古事記 中つ巻 現代語訳 四十一
古事記 中つ巻
沙本毘売の涙
書き下し文
尓して其の后、紐小刀を以ち、其の天皇の御頸を刺しまつらむと為。三度挙りて、哀しき情に忍へず、頸を刺すこと能はずて、泣く涙、御面に落ち溢る。天皇驚き起きたまひ、其の后に問ひて曰りたまはく、「吾異しき夢を見つ。沙本の方より、暴雨零り来、急に吾が面を沾らしつ。また錦色の小さき蛇、我が頸に纒繞りつ。かくの夢、是れ何の表に有らむ」とのりたまふ。尓して其の后、争ふべくあらずと以為ひ、天皇に白して言さく、「妾が兄沙本毘古王、妾を問ひて曰ひしく、『夫と兄と孰れか愛しき』といひつ。是の面に問ふに勝へず。故妾、答へて曰く『兄を愛しきか』といひつ。尓して妾に誂へて曰はく、『吾と汝と共に天の下を治らさむ。故天皇を殺せまつれ』と云ひて、八塩折の紐小刀を作り、妾に授けつ。是を以ち御頸を刺しまつらむと欲ひ、三度挙りしかども、哀しき情忽ちに起こり、頸を得刺しまつらずて、泣く涙、御面に落ち沾らしつ。必ず是の表に有らむ」とまをす。
現代語訳
尓して、その后(きさき)は、紐小刀(ひもかたな)を以ち、その天皇の御頸(みくび)を刺しそうとしました。三度(みたび)挙(ふ)りましたが、哀(かな)しき情(こころ)に忍(あ)らがえず、頸を刺すこと能(あた)わず、泣く涙が、御面(みおも)に落ち溢れました。天皇は、驚き起きになられ、その后に、問いて、仰られて、「吾は、異(あや)しき夢を見た。沙本(さほ)の方より、暴雨(はやさめ)が零(ふ)って来て、急(にわか)に、吾が面を沾(ぬ)らした。また、錦色(にしきいろ)の小さき蛇が、我が頸に纒繞(まつは)り。かくの夢は、これは何の表(しるし)で有ろうか」と仰せになられました。尓して、その后は、争うべきではないと以為(おも)い、天皇に申して、申し上げることには、「妾が兄・沙本毘古王が、妾を問いて、いいました、『夫と兄と孰(いづ)れか愛しき』といいました。この面(まのあたり)の問いに勝てませんでした。故、妾は、答えて、申し上げることには『兄を愛しき』といいました。尓して、妾に誂(あとら)えて、いうことには、『吾と汝と共に、天の下を治めよう。故に、天皇を殺ろせ』といい、八塩折の紐小刀を作り、妾に授けました。是を以ち、御頸を刺そうと欲(おも)い、三度、挙(ふ)りしましたが、哀しき情(こころ)が忽ちに起こり、頸を刺すことができず、泣く涙が、御面に落ち沾(ぬ)らしました。必ず、この表(しるし)に違いありません」といいました。
・沙本(さほ)
奈良県奈良市佐保台・法蓮町辺り
・暴雨(はやさめ)
激しく降る雨。急に激しく降る雨
・纒繞(まつは)り
からまりつくこと。また、巻きつくこと
現代語訳(ゆる~っと訳)
その時、皇后は、その紐小刀で、天皇の御首を刺しそうとしました。
三度、振り上げてみたものの、悲しい心に耐えられず、首を刺すことが出来ず、涙が溢れ、天皇のお顔に落ちました。
天皇は、驚き目覚めになられ、その皇后に、尋ねて、
「私は、不思議な夢を見た。沙本の方から、急に激しい雨が降ってきて、にわかに私の顔を濡らした。
また、錦色の小さな蛇が、私の首に巻きついた。
このような夢は、何の前兆であろうか?」と仰せになられました。
皇后は、申し開きできないと思い、天皇に打ち明けて、
「私の兄・沙本毘古王が、私に尋ねて、『夫と兄とどちらが愛しいか』といいました。
面と向かっての問いに勝てませんでした。
そこで、私は答えて、
『兄が愛しい』といいました。
すると、私に頼んで、
『俺とお前と共に、天下を治めよう。だから、天皇を殺ろせ』といい、
何度も繰り返して鍛錬した鋭利な紐刀を作り、私に授けました。
それゆえに、御首を刺そうと思い、三度、振り上げましたが、
悲しみの心が忽ちに起こり、首を刺すことができず、泣く涙が、御顔に落ち、濡らしました。
御夢は、そのことの表しているのでしょう」といいました。
続きます。
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ありがとうございました。
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