リートリンの覚書

第十七代・履中天皇


第十七代・履中天皇
(りちゅうてんのう)


生没年 ?~405(享年?歳)
在位年 400(?歳)~405(?歳)


別名


去来穂別天皇
(いざほわけのすめらみこと)

大兄去来穂別天皇
(おおえのいざほわけのすめらみこと)

大兄去来穂別皇子
(おおえのいざほわけのみこ)

大江之伊邪本和気命
(おおえのいざほわけのみこと)

大兄去来穂別尊
(おおえのいざほわけのみこと)

大江之伊耶本和気命

伊邪本和気命
(いざほわけのみこと)

伊奘本別王
(いざほわけのみこ)

伊邪本和気天皇
(いざほわけのすめらみこと)

去来穂別尊
(いざほわけのみこと)

稚桜宮御宇天皇
(わかさくらのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)




仁徳天皇(にんとくてんのう)




磐之媛命(いわのひめのみこと)


配偶者


皇妃・葛城黒媛

皇后・草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)

嬪・太姫郎姫(ふとひめのいらつめ)

嬪・高鶴郎姫(かつるのいらつめ)


(日本書紀より作成)


磐坂市辺押羽皇子
(いわさかのいちのべのおしはのみこ)
御馬皇子
(みまのみこ)
青海皇女
(あおうみのひめみこ)

中磯皇女
(なかしのひめみこ)


略歴(日本書紀の伝えより)


仁徳天皇と
皇后・磐之媛命の間に生まれた子です。

仁徳天皇7年秋8月9日
大兄去来穂別皇子(おおえのいざほわけのみこ)
のために、壬生部(みぶべ)を定めました。

仁徳天皇31年1月15日
大兄去来穂別尊を皇太子に立てました。

仁徳天皇87年1月
仁徳天皇が崩御しました。太子は喪が明けて、まだ即位していない間に、羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘の黒媛を妃にしようと思いました。

納采が既に終わり、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を遣わして、吉日を告げさせましたが、この時、仲皇子は太子の名を騙り黒媛を犯しました。

事が表沙汰になるのを畏れた、仲皇子は太子を殺そうと、密かに兵を興し、太子の宮を囲みました。

この時、平群木菟宿禰、物部大前宿禰、阿知使主の三人が太子を助けて逃げ出しました。そうとは知らない仲皇子は太子の宮を焼きました。

太子は兵を興し、龍田山より越えました。この時、太子を追求してきた阿曇連浜子(あずみのむらじはまこ)とその仲間を捕らえました。

また、元より仲皇子と良好関係だった倭直吾子籠は、密かに攪食栗林に兵を集めて、太子を防ごうとしましたが、太子の兵の多さに寝がえりました。しかし、太子はそれを疑い、吾子籠を殺そうとしました。驚いた吾子籠は自分の妹・日之姫(ひのひめ)を献上して、死罪を免れました。

その後、太子は石上振神宮いました。
そこへ太子が不在なことを知った、瑞歯別皇子が訪ね追ってきました。

しかし、太子は弟王の心を疑い、応じませんでした。太子は人伝に瑞歯別皇子に「異心がないというのなら、難波へ帰り仲皇子を殺せ」と命をだしました。

命をうけた瑞歯別皇子は難波へ戻り仲皇子の様子を伺いました。

仲皇子は太子が逃亡したと思い、備えをしていませんでした。そこで瑞歯別皇子は、仲皇子に近習する隼人、刺領巾(さしひれ)に錦の衣褌を与え、「我の為に仲皇子を殺せ」と誘い掛けました。

その誘いに応じた刺領巾は仲皇子がひとり厠に入ったところを伺い刺し殺しました。簡単に寝返った刺領巾は危険であると、木菟宿禰に忠告された瑞歯別皇子は刺領巾を殺しました。

太子は仲皇子を討伐した瑞歯別皇子を寵愛し、村合(むらわせ)の屯倉を授けました。
この日に、阿曇連濱子を捕らえました。

履中天皇元年2月1日
磐余稚桜宮で即位しました。

4月17日
阿曇連濱子を召して、墨(ひたひきざむつみ)の刑を科しました。

7月4日
葦田宿禰の娘の黒媛を立てて皇妃としました。
妃は、磐坂市辺押羽皇子、御馬皇子、青海皇女を生みました。

次の妃の幡梭皇女は、中磯皇女を生みました。

履中天皇2年1月4日
瑞歯別皇子を立てて儲君(ひつきみこ)としました。

10月
磐余に都を造りました。

この時、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、蘇賀満智宿禰(そがのまちのすくね)、物部伊莒弗大連(もののべのいこふつのおおむらじ)、圓大使主(つぶらのおおみ)が、共に国事を執りました。

11月
磐余池を作りました。

履中天皇3年11月6日
天皇は、磐余市磯池に船を浮かべて遊宴しました。
その際、膳臣余磯(かしわでのおみのあれし)が献上した盃に桜花が落ちました。それを不思議に思った天皇は、物部長真胆連(もののべの ながまいのむらじ)に桜花を探させました。物部長真胆連は桜花を見つけ献上しました。
天皇はその季節外れの桜花に喜んで、宮の名前にしました。

履中天皇4年、8月8日
諸国に国史(ふみひと)を置きました。

10月
石上溝を掘りました。

履中天皇5年3月1日
筑紫の三神が民を奪われたことに腹をたてて、天皇を祟りました。しかし、祈祷はしましたが祀りませんでした。

9月18日
天皇は淡路島で狩りをしました。その時、この島にいる伊弉諾尊が、神官に神託しました。これを占うと、「飼部等の黥の氣を憎む」とでました。そこで飼部の黥を止めました。

19日
皇妃が薨去しました。

22日
天皇は淡路から帰ってきました。

10月11日
皇妃を葬りました。天皇は神の祟りを治めなかったことで、皇妃をなくしたと悔いて、その咎(とが)を求めました。
そこである者が「車持君(くるまもちのきみ)が筑紫国へ行き、悉く車持部を管掌している」と伝えました。そこで確認すると事実でした。
そこで、悪解除(あしはらえ)、善解除(よしはらえ)を負って、車持君を長渚崎(ながす)に出むかせ、祓い禊をさせました。

筑紫からの徴税を中止しました。

履中天皇6年1月6日
草香幡梭皇女を皇后に立てました。

29日
始めて蔵職(くらのつかさ)をたて、蔵部(くらひとべ)

2月1日
鯽魚磯別王(ふなしわけ)の娘、太姫郎姫(ふとひめのいらつめ)、高鶴郎姫(かつるのいらつめ)を召し出し、後宮に納(い)れました。並びに嬪(みめ)としました。

この二人はいつも嘆いていました。理由を聞くと、兄・鷲住王(わしすみのおおきみ)に
ずっと会っていないと嘆いていました。

鷲住王(わしすみのおおきみ)は天皇に2度にわたって呼びだされましたが参内しませんでした。後に求めるのをやめました。

3月15日
天皇は病気になり稚桜宮で崩御しました。
(時に、年は七十)

10月4日
百舌鳥耳原の陵に葬りました。


日本書紀


現代語訳はこちら


そのほか


・「宋書」倭国伝の倭国王・讃(さん)と比定する説があります。


皇居


磐余稚桜宮
(いわれのわかざくらのみや)




百舌鳥耳原南陵
(もずのみみはらのみなみのみささぎ)


祀る神社


稚桜神社(奈良県桜井市)


天皇・年表


略歴・年表は
日本書紀を参考に作りました。


319年仁徳天皇7年


8月9日
大兄去来穂別皇子のために、壬生部を定める


336年仁徳天皇24年(0歳?)


仁徳天皇と皇后・磐之媛命の間に生まれる


343年仁徳天皇31年(8歳?)


1月15日
皇太子となる


399年仁徳天皇87年(64歳?)


1月
仁徳天皇が崩御

黒媛を妃にしようとするも、住吉仲皇子が犯す

仲皇子の叛乱
命を受けた瑞歯別皇子が仲皇子を討伐する
阿曇連濱子を捕らえる


400年履中天皇元年(65歳?)


2月1日
磐余稚桜宮で即位

4月17日
阿曇連濱子を墨の刑にする。

7月4日
葛城黒媛を皇妃とする


401年履中天皇2年(66歳?)


1月4日
瑞歯別皇子を儲君とする

10月
磐余に遷都

11月
磐余池を作る


402年履中天皇3年(67歳?)


11月6日
磐余市磯池にて遊宴。都の名を稚桜宮と名づける


403年履中天皇4年(68歳?)


8月8日
諸国に国史(ふみひと)を置く

10月
石上溝を掘る


404年履中天皇5年(69歳?)


3月1日
筑紫の三神が天皇を祟る

9月18日
天皇は淡路島で狩りの折、伊弉諾尊が神託、飼部の黥を止める

19日
筑紫三神の祟りで皇妃が薨去

22日
天皇は淡路から帰る

10月11日
皇妃を葬る
宗像の神の祟りの原因。車持君に祓い禊をさせる
筑紫からの徴税を中止する


405年履中天皇6年(70歳?)


1月6日
草香幡梭皇女を皇后とする

29日
始めて蔵職をたて、蔵部をおく

2月1日
太姫郎姫、高鶴郎姫を嬪とする
二人の兄・鷲住王を召し出すも参内せず

3月15日
天皇は病気になり稚桜宮で崩御
(時に、年は七十)

10月4日
百舌鳥耳原の陵に葬る



新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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