日本の神様95
・日本武尊
日本武尊
(やまとたけるのみこと)
日本古代史上の伝説的英雄
景行天皇の第二子
母は、稲日大郎姫
・別名
小碓尊(おうすのみこと)
日本童男(やまとおぐな)
倭建命(やまとたけるのみこと)
・神格
武神、農業神
「日本書紀」での略歴
日本書紀巻第七では、
このように登場しています。
“后は二男を生みました。第一は大碓皇子といいます。第二は小碓尊といいます。”
景行天皇の第二子です。
母は、稲日大郎姫(いなひのおおいらつめ)。
大碓皇子(おおうすのみこ)、
小碓尊は、
双子として生まれました。
天皇はこれをあやしんで、
碓に雄叫びをあげました。
故にその二王名づけて大碓、小碓といいます。
幼くして雄略の気がありました。
壮年になると
容貌は体格や顔つきが
人並みはずれて大きく立派となり、
身長は約三メートル。
力能は鼎(かなえ)を
かつぎあげることができました。
景行天皇27年10月13日、
熊襲が叛逆。
日本武尊を派遣し、熊襲を撃たせました。
その時、年は十六歳。
西征に行くにともない、
日本武尊は、
良い弓人を随行させたいと思いました。
そこで探し出したのが弟彦公です。
弟彦公は、
石占横立(いしうらのよこたち)、
尾張の田子稲置(たごのいなき)、
乳近稲置(ちぢかのいなき)を引き連れて、
やってきました。
そして日本武尊に随行しました。
12月、
熊襲の国に到着。
そこには熊襲の首領いて、
名を取石鹿文(とろしかや)、
又は川上梟帥(かわかみのたける)といいました。
川上梟帥はすべての親族を集めて
宴会を開催しました。
そこで日本武尊は、
髪を解いて童女(おとめ)の姿を作り、
剣を衣の裏に隠し、
川上梟帥の宴会に潜入しました。
川上梟帥は、
童女に変装した日本武尊が気に入り
席を同じくし、
酒を飲ませました。
川上梟帥は酒に酔いました。
そこで日本武尊は、
川上梟帥の胸を刺しました。
川上梟帥は死ぬ間際に、
日本童男(やまとおぐな)に尊号を贈ります。
名づけて日本武皇子(やまとたける)。
日本武尊と呼ぶのはこれがその起源です。
その後、弟彦等を遣いて、
残りの徒党すべてを斬りました。
生き残るものはいませんでした。
熊襲を平定した日本武尊は、
海路に従って倭に還ろうとしましたが、
途中、穴海(あなのうみ)の悪神、
難波(なにわ)の悪神に出会い、
それらを殺しました。
景行天皇28年2月1日、
日本武尊は、
熊襲を平定した状況を奏上しました。
天皇は、
この日本武尊の功を褒めたたえて、
ことのほか愛しました。
景行天皇40年6月、
東夷の叛逆。
10月2日、
東夷遠征に日本武尊は出発しました。
10月7日、
伊勢神宮により倭姫命に辞去しました。
そこで、
倭姫命から
草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授かりました。
日本武尊は、駿河(するが)到着。
その処の賊は日本武尊だまして、
鹿狩りをするように提案します。
日本武尊は、
その言葉を信じて野中に入り、
獣をもとめましたが、
賊は、
その野に火を放ち焼きました。
日本武尊はすぐに火打で火をうち出し、
向火で焼いて免れ、
その賊衆をことごとく焼いて滅ぼしました。
こういうわけで、
その場所を焼津(やきつ・焼津市)
と呼びます。
また相模(さがみ・神奈川県)に進み、
上総(かずさ・千葉県南部)に
行こうとしました。
その途中、
海のまん中で忽然と暴風が起きました。
王の船は漂うだけで、
渡ることができなくなりました。
その時、妃の弟橘媛が、
暴風はきっと海神の心。
王の代りに海に入って鎮めましょうと、
大波を開いて入って行きました。
すると、
暴風はたちまち止み、
船は岸に着くことができました。
こういうわけで、
時の人はその海を、
馳水(はしりみず・浦賀水道)
といいました。
日本武尊は、上総から転じて、
陸奥国(みちのくのくに・東北地方)に入り、
蝦夷の境に到着しました。
蝦夷の賊首の、
嶋津神(しまつかみ)、
国津神(くにつかみ)等が、
竹水門(たかのみなと)で
応戦しようとしましたが、
日本武尊の威勢を怖れ、
面縛して、
罪に服しました。
そこで、その罪を許しました。
その首領を捕虜にし、
従者にしました。
その後、日本武尊は、
信濃国(しなののくに・長野県)、
越国(こしのくに北陸)だけが、
王化に従っていないといい、
甲斐から北の武蔵(むさし・東京・埼玉)、
上野(かみつけ・群馬県)を巡り、
西の碓日坂
(うすひ・群馬・長野県の境の碓氷峠)
に到着しました。
日本武尊は、
いつも弟橘媛を懐かしみ、
「吾、嬬者(つまはや)や」
といいました。
そうゆうわけで、
碓日山の東の諸国を
吾嬬国(あづまのくに)と呼ぶようになりました。
日本武尊は、信濃に進み入りました。
この国は、山は高く谷は深く、
みどりの山の峰がよろず重なり、
登るのに難渋しました。
しかし、日本武尊は、煙をひらき、
霧を凌いで、遥かに大山をこえました。
その時、
山の神が日本武尊を苦しめようと、
白鹿と化けて前に立ちました。
王は一箇蒜
(ひとつひる・鱗茎が一個のニンニクの類)で、
白鹿を弾き、眼に当ててこれを殺しました。
それ以前、
信濃坂
(しなのさか・
長野県下伊那郡阿智村と岐阜県中津川市の境の神坂峠)
を越える者は、
山の神の神気を当り、
気力を失って倒れ伏していましたが、
白鹿を殺してから後は、
蒜を噛み砕き、人及び牛馬に塗ると、
自然と神気にあたらなくなりました。
ここで、日本武尊は道に迷いました。
その時、白狗(しろいぬ)が自然と現れ、
犬に随って行くと、
美濃に出ることができました。
日本武尊は、尾張(愛知県)に戻り、
尾張氏の娘宮簀媛(みやずひめ)と結婚して、
幾月か経ちました。
そこで、近江(滋賀県)の
五十葺山(いぶき・滋賀県の伊吹山)に
荒神(あらふるかみ)がいると聞き、
さっそく、
剣を腰から外して宮簀媛の家に置き、
素手で出かけて行きました。
息吹山に至ると、
山の神が、大蛇と化して道を遮っていました。
しかし、日本武尊は、
主神が蛇に化けたとは思いもせず、
蛇を跨いで進んでいきました。
その時、山の神は、雲を興し、
霰(あられ)を降らせました。
峯は霧が立ち込め、谷は暗く、
行く路もまた無く、その場所が分からず、
うろうろとめぐりさまよい、
歩きまわりました。
そこで、霧を凌いで強行し、
かろうじて出ることができました。
しかし、意識が確かではなく酔ったようで、
山の麓の泉の水を飲んだところ、
目覚めました。
こういうわけで、
その泉を居醒泉(いさめのいずみ)と呼びます。
日本武尊は、これでも発病しました。
どうにかして、尾張に還りましたが。
宮簀媛の家には入らず、
すぐ伊勢に移り、尾津に至り、
そして能褒野
(のぼの・三重県の鈴鹿山脈の野登山辺りの山麓)
に到着しました。
しかし、痛みはひどいままでした。
そこで、捕虜とした蝦夷等を、
神宮に献上しました。
そして、吉備武彦を遣わして、
天皇に奏言し、能褒野で崩じました。
時に年は三十歳でした。
日本武尊を伊勢国の
能褒野陵(のぼののみささぎ)に葬りました。
その時、
日本武尊は白鳥となって、
陵より出て、
倭国を指して飛びました。
そこで、
使者を遣わして白鳥を追求すると、
倭の琴弾原(ことひきのはら・奈良県御所市冨田)
に停まっていました。
そこに陵を造りました。
白鳥はさらに飛んで河内に至り、
旧市邑
(ふるいちのむら・大阪府羽曳野市軽里)
に留まりました。
またそこに陵を造りました。
そういうわけで、
この三陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)
といいました。
そうして白鳥は、
遂に高く翔び、
天へ上っていきました。
功名を伝えておきたいということで、
即ち武部(たけるべ)を定めました。
そのほか
・鷲神社では、
日本武尊が東北遠征の凱旋のさいに、
社前に熊手を
奉納してお礼参りをしたという伝説が
残っています。
日本武尊は十一月の酉の日に
参拝したという言い伝えをもとに、
江戸時代に酉の市が始まったとされています。
神徳
国土安穏
五穀豊穣
商売繁盛(商工の神)
出世・開運招福
除災
交通安全
試験合格など
主な神社
鷲神社(東京都台東区)
大鳥大社(大阪府堺市)
気比神宮(福井県敦賀市)
建部大社(滋賀県大津市)
焼津神社(静岡県焼津市)
勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。