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リートリンの覚書

散策日記・萬年橋・清澄・清洲橋

前回の記事は、
都営新宿線「森下駅」周辺でした。

今回は、清洲橋を目指します。

芭蕉庵史跡展望庭園を後にして、一度隅田川テラスに降りました。そして萬年橋へ。

・萬年橋


・ケルンの眺め
ここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。この場所からの眺めが一番美しいといわれています。

・清洲橋
…肝心のケルンの眺め、この場所で撮るの忘れました。
写真は違う場所からの撮影した清洲橋。

萬年橋は広重の江戸百景で描かれています。別ブログにて記事にしていますので、興味のある方は是非ご覧ください。


萬年橋を渡り、清洲橋通りに突き当たったら清洲橋方面に向かいました。

途中、陸奥宗光宅跡を発見。

・陸奥宗光宅跡



江東区登録史跡
陸奥宗光宅跡(むつむねみつたくあと)
 陸奥宗光は、明治時代の外交官・政治家で、弘化元年(1844年)、和歌山藩士・伊達宗広(だてむねひろ・千広)の第六子として生まれ、明治30年(1897年)西ケ原(北区)の自邸で逝去しました。
 父宗弘は藩の要職にありましたが、政争により失脚、宗光は一五歳で江戸へ出ました。文久2年(1862年)に脱藩し、京都で尊王攘夷運動に加わり、のち坂本龍馬の海援隊に参加しました。このころより陸奥の姓を用いるようになりました。
 明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。明治10年(1877年)、西南戦争に呼応した土佐立志社内の挙兵派の政府転覆計画に加担したとして、翌一一年に免官、五年間投獄されました。出獄後は、外務省に入り、明治二三年(1890年)弟一回衆議院選挙で当選。第二次伊藤内閣の外務大臣として日英通商航海条約締結を実現、日清戦争(1894~95)の開戦と講和に関わりました。
 宗光の深川清住町(現清澄)に在住したのは明治5年(1872)から同10年(1877)までの間で、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるい、また薩長藩閥勢力による政権の独占を批判した論文「日本人」を書きあげた時期にあたります。
この邸宅は、隅田川に面して眺望がよく「三汊水碧楼(さんさすいへきろう)」と呼ばれていました。
江東区教育委員会
説明書きより引用

この辺りに住んでいたのですね。
この近くに明治維新百年記念碑もありましたが、撮影しませんでした。

この近くに史跡・平賀源内電気実験の地があります。

・清洲橋と遊覧船


清洲橋(きよすばし)
隅田川に架かる橋です。西岸は中央区日本橋中洲、東岸は江東区清澄一丁目です。

「清洲」という名称は、公募により決まりました。

建設当時の両岸の地名、深川区住町と日本橋区中町の一字を組み合わせたものです。

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋です。

当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあったヒルデンブルグ橋の大吊橋をモデルにしています。

清洲橋…美しい橋です。

実に美しい。

機会がありましたら、色々な角度、場所で撮影してみたい😆

今日はこの辺で続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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