日本書紀 巻第十三に登場する人物 二
・角古君
・玉田宿禰
・尾張連吾襲
・大伴室屋連
・男狭磯
角古君
(つのこのきみ)
允恭天皇の皇后に不敬をした闘鷄国造
別名
国造角古君
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。
“初め皇后が、母に随い家に在たとき、独り苑の中で遊んでいました。時に、闘鷄国造が、ほとりの径に従い行っていました。馬に乗って籬に莅み、皇后に語りかけ、嘲って、「よい園を作っているなぁ、汝は」「圧乞、戸母、その蘭を一本」といいました。”
神八井耳命(神武天皇の皇子)に始まる多氏族の国造の一つである闘鷄国造(つげのくにの)の人物で、允恭天皇の皇后・忍坂大中姫に不敬をした人物です。
忍坂大中姫命が皇后になる以前、実家の庭で、ひとり遊んでいた際、馬に乗ってやって来ました。
籬(まがき)から庭を除き込み、嘲りながら、忍坂大中姫命に蘭(アララギ)をくれといいました。忍坂大中姫命は彼が無礼であると思いましたが、アララギを渡しました。
忍坂大中姫命が皇后になった年に、アララギを求めたものを探し出し、罰しようとしましたが、彼が許しを請うたので、皇后は死刑を赦し、その姓を貶(おとし)て、稲置としました。
そのほか
・闘鷄国造とは、闘鷄国(大和国北東部)を支配した国造です。
・『日本書紀』では名前は記されていませんが、『異本阿蘇氏系図』では大山主命の子・角古君と記されています。
玉田宿禰
(たまだのすくね)
葛城襲津彦の孫
殯宮大夫
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。
“五年秋七月十四日、地震ありました。これより先に、葛城襲津彦の孫の玉田宿禰に命じて、瑞歯別天皇の殯を主らせました。則ち、地震があった夕に、尾張連吾襲と遣わして、殯宮の消息を察させました。“
葛城襲津彦の孫の玉田宿禰に
反正天皇の殯(もがり)を司らせました。
允恭天皇5年7月14日、
地震がありました。
そこで、尾張連吾襲(あそ)を派遣して、
殯宮の状況を視察させました。
すると、悉く人が集まり、欠けている所がありませんでしたが、唯一、殯宮大夫(もがりのみやのかみ)である玉田宿禰だけがいませんでした。
吾襲はそのことを報告しました。そこで再び吾襲を派遣し、玉田宿禰を調査させました。
すると、玉田宿禰は男女を集めて、酒宴をしていました。吾襲は状況を上げて、玉田宿禰に告げました。
玉田宿禰は、事が表沙汰になることをおそれ、吾襲に馬一匹を授けました。しかしその後、密かに吾襲を待ち伏せして殺しました。
天皇はこれを聞いて、玉田宿禰を呼びだしましたが、彼は天皇を疑って、衣の中に鎧を着こみ参内しました。鎧が衣の中からはみ出していたので、天皇は小墾田(おわりだ)の采女に命令して、状況を観察させました。
采女は衣の中に鎧を着こんでいるのを見て、天皇につぶさに報告しました。
天皇は兵を設けて殺そうとしましたが、玉田宿禰は密かに逃げ出し、家に隠れていました。天皇はさらに兵を発して、玉田の屋敷を取り囲み、誅殺しました。
「古事記」では
古事記に記載はありません。
尾張連吾襲
(おわりのむらじのあそ)
反正天皇の殯宮状況を視察するために派遣された人物
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。
“地震があった夕に、尾張連吾襲を遣わして、殯宮の消息を察させました。”
葛城襲津彦の孫の玉田宿禰に反正天皇の殯(もがり)を司らせました。
允恭天皇5年7月14日、
地震がありました。
そこで、尾張連吾襲を派遣して、殯宮の状況を視察させました。
すると、悉く人が集まり、欠けている所がありませんでしたが、唯一、殯宮大夫(もがりのみやのかみ)である玉田宿禰だけがいませんでした。
吾襲はそのことを報告しました。そこで再び吾襲を派遣し、玉田宿祢を調査させました。
すると、玉田宿禰は男女を集めて、酒宴をしていました。吾襲は状況を上げて、玉田宿禰に告げました。
すると玉田宿禰は、事が表沙汰になることをおそれ、吾襲に馬一匹を授けました。しかしその後、密かに吾襲を待ち伏せして殺しました。
その後、玉田宿禰は誅殺されました。
大伴室屋連
(おおとものむろやのむらじ)
古代日本の豪族
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。
“これより先、衣通郎姫は、藤原宮に居ました。時に、天皇は大伴室屋連に詔して、「朕は、この頃美麗の嬢子を得た。これは皇后の同母妹だ。朕の心は、ことのほか愛おしい。冀う、その名を後葉に伝えたいとおもう。奈何」といいました。“
允恭天皇11年、
これ以前に、衣通郎姫は、藤原宮に居ました。
この時、天皇は、大伴室屋連に詔して、「朕は、よい乙女を得た。皇后の同母妹で、ことのほか、愛おしい。その名を後の世に伝いたい。どうしようか?」といいました。
そこで、諸国造らに科して衣通郎姫のために藤原部を定めました。
男狭磯
(おさし)
阿波国の長邑の海人
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。
“ここに、更に処処の白水郎を集めて、探させました。海は深く底に至ることができませんでした。唯ひとりの海人がいました。男狭磯といいます。これは阿波国の長邑の海人です。諸の海人に勝っていました。“
阿波国の長邑(ながのむら)の海人です。
允恭天皇14年秋9月12日、
天皇は淡路島で狩りをしました。
島には沢山の動物が満ちていました。しかし、終日に一つの獣さえも獲ることができませんでした。
そこで占わせると、島の神が祟って、「獣を獲る事ができないのは、これは我の心である。赤石の海の底に真珠がある。その珠を祠(まつ)るなら、悉く獣を獲るだろう」といいました。
そこで、各地の海人を集めて、探させました。
しかし、海は深く底に至ることができませんでした。唯ひとりの海人がいました。男狭磯といいます。
彼は阿波国の長邑の海人です。諸の海人に勝っていました。
彼は、海の底で光る大鮑を見つけそれを抱いて浮かび出てきましたが、息絶え、浪の上で死んでしまいました。
その大鮑の腹の中に桃の実ぐらいの真珠がありました。そこで、島神に祀ると、多くの獣を狩る事ができました。
男狭磯が海に入って死んだことを悲しんで、則ち、墓を作り厚く葬りました。その墓は今もなおあります。
そのほか
・徳島県鳴門市にある十二神社では、『日本書紀』巻十三允恭紀に記される『蜑の井』と呼ばれる古井戸や男狭磯の墓があります。古井戸の辺りが蜑の男狭磯の屋敷があった場所と伝えられています。
勉強途中です。
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