1991年(平3年)から 数年間通勤した 東京・JR新橋駅 と 霞ヶ関 をつなぐ道路の歩道脇には、(数は少ないながらも)いまだ冷たいコンクリートの歩道の上に座布団を敷いて商売をする 靴磨きのおじさんたちが健在だった。
その中にたった一人だが おばあちゃん の靴磨きさんがいた。月に数度の頻度だが このおばあちゃんの靴磨きさんには5年ほどお世話になった。(靴を磨いて貰いながらいろいろな話を聞かせていただいた)
新橋だけではないだろうが、路上の靴磨きさんは年々減っていくので おばあちゃんに聞いたところ、
『路上の靴磨き』は、終戦当時には大勢のひとたちが居たのだという。だがやがて許可制となり、新規での 靴磨き はお役所から承認されず、終戦後からずっと続けて来た人々(おばあちゃんの仲間たち)だけとなったという。
新規で承認が降りないのは 『路上靴磨き』 は、先進国日本で ”みっともないから” との理由とか云ってたような気がする。
終戦直後から 霞ヶ関 を訪れる多くの人々を見てきた 靴磨きさんたちも、老齢や病気、亡くなる 等でどんどん数が減ってしまったのである。
私が見ていた中では このおばあちゃんが 新橋駅と霞ヶ関を結ぶ区間での最後の路上靴磨きさんとなったのではないだろうか。
(続)
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