到着し
新羅を襲おうとしました。

その時或る者が、
兵士が少ないと、
新羅を破ることはできないと忠告します。

そこで、
木羅斤資(モクラコンシ)
沙沙奴跪(ササナコ)に命じて、
沙白、蓋盧を召し上げさせ、

そろって卓淳に集まり、
新羅を撃ち破りました。

神功皇后摂政50年5月、
千熊長彦、久氐等が、百済から帰国しました。

皇太后は歓び、
多沙城(たさのさし)を増やして与えました。

神功皇后摂政51年3月、
百済王がまた久氐を派遣して朝貢しました。

その年に、
千熊長彦を久氐らに副(そ)えて、
百済に派遣しました。

神功皇后摂政52年9月10日、
久氐等が千熊長彦に従ってやってきました。

そして、
七枝刀(ななつさやのたち)一口、
七子鏡(ななつごのかがみ)一面、
及びにさまざまの重宝を献上しました。


彌州流
(ミツル)


百済の使者


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“甲子の年七月に、百済人久氐、彌州流、莫古の三人が、我が土にきて、『百済王は、東方に日本の貴国があると聞いて、臣等を派遣して、その貴国に朝貢しようとした。”

神功皇后摂政46年3月1日、
斯摩宿禰(しまのすくね)
卓淳国(とくじゅん)に派遣しました。

この時、
卓淳王・末錦旱岐(マキンカンキ)は、

斯摩宿禰に告げて、
「甲子(きのえね)の年七月の中旬に、
百済人の久氐(クテイ)、彌州流(ミツル)、莫古(マクコ)の三人が、
我が国にきて、

『百済王が、
東方に貴国(かしこきくに)があると聞いて、
臣等を派遣して、
その貴国に朝貢しようとした。
それで道を求めて、
この国に至ってしまった。』
といいました。

そこで久氐等に、
「まだいちども通じていないので、
その道を知らない。
ただ海は遠く、
浪は嶮しい。
大船に乗って、
わずかに通じることができる。
もし路津(わたり)があったとしても、
船が無ければ行くことはできないだろう」
と答えました。

すると久氐らは、
『いちど還って、
船舶を準備して、
後に通じましょう。
もし貴人の使人が来ることがあったら、
かならずわが国に告げてください』
ともいいました。」

そこで斯摩宿禰は、
すぐに爾波移(にはや)と過古(ワコ)の二人を、
百済国に派遣して、
その王を慰勞(いろう)しました。

神功皇后摂政47年4月。
百済王は久氐、彌州流、莫古を使わして、
朝貢しました。

この時、
新羅国の調(みつき)の使が、
久氐と共にやってきました。

しかし、
二国の貢物を検校(けんぎょう)すると、
新羅の貢物は珍しいものがはなはだ多く。

一方、
百済の貢物は少なく、
賤しく良くないものでした。

そこで久氐らに問うと、

彼らは道にまよい、
新羅に到着しました。

そこで新羅人は、
彼らを捕えて牢屋に禁じ、
彼ら殺そうとしました。

そこで、
久氐等は呪詛をしました。
新羅人はその呪詛を
怖れて殺しませんでした。

しかし、
百済の貢物を奪い新羅の貢物とし、
新羅の賤物と取り換え百済の貢物としました。

そこで、
千熊長彦を新羅に派遣して、
百済の献物を穢乱したことを責めました。

神功皇后摂政49年3月、
荒田別、鹿我別(かがわけ)を将軍とし、
久氐等と共に兵を整えて、
海を渡り卓淳国に到着し
新羅を襲おうとしました。

その時或る者が、
兵士が少ないと、
新羅を破ることはできないと忠告します。

そこで、
木羅斤資(モクラコンシ)
沙沙奴跪(ササナコ)に命じて、
沙白、蓋盧を召し上げさせ、

そろって卓淳に集まり、
新羅を撃ち破りました。



莫古
(マクコ)


百済の使者


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“甲子の年七月に、百済人久氐、彌州流、莫古の三人が、我が土にきて、『百済王は、東方に日本の貴国があると聞いて、臣等を派遣して、その貴国に朝貢しようとした。”

神功皇后摂政46年3月1日、
斯摩宿禰(しまのすくね)
卓淳国(とくじゅん)に派遣しました。

この時、
卓淳王・末錦旱岐(マキンカンキ)は、

斯摩宿禰に告げて、
「甲子(きのえね)の年七月の中旬に、
百済人の久氐(クテイ)、彌州流(ミツル)、莫古(マクコ)の三人が、
我が国にきて、

『百済王が、
東方に貴国(かしこきくに)があると聞いて、
臣等を派遣して、
その貴国に朝貢しようとした。
それで道を求めて、
この国に至ってしまった。』
といいました。

そこで久氐等に、
「まだいちども通じていないので、
その道を知らない。
ただ海は遠く、
浪は嶮しい。
大船に乗って、
わずかに通じることができる。
もし路津(わたり)があったとしても、
船が無ければ行くことはできないだろう」
と答えました。

すると久氐らは、
『いちど還って、
船舶を準備して、
後に通じましょう。
もし貴人の使人が来ることがあったら、
かならずわが国に告げてください』
ともいいました。」

そこで斯摩宿禰は、
すぐに爾波移(にはや)と過古(ワコ)の二人を、
百済国に派遣して、
その王を慰勞(いろう)しました。

神功皇后摂政47年4月。
百済王は久氐、彌州流、莫古を使わして、
朝貢しました。

この時、
新羅国の調(みつき)の使が、
久氐と共にやってきました。

しかし、
二国の貢物を検校(けんぎょう)すると、
新羅の貢物は珍しいものがはなはだ多く。

一方、
百済の貢物は少なく、
賤しく良くないものでした。

そこで久氐らに問うと、

彼らは道にまよい、
新羅に到着しました。

そこで新羅人は、
彼らを捕えて牢屋に禁じ、
彼ら殺そうとしました。

そこで、
久氐等は呪詛をしました。
新羅人はその呪詛を
怖れて殺しませんでした。

しかし、
百済の貢物を奪い新羅の貢物とし、
新羅の賤物と取り換え百済の貢物としました。

そこで、
千熊長彦を新羅に派遣して、
百済の献物を穢乱したことを責めました。

神功皇后摂政49年3月、
荒田別、鹿我別(かがわけ)を将軍とし、
久氐等と共に兵を整えて、
海を渡り卓淳国に到着し
新羅を襲おうとしました。

その時或る者が、
兵士が少ないと、
新羅を破ることはできないと忠告します。

そこで、
木羅斤資(モクラコンシ)
沙沙奴跪(ササナコ)に命じて、
沙白、蓋盧を召し上げさせ、

そろって卓淳に集まり、
新羅を撃ち破りました。


沙白蓋盧
(さはくこうろ)


日本書紀にみえる使者


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“或が、「兵衆が少ないと、新羅を破ることはできない。さらに沙白、蓋盧を召しあげ、軍士を増やすよう請えなさい」といいました。”

神功皇后摂政47年4月。
百済王は久氐、彌州流、莫古を使わして、
朝貢しました。

この時、
新羅国の調(みつき)の使が、
久氐と共にやってきました。

しかし、
二国の貢物を検校(けんぎょう)すると、
新羅の貢物は珍しいものがはなはだ多く。

一方、
百済の貢物は少なく、
賤しく良くないものでした。

そこで久氐らに問うと、

彼らは道にまよい、
新羅に到着しました。

そこで新羅人は、
彼らを捕えて牢屋に禁じ、
彼ら殺そうとしました。

そこで、
久氐等は呪詛をしました。
新羅人はその呪詛を
怖れて殺しませんでした。

しかし、
百済の貢物を奪い新羅の貢物とし、
新羅の賤物と取り換え百済の貢物としました。

そこで、
千熊長彦を新羅に派遣して、
百済の献物を穢乱したことを責めました。

神功皇后摂政49年3月、
荒田別、鹿我別(かがわけ)を将軍とし、
久氐等と共に兵を整えて、
海を渡り卓淳国に到着し
新羅を襲おうとしました。

その時或る者が、
兵士が少ないと、
新羅を破ることはできないと忠告します。

そこで、
木羅斤資(モクラコンシ)
沙沙奴跪(ササナコ)に命じて、
沙白、蓋盧を召し上げさせ、

そろって卓淳に集まり、
新羅を撃ち破りました。


そのほか


・沙白と蓋盧のふたりともいわれています。


木羅斤資
(モクラコンシ)


百済初期の貴族で、
武官、菅人


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、このように登場しています。

“そこで木羅斤資、沙沙奴跪に命じて、精兵を領い、沙白、蓋盧と共に派遣しました。そろって卓淳に集まり、新羅を撃ち破りました。”

また、この二人は、
その姓がわからぬ人だ。
ただ木羅斤資は百済の将である。
と記載されています。

神功皇后摂政47年4月。
百済王は久氐、彌州流、莫古を使わして、
朝貢しました。

この時、
新羅国の調(みつき)の使が、
久氐と共にやってきました。

しかし、
二国の貢物を検校(けんぎょう)すると、
新羅の貢物は珍しいものがはなはだ多く。

一方、
百済の貢物は少なく、
賤しく良くないものでした。

そこで久氐らに問うと、

彼らは道にまよい、
新羅に到着しました。

そこで新羅人は、
彼らを捕えて牢屋に禁じ、
彼ら殺そうとしました。

そこで、
久氐等は呪詛をしました。
新羅人はその呪詛を
怖れて殺しませんでした。

しかし、
百済の貢物を奪い新羅の貢物とし、
新羅の賤物と取り換え百済の貢物としました。

そこで、
千熊長彦を新羅に派遣して、
百済の献物を穢乱したことを責めました。

神功皇后摂政49年3月、
荒田別、鹿我別(かがわけ)を将軍とし、
久氐等と共に兵を整えて、
海を渡り卓淳国に到着し
新羅を襲おうとしました。

その時或る者が、
兵士が少ないと、
新羅を破ることはできないと忠告します。

そこで、
木羅斤資(モクラコンシ)
沙沙奴跪(ササナコ)に命じて、
沙白、蓋盧を召し上げさせ、

そろって卓淳に集まり、
新羅を撃ち破りました。

また百済記では、
壬午(みずのえうま・382)年、
新羅が貴国に貢上しませんでした。

貴国は、
沙至比跪(さちひこ)を派遣して討たせました。

しかし新羅人は、
美女二人を莊飾(そうしょく)して、
港に迎え誘いました。

沙至比跪は、その美女を受けとり、
反転して加羅国を討ちました。

加羅国王・己本旱岐(こほんかき)等は、
その人民をひきつれて、
百済に出奔しました。

天皇は沙至比跪の事を聞くと、
大いに怒り、

すぐさま木羅斤資を派遣して、
軍勢を領(ひき)いて加羅に来集し、
その国家を復しました。


そのほか


・「日本書紀」だけに登場し、韓国の資料では見られない人物です。


沙沙奴跪
(ささなこ)




「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“そこで木羅斤資、沙沙奴跪に命じて、精兵を領い、沙白、蓋盧と共に派遣しました。そろって卓淳に集まり、新羅を撃ち破りました。”

また、この二人は、
その姓がわからぬ人だ。
と記載されています。

神功皇后摂政47年4月。
百済王は久氐、彌州流、莫古を使わして、
朝貢しました。

この時、
新羅国の調(みつき)の使が、
久氐と共にやってきました。

しかし、
二国の貢物を検校(けんぎょう)すると、
新羅の貢物は珍しいものがはなはだ多く。

一方、
百済の貢物は少なく、
賤しく良くないものでした。

そこで久氐らに問うと、

彼らは道にまよい、
新羅に到着しました。

そこで新羅人は、
彼らを捕えて牢屋に禁じ、
彼ら殺そうとしました。

そこで、
久氐等は呪詛をしました。
新羅人はその呪詛を
怖れて殺しませんでした。

しかし、
百済の貢物を奪い新羅の貢物とし、
新羅の賤物と取り換え百済の貢物としました。

そこで、
千熊長彦を新羅に派遣して、
百済の献物を穢乱したことを責めました。

神功皇后摂政49年3月、
荒田別、鹿我別(かがわけ)を将軍とし、
久氐等と共に兵を整えて、
海を渡り卓淳国に到着し
新羅を襲おうとしました。

その時或る者が、
兵士が少ないと、
新羅を破ることはできないと忠告します。

そこで、
木羅斤資(モクラコンシ)
沙沙奴跪(ササナコ)に命じて、
沙白、蓋盧を召し上げさせ、

そろって卓淳に集まり、
新羅を撃ち破りました。



勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
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