第十一代・垂仁天皇
(すいにんてんのう)
生没年 前69~70(享年139歳)
在位年 前29(41歳)~70(139歳)
別名
活目入彦五十狭茅天皇
(いくめいりひこいさちのすめらみこと)
活目天皇
(いくめのすめらみこと)
活目尊
(いくめのみこと)
伊久米伊理毘古伊佐知命
(いくめいりびこいさちのみこと)
伊久米天皇
生目天皇
父
崇神天皇
(すじんてんのう)
母
御間城姫
(みまきひめ)
配偶者
皇后(前)・狭穂姫命(さほひめのみこと)
皇后(後)・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
妃・淳葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)
妃・真砥野媛(まとのひめ)
妃・薊瓊入媛(あざみにいりひめ)
妃・綺戸辺(かにはたとべ)
妃・苅幡戸辺(かりはたとべ)
子
誉津別命(ほむつわけのみこと)
五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
大足彦尊(おおたらしひこのみこと)
大中姫命(おおなかつひめのみこと)
倭姫命(やまとひめのみこと)
稚城瓊入彦命(わかきに)
鐸石別命(ぬてしわけのみこと)
膽香足姫命(いかたらしひめのみこと)
池速別命(いけはやわけ)
稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)
磐衝別命(いわつくわけ)
祖別命(おおじわけのみこと)
五十日足彦命(いかたらしのみこと)
膽武別命(いたけるわけのみこと)
略歴
崇神天皇の第三子です。
母の皇后は御間城姫といい、
大彦命(おおひこのみこと)の娘です。
崇神天皇29年1月1日、
瑞籬宮(みつかきのみや)で生まれました。
崇神天皇48年1月10日、
皇太子を選ぶため、
豊城命(とよきのみこと)、
活目尊(いくめのみこと)の夢占いをしました。
豊城命は東を向き武器をふる夢、
一方、活目尊は四方を縄で囲み、
雀を追い払う夢をみました。
一方向、東に向かった
兄・豊城命は東国を治める者に、
四方をすべてに臨んだ
活目尊を日嗣に選びました。
崇神天皇48年4月19日、皇太子になりました。
崇神天皇68年12月、
御間城天皇が崩御しました。
垂仁天皇元年1月2日、天皇に即位しました。
同年10月11日、
崇神天皇を
山邊道上陵(やまのへのみちのへのみささぎ)
に葬りました。
垂仁天皇2年2月9日、
狭穂姫を皇后に立てました。
后は、誉津別命を生みました。
同年10月、纒向(まきむく)に都を造りました。
これを珠城宮(たまきのみや)といいます。
垂仁天皇2年、任那人(みまな)の
蘇那曷智(そなかち)に
赤絹百匹を持たせて任那王に遣わせました。
新羅人がそれを奪いました。
その時から、二国間の怨(うらみ)が
始まりました。
垂仁天皇3年3月、新羅(しらぎ)の王子、
天日槍(あまのひぼこ)が宝物を持参し
来帰しました。
垂仁天皇4年9月23日、皇后の同母兄、
狭穂彦王(さほひこ)が、謀反を企てました。
垂仁天皇5年10月1日、
天皇は来目に行幸し、高宮に居ました。
天皇は、皇后の膝を枕にして昼寝をしており、
皇后は兄王の計画(暗殺)を実行するのは
今だと思いましたが、
実行することが出来ませんでした。
皇后は兄王の反逆の状況を話しました。
天皇はすぐに兵卒を派遣し、
上毛野君の遠祖八綱田(やつなだ)に
狭穂彦を撃つよう命じました。
その時、狭穂彦も軍を興し迎え撃ちました。
稲を積み上げ稲城を作りました。
月が替わっても
降伏させることができませんでした。
皇后は悲しんで、誉津別命を抱いて、
兄王の稲城に入ってしまいました。
皇后と皇子とを出すよう命じましたが、
出しませんでした。
そこで、将軍八綱田が
火を放ち稲城を焼きました。
皇后は、皇子を抱いて、城の上をこえて、
出てきて奏言し、
後宮の事は良い女たち
丹波国の丹波道主王(たにはのみちぬし)の娘に
授けてくださいと請願、
天皇はそれを聞きとどけました。
城が崩れ、軍衆はみな逃げ出しました。
狭穂彦と妹はともに城の中で死にました。
垂仁天皇7年7月7日、
当麻蹶速と野見宿禰とすもうをさせました。
垂仁天皇15年2月10日、
丹波の五女を召しだし、後宮に入れました。
同年8月1日、
日葉酢媛命を立てて皇后としました。
皇后の妹の三女を妃としました。
皇后日葉酢媛命は、
五十瓊敷入彦命、大足彦尊、
大中姫命、倭姫命、稚城瓊入彦命を
生みました。
妃の淳葉田瓊入媛は、
鐸石別命と膽香足姫命とを生みました。
次の妃薊瓊入媛は、
池速別命、稚浅津姫命を生みました。
垂仁天皇23年9月2日、群卿に詔して、
誉津別王がものを言わないのは、
なぜなのかと議論しました。
同年10月8日、誉津別皇子が鵠を見て
言葉を発しました。
そこで天皇は、
鵠を捕まえて献上するように詔します、
そこで、鳥取造(ととりのみやつこ)の祖、
天湯河板挙(あまのゆかわたな)が
鵠を追い出雲に行き、捕獲しました。
同年11月2日、湯河板挙が鵠を献上しました。
誉津別命は、言語を話すことが
出来るようになりました。
垂仁天皇25年2月8日、武渟川別、彦國葺、
大鹿嶋(おおかしま)、十千根(とおちね)、
武日(たけひ)、の五大夫に詔しました。
同年3月10日、天照大神を
豊耜入姫命(とよすきいりびめのみこと)から離し、
倭姫命に託しました。
倭姫命は、大神を鎮座する処を求め、
様々な土地を訪ねて回り、そして伊勢国に
到着しました。この時、天照大神が、
倭姫命に教えて、
「この神風の伊勢の国は、
常世の浪が幾重にも寄せてくる国。
近い国で美しい国である。
この国に居たい」といいました。
大神の教えのままに、
その社を伊勢の国に立てました。
垂仁天皇26年8月3日、天皇は、
物部十千根大連(おおむらじ)に勅して、
出雲国の神宝を調べ定めさせました。
そして神宝を司らせました。
垂仁天皇27年8月7日、祠官に、
兵器(つわもの)を神の供え物にするかを
占わせると、吉とでました。
そこで、弓矢および横刀(たち)を、
諸神の社に納めました。
垂仁天皇28年10月5日、
天皇の同母弟倭彦命が薨じました。
同年11月2日、倭彦命を
身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)に葬りました。
このさい、近習の者を集め、
殉死させました。それに対し、
天皇は、生前に寵愛されたからといって、
死んだ者のために殉死させるのは、
甚だ心痛む。殉死することを
止めるようにといいました。
垂仁天皇30年1月6日、
五十瓊敷命、大足彦尊に詔して、
「汝ら、各々欲しいものを言いなさい」
といいました。
兄王は、「弓矢が欲しい」と返答、
弟王は「皇位が欲しい」と返答しました。
そこで天皇は五十瓊敷命に弓矢を賜り、
大足彦尊には、
朕の位を継ぐようにと言いました。
垂仁天皇32年7月6日、
皇后日葉酢媛命が薨じました。
天皇は殉死というものは、
先に良くないことと知り、
何か別の方法はないかといいました。
ここで野見宿禰が、埴(はにつち)を以て
人や馬及びいろいろな物の形を造らせて、
天皇に献上し、今後、
この土物(埴輪)をもって
生きている人の代りに、陵墓に立てて、
今後の法則としましょう提案しました。
天皇は大変喜び、今後、
陵墓には必ずこの土物(埴輪)を立て、
人を傷つけてはならないといいました。
垂仁天皇34年3月2日、
天皇は山背(やましろ)に行幸し、
この国にいる美人、綺戸辺がいると聞き、
呼び出して後宮に入れました。
綺戸辺は磐衝別命を生みました。
また、山背の苅幡戸辺を寵愛し、
苅幡戸辺は祖別命、五十日足彦命、膽武別命
を生みました。
垂仁天皇35年9月、
五十瓊敷命を河内国に派遣し、
高石池、茅渟(ちぬ)池を作りました。
同年10月、倭の狭城(さき)池を作りました。
この年、諸国に詔し、
多くの池溝を開きました。数は八百余り。
農業を盛んにしました。
垂仁天皇37年1月1日、
大足彦尊を皇太子に立てました。
垂仁天皇39年10月、五十瓊敷命が
剣千振を作り石上神宮に納めました。
その後、五十瓊敷命に命令して、
石上神宮の神宝を司るようにいいました。
垂仁天皇87年2月5日、五十瓊敷命は
妹の大中姫に、年老いたので、
神宝を汝が司れといいましたが、
大中姫命は辞して、
物部十千根大連に授けて治めさせました。
垂仁天皇88年7月10日、
天皇は新羅の王子天日槍が、
国から持参した宝物が見てみたい
といいました。
清彦は、神宝を献上しました。
しかし、清彦は小刀を献上せず、
衣に隠しました。
天皇が隠し持っていた小刀を見つけ、
清彦に問いただしました。
そこで、清彦は隠し持っていた小刀を
献上しました。
すべての神宝は神府(ほくら)に
所蔵しましたが、その後、
小刀は自然と淡路島にあらわれ
今も祀られています。
垂仁天皇90年2月1日、
天皇は田道間守に命じて、常世国に派遣し、
非時香菓を求めさせました。
垂仁天皇99年7月1日、
天皇は纒向宮で崩じました。
ときに歳百四十歳。
同年12月10日、
菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に
葬りました。
明年3月12日 田道間守が、
常世国から帰ってきました。
そして天皇の陵に向かい、
叫び泣いて自死してしまいました。
日本書紀
現代語訳はこちら
皇居
(紀)纒向珠城宮
(まきむくのたまきのみや)
(記)師木玉垣宮
(しきのたまかきのみや)
陵
陵の名は菅原伏見東陵
(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)
主な神社
珠城神社(京都府)
垂仁天皇・年表
紀元前69年・崇神天皇29年(0歳)
1月1日 誕生
紀元前50年・崇神天皇48年(19歳)
1月10日
皇太子を選ぶため、夢占いをする。
4月19日
皇太子となる。
紀元前30年・崇神天皇68年(40歳)
12月 崇神天皇、崩御。
紀元前29年・垂仁天皇元年(41歳)
1月2日 天皇に即位
10月11日 崇神天皇を山邊道上陵に葬る
紀元前28年・垂仁天皇2年(42歳)
2月9日 狭穂姫を皇后とする
10月 纒向に遷都。
任那人、蘇那曷智に赤絹百匹を持たせて
任那王に派遣する
紀元前27年・垂仁天皇3年(43歳)
3月 新羅王子・天日槍が宝物を持参し来帰。
紀元前26年・垂仁天皇4年(44歳)
9月23日 狭穂彦王が、謀反を企てる
紀元前25年・垂仁天皇5年(45歳)
10月1日
狭穂彦王の謀反。皇后は兄に従い焼死する
紀元前23年・垂仁天皇7年(47歳)
7月7日 当麻蹶速と野見宿禰が相撲をとる
紀元前15年・垂仁天皇15年(55歳)
2月10日 丹波の五女を後宮に入れる
8月1日
日葉酢媛命を皇后とする。
皇后の妹の三女を妃とする
紀元前7年・垂仁天皇23年(63歳)
9月2日
群卿に詔し、誉津別王について議論する
10月8日 誉津別皇子が鵠を見て言葉を発す
11月2日
湯河板挙が鵠を献上する。
鳥取部・鳥養部、誉津部が設置される
紀元前5年・垂仁天皇25年(65歳)
2月8日
武渟川別、彦國葺、大鹿嶋、十千根、
武日の五大夫に詔する
3月10日 天照大神を倭姫命に託す。
大神の教えに従い、社を伊勢国に建立
紀元前4年・垂仁天皇26年(66歳)
8月3日
物部十千根大連に勅し、
出雲国の神宝を調べさせ、神宝を司らせる
紀元前3年・垂仁天皇27年(67歳)
8月7日
諸神の社に武器を献納し、
神地・神戸を定める。
来目に初めて屯倉を興す。
紀元前2年・垂仁天皇28年(68歳)
10月5日 天皇の同母弟倭彦命が薨じる
11月2日
倭彦命を身狭桃花鳥坂に葬る。殉死を禁止する
西暦1年・垂仁天皇30年(70歳)
1月6日 五十瓊敷命、大足彦尊に詔する。
西暦3年・垂仁天皇32年(72歳)
7月6日
皇后日葉酢媛命が薨じる。
野見宿禰の進言に従い、
殉死の風習に替りに、
陵墓には土物(埴輪)を立てることとする
西暦5年・垂仁天皇34年(74歳)
3月2日
天皇は山背に行幸。綺戸辺を後宮に入れる。
西暦6年・垂仁天皇35年(75歳)
9月
五十瓊敷命を河内国に派遣し、
高石池、茅渟(ちぬ)池を作る
10月 倭の狭城(さき)池を作る
諸国に詔して、多くの池溝を開く。
数は八百余り。農業を盛んにした
西暦8年・垂仁天皇37年(77歳)
1月1日 大足彦尊を皇太子とする
西暦10年・垂仁天皇39年(79歳)
10月
五十瓊敷命が剣千振を作り石上神宮に納める。
この後、五十瓊敷命に命令し、
石上神宮の神宝を司らせる。
西暦58年・垂仁天皇87年(127歳)
2月5日
五十瓊敷命の妹・大中姫命が
神宝を司ることを辞して、
物部十千根大連に授けて治めさせた
西暦59年・垂仁天皇88年(128歳)
7月10日
天日槍の子孫、
但馬清彦に天日槍の宝物を献上させる
西暦61年・垂仁天皇90年(130歳)
2月1日
田道間守を常世国に派遣し、
非時香菓を求めさせる
西暦70年・垂仁天皇99年(139歳)
7月1日 天皇は纒向宮で崩御。ときに140歳。
12月10日
菅原伏見陵に葬る
西暦71年・景行天皇元年
3月12日 田道間守が、常世国から帰国。
略歴・年表は、
日本書紀を参考に作りました。
勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。
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